遠く待つ



 告白せずに失恋したという事態において、感情の浮き沈みが激しいことで名高い中里毅にあっては、因縁の相手とのバトルに勝利した余韻も消え失せて、傷心の海を漂うこととなった。
 何かをごまかしたいような苦笑を浮かべ、ごめんねー、と何度も言っていた女性は、しかしシルエイティに乗ってとっとと引き上げた。相手のホームであるこの地に乗り込んだ中で、残っているのは中里と、流れでついて来ていた――と中里は認識している――男、庄司慎吾だけである。同じチームにおり、同じ峠で同じ最速を争っている者同士、常ではいがみ合っているが、実力は信用しているその庄司の存在すら気にかけられないほど、中里は呆然としていた。勘違いして一人で舞い上がって、墜落したという、ただそれだけだが、確かに本気で思いを寄せてはいたために、衝撃は尾を引いた。目は開いていたが何も見ておらず、耳は正常だったが何も聞こえず、脳は働いてたが何も考えられなかった。終わった、という言葉だけが、浅いところを駆け回っている。何が終わったのかは分からないが、とにかく何かは終わったのだということは、動かぬ思考を通り越した精神の根っこで、理解できたのだった。
「中里毅」
 不意に、一気に音が飛び込んできた、そのきっかけとなったのは、男にしてはどこか甘い声に、奇妙な調子で名を呼ばれたことだった。それは実に奇妙な、意識を呼び寄せるためでなく、愛着を示すわけでもなく、憎悪を込めているわけでもない、しかし何かを含んだ声だった。中里は思わず、その声のした方を向いていた。
 体のラインをくっきりと出す、ベージュのパンツに白いニットの上着で身を包んだ細身の男が、微動だにせず立っている。距離はおよそ二メートル。その骨組みのしっかりとした、落ち窪んでいる目が特徴的な顔は見えるほどには近いが、わずかな表情の変化は見て取れないほどには遠かった。
「あんた、俺のこと、本当に覚えてたのか」
 中里の視線を受けた島村栄吉は、数秒それをかみ締めるような間を置いてから、出し抜けに言った。ああ?、と中里は、わけが分からず顔をしかめた。わざわざこの地まで来たのは、雪辱を遂げるためだ。敗北の記憶は今も鮮明であるし、この男の顔も、一目見ただけでそうと分かった。島村栄吉という名も、結局忘れられることもなかったのだ。だというのにこの男は、何を疑っているのか。
「すげえ泣いてたのにさ、そんなこと知らねえってツラしてるからよ」
 島村は表情を動かさずにそう言って、一歩間合いを縮めてきた。中里は、やはりわけが分からなかった。この男に、あの白いR32に負けた日は、泣きはしなかった。それ以降でも、泣いてはいない。顔に大きくしわを作ったまま、何言ってんだてめえは、と中里は不審を満たした声を出した。島村は更に一歩近寄って来て、また出し抜けに、中里の左肩へ手を当て、
「やっぱちゃんと覚えてねえんだな」
 と、囁いてきた。理由もなく、ぞわ、と、背筋全体に鳥肌が立った。いや、理由はある。それこそ精神の根っこで、理解ができた。だが思考までそれは浮かんで来なかったため、何言ってんだ、と中里は繰り返すのみで、すると島村は耳元に顔を寄せてきた。
「本当はな、俺は全部、覚えてたぜ。あんたの名前も顔も声も――体もよ」
 その声が脳に染み入ると同時に、記憶の断片が目の裏に浮いた。中里は口に手を当てていた。恐ろしい悪寒と吐き気が全身を包んでいた。島村は既に、肩から手を離し、先ほどと同じ距離を取っていた。およそ二メートル。
「おい毅、俺はもう帰るぜ、お前まだここにいるつもりかよ」
 唾を飲み込み上がってこようとするものを抑えたところで、庄司慎吾の声が、すぐ後ろでした。少しでも動くと、食道まで胃の内容物が戻りそうだったので、中里は口に手を当てたままじっと立っていた。
「忘れっぽい仲間を持って、大変だな」
 島村の、変な笑いが混じった声が聞こえた。一層胃がねじれていく。あ?、と慎吾の不可解そうな、相手を見くびっている声が、荒れを鎮めてくれるのだが、それに被さる島村の超然とした笑い声が、神経を引き裂いた。
「じゃあな、中里さん。そのうちリベンジさせてもらうから、その時はお相手願うぜ」
 声はそこで止まり、足音がし、それが遠ざかっていく。だというのに、島村が確信に満ちた笑みを浮かべていることが想像され、また、体に絡み付いてきた島村の視線が、いつまでも傍にあるようで、中里はすぐには顔を上げられなかった。
「何だ、あの野郎。負けたってのにへらへらしやがって」
 慎吾が、不愉快というよりは、不思議そうな声を出す。震え出しそうになる全身を、筋肉を酷使することで制止しながら、中里は口に当てていた手を外し、慎吾を見ずに車へ足を向けた。おい、と慌てたような声がかかってくる。声を、返せなかった。吐き気が続いていたのだ。
 慎吾はそれ以上、何も言ってはこなかった。

 集中力は持続せず、夜とはいえ、赤信号を幾度も見逃しかけた。地元まで戻る間、どこをどうやって運転してきたのか覚えられないほど、様々なことを頭に浮かべていた。胃がむかむかする。自分の両手両足を強張らせているのが、怒りなのか悔しさなのか恐怖なのか不安なのか、中里にはまったく判然としなかった。
