セクハラ?



 深夜の平日、峠の駐車場には車も人も数少ない。こういう閑散を狙って来る人間もいるのだろうが、そこまで静寂を好みもしない新谷にとっては、一抹の寂しさを感じる妙義山の有りようだった。
 土日祝日が書き入れ時のサービス業に従事している者の宿命なのか、新谷が与えられる休みは押し並べて平日である。しかし夜な夜な峠道を不法に四輪で研磨する走り屋という人種は揃いも揃って花金土日にこそ自由時間を得られるらしく、走行会や交流会や飲み会などのエキサイティングなイベントは、新谷が大量の客をさばいている間に終了しているのが常だった。折角地元の走り屋チームに所属しているというのに、その恩恵をほとんど受けられないまま己の休日に従って峠に通うしかない新谷なのだ。勿論休みを取ろうと思えば取れないわけではない。だが土日に休みを取ると、後が怖い。上司同僚の目が怖い、職場環境の悪化が怖い。そのため新谷は、暴走集団がおらず平和とも言える深夜の妙義山に、平日ナイトキッズデーとかやらねえかな、その日来たらポイント十倍とか、などと漠然とした願望を巡らせながら通うばかりだ。

 その日も片手で数えられる程度の車しか麓の広場には見当たらなかった。
「お」
 だがただ一台だけ、新谷のよく知る車があった。黒い日産スカイライン、R32GT−R。車の傍にはドライバーが立っている。新谷も属する妙義ナイトキッズのリーダー格、中里毅。新谷からは半身の中里の姿がよく見えた。腕を組んで仁王立ちし、32を眺めながら思案に耽っているような佇まいだ。こういう時の中里毅という男は、見かけ通りのことしか考えていない。つまりは車のことだ。チューニングかメンテナンスかバトルか何か、それくらいを分かるほどには、チームの集会にほとんど顔を出したことのない新谷にも中里との付き合いはあった。平日でもよく走りに来る、この人どうやって生活してんだろうなと新谷も時々疑問に思うような社会人走り屋が、中里なのだ。
 他に新谷が知る車も人も、この場にはない。ならばよく知る中里の元に行く以外に、やることはなかった。だが新谷は急ぎはしなかった。抜き足差し足忍び足、数台の車のエンジン音や排気音が浅く響いている駐車場内を、気配を殺して歩いていく。その結果、新谷は中里に気付かれぬまま背後を取ることに成功した。このポジションを確保して普通の挨拶をするのはつまらない。普通の挨拶で気が済むならもっと前に中里に声をかけている。
 呼吸一つ分間を置いた新谷は、それまでの動きと打って変わった素早さで中里の左の耳に口を寄せ、
「毅さん」
 と、息を多めに囁いた。すると、
「ひわっ」
 中里は悲鳴に似た声を上げ、体を大きく揺らした勢いで新谷から一歩離れ、動揺を露わに振り向いてきた。左耳を手で覆いながら角張った目を見開いて、何かを言いたそうに口をぱくぱくさせている。相変わらずリアクションおもしれえなこの人、しみじみ思いながら新谷は、
「どうも」
 そんな内心を一切表さない、人の良い笑顔を浮かべてみせた。商売道具の笑顔だが、好ましく感じる相手には素で見せられるため胡散臭さはさほど漂っていないはずだった。それを見た中里が怪訝な顔をしていないことから察するに、出来は上々だろう。驚きと混乱でいっぱいいっぱいらしきの中里には、細かい粗を見つける余裕など端からないのかもしれないが。
「久しぶりっすね。お元気でした?」
 新谷が笑顔を持続しながら尋ねると、左の耳の後ろを乱雑に掻きながら、視線を合わさず中里は、まあ、と唇だけで返してきた。普段暑苦しさを伴う快活さの持ち主である中里がこういう歯切れの悪い応対をするのは、限られたケースだ。それを新谷は知っていた。そのケースが生まれた経緯は知らないが、そのケースの発生条件は知っていた。
「ん?」
 声が聞こえなかった振りをして、新谷は少し顔を寄せる。中里は困ったように上目で新谷をちらりと見てから、わざとらしいしかめ面をする。
「……おい」
「はい?」
 唸り声のような低い呼びかけを、また聞こえなかった振りをして今度は耳を寄せてみると、中里は一歩下がって斜めに顔を落とした。
「……近ェよ」
 その仕草は、各所に毛のしっかり生え揃っていそうな成人男性を形容するにはいささか不適当な言葉だが、新谷には、『かわいい』ものとして映るのだ。
「ああ、はい」
 と指摘を理解した振りをして顔を引きつつも、新谷はまじまじと見てしまう。俯き気味の中里の、居心地悪そうに泳ぐ大振りの目、少し赤らんでいるような頬と厚めの唇は時折何か言いたげにひくついていて、落ち着かなさげに首が撫でられている。その姿に、やっぱかわいいよなこの人、と納得するのが、ナイトキッズ内でまず知る者のいない新谷の若干奇抜で多少危険な趣味だった。それを周囲に知られるほどチームの行事に参加できていないことが、新谷にとって悲哀であるか幸運であるかは定かではない。

