お揃い
庄司慎吾の属する妙義ナイトキッズは走り屋チームである。ゆえにメンバーは皆走り屋だ。定番のS13に乗っている奴もいればマーチに乗っている奴もいる。GT好きもいればF1好きもいて、NASCAR好きもいればインディカー好きもいる。ドリフトマニアもいればゼロヨンマニアもいる。各々の趣味は多様である。信奉メーカーによる派閥もある。だがチームが割れるほどの大きな諍いは発生しない。趣味の違いが袂を分かつ理由になるなら最初から徒党を組んでもいないのだ。それに結局のところ、集まる目的はただ一つ。峠を走ることである。公道を快適に暴走するには相応の人数による事前準備と危機管理が必要だ。権力者とのコネもあれば言うことはない。世の中大抵の問題は金持ちが味方にいれば何とかなるものなのである。かくして妙義ナイトキッズは数多の規制を掻い潜りつつ、深夜の妙義山にて日常的に集団暴走行為を楽しんでいる。
そんなナイトキッズの中でも峠来訪率が極めて高い黒のR32が一台ある。ドライバーの名は中里毅。去年対外バトルで三連敗を喫した男だ。かつての慎吾ならばそんな弱いドライバーはとうの昔にこき下ろして他のメンバーを扇動しチームから追い出してやっている。自分と自分に近しい仲間がいればそれで良かった頃ならばだ。しかし今の慎吾はチーム全体に故郷に対するのと同等の愛着のようなものを持ってしまっているし、そのチームの名誉を中里がどれだけ本気で満身創痍で、必死に孤独に守ろうとしたかも分かっている。もう追い出そうとは思わない。
といってもEG−6で妙義山ダウンヒル最速を自認している慎吾としては、R32でナイトキッズ最速を自称している中里の存在は大いに目障りだ。確かに中里は速い。三連敗のうち二回はホームの妙義山で負けているくせにまだ速い。R32というサーキットで鬱陶しい速さを見せつけやがった車の性能を我が物顔で誇ってくるのだから鬱陶しいことこの上ない。近く絶対その鼻っ柱をへし折ってやろうと思う。慎吾がそう思える相手はチームに中里しかいない。妙義に中里しかいない。群馬に中里しかいない。世界に中里しかいない。追い出すことなどできはしない。
だが中里が鬱陶しい男であることに変わりはない。R32も鬱陶しいが中里本人も鬱陶しい。顔は無意味に濃いし動きも喋りも大仰だ。人のことを犯罪者のようにいちいち監視しようとする。顔を合わせる度に元気かどうかと分かりきったことを聞いてくる。そんな風に関わってきながら一人で車といる時は他人の干渉を拒むような空気を出している。傲慢だ。傲慢な偽善者だ。誰よりも残酷なその性質を自分で理解していない愚か者だ。慎吾はそれを理解している。それでも中里を無視できない。だから余計に鬱陶しい。
さて、趣味が多様なナイトキッズのメンバーには慎吾と違って中里を鬱陶しがらない奴もいる。それどころか中里に惚れ込んでいる奴もいる。そういう奴は中里が他のメンバーと話していようがお構いなしに自分の話題を持ち込んでいく。そういうマイペースなノータリンのために今、慎吾は中里との会話を奪われる形となっている。
天気がどうの景気がどうの新車がどうの、所詮は雑談だ。今どうしてもしなければならない話ではなかった。大体話しかけてきたのは中里で、慎吾はそれを受けただけである。マイペースなノータリンメンバーのように是が非でも中里と話したかったというわけではない。したがって会話を奪われたところ問題もない。だが何か釈然としない。人を無視して中里に熱心に自分のS13のパフォーマンスについて語っているノータリンメンバーとそれを当然のように楽しそうに受け入れている中里などは放っておいて、いつもの通り一人で峠を思うがままに攻めれば良いというのに、そうできない。無視できない。見るしかない。元より慎吾は中里を無視できないのだ。