 見慣れた道路、しばらく信号のない直線に入り、我知らず安堵の息を吐く。と、延々とバックミラーに一定の距離を置いて映っていたシビックが、ぐん、と追い抜いていった。まだいたのか、と、箱根を出てからその時初めて、中里は慎吾へと意識をやった。ずっと後ろからついてきており、何の変化もなかったので気にしなかったが、慎吾が中里に追従する必要性はないはずだった。大体が、箱根までついてくる必要性もないはずだった。
 追い越し、前に出てきたシビックは、スピードを緩めた。中里はワンテンポ遅れてから、ブレーキを利かせた。徐々に減速していくシビックにならっていると、左のウィンカーが瞬いた。不思議に思いながら、ただ後をついていった。潰れたコンビニの、駐車場跡に停まる。中里がスカイラインから降りると、先にシビックから降りていた慎吾は、まだ稼動している自販機の前に立っていた。近寄ると、缶を二本持っており、そのうち一本を、ほら、と投げて寄越してきた。胸の前まで飛んできたものを、慌てて受け取る。温かみのあるそれは、缶コーヒーだった。
 中里がそれで手を温めていると、自分の分のプルタブを開けた慎吾が、一口缶の中身を飲み、あめえ、と顔をしかめた。中里は投げられた缶を見た。いつも慎吾が買っている銘柄とは違うようだった。ひとまず缶を開け、口に含む。確かに甘かった。
「クソ、青木の奴フカしやがって、何が丁度良いだ。甘ったるいにもほどがある」
 言いながらも慎吾は缶をあおり、そして歩き出した。中里は缶を持ったまま、何となくその後についていった。車通りも人通りも少ない地に建った、個人経営のコンビニエンスストアは、随分前に潰れてから、そこに入るテナントも現れなかった。いかんせん、立地が悪い。昼間でさえ通る人間はほとんどおらず、深夜ともなれば動物や昆虫の方が世界を牛耳っている。外灯から離れている建物の影は、相手の姿も見づらかった。
「お前のあんだけひでえ走り、久しぶりに見たぜ」
 闇に紛れかけながら、振り向いてきた慎吾は言った。そうか、と中里は右手に持った缶を見ながら言った。最近は、記録を競い合えるだけの運転ができていた。だからこそ、島村の32をも軽くひねることができたのだ。それに比べて、いくら急ぐことも安全性を追求することもないとはいえ、実際行われた今回の走りは、散々なものだっただろう。何せ、意識が常に道路上にはなかった。
「沙雪にフラれたのが、そんなにショックだったかよ」
 揶揄するような問いかけに、数秒置いてから、そんなんじゃねえよ、と中里は呟くように言った。きっぱりと、それはムリ、と言われことに衝撃は受けたが、その後に降りかかってきたものは、それ以上の衝撃と、吐き気を引き連れてきた。その上、ばらばらの記憶をつなげていては、体をどう動かしているのか、何を見ているかなど、意識できなかった。人を跳ねていても、おかしくなかったかもしれない。
 なら、と次には慎吾は、奇妙なほどに落ち着いた声を出してきた。
「あいつと、何かあったのか?」
 じゃり、と音がした。地面の細かい石粒と、慎吾のスニーカーの薄いゴム底が擦れる音だ。中里は慎吾を見た。それと分かるほどの明るさはあった。その程度の光が、スチール缶を握っている慎吾を、青白く染めている。顔色が悪いようだった。中里は、唾を飲み込んだ。精気の見当たらない慎吾の姿が、あの男の、薄い顔と薄い笑みを思い起こさせ、喉が酸っぱくなる。声が出せない。
「俺にも言えねえようなことか」
「お前に言えることなんてねえよ、元から」
 続けて問われ、中里は慎吾から顔を背け、言い切った。声はかすれていた。曖昧さを捨てきれない自分が、とても無様に感じられる。じゃり、と音がした。一歩が詰まる。べこり、と音がした。慎吾へと顔を戻した中里は、その手に握られた缶が、変形しているらしきことを見て取った。興味を失したようにそれを壁へと軽く放った慎吾が、壁を見ながら言う。
「島村に、何されたんだ?」
 今のやり取りで、慎吾がそうと確信したことに、中里は気付いた。だが、今更何とも答えられることでもなかった。中里はクリーム色の壁を見てから、慎吾へ目をやり、何も、と口だけで言った。嘘つけ、と呟いた慎吾は、壁を見ながらもう一歩間合いを詰め、そこで顔を向けてきた。勿体つけるようなことはしなかった。慎吾はごく自然に左腕を伸ばし、肩に触れてきたのだ。中里は、思わず体をびくりと跳ねさせた。缶が手から滑り落ち、残った液体をどろどろと流す。その地面に、慎吾は靴を滑らせる。息がかかるまで、顔が寄った。
「何で、そこまであいつにビビッた? 俺にまで、こんなにビビる?」
「何も、されてねえっつってんだろ、俺は」
 記憶に残る恐怖からか、何かのやましさからか、中里は慎吾と目を合わせられなかった。だが、声には凄みを加えようと努力した。数秒経って、掴まれていた右肩を押された。たたらを踏み、背中が壁にぶつかる。衝撃に一瞬目を閉じ、開くと、先ほどよりももっと近い、すぐそこに、慎吾の顔があった。それを認識する間もなく、唇が触れ合った。途端、開いていた歯の間に、舌が差し込まれる。奥まで入ったそれが、粘膜をきつく擦っていく。上顎も頬肉も歯茎も舌もその裏も、余すところなく舐られた。拒む暇が、なかった。