 いつの頃からか、少なくとも新谷の記憶が正しければナイトキッズ内で『中里毅霍乱』というメールが飛び回ってからのはずだが、中里はメンバーとの過密着なコミュニケーションを避けるようになっていた。それだけなら上下関係が歴史的に整備されていないチームであっても、リーダー格の人間の妙な変化をもってして『霍乱』呼ばわりすることはない。しかしついついそう例えてしまいたくなるほどの、中里の特異な振る舞いだったというわけだ。
 新谷から見たかつての中里は、一部のメンバーによる過度なスキンシップを無難にかわしていた。多少引っ付かれることは許しても、鬱陶しくなったら情け容赦もなく引っぺがし、苛立ちのピークに達したら怒鳴りつけて追い払った。ごく自然な対応だった。それが今では自意識過剰な挙動不審者のように、誰かが少し近い距離で話しかけるだけで身を引きながら狼狽気味に目を泳がせ、肩に腕を回そうものなら困惑色のしかめ面で気恥ずかしげに見上げてくる。どういう経緯かは新谷には知れないが、中里本人はそれで精一杯他者との至近距離接触を回避しているつもりらしい。勿論無意味だ。無意味どころか新谷にとっては火に油を注がれるようなものだった。そんな風にされると、余計に近寄りたくなるのだ。
「あれ」
 新谷がわざとらしく何かに気付いたような声を上げると、不思議そうに中里が見てくる。そこで新谷は中里の暗い中でも赤らんで見える頬を、両手で抱えた。
「毅さん、熱ありません?」
 互いの視界が互いの顔で占められるほどの近さで尋ねると、「なッ?」、と中里が素っ頓狂な声を上げる。
「顔。赤いですよ」
 そう言って、新谷は中里のおでこに自分のおでこをそっと当てた。ほんのりと温かい。それだけだ。熱などないだろう。中里の顔が赤いのは単なる羞恥心の仕業に違いない。そう察していながら新谷がわざわざ中里と額を突き合わせた理由はただ一つ。趣味である。動揺と驚愕で強張らせた顔を羞恥心で赤らめて地面に釘付けとしている目にほんの少し涙を溜めている中里を見るのが、楽しいのだ。あー可愛いな、新谷は思う。まあキスしそうな体勢だしな。照れてもおかしかない。何つーかまな板の上のコイ? みてえな? っつかこのままキスしちゃってもいいんじゃね? そこまで軽々と思ってしまうほど、新谷にとってこの中里はまさに趣味だった。
 そしてうっかり額だけでなく唇も突き合わせかけたその瞬間、新谷は背後から全身を滅多刺しにしてくる強烈な視線を感じ、反射的に中里から離れていた。すると視線は弱まった。だが消えてはいない。背中にべたりと張り付いている。しかもその視線には人当たりの良い新谷がまず日常生活で向けられることがない暗い思いが込められているようだった。何かやべえ。新谷は確信し、おっかなびっくりといった風情で様子を窺ってくる中里の姿に未練を抱きつつも、
「まあ大丈夫そうっすね、でも最近風邪流行ってるみたいですから、気ィ付けて、じゃ俺ちょっくら走ってきますわ」
 と早口で言い、後ろを向かないようにしながら愛車のセフィーロへと歩を向けた。マジでヤバそうなものは見ないことにするのが新谷の主義だった。それが今後の走り屋活動の助となるか害となるかは定かではない。
(終)


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