正しい情報



 高橋涼介は惰眠を貪る余裕もないほどの生活を送っているが、その涼介の唯一無二の弟たる高橋啓介は、暇があろうがなかろうが思う存分睡眠時間を確保し、大学のテストだのレポート提出期限だのが迫っていようが思う存分遊楽にふける、腕力と運転技術に関して類稀なる才を持った、器は広いが頭の少々緩い人間だった。
 そのため、兄たる涼介が一日眠らずパソコンに向かっているところでも、容赦なくその部屋のドアを蹴破るように開けてきて、開口一番「暇だ!」と叫ぶことができるのだった。これは人間的に希少価値がある上にそもそも大事な弟であるからして、涼介も戒めるようなことはしたくないが、目が充血し始めている今日この頃においては、冬だというのにタンクトップにハーフパンツで立っている啓介に対し、「だからといって俺の部屋に突然入ってくる理屈は今の俺には理解できないんだがな」と優しく言い、「アニキなら俺が一時間悩むところを五分で解決できそうだからよ」、と平然と返され、数秒頭を抱え、そして現実を受け入れた。
「よし分かった、お前は暇だということだな? なら勉強しろ」
「そりゃハナから選択肢にねえよ、単位大丈夫だし」
「なら遊べ」
「だから何して遊ぶか思いつかねえんだよ、別にしたいことねえし」
「なら眠れ」
「眠くねえし、何かしたいし」
「なら走れ」
「走る前に一発何かやっときてえんだよ、こうパーッと、モチベーション上がるようなさ」
「ならその辺の女でも引っ掛けろ」
「ナンパなんてめんどっちいって。寒いし。っつーかそこまでは俺も考えたんだよ、俺はアニキ独自の、何かこう、な? 聞きてえわけよ、何かやることをさ」
 一方的に傲慢な頼みをしてくる弟にも、一方的に非難できないほどの愛着を持っているのが高橋涼介という青年であり、その悲劇であった。国立大学医学部学年成績上位を保ち続けるほどの頭脳のすべてを今、愛ゆえにと自分の自由への希求から弟の最適な暇潰し法の発見に費やし、そして涼介は五分ならぬ五秒にて、自分自身にまったく害が及ばずしかも弟の安否も気遣わずに済むという理想的な手段を閃いた。
 それはつまり――。



「……俺は生まれて初めて高橋涼介に同情心を持ったぜ」
 横でぼそりと呟かれた中里毅のその言葉に、まあ自業自得だろうけどな、と思いながらも、俺もだ、と庄司慎吾は同意した。
「あ? どういう意味だそりゃ」
 端整な顔を不愉快そうにしかめた目の前の高橋啓介に、中里が心底から関わりたくなさそうに、「そういう意味だよ」と投げやりに言ってため息を吐くと、高橋啓介は鼻の頭に深くしわを寄せた。
「お前に同情されてもアニキは嬉しくないと思うけどな」
 まあそうだろうがな、と曖昧に言った中里の頭の奥へと目をやりつつ、「っつーか」と高橋啓介は話題を変えた。
「お前ら俺が来てんだからよ、もっとこう、歓迎の意とかを表明しろよ。何でそんなに全員揃いも揃って微妙なツラしてやがる」
 てめえ自分がここでしたこと忘れてんのかよと慎吾は思ったが、それを口に出すと横にいる男から後々ネチネチ説教を食らいそうなので、「そりゃお前が来たからだ」と言った。高橋啓介はその時初めて慎吾に気付いたように、眉を上げた。
「俺が来たからって何でそうなる」
「相手がお前だから」
「ワケ分かんねえよ。嫌ならもっと嫌そうにするべきで、嬉しいなら嬉しがるべきじゃねえか、そのまんま」
「それほどガキじゃねえってことだよ、俺らは」
 実のところこちらを窺っている周囲のナイトキッズのメンバーは、怒りや憎しみや屈辱や嫌悪よりも野次馬根性が先に立っており、しかしこの長身の青年に負けた中里のことを考えるとそのままはしゃぐのもためらわれ、ぼーっと見ているだけだと推測されたが、慎吾はそれをそのまんま言うほど素直ではなかったので、目の前のガキとは違うのだということだけを言外に示した。