 舌を強く吸われ、それが最後となり、ようやく口で空気が取り込めるようになった。全身が熱かった。特に、腹から下だ。信じがたい思いで、中里はまだ近くにいる慎吾の胸を両手で押し、それから手首で口を拭った。荒い息を整えて、目の前を見る。押したはずの慎吾は、まだ手を伸ばせば容易に届く距離に立っていた。舌をもつれさせながら、中里は考えずに言葉を出した。
「何……何、で」
「こういうことか」
 熱を感じさせない目で、慎吾は見据えてくる。詰問する色を持たない、透き通った目だった。だというのに、何か追及されているように感じられ、中里は何も言い返せなかった。また、慎吾は一歩、距離を詰めた。中里の顔の横、壁へと左手がつかれる。唇が触れるほど、顔は寄ってきたが、触れはしなかった。ただ、視線がどうやっても、外されなかった。
「お前の顔は、分かりやすいんだよな。だから……」
「お、お前……何言って、何しやがる、てめえ」
 怒鳴ろうとして、突然その右手に、急所を握り込まれ、中里は息を止めていた。腰が砕けそうになりながらも、何とか足を踏ん張って立つ。慎吾が、ついに唇を合わせてきながら、喋った。
「あの野郎と、やったんだろ」
「ふ、ざけんな、何を根拠に……」
「お前の顔は、分かりやすいんだよ」
 顎へと、舌が触れてきた。中里は慎吾の両肩に両手をあてがい、押しのけようとしたが、股間を握られている状況では、百の力は出なかった。それどころか、右腕の肘関節を、壁についていた慎吾の左手で押されるだけで、腕全体が流れる程度の力しか、出ていなかった。腕をそうして払われ、背中の布を掴まれて、壁を向かされる。頬と胸とが、くぼみの多いそこに完全に合った。腕は後ろで絡め取られ、どうなっているのか、まったく動かせなかった。そして、股間を握っていた慎吾の手が、ジーンズのファスナーを下ろし出し、中里は焦った。
「何を、お前、やめろ……慎吾」
「やったんだろ? 島村と」
 耳元で、慎吾の囁きが、大きく響く。ジーンズの前は開かれ、下着と一緒に膝上まで下ろされた。慎吾は言葉を続けず、息だけを耳に吹き込んでくる。膝を股の間にねじ込まれ、足を開かざるを得なくなった。中里は喘いでいた。息苦しい。逃げ出したいのに、全身に力が入らない。膝頭は震え、その下に入っている慎吾の足がなければ、すぐに地面に落ちそうだった。
「だったら俺にもさせろよ、俺の方が……」
 そう言ってすぐ、慎吾は舌打ちをした。直接耳に飛び込んできたその鋭さは、尻たぶの間に触れたものがもたらした痛みとよく似ていた。拒もうとしていた。だが、忍耐強くねじ込まれた。元々開いている場所を、完全に閉じることは不可能だった。痛みも構わず突き入れられては尚更で、中里の苦悶の声も、慎吾は聞いてはいないようだった。
「ぐ、ぐう、うう……」
 なぜ、そこまで慎吾が硬度を保てるのか、ためらいなく動けるのか、中里には分からなかった。考えようとしても、肉をえぐられている痛みが全身を貫き、痛い、という以外、何も意識にはのぼらなかった。痛い。島村に、これほどの痛みを味わわされた記憶はない。だから、忘れられたのかもしれない。だが、これは到底、忘れられそうもない、焼けた鉄の棒をそこに押し込まれ、焦げて張り付いた肉を丸ごと引きずり出されているような、激烈な痛みだった。涙が自然と流れ出し、唾もろくに飲み込めなかった。
「クソ、クソ……何だってんだ、クソ……」
 苛立たしげな慎吾の声が、遠くで聞こえる。壁にすがりながら、中里は呻き続けた。痛みは消えない、苦しみも消えない。まるで、終わらぬ悪夢のようだった。いつまで続くのか分からない、これ以上に最低なことなど何もないような、悪夢だ。果てない絶望を感じながら、中里が、口内に満ちた唾を苦労して飲み込んだ、その時、忙しない呼吸と、肉をえぐる、打つ音とは別に、ざり、という音が、遠くなのか近くなのか、距離感の掴めないところからしたようだった。それは地面の細かい石粒と、硬いものが擦れる音に聞こえた。不規則な間隔で、ざり、ざり、と音がする。やがて、内部を引っかく動きが止まり、同時に、ざり、という音とともに、
「何やってんだ、お前ら」
 どこか軽薄な響きのある、男の声がした。事態を認識できないまま、今度は近いと分かる、その声のした方へと、頬を壁から浮き上がらせて、中里は顔を向けた。外灯のわずかな明かりを半身に受けている男は、涙で揺れている視界では、はっきり見ることができなかったが、助けてくれ、とその男へ言っていた。そしてすぐ、慎吾がぎょっとしたような声を出した。
「高橋啓介?」
「合意かよ、そりゃ」
 相変わらずどこか軽い響きのある声で、そう問うた――慎吾にか中里にかは知れないが――男が、ざり、と音を立て、近づいてきているようだった。高橋啓介? 中里は目を瞬いた。目を拭えないため、まだ濡れているが、それでもこらして見れば、ふんわりと立っている茶髪と、人為的な乱れのない顔貌は、何となく分かった。だが、すぐに慎吾が半分までしか入れていなかったものを、完全に埋めてきたため、苦痛が過ぎ、中里は目を閉じており、それ以上男を見てはいられなかった。唸る中里をそれまで通り押さえ込みながら、はっ、と慎吾は蔑むように笑った。
「『やって』んだよ、俺らは。見りゃ分かるだろ。邪魔すんな」
「そいつが承知してねえってことも、見りゃ分かるな」
「んなことてめえに関係あるかよ。萎えちまう。さっさとどっかに行きやがれ、クソ野郎」
