悠々剥落
穏やかな陽光が地上を包み、草花芽吹き虫が這い出し桜咲き飛ぶ春が訪れ、冷たい雪が路面を凍らせ空っ風が皮膚を突き刺す冬という凍結期間から解放された走り屋たちは、夜の峠で浮かれたように車に興じていた。
ガスの匂いの満ちる妙義山の駐車場では時に罵声が飛び、時に歓声が湧き、時に爆笑が響く。その騒々しさのほとんど源である妙義ナイトキッズのメンバーが、欧州モータースポーツ情勢と歴代レースクイーンファッションについてを平行して語るのを、当該チームのリーダー格である中里毅は、煙草を吸いながら聞くでもなく聞いていた。話題自体は興味深いものではあったが、チーム常態の混沌さが極まっているその会話は、集中力を枯渇させる全開ダウンヒルを終え火照った体をそよ風に晒し一服している最中、積極的に入りたいと思えるものでもなかった。
そうして中里が首の汗を冷やす心地よい空気を感じながら、道路計画の国別差やら化粧の時代差やらを語るメンバーをぼんやり見ていたところ、不意に一人の背中が目を引いた。それはチーム内でも傍若無人と札付きのダウンヒラー、ハイレグには情緒がないと手厳しく言い放った庄司慎吾の背中だった。その緑色のTシャツに包まれた背中がなぜ中里の目を引いたかといえば、そこを小さな虫が歩いていたからである。小豆大ほどのその虫は、庄司の胃の後ろあたりから肩甲骨に上り、方向転換して腰の方へと下り、背骨に沿うようにまた上り、止まり、右へ行き、左へ行き、中央に戻ってまた止まる。道に迷っているようなうろつきっぷりだった。
中里は短くなった煙草を地面に落とし、特に何も考えず、庄司の背中をちょこちょこと歩いているその虫を指に取った。茶色い蜘蛛だった。特に何も考えず、それを人と車のはびこる地面に放した。
感触に気付いた庄司が中里を向き、
「あ?」
何かという風に声を上げ、向かれた中里も、
「あ?」
何だという風に声を上げた。
「何だよ」、と先に続けて声を発したのは庄司だった。
「いや、蜘蛛がな」、中里は言った。
「クモ?」
「お前の背中にいた。から、取っただけだ」
中里は事実を述べた。キャンギャルなんてどうせレーサー全員に股開いてんだから人権無用、という正道から逸れた極論をとあるメンバーが主張できるだけの間が置かれたのち、
「蜘蛛だああああああ!?」
庄司の絶叫が轟き、あまりのやかましさに中里は一歩退いた。
「うっせえな、クソ」
「蜘蛛だと!?」
「蜘蛛だよ」
「殺したか」
「何?」
「殺したかって聞いたんだよ!」
「いや、放したけど」
「何やってんだてめえコラ、蜘蛛なんざ発見次第ぶっ殺せって前にも言ったじゃねえか!」
庄司の叫びを聞いて七秒後、そういえばそんなこともあった、と中里は思い出した。
以前庄司が飯をたかりに家に来た時だ。壁にアシナガグモが出現し、悲鳴を上げた庄司が何とかしろと腰砕けで足にすがり付いてきた。スパゲティを茹でていた中里は億劫ながらも狂乱状態の庄司を見かねて、ベッドの傍の壁を悠然と下りてきている蜘蛛を窓から外に逃がしてやった。だというのに庄司ときたら、感謝をするどころか蜘蛛を殺さず逃がすなんざありえねえと中里を唐変木扱いした上に、形状習性その他諸々庄司の蜘蛛に感じる恐ろしさ不愉快さ気色悪さについて、聞いてもいないのに滾々と語り始めた。庄司慎吾という男は、風采は小悪党だが心は非常に繊細で、花を恥らう乙女もびっくりな虫嫌いなのだった。
アンチは究極のマニアである。チームのアンチトヨタメンバーもトヨタの経営陣の面子やら頓挫させた企画やらをそらんじられるマニアっぷりである。しかし悪トヨタ論にせよ悪蜘蛛論にせよ、その一方的な熱弁を延々聞かされると無性にイライラしてくるもので、
「それ以上ごちゃごちゃ言ってると、てめえをスパイダー慎吾って呼ぶぞ」
スパゲティを茹でている鍋を持ちながら中里がそうキレると、そのアメコミヒーローなんだかグループサウンズなんだかというネーミングの微妙さからか、茹でられたスパゲティと沸騰した茹で汁をぶっかけられるのではないかという危惧からか、庄司も黙り、蜘蛛についての話はそこで終わった。
