散りし枝葉の暁と
落ち葉が排水溝に溜まる季節だった。松葉が車の隙間に入る季節だった。日の短さが深まる季節だった。
「寒ッ」
車のあらゆる運転音が響く中、誰かの叫びが、有害な化学物質が立ち込めているにも関わらず、透明な空気の中を、鋭く伝わった。
中里は、腕を組んでいてもかじかむ手を、平熱を保っている首に当てて温めた。
冬将軍の本格的な御成りはまだでも、前哨戦は起こりうる。朝、ローカルニュースに出ていた男の気象予報士は、ここ数日続いていた冬型の気圧配置は今日にも緩み、この週末はお出かけ日和になると言っていた。その通り、昼間太陽は大活躍をし、暖気を運んだ末、今夜は特別冷え込んでいる。風の弱さも手伝って、明日の朝は、布団から出るのが辛くなるだろう。
夜空は上下左右の感覚が失われるほど広く遠く、澄んでおり、空気は肌を刺すほど冷たかった。だが、体温が急低下するわけでもない。峠に立つことも、困難ではなかった。
周りには、おしくらまんじゅうからプロレスに移行している集団がいたり、カイロを高値で売りさばこうとする人間を悪徳業者として成敗している集団がいたりと、各々勝手なことをやっている。それくらい動いていなければ、歯の根も合わなくなりそうな寒さだとも言えた。
中里は、腕を組み直した。顔の皮膚が突っ張る寒気と乾燥との中で、動かずに立っているのは、我慢による精神修業に励んでいるからではない。何かを待っているわけでもない。ただ、動く気が起きないだけだ。車から降りて、立って、止まって、黙って、車や人の響き、息遣い、それらが動かす空気を、足の裏に、耳に、肌に感じ、全身をこの山で埋めていると、実際の寒さも懐の寒さも、自分とはかけ離れたところの出来事のように思え、どうでも良くなる。
「お前の存在、寒いぜ」
それは親しみ深いが、後ろから飛んできた、不本意そうな男の声に、容易く消し去られるほど、心もとない感覚だった。
中里は腕を組んだまま左斜め後ろに、体と顔を半分向けた。二歩ほど先に、青いダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んでいる慎吾が、声の通り、何とも不本意そうに顔をしかめながら、立っている。
だが、空気の冷たさが邪魔をして、今聞こえたのが本当に慎吾の声だったのか、自信を持てず、とりあえず中里は、何がだ、と、聞いた。
「存在っつっただろ。冬の権化だな」
身を縮こめ、長い前髪を一つも動かさず、顔だけをうんざりしたようにしかめる慎吾に比べれば、首を多少すくめてはいるが、顔をしかめてはおらず、震えもしていない自分は、まだ寒くは見えないように、中里には思えた。
「そんなんじゃねえだろ」
「そんなんだよ」
慎吾に譲る気はないようだ。しかし、言われっぱなしも癪だった。
「お前の方が寒そうだぜ。そんなに膨れやがって」
パーカの上からダウンジャケットをまとい、その広さが下までそっくり続いている慎吾の容積は、通常時より五割は増しているだろう。ブルゾン一枚でも防寒に足りる中、厚着にもほどがあるというのに、慎吾はやはり不本意そうに、口先だけを動かす。
「対策してるから、寒くねえんだ。お前は寒い」
こうも寒い寒いと続けられると、人間そのものが寒い、冷たい、つまらないと言われているように聞こえてきて、不愉快だ。実際、存在が寒いというのはつまり、そうなのだろう。この男は口が悪い。性格が悪いのだから当然だった。こういう風に妙な難癖を幾度もつけてくる時には、無視するに限る。口だけでも動かした方が体も温まるかもしれないが、ただでさえ峠に浸っていた気分が台無しで、これ以上、乱れたくもなかった。
何も言い返さずにいると、やがて慎吾は億劫そうにため息を吐いて、舌打ちをする。それで終わりだ。離れていく。分かっていても、近づいてきたのが向こうからでも、離れられる時には、一抹の、外気によるのではない、内側から、指先を冷やすものがある。だから、深いところに、近づきたくはないのだ。ここで、峠以上に優先できるものなどありはしない。それを分かっていながら、離れられる時、離れさせる時に、心臓を小さな針で刺されたような、嫌なむず痒さを感じてしまう、軟弱な自分が、嫌なのだった。
中里は、痛々しいほど冷たく暗い空を見上げながら、ため息を吐いた。もっと強くならねばならない。誰にどんな風に接せられようとも、揺るがず余さず受け止められるように、少なくとも、この程度の寒さを苦にもしないほどには、頑丈にならねばならない。そう思い、まだまだだな、俺は、と自虐のため息を吐きそうになった時、後頭部に、衝撃を感じた。痛みはなかった。ただ、何か柔らかく、多少の重さのあるものが、さほど加速度も与えられずぶつかってきた、その程度の感触だった。
「あ?」
反射的に振り向くと、前方を、のそのそと歩く慎吾の背中が見えた。歩調が遅いのは、寒さのせいだろう。あの男は寒くなると動きが鈍る。それより頭にぶつかった、おそらく慎吾がぶつけてきたものの正体が気になった。地面を見る。油揚げほどの大きさの、白く四角い物体が落ちていた。ロージンバッグのようにも見えるが、それにしてはでかい。そもそもロージンバッグなど、慎吾が持っている道理もない。
しゃがみ込み、拾い上げてすぐに、その正体は知れた。白いのは不織布で、中には砂のようなものが詰められており、握るとしゃりしゃりと音を立てる。それが発する、体温以上の、筋肉の緊張も解ける暖かさが、かじかんだ手を急速に汗ばませて、中里は確信を持った。これは、使い捨てカイロだ。
顔を上げ、おい、と声をかけようとした時にはもう、慎吾の背中はプロレス集団の影に隠れて、見えなくなった。
あの男は、寒くなると動きが鈍る。だが、中里が立つ場所から、さきほど慎吾の背中が見えていた位置と、そこからプロレス集団がいる位置までは、同じ程度の距離だった。それを慎吾が消化するのにかかった時間は、決して同じ程度ではない。
あの男は、慎吾は、口が悪い。性格が悪いのだ。だから勝手に無法の過ぎるバトルをやるし、妙な難癖もつけてくる。人の存在をして寒いなどと言い立てて、不本意そうな舌打ちを残しながら、すぐには立ち去らず、温められた使い捨てカイロを頭めがけて投げてくる。
寒さは変わりもしないのに、全身にたちまち汗がわき、与えられたぬくもりに、筋肉は緩む以上に強張って、中里は、にわかに立ち上がると、両手でカイロを握り締めていた。
(終)
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