 躊躇の乗らない足音が、素早く近づいてきた。傍で気配がしたかと思うと、
「ッ、い……ッ」
 慎吾は呻き、外れそうもなかったものが、中里の中からずるりと抜けていった。中里は壁に頼りながら、地面に膝をついた。そのままで振り向くと、慎吾は男に長い前髪を掴まれていた。男の方が背丈があるため、男の手を振り払った慎吾の動きは、どこか子供のようになった。そうして膝にジーンズを絡ませたまま、歯をむくものだから、深刻さと滑稽さが合わさった、妙な雰囲気を慎吾はまとっていた。
「てめえ、何しやがる」
「知り合いが犯されてんの、見過ごすわけにもいかねえだろ。人として」
 慎吾に振り払われた手を、ジャージのポケットにおさめた男は平然と言った。解放された手で顔を、目を拭えたため、中里はそこでようやく、その男の彫刻のように整った顔と、ほんの少し汗に濡れた滑らかな肌、鋭い目、銀色のジャージを、確認することができた。確かにそれは、イエローのFDを愛車としているはずの、高橋啓介と呼ぶべき男だったが、中里の記憶の中よりも、ひどく落ち着いた雰囲気を持っていた。鋭い舌打ちを飛ばし、まだ硬い自身をジーンズにしまった慎吾は、そんな高橋啓介を、苛立たしげに睨んだ。
「人としてだか何だか知らねえが、これは、俺とこいつのことだぜ。てめえに関係ねえだろ」
「俺とこいつの関係だって、お前には関係ねえんじゃねえの」
 慎吾とも、この男とも、一体自分にどんな関係があるのか、いまだじりじりとした痛みを抱えている中里には、とても考えられなかった。慎吾は高橋をしばらく睨み続け、再度舌打ちすると、地面に膝をついたまま動けずにいる中里を、苦々しそうな顔で見下ろしてきた。口が開き、そこに空気が入っていくのを、中里は聞いた。だが、顔を逸らし、背を向けた慎吾が、吸った息を声にすることはなかった。高橋啓介の横を素通りした慎吾は、こちらを振り返ることもなくシビックに乗り込み、発進し、消えていった。中里はまた、声をかけられなかった。やはり、吐き気があった。
「おい、大丈夫か?」
 シビックばかりを目で追っていた中里は、手前からした声に、すぐに焦点を合わせられなかった。苦労して見た、その男の、精緻な顔立ちと、そこに潜む凶暴性は、手ひどく負けた際に見たものと、寸分違わなかった。
 ああ、と中里はおざなりに頷き、立ち上がって、下着とジーンズを引き上げた。尻の狭間が、ぬるぬるとして気持ちが悪い。何がそこを濡らしているのかよく分からないが、早く始末してしまいたい。足を踏み出すと、腰に、重い痛みが走った。よろけた体を、高橋は横から支えてきた。
「歩けるか」
 心配そうな声だった。同情されているように感じられ、腹立たしく、中里は肩に回された腕を払い、自分の足で歩いた。
「おい」
「うるせえ」
「そんなんで、運転できるのかよ」
 引きずっていた足を止め、振り向く。ジャージのポケットに両手を入れた高橋が、相変わらず、平然とした様子で立っていた。何か、苛立ちを煽られた。
「てめえに何の関係がある、高橋啓介」
「助けてくれ、っつったじゃねえか」
 ぐ、と言葉が詰まった。もしこの男だと、しかと認識していても、自分は助けを求めただろうか。求めただろう、そう思えた。痛みは究極、問題ではなかった。あの場が、慎吾の行いが、辛かったのだ。そして高橋啓介は中里の要請通り、慎吾の行為を中断させた。中里を、助けたわけだ。だから中里は、何も言い返せない。今日は、何も言えないことばかりのようだった。
 歩み寄ってきた高橋が、ジャージのポケットから右手を出し、先ほどと同じように、肩に回してくる。それは、体重を移動させるためだけの仕草だった。中里の体は強張ったが、高橋を突き飛ばすまでの反応も示さなかった。漂ってくる汗の匂いが、些細な親しさを感じさせたからかもしれない。高橋はそうして、中里を歩かせながら、何のこだわりもないように言った。
「知り合いだろ。同じ走り屋だ。バトルもした」
「それだけじゃねえか、そのくらいで、何で」
「お前の車とあいつの車じゃなけりゃ俺は、無視してたぜ」
 ひどく遠いように思えたスカイラインの前まで、到着できた。二人とも、止まった。居た堪れないまま中里は、高橋を目だけで見た。高橋は中里へ、真っ直ぐに顔を向けてきていた。表情の豊かそうな顔が、今は泰然としていた。動く唇もまた、歪みがなかった。
「キー寄越せ」
「あ?」
「俺が運転してやる。お前の家まで」
 数拍置いてから、頭まで怒りが貫いた。くすぶっていた劣等感が火を噴き、バカにすんじゃねえよ、と中里は高橋の腕を再び振り払った。だが腰にまだ力が入らず、勢いで体がよろける。それを高橋は、振り払われた腕を伸ばしてきて、今度は抱えてきた。向き合って、抱きとめられていた。屈辱にもがいた中里に、それでも、と高橋はどこか困ったように言った。
「それだけの奴でも、放っといたら気分わりいんだよ。俺は」
 押し付けがましい、自分本位の色の多い声だった。だから、特別に構われているのではないと思えた。あくまで、成り行きでしかないのだと――思うと、立つことすら難しくなった。それでもひとまずその体から抜け出して、中里は俯いたままではあったが、背に腹はかえられず、頼む、と口にした。