ノータリンメンバーと話をする中里の刈り上げられた後頭部は、ヘッドライトが当たっている右側だけ髪も首もやたらと白い。そのせいか左側はどす黒く見えてくる。どす黒い毛。ふとその中に白い毛が混じっているような気がして、慎吾は目を凝らしていた。光の加減で白く見えるだけかと思うがそれにしては存在感が強い。黒い毛が繁茂する世界の中でここに我ありと白く輝いているように見える。
その白さは突如慎吾の視界から奪われた。中里が振り向いてきたからだ。
「な、何だ」
中里の驚いた顔が間近に見えて、慎吾は自分が中里の後頭部を見ているうちに距離を詰めていたことに気付いた。奥を見ればノータリンメンバーはもういない。いつの間にやら二人の会話は終わっていたらしい。それにも気付かなくなるほどに中里の髪の毛を見ることに集中していた自分を、何やってんだ俺は、と慎吾は馬鹿馬鹿しく思った。はぐらかす気も起きなくなる類の馬鹿馬鹿しさである。
「お前の髪、白髪あるように見えたからよ」
結局慎吾は素直に言った。中里は頭の後ろを怪訝そうに手で探った。
「白髪?」
「いや触っても分かんねえだろ」
「分かんねえな。どの辺だ」
「後ろだ。左」
「見えるか?」
中里が背を向ける。後頭部の先ほどと同じ位置で白い毛が光っているのがすぐに見えたので、慎吾は頷いた。
「ああ」
「じゃあ抜いてくれ」
当然のように中里が言ったことを、慎吾は数秒かけて理解した。
「俺に抜けって?」
「白髪なんだろ?」
「白髪だな。俺が見る限りは」
「そんなもん放っといたら格好悪いじゃねえか。抜いてくれ」
格好悪いとかいう問題かよ、と思ったが、自分に若白髪が一本生えていたとしたらそれは格好悪いと感じるだろう。すぐに抜いてしまいたくもなるだろう。自力で抜きづらいところならば誰かに抜いてもらいたくもなるだろう。そういう問題だ。格好悪いから白髪を抜く。他に何の意味もない。あると思われるべきではない。そのためには速やかに通常通り対処するのが最善である。
「なら抜いてやるけどよ、文句言うなよ痛くても」
慎吾が渋々という態度を取りながら承諾すると、中里は不服そうに横顔を向けてきた。
「言わねえよ。でも抜く時は抜くって言えよ、心の準備ってもんがある」
「へーへー」
「何だその返事は」
「何でもねえっての。ほらじっとしてろよ、手元狂うから」
傲慢な男の後頭部を真正面に据え置いて、髪に指を入れる。硬い髪だ。そして太い。掻き分ける度に皮膚にちくちく刺さってくる。髪まで鬱陶しい男である。少しは染めて雰囲気や感触を柔らかくしようと思わないのだろうか。
「お前、髪染めたりしねえの」
仲間の毛繕いをする猿のように髪をまさぐっているうちに、浮かんだ疑問が口から零れ出た。
「髪?」
「動くなって」
揺れかけた頭を固定させ、何百本という黒いの毛の狭間で一本の白い毛の根元を何とか捉える。整髪料のせいかべたつくが、その分滑らずに済みそうだ。ただでさえ短い毛で力の入れ方も難しいというのに、これで細くてつるつるでは抜きようがない。
「しねえな」
独り言のように中里が言った。慎吾は白髪をつまんだまま相槌を打った。
「ふうん」
「白髪が目立つ歳にでもなりゃあ、考えるかもしれねえけどよ」
思わぬ答えに危うく白髪を離しかけ、指に力を入れ直す。
「いやそっちじゃねえよ」
「あ?」
「だから、茶髪にするとかさ」
「茶髪? お前とお揃いにしろってか?」
再びの思わぬ答えに危うく白髪を抜きかけて、すんでで堪えた。これでは一人我慢大会だ。ひとまずこの毛を処理してしまわなければ、精神が消耗するばかりである。
「全然そっちでもねえんだけど、もういいよ。抜くぜ」
「あ? ああ」
言われた通り宣告してやると、触れている頭皮から手に緊張が伝わってきた。これは所詮中里の髪で、他の黒い毛がどれだけ巻き添えになろうが慎吾にとってはどうでもいいものだが、この程度の作業も円滑にできない不器用な人間だと思われるのは心外だ。適度な緊張感を味わいながら、慎吾は指先に力を入れて、つまんだ毛を引き抜いた。
「イッ」