庄司がつけてくる他の外見人格部屋等々へのいちゃもんと同じく、頭に残さずにいたそれを中里が思い出す七秒の間に、庄司は中里がそれを忘れていたことに気付き、軽蔑の視線を中里へ送った。それに気付いた中里は、忘れてなどいないことを装いながら、
「んな物騒なこと抜かすんじゃねえよ、蜘蛛にだって命はあるんだぜ」
話題はそこから外し、庄司はそれに対しても軽蔑の視線を送ってきたが、
「ああそうだな」、と外した話題に乗っかった。
「蜘蛛にだって命はある、仰る通りだ。なら俺はお前が今後蚊やらアブやらブヨやらハチやらに刺されそうになっても手出しはしないことにするぜ、そいつらにだって命はあるからな」
「また屁理屈捏ねやがって」
「なァにが屁理屈だ、反論に困ったら相手の人格否定にかかるエセ博愛主義者がよ、蜘蛛が出るような部屋に住んでる野郎は所詮その程度のエセ人生で終わるんだよ!」
怒り狂った庄司ほど舌が回るものはなかった。それをよく知るナイトキッズのメンバーは庄司の機嫌を損ねぬように日々細々と過ごしていたり、わざと機嫌を損ねさせて毒舌大爆発の鑑賞に精を出したりしているが、中里はそこまで庄司を特別扱いしてやりたくもないので、特に何も考えずに接した末に、このように唐突に怒りと屁理屈をかまされて、咄嗟に何も言えなくなるのが往々であった。
「へー、慎吾って毅さんチ行ったことあるんだなあ」
だが直接毒牙にかかっていないメンバーは好きに言えるものであり、そこに着目されると予想もしていなかった庄司は数秒固まったのち、「なー」「そりゃなあ」「えー」などと顔を見合わせているメンバーの能天気さを見、何でここで俺が弱点つかれたみてえになるんだ、と我に返り、
「……それがどうした。文句あんのか」
気を取り直して中里に凄んだ勢いそのままに凄むも、
「いっやー、べっつにー?」、中でも能天気が代名詞となるほど飛び抜けているメンバーが、至極のんびりと言った。
「でもあんだけ毅さんのことどーのこーの言っといて、通い妻やってんのも白けるっていうかなあ」
その頓珍漢な言葉にとあるメンバーが咥え煙草でフライパンを振るエプロン姿の庄司を想像してあんま違和感なくてつまんねえなと思ったり、別のメンバーが通い妻って何だよ週末婚かよと思ったり、はたまた別のメンバーが俺にも毅さんの通い妻への道があるのかと思ったり、庄司は庄司で俺が妻かよざけてんのかと思ったりしている間に、沈黙状態から脱した中里が、
「通い妻ならいいけどよ」、真っ先に反論をした。「こいつはタダ飯たかりに来るだけだぜ」
「毅さん、飯作ってやってんすか?」
その疑問を発したのは、通い妻ならいいのか、という疑問を唯一抱かなかったメンバーであり、通い妻がいる場合は想像してもそれが庄司である場合を想像したわけではない中里は「まあな」と頷き、そういう中里の肝心な部分が抜けた性質をよく理解している庄司は自分が通い妻となる場合を今更中里に真面目に想像されても嫌なので、そこには敢えて触れずにいくことにした。
「作るってほどのもんかよ、茹でるか炒めるかだけのくせして」
「タダ飯食っといて何偉そうに言ってやがる、手土産も持ってこねえくせしてよ」
「土産ならこの前持ってっただろ」
「みッ、あんなもんのどこが土産だ!」
「わざわざお前の気に入りそうなタイプの女優とシチュエーションを探して渡してやってんだぜ。使ってねえのか」
「使えるわけねえだろ、あんな……それに何でお前が宮田に借りたモンを、俺が返さなきゃいけねえんだ」
「その前に利用しろって」
「できるかァ!」
庄司と中里の会話はテンポ良く交わされる。それを間近で聞いていたメンバーたちは、AVだな明らかに、と暗黙の了解で頷き合い、名指しされた宮田は、そっかだから郵便受けにDVDがすっげ丁寧に梱包されて入ってたのか、と納得し、別のメンバーはそれとは無関係に、むしろ毅さんが通い妻の方が正しいんじゃないか、と閃いた。
「文句ばっか言うんじゃねえよ、じゃあ何か、俺がお前のエンゲル係数圧迫してるってのか? 月一でしかタカってねえのに?」
