ゲロ甘
落葉樹は水分を失いがちで、冬の到来も間近と思われる秋の暮れだが、上っ張り一枚あれば夜の峠でも凍えずには済むものだった。
「毅さん、一本余ったので差し入れです!」
そのため駐車場でチームの同期二人とその他一人と峠や街中の路面状況について話していた時、駆け寄ってきた後輩に天真爛漫な笑顔と明瞭な言葉と一本のココア缶を向けられても中里は、他の奴にくれてやれ、と一旦は断ろうとした。他の連中に買い出し品を供していたらしい後輩は、この季節ならば温かい飲み物を準備しているはずだが、中里の体はそれを求めるほどに冷え切ってはいなかった。仮に求めていたとしても、周りに三人いながら自分だけ一本余った品を貰うのは卑怯で男らしくない振る舞いのように思えるから、断ろうとはしただろう。
「さあどうぞ!」
だがしかし、初春の風のごとき麗しく爽やかな笑顔をもって、ココア缶をより一層近づけられると、その後輩の親切を拒むことこそが中里には、卑怯で男らしくない、極悪人の所業になるように感じられてしまった。
「あ、ありがとよ」
結局中里は、まだ熱いスチール缶を差し出されるまま受け取って、強張りかけた顔に何とか感謝の笑みを浮かべ、つかえかけながらも何とか感謝の言葉を返した。
「はい! 失礼しました!」
それを受けた後輩は、快活な返事と無垢な笑顔と爽やかな空気を置き土産とし、浮き浮きと場を去っていった。
「相変わらず慕われてんなあ」
隣に立つ同期の男が、薄ら笑いながら揶揄するように言ってきても、後輩の運び入れた空気は淀まない。
「みたいだな」
中里はホットココアの缶を開けながら、同期の男に少しの戸惑いと多くの自慢のこもった笑みを返した。
峠で愛車を駆るのが好きだからこそ走り屋として走っているが、走る以上は速さを周囲に認めさせたいと思う。自分の技術を、32GT−Rの性能を誇りたいと思う。その結果、高い評価を得て特別に扱われるのも悪い気はしない。慕われるのもだ。自分を、車を褒められれば、立場を忘れて嬉しくなる。ただ、崇め奉られるのは違うとも思えるから、無条件のように慕ってくる相手には、少しの戸惑いを覚えなくもない。それでも仲間に慕われるのは、慕ってもらえるのは、中里にとって卑近な人間に自慢したくなるほど嬉しいことだった。
俺も何か貰いてえな、みんなから一万円ずつとか、と一人が真面目腐った調子で言い、どこのマルチだそりゃ、と一人が不愉快そうに言い、ねずみ講できるほど人数いねえなうちは、と一人が笑う。その間に、中里は缶に口をつけ、ホットココアを飲んだ。甘く、熱い。歯にも歯茎にも絡む液体の、舌の痺れるような甘さは脳に届いて恍惚をもたらし、舌の焼けるような熱さは胃に届いて安堵をもたらして、外に立ったまま会話をしている内に秋の夜風に多少冷やされていた肉体は、ほっと弛緩した。
「お前よくそんなゲロ甘なもん、平気で飲めるな」
一つ息を吐くと、斜め前に立つ長い茶髪の男がそう言ってきて、爽やかな空気は霧散した。この男も一応は後輩のはずなのだが、人を敬うということがない。まったく態度が悪い。というか、そもそも性格が悪い。
「自分が何も貰えないからって僻むなよ、慎吾」
人望の差を見せつけるように、右手に持った缶を掲げながら中里が言うと、その男、慎吾は前髪に隠れた高い頬骨を見せつけるように、腹黒い笑みを浮かべた。
「頭の薄い野郎にゲロ甘ココア貢がれないからって、誰が僻むかよ」
態度が悪ければ性格も悪く、言葉遣いも悪い男であった。中里とて仲間や競争相手に上品に喋ることはないが、人が飲んでいるものにゲロと冠することもない。ココアは確かにココアらしく甘いとはいえ、慎吾の表現はさすがに下品が過ぎるし、不愉快だ。「お前な」、と中里は慎吾を睨んだ。
「何がゲロ甘だ、ゲロゲロ言うのもいい加減にしろ。これ自体がゲロみてえに聞こえるだろうが」
「ゲロ吐きそうなくらい甘いもんをゲロ甘と言って何が悪い」
いくら睨んでやっても慎吾は平然としたものである。ああ言えばこう言う奴でもあった。天邪鬼で弁が立つのだ。そんな慎吾との舌戦は、口下手ではないにせよ口巧者でもない中里には分が悪い。だからといって無抵抗で敗退するには慎吾の態度はふてぶてしくて憎たらしく、争いにならない程度には言い返してやりたくなり、まあ、と中里は過激にならぬよう、余裕を保ちながら笑った。
「俺はお前と違って味覚の範囲が広いからな。この程度でゲロ吐きそうにはならねえし、ゲロ甘とも思わねえ」
「鈍い奴は苦労がなくていいねえ、俺の舌はお前と違って繊細だからよ、限度越えると人間の食い物って判断してくれないんだぜ」
