非互換性
一ヶ月に一、二度くらい、その男には会いたくなる。会っても楽しくも何ともない。所詮野郎同士だし、乗っている車も違えば持っている常識も違う。話の前提を合わせることから始めなければならない。だが、会いたくなる。だから連絡する。都合を聞いて、向こうの近場のファミレスに呼び出して、会う。顔を見ると安心するとか、話をするとほっとするとか、とんでもなく愉快だとか、そんなこともまったくない。男に会うたびに、腰を、足をむずむずとさせる、肉を痙攣させるほどの不快感を味わう。それでも会いたくなる。そういう隙があるだけ、まだ自分もマシだと思える。それを確認するために会うのかもしれない。
男は池谷という。名前までは知らない。知る気もしない。池谷が不快に思われるのではない。人格的に悪い面は見当たらない。車について知識はあるが実力が伴っていなかったり、一般的な道徳観念があったり、女性についての話になると途端に鬱々とし出したりするが、その辺りを不快に感じることが面倒になるほど普通な男なのでどうでもいいと思える。顔は濃くも薄くもない。無精ひげがあるがそれほど小汚くも見れない面でもない。服装も貧相さはあるがホームレスのようなわけではない。平凡だ。よく頭に浮かぶ男よりは、池谷に癪に障るところはない。
だから慎吾が不快に感じるのは池谷そのものについてではない。人の顔を見る時はその人間が何を狙っているのかしか考えない。だがその男の顔はなかなか見られない。やましかった。池谷には以前、車をぶつけて手を痛めて立ち往生している時、助けられた。その前には、池谷の乗った車を後ろから突っついたことがある。その上で池谷は途方に暮れかけていた慎吾に手を貸した。相応の礼はした。それでも池谷に会えばやましさを覚える。池谷に対して自分がしたことへのやましさではない。自分の車をぶつけたことへの自責の念が思い出される。泣きそうなところを救われたことへの恥ずかしさが思い出される。自分の過失が、自分のみっともなさが思いだされる。だから後ろめたくなる。気まずくなる。それでも会いたくなる。多分、そうなりたいからだ。
ファミレスでは遅い夕食を頬張りながら池谷は思い出したように話を振ってくる。車がどうだの、友人知人がどうだの、仕事がどうだの、金がどうだの、女がどうだのということだ。慎吾は飲み物だけを空けながら適当に言葉を返す。相手の顔はほとんど見ないが、まったく見ないというのもおかしいので、解釈に困ることを言われた時だけ目をやる。大抵池谷は微笑をしている。別段何がおかしそうでもないし、間を持たせようとしているようでもないし、愛想笑いというのでもない。まったく無意味な笑みだった。そういう風に無意味に笑む奴と、どう接するべきかなど知らない。
「中里さんはどうしてるんだ?」
慎吾は口に含んでいたアイスカフェオレを喉に流し込んでから、池谷を見た。やはり無意味に笑んでいる。呼び出すのは慎吾だが、話を振ってくるのは大概この男だ。話題に困っている様子もよく見せるが、慎吾は構わない。今以上にやましさを覚えることはないし、飯を食えばおさらばだった。ただ、今は話題に困っている様子はない。
「相変わらずやかましいぜ」
そう答えると、池谷の無意味な笑みは苦笑に変わる。
「相変わらずって、そんなにかよ」
「とりあえず四文字熟語とことわざ言っときゃ頭が良いように見えるとでも思ってんだろうな」
「確かに、難しそうなことは言いそうだな」
「中身がねえんだ、中身が。あいつは沈黙の情緒ってもんも分かってねえ」
「……何か、お前の話聞くたびに、俺の中里さん像が変な方にいくんだよなあ」
池谷は苦笑しながら味付けが単調そうな酢豚を口に入れる。慎吾は二杯目のアイスカフェオレを半分まで飲んでいた。冬も近い今に冷えた飲料は腹に溜まる。かといって温まると店に居座りたくなる。いつでも帰れるような気分でいたい。だからぬくぬくはしたくない。会話も放りはしない。余韻を残すと未練も残る。
「俺は俺の見た通りのことしか言ってねえよ。崇拝意見が欲しけりゃ他のメンバーに聞いてくれ」
「いや、そういうわけじゃねえよ」
「まあ、うちのメンバーでも意見は分かれるところだけどな」
歩いていくウェイトレスのスカートから伸びた足を見ながら慎吾は言った。六十五点。
「中里さんを良く思わない奴もいるってことか?」、と不思議そうな池谷の声がする。しゃがれ気味の声。五十五点。慎吾は斜め向かいのテーブルの作業服の男の薄いつむじを見ながら言った。
「やかましいからな、あいつは」
走り屋チームといっても慎吾の属する妙義ナイトキッズのメンバーに仲間意識はさほどない。車にチームのステッカーは貼るしメンバーの顔と名前くらいは知っているし、バトルに際しては進行の手伝いもすれば応援もする。ただ全員が全員を好いているわけではない。一方的に相手を嫌っている奴がいたり、苦手にしている奴もいる。そういう奴らも抱え込んでいるのがナイトキッズともいえた。だから、池谷がよく困った時も困っていない時も話題にあげてくる、中里というメンバーを良く思っている奴がいれば、良く思っていない奴もいる。