「そういう数字の話をしてるんじゃねえ」
「タダ飯の話なら金の話じゃねえか」
庄司が胸を張りながら言い、中里は庄司を歯痒げに睨みつける。一触即発の雰囲気が醸し出されるも、そこは過去中里派と庄司派に分裂しかけたところでほぼ十割が面白そうだからほっとこうと思ったナイトキッズのメンバー、見詰め合う二人を邪魔するつもりもサラサラなかったのだが、
「もういい」
邪魔するまでもなく、中里が打ち切りを示すように両手を胸の前で左右に広げた。
「この話は、なしだ」
「はあ?」、庄司が素っ頓狂な声を上げる。「待てよ、何だいきなり」
「やめろ。もう聞きたくねえ」
「文句あるなら言えよ毅、嫌ならちゃんとそう言えよ。俺だって、お前に嫌がらせしてやるほど暇じゃねえんだ」
「だからそういうことじゃねえっつってんだろ!」
苛立ち露わに中里が叫び、庄司は怖気づいたような顔になって、じゃあどういう、とぼそぼそと言い、中里は庄司に半身になって両手を腰に当てると、鋭く舌打ちした。
「お前相手に、こんなみみっちい話したって仕様がねえんだよ」
「……どういうことだ」
庄司はやはりぼそぼそと言う。俗な走り屋界隈においてあくどい切れ者と知れ渡っている庄司を、ここまで気弱の海に放り出せるのは中里くらいのものなのだが、中里は庄司が女々しくなっている時に限って庄司を見逃すことが定番であり、今回も例に漏れなかった。
「嫌なら最初に言ってるってことだ」
中里は彼方を睨みながら面倒そうに呟いた。その彼方で中里の視線を感じたメンバーは、あれ今俺毅さんに見られてんじゃね、とどぎまぎし、中里が視線をそのままに自分の発言に納得して頷いたものだから、やべやっぱ見られてんよどーしよここは一発愛のアピールかましとくとこなのかそうなのか、と勘違いを暴走させたが、
「毅、飯行くぞ」
そこで庄司が中里に声をかけ、
「あ?」
中里が庄司に顔を向けたため、当該メンバーの胸の前にて両手で作られたハートを中里が目撃することはなかった。
「奢ってやる。来い」
庄司は中里をしかめ面で睨み、低めた声でそう言うと、顎をしゃくって回れ右をした。中里はその何の虫もついていない緑色のTシャツに包まれた背中が遠ざかっていくのをぽかんと見てから、今の庄司の発言が何だったかその場にいるメンバーに確認しようとしたが、事の収束が目に見えた途端に興味を失するメンバーたちは既に公式首都高レースの実現性についての議論を始めており、その輪にまだ入っていないメンバーにしても私は何も存じ上げませんのでノーコメント、と言うような仏像顔で見返してくるだけだった。
仕方なく一人、奢るとか言ってたか、と首を傾げる。でも別に奢ってほしいとかじゃねえんだよな、今腹減ってねえしまだ走りてえし、とまで中里が考えたところで、その場から動こうとしない中里に焦れて戻ってきた庄司が、中里の腕を後ろから取って元の道をずかずかと歩き出した。引きずられる形になった中里は慌てて、
「いや慎吾」
そういうことじゃねえ、と言おうとしたが、
「ごちゃごちゃ言うんじゃねえ、お前は黙って俺について来りゃあいいんだよ!」
ごちゃごちゃも何も言う前に、憤怒と慙愧の形相の庄司に唾がかかるほどの勢いで怒鳴られ、思考停止状態に落とし込まれた結果、32の運転席に押し込まれていた。そんな二人が各々の愛車で峠を後にしてしまえば、「あー連行されちったよ」「サミシー」「もっとあいつイジめてやりゃあいいのにな毅さんも」「なー」などと感想を零していたナイトキッズのメンバーも、日本全土アウトバーン計画を真剣に語り始め、一部のメンバーはそれとは無関係に通い妻中里毅のディティールを脳内構築したり、新たな愛のアピールジェスチャーを考案したりと忙しかったが、そういう独自の世界に浸っている輩はことごとく放置されるので、妙義山の夜は毎度変わらず騒々しくも平穏無事に過ぎていくのであった。
(終)
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