優越感剥き出しの嘲笑とともに慎吾は言った。途端中里の笑みも余裕も消し飛んで、脳には一挙に怒りが差した。常ならば似たような嘲笑と、どのツラ下げて繊細なんて言ってんだ、という的確な皮肉や、お前だっていつもゲロ甘コーヒー飲んでんじゃねえか、という的確な指摘を返してやるだけで済んだだろう。だが、二口飲んだホットココアが与えた温もりは中里の頭に血を上りやすくしており、まるで人間の食べ物以外も食べられるように、人間に劣るように言われては、我慢はできなかった。
すなわち中里は、キレた。キレた人間というものは当然冷静さとは無縁である。目的やそれを達成するための手段について正しいか否か最善か否かも考えず、衝動をそのまま実行してしまうものである。
「そうか、なら」
中里の顔には、極まった怒りからくる笑みが浮いた。慎吾は危険な雰囲気を感じたのか嘲笑を一瞬にして消し、しかし退きまではせず、何だ、と身構えた。中里は笑いながら慎吾に一歩近づくと、その頭へ素早く空の左手を伸ばし、引かれる前にそれを掴まえた。
「どっちのもんか、判断してみろ」
その時の中里の内にあった衝動とは、人間未満として馬鹿にしてきた慎吾への仕返しに、ゲロ甘ゲロ甘抜かしやがるその甘さを食らわしてやろうというものだった。そしてその甘さの源を、右手に持ったココア缶にではなく、己の口内に捉えていた。したがって、後頭部を掴んで引き寄せた慎吾の口に、自らの口を押しつけて、舌や頬の内側に残った甘さを存分に注ぎ込むことに、中里は疑念の一つも覚えなかった。これぞ究極の仕返しだという、万感の思いがあるのみだった。
「どうだ、どっちだ! いやもうどっちだろうが構わねえ、吐け、吐いちまえ、てめえみてえなひ弱な奴はとっととゲロでも何でも吐いて、ひねくれた腹の中を空っぽにしちまえってんだ!」
中里が冷静さを取り戻したのは、慎吾の口を解放し距離を元通りに取った直後、仕返しを果たした達成感のあまり両手を広げてそう叫び、同期の二人の驚きの目と、慎吾の呆然とした顔と、三人の重い沈黙とを受けてからであった。
あれ、と思った。何か違うんじゃねえか。
中里はキレやすかった。また、不測の事態に遭遇すると集中力も切れやすかった。特に少量のホットココアの熱とカカオ分と糖分によって怒りの沸点が下がっていただけの状態では、その効果が切れると冷静さも簡単に取り戻されのだった。
今しがたの己の行動が、我に返った中里の脳裏を走馬灯のように駆けた。
――間違えた。
脇の下に冷たい汗がにじむのを感じながら、中里は確信した。あの状況で仕返しするに最善の方法は、持っているココア缶の口を慎吾の口に押し付けて、中身を注ぎ込んでやることだった。己の口を慎吾の口に押し付けて、中身の残りを注ぎ込んでやることでは決してなかった。大体が注ぎ込めるほど残ってもいなかった。
なぜつい先刻の自分がそのような不適切な行動を取ったのかが分からずに、何を考えてたんだ、俺は、と中里は思ったが、冷静さを取り戻した今、疑問の答えはすぐに出てしまった。キレただけで、何も考えていなかったのだ。そんな己の間抜けさが身に染みて、しゃがみ込みそうになったものの、何とか堪える。
間違えたことをどうこう思っても仕方がない。後の祭りだ。今すべきは、自分が作り出し、三人の沈黙を招いたこの状況の処理である。
――どうする。
勝利の雄叫びまで上げておいて、今更何もなかったことにはできないし、改めてココア缶の中身を慎吾の喉に落とし込むのも愚の骨頂である。動かしがたい現実の只中で己の行動を思い出すにつれ、触れた慎吾の唇や舌の生々しい感触も蘇り、吐き気がこみ上げてきたため、中里は思考を中断し口を手で覆っていた。
「いやお前が吐きそうになってどうするよ」
途端、怪訝そうに慎吾が言った。その顔は呆然から脱しており、口調の通り訝しげで、また面倒そうでもあり、しかしやはり平然としていた。それを見た中里が、「何でお前は平気なんだ」、と訝っていた。「俺とキスしちまったってのに」
「勝手にキレてキスしてきた奴にそれだけ気色悪がられると、呆れちまってそれどころじゃねえんだよ」
ため息混じりの慎吾の言は、もっともであった。先のキスにおいて慎吾はいわば被害者であり、中里はいわば加害者である。男同士のキスなどは気色悪いものでしかないが、その加害者こそが気色悪がっては、被害者は呆れるばかりなのだろう。もっともだ。しかし、中里は釈然としなかった。勝手にキレたわけではない。相応の理由があったからキレたのだ。「元はと言えば」、と中里は再度慎吾を睨んだ。