 だが、
「どこがだよ、明らかに精神年齢低そうな奴らの集まりだろ」
 と高橋啓介があながち間違いでもないことを言ってきたので、「ああ?」と素直に不快感を露わにしたものの、「しかしだな」、と放置されかけていた中里が割って入ってきたので、冷静になって一歩引くことにした。
「峠ってのは誰に占有されるものでもねえから、お前が暇だって理由でここに来るのは誰が何を言えることでもねえが、俺らにそれをアピールされてもどうもできねえぜ、高橋。生憎俺らはお前のオモチャでも何でもないんでな」
 中里は真面目な顔でリーダーのような風格をまとっていたが、その中里に真っ直ぐ見据えられていた高橋啓介は、数秒間を空けたのち、「面白くねえぞその言い回し」、とアッサリ切って捨てていた。よくよく変人奇人からは着目される傾向にあるギリギリ真面目一般人中里も、これにはさすがに呆れて肩を落としていた。
「……面白い面白くねえの話じゃねえんだが」
「お前よ中里、前から俺思ってたんだけど、お前そういうネタになりそうな顔してんだから、もっとネタになりそうな話をするようにすりゃいいじゃねえか。人を楽しませて時間を忘れさせるような、そういう役割合うって絶対」
 正直俺こいつどうでもいいから走りてえんだけどと慎吾が思っているとも知るわけもなく、話を百八十度転換した唐突野郎高橋啓介に、猪突猛進を体で表す中里は律儀についていった。
「そういう話でもなくてだな」
「お前は宝の持ち腐れをしてるぜ、中里。いや宝も持ってなさそうっつーか、まあそういうよ、何だ、腐っても鯛みてえな、いや腐ってもナマズみてえな、もっと何とかなりそうなのに何とかなれてねえって感じだから、お前もっと何とかしてみろよ」
「言ってる意味が分からねえ」
「分かれよ、こういうことはフィーリングだろフィーリング。別に俺はお前のことけなしてんじゃねえんだから」
「俺がお前と感覚を共有できるわけがねえだろうが。分かって欲しけりゃ日本語で具体的に言い表せ、説明しようともしねえで相手に理解を求めるなんざ、甘ったれにもほどがあるぜ」
 マイペースな高橋啓介に焦れたのか、中里の声にも言葉にも険が入り始めていた。慎吾は相変わらず、こいつ早く帰ってくんねえかな邪魔だしと思っていたが、やはりそんな慎吾の胸のうちなど知るわけもなく、むっとしたように高橋啓介は中里へ言い返した。
「偉そうに言ってんじゃねえよ、じゃあお前は何を説明できるっつーんだよ」
「何をって、説明するべきことは説明する、それだけだ」
「じゃあお前は俺のことどう思ってんだ?」
 意外な議題に中里は目を見開き、高橋啓介は、ん? と自分で首を傾げた。
「いや何か違うなこりゃ、えーと、じゃあアニキのことはどう思って、いやこれも違う。何だ、まあだからそういうことをだぜ、説明できるかっつー話だよ」
「……別に俺はお前ら兄弟のことなんか、どう思うこともねえ」
「どうせ嫉妬してんだろ?」
「ああ?」
「お前ってあれだ、一見ケッペキっぽくて、実際中身ドッロドロって感じだよな。スイカの外側綺麗なのに内側メチャメチャになってるっつーの?」
 高橋啓介が妙な例えをしているうちに、中里は気まずそうに高橋啓介から目を逸らし、なぜか慎吾を見てきた。おそらくただ目を逸らした先に慎吾がいたというだけのことだろうが、慎吾はそこで腹の底に火をつけられたような感覚を受け、「そういう見かけだけ繕うような奴が俺は一番ムカツクんだよな」、と続けている高橋啓介に、「オイ」、と話を振った。
「どうでもいいけどお前、いつまでここにいる気だ?」
「だから……あ? ああ、俺の気が済むまでだよ、そんなこと」
「あのよ、これはお前の身を心配して言うんだが、高橋啓介、お前早く帰った方がいいぜ。マジで」