 四駆を批判していた男にしては、安全で、適切な運転だった。途中、曲がんねえな、などと呟きもしていたが、スピードはほぼ一定で、時たまの加速も減速も緩やかで、カーブも右左折も、震動は控えられた。助手席に座っているために、その動きの細かやさは、中里にはよく分かった。特に痛む尻を抱えている現状では、十数分の道程でも、どれほど気遣われて運転されているかが、手に取るように分かってしまった。
「お前の家、どこだよ」
 指示を聞き漏らさず、借りている駐車場にスカイラインを導いた高橋が、丁寧に停車をしてから尋ねてきた。中里はジーンズのポケットから財布を取り出し、そこから抜いた千円札を一枚、高橋へ差し出した。高橋は、置物でも見るような目をしていた。
「何だこれ」
「タクシー代だ。足りねえとは思うが……」
 首を傾げた高橋は、中里の言を皆まで聞かず、キーを持ったまま運転席から降りた。呆然としていると、助手席のドアが開かれた。高橋が覗き込んできて、中里の腕を取り、ゆっくりと地面に立たせた。
「要らねえよ。走って帰るし」
 助手席のドアを閉め、指に引っ掛けたスカイラインのキーを差し出してきた高橋が、そこでようやく言ってきた。中里はキーを見、高橋の顔を見、訝った。
「車、ねえだろ」
「足はある」、と高橋はキーを持っていない方の手で、自分の太ももを一つ叩いた。どうやら、自分の足で走って帰るつもりらしい。中里が目を瞬くと、っつーか、と首を回してボキリと鳴らし、言った。
「俺、さっきも走ってたんだよ。週に二、三回くらい、自分で走らねえと、体がなまっちまうから。飲み会の帰りでな、飲んでもなかったし」
 どこか居心地悪そうに、高橋は肩をすくめる。それ以上何とも言えず、そうか、と中里は頷いた。ああ、と同じく頷いた高橋は、指に引っ掛けていたキーを、千円札を持ったままの中里の右手に入れてきた。
「だから、これは要らねえ。大体、足りなすぎるしな」
 そこで高橋が浮かべた笑みは、大層清々しかった。おそらく何もない時であれば、中里自身も、どういう種類の笑みでも浮かべられただろう。だが、今はどうにも、理不尽さばかりが立つ状況だった。笑おうにも、笑い方が思い出せないほどだった。中里は手中にあるキーと千円札をジーンズのポケットに入れ、悪かったな、と高橋に背を向けた。まだうまく力の入らない足を、根性で動かす。そうして歩き出したものの、自分のものではない足音を傍で感じてしまうと、中里は足を止め、振り向かずにはいられなかった。
「もういいから、帰れ」
 高橋啓介は、まだそこにいた。そして、相変わらずの泰然とした様相のまま、まともに歩けてないぜ、お前、と不可解そうに言った。だとしても、と中里がため息を吐く間に、高橋は近くまで寄ってきていた。
「もうそこだから、別に一人で……」
「何か危なっかしいんだよ、お前」
 有無を言わさず、高橋は中里の腰に腕を回し、歩き出した。そのため、腕を払うよりまず、そっちじゃねえ、と中里は指示を出さねばならなかった。
 いずれにせよ、助けを借りなければ、まともに歩けない状態ではあった。だから、部屋まで支えられることも、断りきれなかった。玄関の明かりをつけ、靴を脱ぎ、廊下に上がってから、土間に立ったままの高橋と、中里は今日、初めてまともに向き合った。鮮明な光の下で見る高橋啓介は、それまで得ていたよりも、平凡な印象を中里にもたらした。ちゃんとしなければらないという、焦りが生まれた。
「わざわざ……悪かったな」
「別に。どうせ、今日はもう他に用事もなかったしな」
 そう言ってジャージに包まれた肩をすくめる高橋は、やはりごく普通の青年のようだった。少なくとも、峠でFDを自分の手足のように駆っている走り屋には見えなかった。だから中里は、この男とどう接すれば良いものか、今更手段を失った。高橋はだが、ちゃんと処理しとけよ、とだけ言うと、玄関のドアを開け、片手を振りながら外へと出た。ドアはすぐに閉まり、中里は自宅に一人きりとなった。手段を見つける時間など、必要なかった。
 ともかく、あの男に言われるまでもなく、処理はしなければならなかった。廊下に座り込みそうになる体に鞭をふるい、風呂場に向かう。服を脱ぎ、下着を見ると、尻のあたりが黒く染まってた。ジーンズにまでは染みてはいないようだったが、どちらも床に落としたままにした。まだしばらく、触りたくはない。浴槽には湯を張らず、シャワーを浴びた。さすがに、動くだけで鋭い痛みの走る、えぐられた場所を洗い流す気は起きなかった。石鹸の泡で、全身を覆い、肌だけを湯で流す。顔も髪も、まとめて洗ってしまった。
 バスタオルで全身を拭ってるさなか、中里は服を用意していないことに気付いた。そのまま水分をタオル地に吸い取らせながら、風呂場から出て、チェストから適当に着替えを取る。思いついて、床に置いていたティッシュを五枚抜き取り、ここだけは水滴の残っている、尻の間を拭った。鮮血があった。舌打ちして、ティッシュは丸めてゴミ箱に投げ入れた。
 下着だけを身につけ、ベッドにうつ伏せになる。処理はしなければならないと、そう思うも、どう処理するかということを、中里は考えたくなかった。鋭くも重い痛みが、殿部を覆っている。これほどの痛みを味わった記憶は、かつてない。
 島村との時は、どうだったろうか?
