全開サーモスタット



 下り終える前に、右手から力を抜いた。ステアリングは、掌で操作した。行儀良くシフトダウンして減速させた車を、駐車場に滑り込ませる。停めたすぐ傍には、男が三人立っていた。峠に上がる前にはいなかったはずの、知っている面子だ。降りてそちらを見た途端、黒いフリースを着て黒いニット帽を被り黒いネックウォーマーで顎まで覆っている、不審者にしか見えない一人が、よう慎吾、と手を挙げてきた。よう、と一言返し、慎吾は三人の元に歩いた。
「西近来てねえか」
 尋ねると、左斜め前に立つ不審者じみた清見が、「ニッシー?」、と辺りを見回し、「来てねえよ」、と答えた。上にいた連中も、同じ答えだった。ふうん、と頷くと、真ん前に立つ男と、目が合った。
「あいつに何か用なのか」
 グレーの、毛玉の目立つセーターを着た中里が、不思議そうに聞いてくる。目が合って数秒、思考を忘れた慎吾は、それを取り戻してすぐ、「あいつが俺にな」、間を埋めるように、緩く肩をすくめた。
「用あるとか言ってたんだよ。それからふた月会ってねえけど」
 今度ゆっくり酒でも飲みながら人生について語り合おうぜ、と西近に言われたのが、二ヶ月前だ。以降一切音沙汰がない。
「あー、ニッシー俺も連絡つかんわ」、清見の隣で寒そうに体を揺すっている壮間が、グリーンのナイロンパーカをかさかさ鳴らしながら、早口に言う。「山ごもりでもしてんじゃね?」
「どこの山だよ、ここじゃねえのかよ」、と不審な清見。
「知らんっつーの。お前知らんの?」
「知らねえよ。俺もニッシー二ヶ月くらい見てねえし」
 上にいた連中も、似たような答えだった。西近は少なくともここ二ヶ月、峠には来ていないらしい。
「生きてんのか……?」
 腕を組み、眉間に縦皺を刻んだ中里が、深刻な声を出した。清見と壮間は顔を見合わせ、首を傾げる。
「まあ生きてんじゃねえの」、証拠はないが、慎吾は軽く言った。「あいつ、図太いし」
 今年の春先も、およそ二ヶ月姿を見せなかったことがある。その時西近が行っていたのはニューヨークだった。今はロサンゼルスにでも行っているのかもしれない。
「ニッシー、サバイバル術すげえもんな」
「無人島でも生きてけると思うね、あいつなら」
 清見と壮馬が顔を合わせたまま頷いて、それもそうか、と中里は簡単に深刻さを取っ払った。西近はサバイバル術に長けた図太いチームの古参、慎吾にしてみれば鬱陶しい男だった。このまま永遠に姿をくらませていてくれた方が、人生について一方的に語られたり中里と仲良くしろというお門違いの説教もされたりせずに済むから、ありがたいのだ。だが、西近の現れ方はいつでも突然である。捕獲されないように、今後も警戒しておくべきだろう。考えながら、慎吾は右手を口元に持っていき、息で温めた。ステアリングを握り続けていた手は、強張っている。空気が冷たいせいか、関節の固さはすぐには取れない。手首のリハビリはとっくの昔に終わっている。後は慣れだ。戻りつつある感覚を保つためにも、一度の走行で終わるわけにはいかない。
「どうした」
 真ん前に立つ中里が、不思議そうに聞いてきた。目が合うと、わずかでも思考が飛んでしまうため、「ちょっと固まっただけだ」、慎吾は少し斜めを見ながら言った。「握りっぱなしだったからな」
 指の関節を、曲げて伸ばす。息で温めながら繰り返していると、「何お前」、壮間が白い顔に気持ちの悪い笑みを浮かべた。「冷えてんの? 寒いの? 人肌恋しいの?」
「冷えてねえし寒くもねえし、人肌恋しくもねえよ」
 丁寧に否定してやったところ、ひゅう、と清見が口笛を鳴らした。
「相変わらず無慈悲にボケを壊滅させんよな、慎吾って」
「まあこいつ冷血だしね。極悪非道だしね」
 壮間がわざとらしくため息を吐く。ボケにもなっていない言葉を潰しただけで、無慈悲はまだしも極悪非道呼ばわりされる筋合いはない。大体、
「オカヤスのFTOに当てといて、無関係決め込んでる野郎に言われる筋合いねえな」
「うわっ」、と白い顔を更に白くした壮間を、「え、マジで」、清見は嫌そうに見た。
「オカヤス?」
 中里は不思議そうなままだった。嫌そうな顔をやめた清見が、ネックウォーマーを少しだけ下にずらし、ほら、と中里に説明した。
「ヤス君、この前ゲオで当て逃げされたって軽く途方暮れてたじゃねーすか。あれっすよ」
 ああ、と得心したらしい中里が、数秒後、短い髪を揺らしながら勢い良く、「ってお前」、と壮間を向いた。
「あれお前だったのかよ、壮間」
「いや何つーかね毅君」、白い顔を気持ち悪くひくつかせながら、壮間は早口に言い募る。「俺だってわざとじゃなかったのよ、でも急いでたのよ俺だって色々忙しい身分なんですよ、だからオカヤスには山来た時に謝ろうと思ってたんですけどね、あいつのあの絶望っぷり見せつけられちゃったら擦ったの俺です許してね、とか言える雰囲気じゃ全然ねえしこれはもう何もできませんって感じでさ、ね、分かってくれるよね?」
 両手を合わせた壮間を、不愉快げにじっと見下ろしてから中里は、匙を投げるようなため息を吐いた。
「……謝っとけ」
「はい!」、と壮間は中里を拝んだ。返事だけは良い男だった。
「ヤス君良かったなあ」、清見が笑ってネックウォーマーを上げ直し、だな、と中里も笑った。慎吾は、右手で拳を作った。人を殴れるだけの力は入れられる。問題はない。後は元通り、いや、それ以上を目指すための準備を整えて、走るだけだ。拳を解いて、開いた右手を見た。震えていないのを視認した直後、慎吾の右手は、他人の手に取られた。
「どれ」
 中里の声がした。他人の片手に手首を軽く取られ、片手で指を包まれ、ぎゅっと握られる。肉が密着すると、乾いた肌を刺すような、痛みに近い熱を感じた。その熱を生んでいる人間へと、つい目をやっていた。真ん前には、中里がいる。中里は、握られている手に、握っている手に、深刻な顔を向けている。痛みを感じるほど、熱い手だった。慎吾はそれには一度も目をやらず、中里の顔だけを見ていた。右手を解放されて、冷たい空気が関節を固めるまでだった。
「どうだ?」
 離れた中里が、窺うように、上目に見てくる。目が合って、止まった思考は、指を焼いていた熱が首まで上がると同時に、動き出した。
「どうでもねえよ」
 言ってすぐ回れ右をして、後ろから聞こえた疑問の声は無視をして、慎吾は車に戻った。再び生まれた右手の強張りは、顔に達した熱で何度も何度も温めて、峠に上がった頃にようやく解ける傍迷惑なものだった。
(終)


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