ぷちりと音が立ち、中里が痛そうな声を上げて体を揺らす。そして慎吾の手には一本の髪の毛が残った。白い。太い。硬い。完全な白髪だ。毛根もついている。
「ほら」
「ん」
後頭部をさすっている中里に完全な白髪を差し出すと、中里は掌に受けた。物珍しそうに見ながら呟く。
「白いな」
確かに白い。見れば分かる。そんなことをわざわざ口に出す単純さはやはり鬱陶しい。揶揄の一つでも返してやりたくなる。
「お前の目が正常で何よりだぜ、毅」
「いつから生えてたんだろうな」
人の話を聞かずに人の話を聞こうとする身勝手さも鬱陶しい。鬱陶しいのに無視できない。ため息は抑えられない。
「俺が知るかよ。何ヶ月かは経ってんじゃねえの、長さ的に」
「その間、誰も気付かなかったってことか」
「誰もお前の頭になんて興味なかったんだろ」
言ってから、なら見つけた俺は興味があったのか、と思い、そうじゃねえだろ、と慎吾は慌てて、だがついでのように笑って付け足した。
「まあ俺の観察眼は優れてるから、興味がねえもんでも発見しちまったけどな」
中里が顔を上げる。不満たらたらな顔つきだ。一片の他意もない。こういう時ばかりはこの単純さがありがたい。そしてわずかに憎らしい。
「そんなに優れてんならもっと早く気付いとけと思わねえでもねえが、一応感謝はしとくぜ慎吾、抜いてくれて」
中里は不満げなままに言う。
「感謝の気持ちってもんが欠片も伝わってこない素ン晴らしくフテた態度取っといて何ほざいてんだと思わねえでもねえけど、どういたしまして」
ありのままの心情を慎吾は返した。中里からはうんざりしたような顔が返ってきた。だが的外れな反論は返ってこなかった。不意に風が吹いたからだ。髪をほんの少しなびかせる程度の風だが、髪の毛一本を飛ばすには十分の強さを持っていた。中里の掌に載っていた中里の白髪は簡単に吹かれて飛び、中里は開いた口から声も出せずにそれを見送っていた。
「諸行無常ってやつだな」
慎吾は呟いた。折角抜いた白髪も弱々しい春風に飛ばされて消え失せる。この世に永遠などありはしない。
「大げさじゃねえか、そりゃ」
思い出したように顔を向けてきた中里が、怪訝そうに言った。情緒の分からない奴である。
「そう思うお前の存在が大げさじゃねえか」
「はあ?」
皮肉も分からない奴だ。底なし沼に杭を打ち立てているような気分になってきて、慎吾はため息を吐いた。中里は不満そうに睨んでくる。だが結局何の文句も言ってはこなかった。会話は途切れた。自然で確かな沈黙が訪れる。中里と二人の沈黙。奪われずに終わった会話のもたらした沈黙。この静けさは、悪くない。悪くはないが、長引かせるものではない。ありもしない永遠が感じられてしまうからだ。
「お前は黒くしねえのか」
先に沈黙を破ったのは中里だった。静けさに浸っていた慎吾はほとんど聞き逃した。
「何?」
「髪。黒くするとか、短くするとかよ」
頭を撫でながら中里が言う。どうやら話が戻ったらしい。髪。目の端をうろつく髪を黒くすれば視界に常時黒が入ることになる。それを短くすれば表情すべてを他人に晒すことになる。愚行だ。やるわけがない。いつかはそんな愚行も笑って済ませられる日がくるのかもしれないが、それはいつかである。今ではない。今の慎吾にはまだすべては晒せない。顔も思考も感情も、紛らわさずにはいられないのだ。
「お前とお揃いになんてなりたかねえよ、俺は」
中里は何か言いたげに口を開き、何も言わずに閉じた。納得したように眉を上げて小さく頷くと、また口を開く。今度は言葉を出してきた。
「俺だってそうさ、じゃあまたな」
慎吾が言葉を返す前に、中里は片手を上げて背を向けた。離れていく途中で他のメンバー二人に声をかけられ立ち止まる。中里は笑って話し出す。そこまで見てから慎吾は向き直り、他人の視線を拒むように俯きながらEG−6に引き返した。
(終)
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