 考え、忘れようとして忘れられたのだから、その程度だったのだろう、と思う。
 今は、思い出せる。
 停まることなく道路の向こうへと消えていった、白いR32。車内で驚きと悔しさに歯噛みしていた自分。
 ウィンドウを叩く音がして、顔を上げると、ガラスの向こうに、吉竹弘二の柔和な顔が見えたのだ。
 だから、一つ息を吐いて気持ちを整え、ドアを開け、車から降りた。
「毅」
 吉竹は、不安そうな顔で、不安そうな声を出した。中里は車のドアを閉め、苦笑を作った。
「負けちまったな」
「……ああ」
「俺は、俺の腕が悪かったとは思わねえ。S13ならここで俺以上の使い手はいないはずだ。俺とあいつの差は、だから……」
 そこまで独り言のように言ってから、中里は吉竹を見て、その顔に不信が染み出ているのを感じ、いや、と恥ずかしくなって首を振った。
「言い訳だな、こんなの」
「中里」
「俺は、少しばかり休む。考えたいことがあるから。後は、お前に任せるよ、弘二」
「気にするなよ、毅。確かに、車の差が大きすぎた」
 いざ言葉にされると、自分で理解していたはずなのに、悔しさが腹の底から喉まで跳ね上がってきた。中里は唾を飲み込み、何も言わないまま車に戻り、吉竹を見ず、発進した。そうして、どのくらい経っていたのだろうか。気付けば、後ろから一台の車が来ていた。そこから発せられる音が、記憶を、神経を、ぐじゃぐじゃに掻き回していた。バックミラーには、確かにその車体が映っていた。飲み込んでも飲み込んでも、唾はあふれてきた。
 いつまでも追ってくる車に腹を据えかねて、自宅からは離れた場にある、舗装されていない山道へと入った。バックミラーには同じ車が映り続けている。開けた空き地に着いたところでシルビアを停め、降りた。
 白いスカイラインが、そこにあった。そして、男が運転席から降りてきた。体の細さが良く分かる服装が、肉の薄い顔を精悍なものに引き立てていた。つい先ほど、妙義山のダウンヒルバトルで自分を負かした男の顔と、相違なかった。くじけそうになる精神を叱咤し、中里は島村栄吉をしかと睨んだ。島村は、笑っていた。薄笑いだというのに、底の知れない不気味さがつきまとっていた。
「何の用だ、人のケツにずっとついてきやがって」
 低めた声で中里が言うと、島村は何も答えず、ただ薄笑いを保ったまま、近づいてきた。三メートル、二メートル、一メートル。あと一歩で、腕を伸ばせば触れる距離だ。それを島村は躊躇もせず越え、そして右腕を伸ばして中里の頬に手を当ててきた。瞬時に身をかわすのも怯えているようで、中里は肌に触れるかさついたものを、一旦無視した。それが、いけなかったのかもしれない。
「おい、島村」
「負けたってことが、すげえショックってツラ隠せてねえよ、あんた」
 にやにやしながらの島村の言葉に、顔に血が上った。抑えることができず、目を逸らしていた。戻した時には、島村ははっきりと笑んでいた。途端、頭にまで血が上り、頬に当てられていた手を振り払った。その時には既に、島村は別の手で、人の襟首を掴めるほどの余裕を、確保していたのだ。
 キスはされた。吐き気のするキスだった。下唇の皮膚を噛み、わずかに剥いでやったような気がする。血の味が、思い出せた。幾度か殴り、蹴った。抵抗した。それでも、首を絞められると、力は入れがたかった。
「あんたみたいな奴、俺、結構好きなんだよ」
 その声は、いつしただろうか。ぬるぬるとした指で乱暴に尻の窄まりをかき回されている時だったか、指と同じ程度のものが押し込まれた時だったか。顔は見上げていたはずだった、睨み続けていたはずだった。だが、恍惚とした薄笑いしか覚えていない。
 時間がどれだけ経ったのかも分からなかった。その時は、わけが分からなかった。そう、何がどうなっているのか、認識できなかったのだ。腸内に精液を注がれても、現実をそうと把握できなかった。その時も、痛みはあった。だが、痛みよりも先に混乱があり、混乱よりも先に、怒りがあった。
「待ってるぜ。中里さん」
 それが、あの男の別れの言葉だった。
 今は、思い出せる。島村がどういう顔でそれを言ったのか、どういう声でそれを言ったのか――一年以上経つのに、まだ覚えている。
 記憶が改変されたのは、それを改変できたのは、あの男に押さえ込まれたことが、あの男に負けたことと、同等に感じられたからだろう。痛みよりも、混乱よりも、怒りよりも、悔しさがあった。あの男に、あの車に、スカイラインR32GT−Rに、負けたことしか、残りはしなかったのだ。
 今は、何がどうなっていたのか、思い出せる。
 しかし、あの男は、待ってたのだろうか。何を? 再戦を、だろうか。それは終わった。そして、また会うつもりなのだろうか。なぜ、そうまでこだわってくるのか。『結構好き』だったからか。考えても、中里には理解ができなかった。理解など、したくもなかった。あの男のことは、もうどうでもいい。リベンジしに来たければ、来ればいい。実力差を教えてやるだけだ。思い出した瞬間は、吐き気が止まらなかった。今はもう、何も思わない。つまり、中里にとって島村栄吉とは、走り以外に関しては、その程度の存在でしかなかったのだ。
 尻が痒かった。痛い上に、痒い。痛みも、表面だけではなく、内側、肉、骨にまで広がっている。
 これをもたらした人間についてはだが、そうも容易く、割り切れもしなかった。
 と、苦痛に煩悶しているうちに、玄関のドアが開く音がした。鍵を閉めるのを、忘れていた。誰だろうか。高橋が、忘れ物でもしたか。あるいは――そこまで考えると、身を起こさずにはいられなかった。なるべく尻に体重のかからない体勢を探したが、どれも一緒のように思え、結局あぐらに落ち着いた。軽い足音の後、現れたのは、先ほど出て行った、ジャージ姿の男だった。予想通りのような安心と、ごく少ない失望を得ながら、どうした、と中里は、高橋啓介を見上げた。