「やかましい、か」
「面倒見がいいって言う奴もいれば、鬱陶しいって言う奴もいる。GT−Rに乗って何を威張ってんだと言う奴もいりゃあ、それを峠に持ち込むことに感動してる奴もいる。結局速いもんは速いし、まあそれなりにはやる奴だから、大っぴらに文句言う奴もいねえけど」
そこまで言って、慎吾は肩をすくめた。あの男についての話は、勝手に口が動き出す。池谷に対する時とは別の不愉快さがわいてくる。やましさについては変わりない。その根本が違う。
「なるほどなあ。そりゃ中里さんも大変だろう」
「それが好きでやってるってところもあると思うぜ」
「苦労性か?」
「マゾだろありゃ」
言ってアイスカフェオレをストローですすってから池谷を見る。池谷は「んな身も蓋もない」と、意外そうな、しかし妥当性も考慮しているような顔をして言った。慎吾はすぐにその顔から目を逸らした。窓の向こうは闇が多い。電灯や車のライトがそれをよく切り開いている。窓ガラスには自分の顔が映っている。つまらなそうな顔だ。
「サドだと思うか?」
「あ? え、いや、その辺は俺にはどうも……」
池谷が言葉を濁す。慎吾は構わず窓を見たままストローの先を噛んだ。アイスカフェオレを少し吸う。画一的な甘味と苦味が脳をしびれさせる。体が冷える。肝も冷えている。沈黙は気まずさを浮き立たせる。情緒など知ったものではない。どうせこの男も知らないだろう。慎吾は間を置かぬように口を開いた。
「まあ、うちのチームに入ってる奴なんて大抵よほどの馬鹿か酔狂か、鈍感な奴だからな。そういう奴と渡り合えるだけの馬鹿か酔狂か鈍感じゃねえと、チームを好きだなんて言えもしねえ」
「……つくづくそっちは何つーか……すげえな」
「特化しちまってんだ。よく分かんねえ方向に」
「中里さんも、何だ、そういう人なのか?」
慎吾は池谷を見た。笑みはない。顔には好奇心が張り出している。中里については今まで何度も話題にのぼっている。速くなっているのか、元気にしているのか、変わったことはないか。まるで遠い親戚について話しているようだった。ただ、どんな人間か、まで明確に踏み込まれたことはない。あの男のことを話している自分は好きではないので、はぐらかしてきた面もある。
「そういう人?」、と慎吾は言った。池谷は苦笑のようなものを浮かべた。
「いや、そういう奴と渡り合えるっていう、そういう人なのかってさ」
「よほどの馬鹿か酔狂か鈍感か」
「……お前、ホント身も蓋もないよな」
今度は完全な苦笑だった。慎吾は聞いていない振りをして煙草を取った。残り一本だから節約しようと考えていたが、ただでさえ後ろめたさを覚える相手に、癪に障ってたまらない男の話をされては、我慢をする気も失せた。煙草を咥えたまま声を出す。
「まあ、あいつも元はFR乗ってたくせに、それを否定するようなこと言いやがるからな。本人はそんな気ねえんだろうが、悪気がねえのが一番厄介だ」
「FR?」
煙草に火を点け煙を吸い、数秒目を閉じ安らいでから目を開く。池谷は不可解そうな顔をしていた。FR、と慎吾は煙とともに声を吐き出した。池谷は顔をしかめた。
「え、中里さんてずっとR32じゃないのか?」
「……二年前だかに乗り換えたとか言ってたけど」
「へー……そうか……意外だなあ……」
「お前、あいつが箱根の島村に勝ったことは知ってんだよな?」
不可思議さのあまり、慎吾は煙草を指に挟み、池谷を見続けていた。ああ、と池谷は頷く。
「じゃあ、あいつが島村とバトルをしに行った理由も知ってんだろ」
「そりゃ……その……碓氷の……………………」
池谷にその先を言えそうな気配はなかった。どころか何を言えそうな雰囲気でもなくなっていた。目がここではないどこかをさまよっている。まったくどこかの誰かさんのように未練たらしい奴だ。慎吾はため息を吐いて、煙草を吸って灰を灰皿に落とすと言った。
「あのな、あいつが島村とバトルをしたのは元々因縁があったからだ。碓氷の……女どもは、それを持ち出したに過ぎねえんだよ」
「………………因縁?」
池谷の目がこちらに戻ってきた。慎吾はそこで目を逸らした。あの男の話はそれほどしたくない。だが、あの男を勘違いされるというのもまた癪に障った。
「二年前だか何だか、島村が妙義に来て、あいつとバトルをした。あいつはその時S13に乗っていて、島村はR32だ。あいつは負けた。そして32に乗り換えた。そういう因縁だ」
「……あ、なるほど」
少し遠くを見ていた池谷が、得心したように頷き、それからすぐ、「え?」、と驚いたような声を上げた。
「てことは中里さん、昔はS13に乗ってたのか?」
