ボンネットに犬



 いっかな抜けない眠気に堪えきれず、開いた口を申し訳程度に手で覆いながら、はあ、とあくびをすると、肌を刺すような嫌な視線を横から感じた。右隣からだ。反射で滲んだ涙を指で拭い、思い切って体の右側をざわめかせる元凶へと顔を向ければ、角張った輪郭を茶髪で微妙に隠している男の、ふてぶてしいご面相とご対面である。そのどこか不愉快げにひそめられた顔を見れば、慎吾が好意をもってこちらに視線を送りつけた可能性がゼロであることくらい、中里にはハッキリ分かる。むしろ何らかの悪感情から見てきた可能性がかなり高いこともだ。伊達に同じチームに属するようになって一年近く、何のかんのとつるんではいない。それゆえ現在右半身に悪寒を生み出す慎吾の嫌な類の視線が、おそらく自分のあくびに起因することも、中里には何となく察しがつく。が、しかし、あくびを一つしたくらいで、ゴキブリ以下と言わんばかりの軽蔑の目で見られるのは、いかにも釈然としない。
「……何だ」
 中里は思いきって慎吾に向き直り、真正面から尋ねてみた。慎吾は不思議そうに目を細くして、いや、と言う。
「今の見るに耐えねえアホ面晒したお前のあくびは、俺の美意識を傷つけようっていう嫌がらせかと思ってな」
 朗々と発せられたその言葉を、睡眠不足で回転不足な中里の頭は、たっぷり六秒かけて理解した。至って真面目な口調が華を添えている、それは憎たらしいほど完璧な、ナイトキッズの毒舌王たる庄司慎吾のイヤミだった。こいつはまったく、内心舌打ちしつつ、顔には引きつった笑みを浮かべ、中里は眠気で重い頭を何とか動かし、へえ、と口での迎撃を試みた。
「俺のあくびが、お前の嫌がらせになるってのか。そりゃ初耳だな。いいこと聞いたぜ」
「まあ、お前がそういう悪質な嫌がらせも喜んでやるような陰険野郎だってことは、周知の事実だから別にいいけどな」
「誰が、何だって?」
「その下品なあくびは峠の景観損ねるから、やめた方が身のためだぜ。お前の」
「……何の話してんだ、お前は」
「中里毅とかいう山に来といてただアホ面晒してるだけのこすい走り屋の話ですが、何か」
 立て板に水の慎吾の語り口を聞いているうちに、ただでさえ石にでもなっていそうな脳味噌に、漬物石を追加で載せられたような重みを感じ、中里は額に手を当て顔をしかめた。こちとら寝不足、分数の足し算も空でできるか怪しい状態だ。よく分からない言いがかりに付き合っている余裕はない。だが、妙なレッテルを張られたままというのも、釈然はしなかった。
「昨日、拓馬たちがうちに来たんだよ」
「はあ? 何で」
「飯食いに。それで、結局朝までろくに寝られなかったんだ」
 正確には、食事会も終わり頃にうたたねをしていたら、人を死んだと勘違いした奴らに叩き起こされ完全覚醒してしまい、そのまま朝まで寝るに寝られず睡眠不足で今に至るという話なのだが、そこまでの事情を説明する気は起きなかった。あくびが出た理由を大まかにでも伝えられればそれで良かった。ショートカット上等である。正直もう眠かった。
「朝までか」
 慎吾がほんの少し、意外そうに眉を上げながら、言う。ああ、と中里はぞんざいに頷いた。
「散々だぜ」
 集中力が持続せず仕事で単純ミスはするし、明日の休みに向かって走り込む予定も実行できそうにない。それもこれも、昨晩拓馬たちが馬鹿でかい声で生死確認をしてきたせいだ。そういう若干恨めしい思いを、中里はため息として吐き出すだけにした。言葉にできなくもないのだが、これ以上慎吾と会話を続けたいわけでもない。
「ふうん」
 平坦な声を、慎吾が出した。それには気を取られ、中里は慎吾の顔を窺っていた。声と同じく顔まで平坦になっている。いや、現実には慎吾の顔は頬もえらも鼻も張った、軽いオフロードコースのような代物なのだが、それがのっぺりと見えるほど、その表情は薄まっていた。何を考えているのか分からない、時々慎吾はこういう顔をする。FR(サイコ)キラーと噂されていた邪悪で攻撃的な頃とは違い、地元愛や仲間意識に目覚めた素直な一面も出しつつあるところだが、先ほどのようにラップじみたイヤミを繰り出してくることもあれば、今のように言葉を引っ込め読めない表情を浮かべることもある。そういう時に中里は、どうしても気を取られる。意識を引かれる。流れと無関係に、何となく会話を続けている。
「どうした」
「拓馬と誰だ」
「あ?」
「お前の家に行った奴」
「あー……橋田と、直人だ」
「拓馬と橋田と直人。その三人か」
 確かその三人だ。拓馬が白菜、橋田が鱈、直人が白ワインを持参してきた。間違いなくあの三人だ。
「そうだな」
 中里が確信をもって頷くと、慎吾は少し顎を上げてから、にわかに顔を不快げに歪ませた。その目つきも険しくなる。
「毅、お前、今日はさっさと帰れよ」
「あ?」
「お前の見苦しいあくび一つで、ナイトキッズの評判が三ゲージは落ちるからな」
「……まあ、長居はしねえよ」
 よく分からない言いがかりはさて置いても、さっさと帰るに越したことはない。寝不足で走れば事故を起こす確率が高くなる。その結果、公共物に衝突でもして預金通帳が無価値な冊子となってしまえば、飯にも事欠く惨状だ。それだけならまだ自分の身一つの問題だが、望まぬ他人を巻き込む可能性もある以上、無茶はできなかった。納得して、中里は帰路に着くべく自分の車に戻ることとした。慎吾は当然止めてこなかった。
 その後自分の頬を自分の平手で二度打って、当座の睡魔を晴らしてから無事に帰宅した中里が、今宵の慎吾の言動を思い出し、不自然さを感じるのは快眠を経た翌朝のことで、中里に名前を挙げられたメンバーが、慎吾による九割方いわれのない迫害を受けるのは、今より十数分後のことである。
(終)


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