 深刻を装って慎吾が言うと、高橋啓介は気を引かれたように、「何だそりゃ」、と唇を曲げた。手ごたえを得た慎吾は暗い雰囲気を変えず、高橋啓介に一歩近付いて、中里に聞こえないように囁いた。
「もうすぐな、中里の親衛隊が参られるんだよ」
 シンエータイ? とこれは空気を読んで声を潜めた高橋啓介に、こいつ世渡りだけはうまそうだなと思いつつ、ああ、と頷いて続ける。
「こいつのことを影から見守り、こいつをけなした奴には夜道で後ろから襲いかかって裸にひんむいて、こいつに殴りでもした奴はその裸の写真を近隣にばら撒く、法も何もクソ食らえって感じの奴らでな。あんたが交流戦で勝った時も、ルール無用で山に埋めようとしたところを、俺らが何とか宥めたもんだ」
 嘘はすらすらと口から出て、高橋啓介は訝しげなれど、半分ほどは信じているようだった。
「それで奴らはまだあんたのことは目の仇にしてるから、今日こんなことがあったと知ってみろ、お前マジで何されるか分かんねえぞ」
「何されるってんだよ」
「まあ裸にはされるよな。その上で、そうだな、ケツに安靴の先は突っ込むだろうな」
「俺にそんなことができると思うのか」
「多勢に無勢って奴だぜ、高橋さん。ここは俺らナイトキッズのホームってことを忘れるなよ。そしてナイトキッズの中では中里って奴は、あー、アイドルみてえなもんだから」
 高橋啓介はそこで今までで一番ひどく顔をゆがめ、中里へ視線をやり、そのとぼけた顔を目に収めてから、慎吾を向いてきた。
「マジで? あれだろ?」
「あれだからだよ、あれでなあいつは、何だ、可愛げがあるからな。うん。あいつのことを守ってやりたくて、んであわよくばヤりてえヤられてえって奴らがゴロゴロいるんだよ、ここは。うん。だからお前、あいつにちょっかい出すなんざ危険も危険、あ、だからアレだよ、微妙なツラしてんだよみんな。お前に対する嫉妬と羨ましさと憧れが入り混じった複雑な気分?」
 無論事実無根であるが、言っているうちに何だか本当のことのような気がしてきて、慎吾が背筋を寒くしていると、神妙な面持ちになった高橋啓介は、なるほど、と頷いて、慎吾から一歩身を引き、中里を見た。
「事情は分かったぜ。今日は引いてやる、そろそろ走りたくなってきたしな」
 中里は納得しがたいような表情をしたまま、低く揺れていない声を出した。
「……どういう事情をお前が分かったかは俺には分からんが、帰りたければとっとと帰ってくれ。そしてできればバトル以外の用件ではしばらくここに来ないでくれ」
「お前の頼みを聞く義理は俺にはねえ、けど、まあ、考えといてやるよ。じゃあな、精々甘いカゴの中であがいてろ」
 誤解したままの捨てセリフを残し、高橋啓介は乗ってきた黄色のFDでテキパキと去っていった。こりゃちょっとやっつけに言いすぎたか、と慎吾が少しだけ後悔していると、安堵のため息を吐いた中里が、おい、と無骨に声をかけてきた。
「お前、どういう事情を説明したんだ?」
 どういうって、と言葉を少し止めた後、「お前が説明できるような事情だよ」、と慎吾は言い切った。中里は眉間に深くしわを刻んだが、慎吾はこれ以上追及されると自己嫌悪まっしぐらになりそうだったので、ここが甘いカゴのわけねえんだ、甘くなるほど良くもねえんだから、と思い、気持ちを切り替え走ることにした。



 そののちほどほどの満足感をもって赤城山にてFDを走りに走らせた高橋啓介が、帰宅してなお一睡もしていなかった兄に、暇潰しの成果を語ったために誤った情報も当然語られ、不確定要素としてそれは高橋涼介のデータベースに刻まれることになるが、それが活用されるかはまた別の話なので、ひとまず中里にも慎吾にも、さしたる影響はないのだった。
(終)

2008/06/08
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