「お前がゲロゲロ言うのが悪いんじゃねえか。そうじゃなけりゃ俺だってこんなこと、しなかったはずだぜ」
「しれっと責任転嫁してんじゃねえっての。俺はゲロゲロ言っててもお前にキスはしちゃいねえ。お前が俺に、キスしやがったんだ」
慎吾の言はやはりもっともであった。意図はどうあれ、慎吾にキスをしたのは紛れもなく中里である。その責任は取らねばならない。だが後輩の親切に満ちたホットココアを指して慎吾がゲロゲロ言ってきたことを、見逃してやりたくもないし、そのように釈然としない心理状態でこの一件についての謝罪をしたとしても、それをひねくれ慎吾に軽く嘲笑われただけで、怒り心頭に発した末に同じ過ちを繰り返しかねない。したがって謝罪はするべきではない。かといって責任逃れは男が廃るから、絶対にしたくない。
ここは大人として、譲歩の道を取るのが最善である。思考を再開させた中里は、睨みを止めて、「それは確かに、お前の言う通りだ」、と慎吾に丁重に言った。
「そこで、物は相談なんだけどよ」
「んだよ」
慎吾は怪訝そうで面倒そうなまま言う。話を聞く気はあるらしい。中里は咳払いをし、真剣に提案した。
「今のは、なかったことにしないか。お互いのためにも」
周りの連中は何があろうが騒ぎにするか馬鹿にするか無視するかのいずれかのため、最早気にするものではないが、互いについては反駁し合うことが出会った頃からの習性になるほどに、気にせずにはいられない。とはいえ近頃は主に慎吾の内輪揉めへの拘りも薄れ、誰もいない状況でまではいがみ合ってもおらず、二人きりではなかなか静かなものである。そこでゲロゲロ言っただのキスをしただのと余分な要素を入れて意識を難しくしても、やりづらくなるだけだろうから、そんなものは最初からなかったことにしてしまうのが賢い方法だと、冷静な中里は判じたのだった。
「都合の良い野郎だな、ったく」
提案を受け、鼻白んだように左の眉を上げた慎吾は、馬鹿馬鹿しそうにため息を吐くと、またもやもっともな言を、今度は嫌みたらしく吐いて、一歩距離を詰めてきた。その顔は退屈そうなばかりであり、慎吾の動きの意図が読めず、何だ、と中里はココア缶を持っている右手で一応間合いを取ってみた。やはり退屈そうな顔で慎吾は、中里の顔を見、ココア缶を見、また中里の顔を見て、ココア缶を見た。顔色を変えぬ慎吾がそれを鮮やかに引ったくったのは突然のことで、何するつもりだこいつ、と中里が思うより先に、慎吾は缶に口をつけ、中身を飲み始めていた。
顎も缶も上向かせ、ごくごくと音を立ててホットココアを内臓に落としている慎吾を、唖然と眺めながら中里はゆえに、何やってんだこいつ、と思った。思って間もなく缶の中身を飲み終えた慎吾が、熱そうな息を吐いて口を乱暴に拭い、空き缶を投げ返してきたため、中里は何も考えられないままそれを受け取った。
「このくらいで吐くほど俺がひ弱じゃねえってことは、覚えとけよ」
慎吾は大きく顔をしかめてそう言うと、気怠げに背を向けて、何ともしがたい空気を置き土産とし、場を去った。
――なかったことにして良い、んだよな、これは。
「相変わらず、慕われてんのな」
不測の事態に遭遇したがゆえの放心状態から脱け出した中里がぼんやり思っていると、隣に立つ同期の男が、相変わらずの薄ら笑いとともに言ってきた。
「どこがだよ」
咄嗟に返すと、どこがってなあ、全体的にじゃねえの、と同期の二人は頷き合う。
「んなわけねえだろ、慎吾だぜ」
二人がどのような慎吾を見ているのかは知れないが、人を敬うということのない男が、人を慕うとも思えない中里はそう言って、自分の見ていた慎吾が胃に収めてしまったホットココアの缶の中を、何となく覗いてみた。暗いだけだった。
「そりゃ、慎吾だからだろ」
「慎吾じゃねえと、ありえねえよな」
確信しているかのような二人の理解しがたい言葉を聞きながら、薄れぬ何ともしがたい空気の中、軽いスチール缶を眺めていた中里の口中に、なかったことにするべき行為にあった感触が、卒然生々しく蘇った。それを掻き消そうとして、中里は勢い缶を煽ったものの、ゲロ甘とされるほど甘くもない液体は三滴ほどしか舌に落ちず、その後に「何わけの分かんねえこと言ってんだ」、と二人を睨んでみたところで、怒りはなく、すぐにはなかったことにもできなかった。
(終)
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