凝り
部屋に入ってくるなり布団に飛び込んだ慎吾は、深い吐息を漏らした。中里は晩酌の手を止めて、うつ伏せになったまま深呼吸を繰り返している慎吾を見、最初にかけるべき言葉を少し考えて、それを口にした。
「お疲れ」
「疲れてねえけど、バッキバキだ。体が」
枕の上からうんざりしたような顔を向けてきて、ただちに慎吾は言った。中里はバッキバキな体が意味するところを少し考えて、思い至った。
「凝ってんのか?」
「かもしれねえ。何か微妙に頭痛ェし、手ェ上がらねえし。っつかだるい。全体的に。疲れてねえけど」
目を閉じて、慎吾は深く息を吐く。もはや呼気自体がため息のようだ。その眉間に寄っているしわをしばらく眺めてから、中里は言った。
「揉んでやろうか、肩とか」
「ああ」
鬱陶しい、などと一蹴されるかもしれないと思ってした提案は、しかし即座に受け入れられた。皮肉の一つも言ってこないとなると、よほど慎吾の体はバッキバキなのだろう。ここまで素直になられては、やるしかない。中里は持っていた缶ビールをテーブルに戻し、晩酌を中断して、慎吾の背中にまたがった。
「首、真っ直ぐにしろよ」
「ああ」
枕を顎の下に置いた慎吾の首の付け根を、指で上から押す。固い。Tシャツ越しとはいえ、体重をかけなければ指が中に入っていかない。
「相当だな」
「あー……きっつ……」
「痛いか?」
「や、気持ちいい……」
じっくりと、首の付け根から肩、肩甲骨周りを指と掌で押していく。押すごとに、慎吾は息を漏らした。
「んー…………んっ…………ふう……うっ……」
体重をかけているから、それで深い息や声が漏れてくるのだとは分かる。だがどうも、その息と声を聞いていると肩の後ろがむずむずしてきて、何となく中里は慎吾の背中から腰を浮かせた。その方が、体重もかけやすい。肩から腰へと押していき、一通りほぐしたのち、背中からは降りて横につき、右腕を取って、上腕を揉んだ。
「前は、姉貴によく、背中、乗られててよ……」
息混じりの声で、慎吾が話す。中里はよそを見ながら、そうか、と返した。
「足で踏まれてな……結構、良かったけど……お前じゃ重いし……」
背中全体がむずむずしてきて、中里は今度は何も言わなかった。普通の声が出せるかどうか、自信がなかった。黙ったまま、ひたすら慎吾の右腕を揉みほぐす。
「マッサージなんざ……久しぶりだぜ、マジ……人に、触られるとかな……好きじゃねえ、から……」
中里は手を止めかけて、慌てて力を入れ直した。その拍子に指がずれ、筋に触れて、って、と慎吾が苦痛を示した。
「あ、悪い」
「いや……あー、うっし、もういいや」
急に慎吾は腕を抜くと、起き上がり、布団の上にあぐらをかいて、右肩をぐるぐると回した。
「お、軽い」
そうか、と慎吾の腕を揉んでいた格好のままで、中里は言った。慎吾は肩を回すのをやめ、中里を見た。中里はちらと慎吾を見返してから、晩酌に戻ろうとテーブルに向き直ったが、酒へと伸ばした右手を、後ろから掴まれた。
「何だ」
「んな顔すんなよ」
背中に密着して、耳元で、よく響く声を慎吾が発した。途端中里の体は大きく震えたが、慎吾がそれに弾かれることはなかった。
「どんな顔だ」
「分かるだろ」
「知るか」
「分かれよ」
「離れろ、俺はまだ酒を飲む。週に一度の楽しみなんだぜ」
「自覚ねえの」
「ねえよ」
「危ねえ奴だな」
「誰がだ」
「自覚なしで、物欲しそうなツラしてんじゃねえっての」
あと少しで缶ビールに届きかけた手が、止まってしまった。それを中里の膝の上に誘導し、慎吾は囁くように言った。
「自覚あったか」
「……ねえよ」
仕様がないので左手を缶ビールに伸ばそうとしたが、動かす前に膝の上で抑えられた。
「慎吾」
「ん?」
「俺に酒を飲ませろ、今日はもう山には行かねえ」
耳元で、長い髪を揺らしながら慎吾が笑う。それだけで力の抜けた自分の手が、太腿の上を滑る。慎吾、とたしなめるように呼ぶと、毅、とそそのかすように呼び返された。
「なら、酒より気持ちいいもん、入れてやるよ」
声を耳に吹き込まれ、熱を持ち始めた場所まで手を流されると、調子に乗るなという言葉を、中里は出せなくなった。
(終)
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