どうでもいい話



「暇だな」
「ああ」
 言ったところで何が起こるというわけでもないのだが、暇なことは暇だった。暇だから慎吾は中里の家に突然来たし、暇だから中里はそんな慎吾に暇なら山にでも行きゃいいじゃねえかと言ったのだ。そして暇な二人は結局各々の車に乗りながら共に真っ昼間の妙義山に来たのだった。
 来たところで何が起こるというわけでもなく、深夜にばかり立っている場所で互いの車にそれぞれ寄りかかり煙草を吹かしていると、急に慎吾が動き出した。蛍光グリーンのジップアップパーカのポケットに両手を突っ込みながら、猫背気味の体勢で右斜め前へと歩いていく。何か興をそそられるものでも見つけたのかもしれない。勝手な奴だ。いちいち気にせず放っておくに限る。
 中里は煙草をじっくりと味わう。うまい。昼の峠の駐車場は夜のそれとは空気が違う。排気ガスに汚されない秋深い空気には清涼感が満ちている。客層も違う。馬鹿な野郎どもが集まる深夜と違い、一般的な老若男女が和やかさを醸し出している。家族連れは地元の人間か観光客か。あまり怖がらせるような振る舞いをしてはいけないだろう。そうは思ったところで三分の一ヤンキーな男の見かけはどうしようもない。さっさとお暇した方がいいかもしれない。
「毅」
 声をかけられた方を見る。遠目でも三分の一ヤンキーに見える風体の男がいる。慎吾だ。片手に何かを持っている。それを慎吾はこちらに全力で投げてきた。
「おっ」
 反射的に吸いかけの煙草を放り出し、投げられたものを両手で取る。胸の前。薄汚れた白い球。野球のボールだ。手にひりつく感触をもった白い皮と赤い縫い目の二つの山は、硬球であることを示している。
「河内がよ」
「あ?」
 河内、と繰り返した慎吾が少し距離を詰めてくる。それによって声が聞こえやすくなる。
「一昨日なくしてただろ。この辺だと思って見てみたら、まだ落ちてやがった」
 言われて中里は思い出す。河内というメンバーがこの硬球と野球のグローブを持ってきて、他のメンバーとキャッチボールを行っていた。車に被害が出ては損害賠償問題となるため、他の人間とは離れた場所でだ。つまりここだった。
「ああ、そうか。それがこれか」
 中里はボールを軽く宙に上げてみる。硬球の手触りは懐かしい。中学の時はリトルシニアのチームに入っていた。高校に入ってからは今の勤め先でバイトをし始めたから、ボールと戯れるなどすっかりご無沙汰だ。
 赤い縫い目の二つの山。薄汚れた皮の手触り。手に馴染む重み。懐かしい。もう一度、頭上まで放ってみる。落ちてくるボールを掴む。その際に目の前が視界に入る。距離を詰めてきていた慎吾は途中で足を止めている。両手はパーカの中。
 思い立ち、中里はボールを投げた。慎吾はパーカから慌てたように出した右手でそれを受け取る。離れていても、その顔が不愉快そうに歪んだのが分かる。
「いきなり投げてんじゃねえよ」
「お前だって、いきなり投げただろ」
「俺は声かけてから投げたっての、このご都合主義者め」
 言いながら慎吾がボールを投げ返してくる。なかなか速いストレートだが、フォームは滅茶苦茶だ。中里は思わず笑った。
「何て投げ方してんだ、お前」
「なァにが、俺の方がコントロールいいからってやっかんでんじゃねえよ」
 フン、と慎吾が得意げにせせら笑う。コントロールは確かに良かった。だがまぐれに違いない。フォームからして慎吾は明らかに野球素人だ。小学中学とレギュラーを張っていた人間が、素人に馬鹿にされるわけにもいかない。言ってろ、と中里は睨みを飛ばし、ボールの握りを決めた右手を左手とともに大きく振りかぶり、思いきり慎吾に向けて投げ込んだ。真っ直ぐに進んだボールは、受け取ろうとした慎吾の左下へと沈み込み、後ろへ逸れる。転々と離れていく白球、唖然と見送ったのちに振り返ってくる慎吾。乱れる茶髪、焦りのにじむ剣呑な顔。苛立ち満面だ。
「てめえ、何しやがった」
「曲がったか? スライダー」
 指で握りを再現しながら中里はにやりと笑う。ポジションは外野だったから変化球は遊びで投げていただけな上に、十年近いブランクがあってきちんと曲がるか内心冷や汗ものだったが、結果オーライだ。