「鍵、かけとこうぜ。物騒だ」
 ビニール袋を片手に提げた高橋は、玄関に顎をしゃくりながら言った。ああ、と中里は曖昧に頷いてから、改めて問うた。
「帰ったんじゃねえのか、お前」
「このまま帰ったら俺、どれだけレーテツ人間だよ、って感じすっから」
 高橋は顔をしかめながら、目の前まで来た。中里もまた、顔をしかめた。
「そんな感じ、しねえよ。お前にそんな必要ねえだろ、そもそも、俺の世話焼くような」
「必要ねえけど、やっぱ気分わりいしな」
 そう言った高橋は手に持ったビニール袋を中里のあぐらの前に乗せ、とりあえず薬、と続けた。
「塗るやつと鎮痛剤。睡眠薬は微妙だけど、まああっても困んねえだろ」
 中里は袋を見てから、高橋の顔へと目を戻し、買ってきたのか、と驚きを隠さない声を出した。いや、と高橋はジャージのポケットに両手を入れると、肩をすくめた。
「ダチが近くに住んでっから、パクってきた」
「パク……」
「冗談だよ。使ってねえやつだけ貰ってきた。たまたま思い出したからな。コレクターなんだよ、薬の。市販のな。何がどんくらい効くのか調べんのが趣味なんだと。変な奴だぜ、面白いけど」
 苦笑にも似たものを作った高橋がすぐ、じゃ、とそのまま足を引いた。あ、と中里は声を上げていた。それは意図せず、高橋を引き止めるものとなったが、引き止めたところで、どうするかということを中里は考えていなかった。どうした、と半身になった高橋が、不審げに顔を歪める。中里は数回ただ呼吸をしてから、唾を飲み込み、意を決して、窺うように高橋を見た。
「何でお前、こんなことまで、俺にするんだよ」
 眉根を寄せた高橋は、目を細め、あれ、と言った。
「お前のチームの奴だろ、あのシビック」
「あ?」
「あいつ結構、キてる顔してたぜ。大変だな」
 それはどこにつながる話なのかと、怪訝に思い顔をしかめている中里を見下ろし、ああ、と高橋は思い出したように言った。
「俺、中途半端なの、嫌いなんだよ。中途半端に手ェ出したり、そういうのも。まあ、今日は暇だったってのがあったけどな」
「それと、あいつと……何の関係があるんだよ」
「いや、そりゃただ思い出したから言っただけ」
 気が抜けるような、単純な答えだった。中里がますます顔をしかめると、まあでも、と高橋は取り繕うように言った。
「お前があのシビックと元々どういうことになってんのかは知んねえけど、こういうことは、中途半端にはしない方がいいと思うぜ」
「中途半端にしねえってのは……」
 とまで言って、自分が何を言いたいのか分からなくなって、高橋から目を逸らし、どういうことだろうな、と中里は独り言のように呟いていた。だが、「いつも通りってこったろ」、と高橋はそれにも言葉を返してきた。
「それ越えた、いつも通りってところか、後悔しても良いって思えるところだろ。そうじゃなけりゃ、全部、中途半端だ。決めらんねえってことだからな」
 中里は、高橋に目を戻した。ジャージのポケットに手を突っ込み、体を斜めにして立っている高橋の姿は、磐石な精神を感じさせた。少なくとも、慎吾からは感じられたことのない類の、強さだった。だからこうも、安心できると同時に、物足りなく思ってしまうのかもしれない。なるほどな、と中里が認めると、じゃあ、と高橋はポケットから抜いた片手を上げ、あ、とそれで指差してきた。
「お前、ちゃんと治しとけよ。痔なんざ、走るのにシャレんなんねえだろ」
「ああ……悪かったな、本当に」
「謝んなよ。それ、お前らしい感じしねえって、中里」
 そう言ってまた、高橋啓介は、清々しく笑った。多分、この男にとってこの事態など、大したことではないのだろう。そう思えて、その時ようやく、ぎこちないながらも、中里は笑みを浮かべられたのだった。

 睡眠薬にまでは手を出さなかったが、他は駆使して、翌日にはまともに歩けるようになった。長時間の運転は苦しかったが、峠にも顔を出した。騒ぎたがる奴らのことを、無視はできなかった。そして、いるかどうか分からない男に、会いたかった。会って、とにかく、中途半端にはしたくなかった。
「わざわざ箱根まで行くなら言ってくれりゃあ良かったじゃねーすか、俺も行きたかったっすよ、温泉」
 囲んできた、けらけら笑う仲間に、温泉かよ、と他の野郎からツッコミが入る。どんな因縁があったのか、どれほど速かったのか、観光はしてこなかったか、碓氷の二人とはどうなったのかなど、人に聞いてきながら、奴らはほとんど答えは聞かずに、輪の全体で笑い合っていた。人の話聞いてねえな、お前ら、と中里も笑っていた。体を動かす度に、中心から痛みは這い上がってきたが、それを構う気にならないほどに、仲間内は楽しかった。
 やがて、熱しやすく冷めやすい連中は、一人二人と抜けていった。赤いシビックは来ていない。元々、人の予想通りの行動をすることが、嫌いな男だった。気に食わないことは気に食わないのだと、そう言っていた。だから庄司慎吾がいつ峠に来るかということは、誰も予想を立てられなかったし、『来る』ということを聞いている人間でも、それが『いつ』かは聞いてはいなかった。
 だが、今日は来ないだろう、と中里が思う時に限って、慎吾は来る。まるで、人が何を考えているのか、会ってもいないのに分かっているようだった。そしてまた、今日もそうだった。
 その男が、シビックの運転席から降りた途端、少し場がざわめいた理由が、中里にはすぐには分からなかった。服装は、黒のパーカーとジーンズという、変わったものでもなかったし、遠めではいつも通りのように見えた。十分ほど、他の仲間と話した慎吾が、こちらに歩いてきて、そうしてはっきりそうと知れたものだ。頬に青あざ、その下の唇に、赤黒いかさぶた。殴られた跡にしか見えなかった。