「ああ」
「え、嘘だろ」
慎吾が目をやると、池谷は慌てたように顔の前で両手を振った。
「あ、いや、そういうわけじゃなくて」
「俺も最近まで知らなかった。有名だったらしいけどよ」
「あー……そういや、何か……聞いたことあるかも」
記憶を探るように、池谷はまた遠くを見た。慎吾は池谷を見据えた。その慎吾の視線に気付いた池谷が、あ、いや、と右手に箸を持って白飯を挟みつつ、言い訳じみた口調で言った。
「妙義ナイトキッズっていうとさ、お前の話もよくあるけど、32の中里さんってのがやっぱ印象は強いだろ。でもその前、確かにS13で速い奴がいるって話、聞いたことがあったような気がする。そうか、それが中里さんか。知らなかったよ」
中里の名を発した男の口の中に、白飯が入っていく。慎吾はそこで窓へと目をやった。手前にピントを合わせれば、自分の顔がうっすらと見える。つまらなそうな顔。後ろめたいようには見えない。実際、後ろめたさより、つまらなさが先に立っていた。この男ですら知っていた。同じチームのメンバーでも、中里がS13に乗っていたことを知らない者の方が少なかった。慎吾はその少ないメンバーだった。中里、中里毅。なるほど、R32に乗っているあの男について、自分は何を知ろうともしなかった。ともかく走りで鼻っ柱を折ってやりたかった。それしか考えていなかった。どんな風に生きてきたのか、何を基準で車を選んだのか、興味も持たなかった。だから知らなかったことも当然だ。広く走り屋の情報を仕入れているであろう、よそのチームのメンバーであるこの男が、話くらい聞いていてもおかしくも何ともない。それでも何か、つまらなさがあった。その話はもう、したくも聞きたくもなかった。
「お前さ」
だが、沈黙は筋肉を無駄に緊張させる。慎吾は窓を見たまま言っていた。「ん?」、と池谷がこちらに意識を向けている気配がする。煙草を吸ってから、慎吾は池谷を見た。
「何で中里は、中里さん、なんだ」
目を瞬いた池谷が、嚥下してから口を開いた。
「そりゃ……よく知らねえし」
「俺のことは呼び捨てだろ」
「……お前も俺は呼び捨てじゃねえか」
「俺はあいつ『も』呼び捨てだ」
煙を吐き出しながら、歩いていくウェイトレスのスカートから伸びる足を見る。これは八十点。
「いや、そんな失礼な」
そのウェイトレスの足から全体を想像しかけていると、しゃちほこばった池谷の声がした。慎吾はわざとらしく目を細めて池谷を見た。
「俺には失礼じゃねえのか?」
「え、や、だからそういうことじゃなくて。何つったらいいかなあ、何か違うんだよなあ、あの人は」
「よく知らねえんだろ」
「……お前は相変わらず理屈が多いな」
「理屈じゃねえことがこの世にあるか」
そういうところがそうなんだよ、と言っているような男の顔をもう見る気はしなかった。慎吾は短くなった煙草を灰皿で押し潰しながら、親切心から言ってやった。
「お前は一回あいつとちゃんと話をして、変な幻想を取っ払った方がいいと思うぜ、俺は」
「いや、俺の中里さんが変になってるのは、お前のせいだぜ、庄司」
見る気はしなかったが、気付けば見ていた。何の変哲もない男の顔だった。
「お前の毅かよ」
声を出すことを、意識をして行いはしなかった。言葉も意識をして選びはしなかった。驚いたのはだから、目を見開いて箸を持ったままの右手を顔の前で振った池谷よりも、おそらく自分の方だったろう。
「そ、そりゃお前、言葉のアレだ、アレ」
「あやだろ」
どもる池谷に、慎吾はすげなく言っていた。その自分の声にも言葉にも違和感を得た。これ以上この場にいると、自分が自分の考えている自分から離れていくような予感があった。カーゴパンツのポケットに入れた財布から金を過不足なく取り出しテーブルに置き、立ち上がる。
「勘定任すぜ」
「お、おう」
まだどもったまま、池谷は頷き、「ああ」、と焦ったように言ってきた。
「それじゃあそのうち俺そっちに行くから」
慎吾は立ったまま、数秒その男を見下ろして、そして言った。
「から?」
「……中里さんに、よろしく」
池谷は不可解そうにそう言った。正しくない流れが生まれていた。正しい流れが何かは分からないが、これが正しくないようには感じられていた。
「てめえで言えよ」
慎吾は池谷を見下ろしたままそう言って、ファミレスから出た。足を重くする流れがまだつきまとっていた。会わなければ良かったと思うのは初めてだった。その後悔が何に由来するのかは考えたくもなかった。そう思ってもどうせ、一月経てば会いたくなるのだろう。会って、確かめたくなるのだ。まだ自分が正常であることを。自分の車に乗り込み、舌打ちしてから、面倒くせえな俺、と慎吾は思った。
(終)
(2007/11/01)
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