耳目想顔
聞き慣れた言葉が耳を撫でている。だがその輪郭は定かではない。何と言われているかはっきりとしない。誰が何と言っているのか、耳を澄まして聞いてみる。掌にくっつきもしないほどに乾燥しているきめ細かい砂のようなざらつきをもった声、そのくせ足を取られるほどに水分をたっぷり含んだ粘土のような重みをもった声、それが何かを表している。聞き慣れた言葉。呼ばれ慣れた言葉。耳を澄まして聞いている。目を開いて聞いてみる。
――慎吾。
心臓を直接握り締められたような驚きを受けて目を開くと、そこには見慣れた男の見慣れない笑顔ではなく見慣れた自室の天井があるだけだった。十年以上変わらぬ天井。ヤニの色は増している。
慎吾は熟睡中に無理矢理起こされたようなまぶたの重さを感じながら、自室のベッドの上に寝転がったまま顔をしかめた。心臓は自分の胸、肋骨の下に正しく配置されている。誰に握り締められてもいない。だが誰かに握り締められた後のように、通常よりも拍動を速めている。
夢精したかと思った。それくらい驚いた。
股間に湿り気はないが、慎吾は念のため体を起こしてパンツの中を覗いてみた。縮れた陰毛の下では近頃とんと出番のない息子が行儀よく萎びているだけだ。
「……馬鹿くせえ」
独りごち、寝癖のついている長髪を適当に掻き上げながらベッドから下りる。カーテンの閉まった部屋では外の明るさが判然としないが、寝たのが午前の三時だから少なくとも朝は過ぎているだろう。昼も過ぎているかもしれない。時計を確認するのも億劫で、慎吾は真っ直ぐ部屋のドアを開け廊下に出た。何時であれ、これ以上寝る気もしない以上は顔でも洗って目を覚まして有意義な退屈を過ごすのが得策だ。
半分目を閉じたまま手垢の拭き取れていない手すり沿いに階段を下りる。この家の動線は体に染みついている。伊達に高校を卒業するまで暮らしてはいない。卒業してからも残り物の惣菜目当てに月に三度は立ち寄っている。
一階のリビングに人の気配はなかった。人がパンツ一枚で歩いていたら見苦しいだ何だと文句を言ってくる人間含め、ここに正式に住んでいる皆は仕事で出払っているのだろう。ご苦労なことだ。薄っぺらく思いながら洗面所へのそのそと歩く。土日に仕事がある人間の方があいつらにとってはご苦労なものなのかもしれない。
洗面台の収納で埃を被っている半透明の赤い歯ブラシをまず洗い、そこに歯磨き粉を絞り出し鏡に向かって歯を磨きながら、寝覚め悪ィな、と慎吾は思う。何で休みにあいつの夢見て起きなきゃなんねえんだよ、実家に泊まったくらいでエラー吐いてんじゃねえよこの脳味噌は。何だありゃ。見たことねえよあんな顔。そこまで思って歯ブラシを動かす手が止まる。数秒置いてから、左下の奥歯の汚れ落としを再開する。いやそんなんじゃねえし。バグってんじゃねえっての。昨日会ったわけでもねえだろ。昨日は会わなかったんだ。一昨日は山に行かなかった。その前もそれより前も、だから昨日どころか一週間も会ってない。そこまで思って歯ブラシを動かす手が再び止まりそうになり、止まる前に口から抜いて洗面台の蛇口をひねる。流れる水で歯ブラシを洗ってから、掌に溜めた水で口をゆすぐ。冷たい。六度ゆすいでから、すっきりとしない顔に尚更冷たい水を浴びせる。浴びせながら、馬鹿くせえ、と慎吾は思う。どうでもいいだろそんなこと。
十度顔を洗ってから、鏡を見る。冷水を受けて少しは締まりをもった自分の顔がそこに映る。寝起きの不機嫌さは遠のいて、皮肉げな無表情が近くにある。何の痛痒も障害もないことを誇る顔がそこにある。元々の造作の不出来を考えれば、見栄えはそうも悪くはない。滴る水が邪魔になって目を閉じる。すると暗闇の向こうに見慣れた男の見慣れない笑顔がよみがえる。今しがた眼前で見たかのような鮮明さで、眼前に向けられたかのような生々しさで。
――慎吾。
目を閉じたまま左手を壁へと伸ばし、引っ掴んだタオルでもって濡れた顔を乱暴に拭う。まぶたの裏に張りつく幻影を削り落とすように強く強くタオルで擦る。勢いそのまま洗面台の縁に両手をついて目を開くと、鏡に映った自分が見えた。水気が取れて摩擦で多少赤らんだ自分の顔だ。そこに居座っていた無表情の誇りたがりは消え失せて、今では夜と朝の境目をさまよい続ける臆病者が憂いの面をさらけている。
ああ、合ってねえや。
思って慎吾は実家の古びた洗面台に、クソったれ、と吐き落とした。
(終)
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