 間近に寄ってきて、よお、と重々しく口を開いた、猫背気味のその姿は、何かの圧力のため、縮こまっているようにも感じられたが、あざのあるその顔は、ふてぶてしさを保っていた。どうした、と中里は、何はさて置きまず言っていた。暗い目を向けてきた慎吾は、ちょっとな、と唇を動かさずに言った。中里が何も言わず、その顔を、目を見据え続けると、中里から顔を背け、あざの浮いた左頬を痙攣させた慎吾が、はっ、と唐突に笑った。自嘲のようだった。中里は、顔をしかめていた。
「何だ」
「俺の方が、被害者みてえだな」
 その意味を解せず、眉間に深くしわを刻んだ中里を、一瞥した慎吾は、ビビりまくってる、と呟き、口の端を指でがりがりと掻いた。そこから鮮血がにじみ出るのが分かるほどの、距離だった。何か、全身がむずむずしてきて、慎吾、と中里は呼んでいた。慎吾は口の端を舌で舐め、そうして開いた唇から、中里を見ぬまま、明瞭な声を出した。
「島村に会ってきた」
「――何?」
「話、聞いてきたぜ。全部な」
 中里は、眉間にしわを作ったままでいた。全部、ともう一度呟いて、苛立たしそうに、慎吾は前髪をかき上げ、舌打ちした。そこで、中里はようやく、何かを言うということを思い出した。
「それで、お前……」
「俺は殴ってねえぞ」、と慎吾は不満げに中里の言をさえぎった。「あいつが殴ってきやがった。こっちは何も言ってねえのに」
 慎吾はまた舌打ちし、焦れたようにジーンズのポケットから折れ曲がった煙草を取り出した。それを口に咥え、パーカーのポケットから取り出したライターで火を点けて、細く煙を吐き出す。忙しなく、慎吾は煙草を吸った。中里はその間、何も言えずにいた。何かを言うということは思い出したが、何を言うかということまでは思い出せなかった。全部、聞いたということだ。今、すべて、島村がしたことをすべて――おそらく中里が知らない、その深い動機でさえ、慎吾は知っているということだ。そこまでは分かる。だが、それによって、慎吾が何を考えるのか、思うのかということは、考えられなかった。予想を立てられるのが、嫌いな奴なのだ。それを、どうやれば分かるというのか。
「お前も、殴りたけりゃあいくらでも、殴れよ」
 まだ長いように見える煙草を地面に落とし、スニーカーのつま先で踏み潰した慎吾が、吐き捨てるように言った。俺はどうもしねえ。
 頭は正確には回っていなかった。それでも、慎吾の態度が投げやりであることは、感じ取ることができた。それ以外に、どうしようもなかったのかもしれない。真面目になりきることも、深刻になりきることも、軽薄になりきることも、できなかっただけかもしれない。だが、例え慎吾が敢えて態度を繕わなかったのだとしても、中里は、愚弄されていると思わずにはいられなかった。
「殴って、終わりかよ」
 低めた声で呟くと、慎吾は虚を衝かれたような、わずかに怯えの走った表情になった。
「あ?」
「殴って、殴られて、それで終わりか。俺のことは。それで、片付けるつもりか」
 低めた声は、だが端々で震え出していた。痛みを与えられた、理不尽な行為に対する、怒りがあった。征服された恐怖もあった。だが、最もその時中里の体を支配していたものは、見くびられていること、理解されもしていない、そのことに対する悔しさと、悲しさだった。慎吾は数度素早く瞬きをし、何も飲み込めないような、苦々しげな表情になると、すぐに歪んだ笑みを浮かべた。
「他に、どうできるってんだ?」
「理由も何もナシかよ。それで、殴るだけで済ませろって、どれだけお前は……」
「理由を言ったから、どうなるんだよ」、と慎吾は早口に、妙な抑揚のついた声で、再びさえぎってきた。
「納得いかなけりゃ、どうせ殴るしかねえだろ。それとも、そうかなら仕方がねえ、って納得するか。許すのか。どっちにしたって、それで終わりじゃねえか。何が始まるんだよ。俺がお前を好きだからって、あれが正当化されんのか?」
 中里は数秒、何と言ったか聞き返すべきかどうか迷い、迷っているうちに、慎吾は言葉を続けていた。
「それで、納得しても許しても……だとしたら俺は……俺が、お前を許せねえ」
 地面を斜めに睨み、その顔に細かく感情をわき上がらせている慎吾は、触れれば切れそうな、危うさがあった。確かに、この男が被害者のようだった。この男の心の方が、深く傷ついているようだった。
 尻はむず痒いし、痛いし、気合を入れていなければ、腰も砕けそうになる。中里はそれだけの傷を持っていたが、肉体の損害は、精神と直結していなかった。今はまだ、現実を揃って受け入れられず、だから鈍感になれているのかもしれない。それでも、どういった理由であれ、納得し、許すということが、この男に対してであれば、できると思えるだけの、それが正しいと思えるだけの、生来的な、自信があった。そして、目の前で、口の端を再び指で掻いている男に、これまでの行為に対する自信が、どれほどあるかは分からない。ならば、のうのうとさせてやりたくはなかった。
「殴りはしねえよ」
 気の抜けたような声で、中里は言っていた。唇に垂れた血を舐めた慎吾が、聞き逃したかのように、眉を上げた。
「お前が俺を許せるまで、殴ってはやらねえ」
 続けて言い、胃がむかむかしてきて、中里は慎吾に背を向けた。殴ってたまるか。忌々しく、言い捨てる。
「俺は、お前のことはどうせ、忘れられねえんだ」
 これを越えれば、いつも通りになるのか、後悔すらも認められる場所に行けるのか、そんなことは分からなかった。だが、胃のむかつきは軽くなった。中里は顎に入れていた力を抜いた。そして、まだぎこちなさの残る歩みを進めた。慎吾はそれ以上、何も言ってはこなかった。その先の言葉が聞けるまで、自分がいつまでも待つということが、中里には簡単に信じられた。そうして忘れないことでしか、復讐はできそうもないのだ。
(終)

(2007/05/03)
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