烈を返さず



 まだ初夏と呼ぶには早い時期だというのに、峠にすら熱帯夜の気配が充満していた。時折吹き抜ける風がやや冷ややかなのが救いだが、それでも噴き出す汗は乾かない。
 慎吾は顎から首元に垂れる汗を手首で拭い、舌打ちした。野外で無防備に過ごすような気温ではなかった。車の窓を全開にして道をひたすらぶっ飛ばす。それが一番経済的だ。
「燃料代かかるじゃねえか」
 首にかけた白いタオルでくどい顔を拭いながら、中里は不審げに言う。隣に立っておいて人の話を聞いていないばかりかと思えば、単なる独り言に反応してくるのだから、相変わらずいやに気まぐれな男だった。その性質を指摘してやっても、カレーをフォークで食べた時のように別世界の変人として見られるだけだとは分かっていたので、慎吾は汗のついた手首をカーゴパンツに擦り付けてから、中里に頓珍漢な無礼を働かせる無駄は差し控え、「お前」、とこの暑さを少しでも軽減させるための提案をした。
「怖い話しろよ、霊的な」
「そんなもん、知らねえよ」
 鼻白んだように顎を引いた中里が、間も置かずに言い放つ。「はあ?」、と慎吾は悪役にそぐわしい顔つきを、更に悪くした。
「一つくらい持ちネタねえのか」
「俺は稲川淳二じゃねえ」
「誰もお前にそこまでのストーリーテラーっぷり期待するわけねえだろ」
「だったら俺に怖い話も期待するんじゃねえ。霊的な」
「普段走り屋のオーラがどうのっつってるくせに、霊的な話のストックもねえなんざ、お前の人生の経験値はどうなってんだ、毅」
 真夏の暑さは喋る気力を奪っていくが、真夏に比べればまだマシな暑さは、苛立ちを晴らすための毒を吐く気力は連れてくる。慎吾の口はよく回り、中里はうんざりしたように舌打ちした。
「俺はハナから霊感がねえんだよ。ったく、てめえは人を何だと思ってやがる」
 その言葉に、愚痴以上の意味などないだろう。中里は、それを本当に知りたいわけではないはずだ。確信的にそう思えるのに、慎吾は全身の水分が揺れ動いているような不安定さを感じ、口を閉じていた。脳まで揺れているような、永遠に続きそうな、深いめまいすら感じた。
「そこで黙るんじゃねえよ」
 だが、ほんの数秒口を閉じていただけだというのに、そうして中里が、不服げに顔をしかめて睨んできた途端、慎吾の体内の揺動は、ぴたりと停止した。何もなかったように、「いや」、と慎吾は毒の破片を無理矢理吐き出した。
「ここで俺の心を素直に解説したら、お前がザックリ傷つきそうだから、どうしようかと」
「何様だってんだ、クソ」
「一応気ィ遣ってやったんじゃねえか、むしろ感謝しろ」
「誰が」
 不服そうなまま太い眉の根を盛り上げる中里は、慎吾の体内の変化になど、気付いてもいないようだった。その常と同じ無神経さに、諦めが支配する慢性的な苛立ちを覚えるよりも今は、安心をもたらす慰めを感じた。
「見てみてえけどな」
 それもしかし、常と同じ無神経さに、掻き消されるのだ。
「あ?」
「見れるもんなら。死んだ人を」
 何の気もなさそうに呟いた中里の顔中に、生々しい傷跡が浮かぶのを慎吾は幻視した。醜いかさぶたが、そのいささか白く、厚みを感じさせる皮膚という皮膚に、ぎっしりとこびりついていた。視覚は瞬き一つで正常に戻る。だが、慎吾は再び口を閉じていた。根拠を与えてやらない幻が、我が物顔で脳に居座ろうとするため、目に映る中里の、何の傷もない、何の屈託もない顔が、現実のものであると、認識しがたかった。
 そのまま瞬き五回分ほどの時間が過ぎ、中里は不意に見返してきた。目が合った、慎吾はその瞬間、現実が幻を食らう、たわんだ認識が弾かれる、激しい波にさらわれかけた。それをやり過ごしている間に、怪訝そうに左右の眉の位置を変えた中里が、首にかけていた白いタオルを手に取った。
「使うか?」
 目の前に差し出されたタオルへ目を落とし、慎吾は分かりやすくなるように、顔をしかめた。どうしようもなくて生み出してしまった沈黙を、この男は大抵誤解する。わざとかと思うほどだが、そうではないこの男こそが、慎吾にとってどうしようもない存在だった。
「何でお前の汗が染み込んだタオルを、俺が使わなきゃなんねえんだ」
「どうせ汗は染み込むんだ、同じだろう。それにこれは山岸のだ」
「偉そうに、人から借りたの自慢してんじゃねえよ」
「借りたっつーか、借りさせられたんだよ。あいつもよく分かんねえ奴だぜ。そんなに汗だくに見えたのかな」
 タオルをあっさりとかけ直した首を、中里は不思議そうに傾げる。そうじゃねえだろ、と思うも、ならどういうことなのか、明確に説明できそうもなく、慎吾は黙る。慢性的な苛立ちが諦めを呼び、喉を震わせる力を奪う。峠の夜に満ちる熱い空気に、なまぬるい沈黙が漂い、それを中里は、やはり誤解した。
「まあ、借りたもんは返さねえとな」
 会話の終わりが勝手に示され、慎吾は黙ったまま、どうぞご勝手にと言うように肩をすくめる。中里は慎吾を振り返ることなく仲間の元へ行き、慎吾は一人になり、環境は元に戻る。しかし、感覚は元に戻らない。全身の水分が揺れ動いているような、かさぶたのこびりついた皮膚が網膜に張り付いているような、ひどい幻が、肉体と精神を疲弊させる。
「そうじゃねえだろ」
 ならどういうことなのか、魂は理解していても、言葉としては表せない。慎吾は錯覚を追い払うべく、蒸発しない汗を飛ばすように頭を振り、貸したと言っていないものを、いつか返されることはあるのか、その可能性にすがろうとする己を封じながら、何もなかったように、愛車に乗り込んだ。
(終)


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