「ほら、ボール取ってこい」
「……クソッ」
 握りを見せた手で軽く払うと、慎吾は怒りを全身から立ち上らせながら後ろに逸れたボールを拾いに行った。いい気味だ。とはいえあまり怒らせても景観を損ねてしまうから、このあたりでやめた方がいいだろう。だがあの慌て方は愉快だった。やはりいい気味だ。中里は思い出し笑いで肩を揺らしてから慎吾を見た。ボールを拾って戻ってきた慎吾は、両手を頭上に素早く掲げた。つまり、振りかぶった。
「は?」
 半分笑ったまま、中里は固まった。慎吾はそのまま勢いよく、ギッタンバッタンという擬音が適合する、極めて変哲なフォームでボールを投げた。投げてきた。投げてきた、のだが、すぐにボールは中里の視界から消え失せた。遥か頭上へと、すっぽ抜けたのだ。慎吾は自分の手と空中を山なりにいくボールを何度も見返し、中里は自分の頭の上を越えていく軌道をもったボールを笑いも忘れてぽかんと見上げていた。もしもこの後ボールが正しく地面に接地したならば、お前はどこに向かって投げてんだと笑いを思い出したことだろう。だが慎吾の投げたボールは残念ながら、すっぽ抜けても彼方へ消えていくほどの威力を持ってはいなかった。中里のすぐ背後に落ちるだけのスピードしか乗ってはいなかったのだ。
「あ」
 ボン、と、硬いが衝撃をある程度は吸収する物質に何かが当たった音がした。その何かがこの状況から慎吾の放ったボールであると察するのに難くはなく、それが当たったものについて中里が先ほどまで自分が寄りかかっていた愛車であると察するのは、もっと難くはないことだった。
「あー!」
 絶叫が響いた。その場の誰もが周囲をつい見回してしまうほどの絶叫だった。愛すべき自分のR32のボンネットの一部が硬球の形にへこんだのを確認した男の哀れな絶叫だった。中里はその場に崩れ落ちた。青褪めた顔が黒く磨き上げられたボディに映る。
「……うわ」
 それを距離を置いたところで視認した慎吾は無関係を決め込もうかとも思ったが、自分のEG−6をよりにもよって中里の32の近くに停めてあるものだから、勝手に帰ろうにも帰れない。ここでどこかに身を潜ませても野暮な容姿に鬼気を纏わせた様相で探し回られるのが関の山だ。それでは折角の妙義山の景観が損なわれる。地元に生きる人間として、峠の美化は保たねばならない。ゆえに慎吾は逃亡と潜伏という選択肢は頭から除外し、32の横に変わらずくずおれている中里に歩み寄った。
「……あー、毅。今のはわざとじゃねえ。わざとっぽかったろうけど、っつーか俺もたまにお前の32潰れりゃいいのにと思うこともあるにしてもだ、今のはわざとじゃねえ、不慮の事故だ。避けきれないアクシデントだ」
 とりあえず中里の斜め後ろにしゃがみ込んで、肩に手を置いてみる。反応はない。ならばこのまま帰っても問題はないかもしれない。後日恨み辛みをぶつけられるかもしれないが、この男は時間の経過で感情を悪い方向に累乗させられる気質の持ち主ではないから、被害が大きくなることもないだろう。そもそも別に中里に怒り憎まれたところで慎吾としては痛くも痒くもないものだ。どうせいつかは忘れると分かっている。忘れられると知っている。
 それに反応のない人間を相手にしていても仕方ない。ため息を吐き、慎吾は立ち上がろうとした。だが曲げていた膝を伸ばす、その前に横から上腕を掴まれたため動作は半端に終わった。
「慎吾」
「……あ?」
 静かな声だった。そういう声に呼ばれることは滅多にない。中里がそういう声でこちらの名前をことが滅多にない。というか、今までそんな声で呼ばれた覚えがなかった。慎吾は昼だというのに夜の中心にいるような何とも形容しがたい気分に陥りながら、中里の様子を窺った。顔を上げた中里は、達観をまったく塗れていない、引きつりきった笑みを浮かべていた。それを慎吾は間近で見た。まさに目と鼻の先だった。
「十万出すのと、十回てめえのツラ殴られるのと」
 好きな方選べ、と中里は言った。そう言った中里を、こいつ俺が今キスしたらどうすんだと思いながら慎吾は見た。
(終)


トップへ