帯電
近づいてくる足音を耳が拾ってすぐに、声がした。
「慎吾、ちょっと待て」
名を呼ばれ、車のドアノブにかけていた手を止め、慎吾は左を見た。声のした方だ。駆け足を緩め、目の前まで来た中里は、わずかに息を乱している。この男が、人を慌てて呼び止めてくる場合、ろくな用件を持ってはいない。慎吾は上げた右手でいつでもドアを開けられるようにしたまま、何だよ、と言った。中里は、一つ小さく息を吐いてから、束の間あちこちに目を動かし、だが何事もなかったかのように、今初めて出くわしたとでも言わんばかりの、快活な声を出した。
「お前、今週誰かと映画を見に行く気はないか」
慎吾は中里の顔を窺った。深刻さはない。これは、敵対しているのか慣れ合っているのかいまいち決めきれないこの関係を、映画館に一緒に行くことで打開しようとしている、真剣な挑戦者の面持ちではない。遠回しに相手の都合を確認しようとしている、遠慮しいな愚か者の面持ちだ。慎吾は美術品の価値も知らない仲間に気持ちが悪いと評判の、巧妙に作った笑顔を中里に見せてやった。
「チケット押し付けようってつもりなら、俺はパスするぜ」
ぐう、と言葉になっていない声を上げた中里が、何で分かった、と言いたげな間抜け面になる。それを作らせたのを良しとして、慎吾はさっさと車に乗り込むべく、右手をドアノブにかけようとした。
「――ってえ!」
途端、パチリと乾いた枝が弾けるような音がして、指先に、痛烈な刺激が走り、右手を左手で掴み、ついしゃがみ込んだ。右の人差し指の先端が、針をびっしり突き刺されたように、ぴりぴりと痺れている。目に涙がにじんでくるほど、痛い。すっかり失念していた。季節は冬、空気は乾燥、着ているのはフリース。条件は揃っている。静電気が溜まる条件だ。
「おい、大丈夫か」
慌てた声が降ってきて、慎吾は指の痛みを紛らわすために、右手首を素早く振りながら、何とか立ち上がった。
「大丈夫じゃねえよ。クソ痛ェ」
日頃、アース確保は心がけていたが、中里の間抜け面に気を取られて、自分の手の行方を見届けていなかった。放電条件まで揃えるとは、不覚だ。とにかく早く感覚が戻るようにと右手を振り続けていると、目の前の男が、鼻で笑った。
「泣くようなことでもねえだろ」
そう言った中里は、人を小馬鹿にするように、口の片端を上げていた。この男はどうも、放電の恐ろしさを知らないらしい。慎吾は自分の頬は勝手に上がるがままにして、半歩踏み出し、振っていた右手を、中里に向けて思いきり伸ばした。
「おっ」
逃げられる前に、腕を首に回して引き寄せ、脇の下に固定する。そうしてロックした中里の頭で、慎吾は左腕をおろすようにごしごしと擦った。
「おいっ」
「静電気ってよ、こすると出るよな」
「何しやがる、お前」
「おすそ分けだ。折角だし」
「何ッ、要らねえよ、慎吾!」
中里の喚きには耳を貸さず、慎吾は左腕を中里の髪で地道におろしながら、それとな、毅、と言った。
「恋愛映画に誘える女がいねえから他の奴にチケットやろうとしてるんだろうが、そこは男らしく堂々と一人で鑑賞しに行っとけ。二回」
中里の抵抗は、ぴたりと止み、頭を五回擦った後に、何で分かる、と小声が聞こえた。何でも何も、と慎吾はため息を吐きながら、思った。分かりやすいんだよお前は。どうせお節介な知り合いにでも、女を誘って行けと今週で公開終了の恋愛映画のチケットを貰ったものの、誘うような女を見つけられず、捨てるのも勿体ないからと峠で恋愛映画を女と見に行くような仲間を探し、それも見つけられず、ついにわざわざこちらに駆けてきてまで聞いてきたのだろう。今週誰かと映画を見に行く気はないか。その言葉と、口調、表情、動きだけから、ここまで完全一致の推測をしてしまった自分に、瞬間ぞっとして、慎吾は中里の首を固めている腕の力を抜いた。その隙をついて、中里は脱して、向き直った。
「クソ、髪がぼさぼさだ」
加減もせずに擦り続けてやった中里の短い髪は、あちらこちらにふわふわと跳ねながらも、ほとんどが重力に服従していた。それを中里は両手で下に押さえつけ、思い直したように額から掻き上げて、首をひねり、再び頭から押さえつける。前髪が潰されて、大きいために動きが顕著な目が隠れ、表情が読めない。それがどうも腑に落ちない気分にさせるので、慎吾は目を逸らして、フリースの左袖を右手で払いながら、質問に遅く答えた。
「俺はお前と頭のデキが違うんだよ。あとお前と違って誘える女はいるけど、恋愛映画は趣味じゃねえ」
んぐ、と中里はまた言葉になっていない声を上げる。慎吾は同じ過ちを繰り返さないために、EG−6から目を離さないことにした。
「まあチケット捨てたくねえんなら、野郎と一緒でも我慢するんだな。人間諦めが肝心だ」
言いながら、ドアに近づく。念のため、フリースの袖越しに、ドアノブを掴もうとした。
「そんなこと言いやがると、お前を俺に付き合わせるぜ、週末」
だが、無造作な、不満たらたらの声に、簡単に、意識を奪われた。車から目を離した挙句、袖から手を出していた。同じ過ちを繰り返していた。それも放電したばかりならば何もなかっただろうが、先ほどわざわざ中里に分けるために、自分にも静電気を溜めていた。結果、火花が散る音とともに、指が焼けた。火傷にはなっていないはずだ。だが、水で冷やしたくなるほどの、痛みと痺れが人差し指に集中している。
「だあッ、チクショウ!」
叫んでみても、変化はない。気も紛れない。自業自得だと分かっているからだ。横から、堪えようとしているのかいないのか知れない、半端な笑い声が聞こえてくるからだ。
「静電気には、気を付けろよ」
セットと無縁な髪型になっている中里が、優越感丸出しに言って、揺れがちな背を向ける。離れて行く間も、笑うのを止めようともしない。パチリ、と頭の中で、電気ではない、溜まった何かが弾ける音を聞き、慎吾は中里の背に向かって駆け出した。
(終)
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