過ぎたるは



 夏の夜、開いた窓の向こう側、重なり放たれる虫の声。近く遠く、規則的かつ不規則に、音は響く。ヒュロロロロ、リリリリリ、ジー、ジー。
「お前はキリギリスだな」
 部屋に満ちるうるさい静寂、それを動かず過ごして五分ほど、突如破った左斜め前の男へと、中里は煙草を咥えたままの唇を歪めながら、角のある目を怪訝に飛ばした。
「あ?」
「車に大金つぎ込んで、首回らなくなって飢え死にだ。ご愁傷様」
 煙草を保持した左手を頬杖に、暗いテレビ画面を眺めながら、声に嘲りを含ませて、朗々と慎吾は言う。だがその湿気った茶髪の合間にある、無骨さと繊細さとが奇妙に混じった顔は、退屈さだけを表していて、中里は反応の法則を、咄嗟に失い考える。キリギリス。キリギリスが鳴いている。どこか遠くで鳴いている。ギリリリリリ、ギリリリリリ。キリギリスは夏の間のんきに遊び、冬に蓄えもなく飢え死にする。イソップ物語、アリとキリギリス。キリギリスに備蓄の重要性を説いた働き者と、アリの言葉に耳を貸さなかった浮かれ者。生き延びた者、死んだ者。
「そりゃお前の方じゃねえか、慎吾」
 夏中放蕩三昧で、冬に至って餓死するような生き方に、縁があるのは誰だというのか、指摘の的外れさを確かめやっと、中里は定型的な怒りを覚え、煙草を右手に移しつつ、テーブル越しに睨みを利かせたが、大仰なため息を、侮るように吐いた慎吾に、通じた様子は微塵もない。
「足出して食糧難迎えるような危機意識ゼロの奴と、一緒にされる筋合いはねえな」
 冷笑的なその声と、顔が正しく接続され、峠でよく会う走り屋が、中里の目の前に蘇る。悪辣なくせに小心で、老成しているようで未熟な男、それが予告もなしに手ぶらで部屋に現れてから、今の今まで神妙にしていたことなど、夢か何かであったかのようで、そんな食糧難の人間に、飯作らせたのはお前じゃねえか、いや作ったのは俺か、にしてもそこまで飢饉じゃねえ、怒りは独自のものになり、忘れられない記憶を引き連れる。
「リスクの結構なバトル勝手にやって、怪我して走れなくなってる奴が、何ほざいてやがるんだ」
 言って鼻で笑ってから中里は、臓物の奥がひやりとするのをただちに感じ、ひねた相手の急所を突いてやる爽快感も消え失せた、重たい気分で左隣を窺った。無意識に案じたような表情は、そこにはなかった。慎吾はただ元通り、倦怠的な顔になると、頬杖をやめた左手で煙草を吸い、緩く尖った顎を上げ、わざとらしく見下ろしてきた。
「そういうこと言ってると、お前が困って泣きついてきても、俺は助けてやらねえぞ」
 土下座でもするってんなら、考えてはやるけどな、煙と共に吐き出される、声音は何とも偉そうで、かかる目つきは挑発的だ。それはいつもの慎吾の振る舞いで、敬意を払わず悪意は払うその不遜さに、中里は憎たらしさを感じながらも、テーブルの下に置かれたまま、あるいは隠されたままの、白く固められている右手の記憶を、脳裏からは追い出せない。アリのようにはなれもしない。飢え死に寸前のキリギリスを、正論で殺すこともできはしない。
「するわけねえだろ、そんなこと」
 万感込め、声を低めて言ったところで、慎吾は軽くせせら笑う。
「後悔先に立たず、だぜ、毅」
「お前が困らせるようなことをしなけりゃあな、俺は困りもしねえんだよ」
 それでお前に泣きついて、どうなるもんでもねえだろうが、皮肉に構わず本音を発せば、気分はいささか軽くなり、煙草もうまくなるものだ。中里は吸った煙をゆっくり吐き出し、途端に慎吾は立ち上がった。
「帰る」
「何?」
「じゃあな、ごっそさん」
 聞き取りづらい平坦な声は、振り返りもしない背から放たれ、大きすぎず小さすぎない音を立て、玄関のドアが閉められる。顔を見る間も与えられない、あっという間の出来事だった。
「おい」
 胡坐も解かず中里は、動かぬドアに声をかける。返事はない。外から入る砂利を踏む音、一際大きいエンジン音。癇癪を起こしたかのような、それが次第に遠ざかり、間の抜けた静寂ののち、再び虫が騒ぎ出す。中里の呆然はようやく終わり、短くなった煙草を吸いきって、ぼんやりと、テレビでも見るかと思う。飯を食う前、慎吾が消したテレビだった。
 ――ごっそさん。
 夏の夜、部屋に満ちるうるさい静寂、その向こうから、聞き取りづらい声が聞こえたような気がして、中里は煙草の箱を手に取った。
(終)


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