遠近触



 長袖の上にパーカーを着てその上にはダウンジャケットを身につけてもなお、慎吾は首をすくめていた。寒い。ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、パーカーのフードを被ってなるべく風に肌を打たれないようにしても、寒い。カーゴパンツとパンツしか履いていない下半身は冷気に体温を奪われつつある。スニーカーと靴下は氷のように冷たく感じられる。関節が硬直している。寒い。
 こんな寒い日に外に出るものではない。だが慎吾は外にいる。それも夜の峠にだ。多少なりとも標高が上がれば寒さも増すに決まっている。寒がりが寒い日に夜の峠に来て立っているものではないのだ。
 しかし慎吾は山にいる。愛車から出て寒風に身動きを封じられながら煙草を吸っている。車に乗っていた方がまだ暖かいが外にいる。車に乗って走っている方がまだ寒さも忘れられるが外にいる。外にいたい理由があるからだ。外にいて、見たいものがあった。
 改造車の集まるその場所は、機械の光が闇との境を作り出し、人を明らかにして、人を隠す。その男は明らかにされている。黒く短い髪、太い眉、陰になりがちな睫毛の濃い目と削げた頬と厚い唇、直線的な輪郭。たっぷりした黒いセーター、スリムなブルージーンズ、白さ際立つスニーカー。その男は黒い車の傍に立ち、他の男と時折笑いながら話をしている。
 慎吾は首をすくめたまま煙草を吸い、そうしてただその男を見る。その男を見るために外に立ち、煙草を吸う。その男を見たいから冷たい外気に身を晒す。見てどうしたいという思いもない。見てどうするという考えもない。見られたいという意識もない。見られたくないという意識はある。ただ少し離れた場所から見るだけで十分なのだ。ただ視界に収めるだけで、冷える肉体の奥の奥に熱を感じる。だから寒い中でも立っていられる。見ていられる。見たいと思う。熱を感じたいと思う。もっとその男を感じたいと思う。
 しかし寒いものは寒かった。奥に生じる熱は限定的過ぎて肉体を温めるまではいかない。全身に鳥肌が立っている。そろそろ車に戻らないと風邪を引きそうな予感がする。まだその男を見ていたいとは思うが、病気になってはしばらく見られなくなってしまう。長期的な視点も必要だ。煙草ももう吸い終える。そうしたら車に戻ろう。
「お前、寒いの苦手なのか」
 決めたところで横からそう声をかけられた。目だけやれば柄の悪い男が立っている。髪が後ろに詰められているから柄の悪い顔が強調されている。その下には襟付きシャツと薄手のジャケット、チノパン、デッキシューズ。見てると寒気がしてきたので、慎吾は熱を感じさせる男に目を戻してから、唇に挟んだ煙草を落とさないように言った。
「冬なんざ、消えちまえばいい」
 季節は春夏秋で十分だ。冬は寒いし山を雪で埋めるしで良いことがない。山が閉まるとあの男が見られなくなる。熱を感じられなくなる。今年初めてそれを経験しなければならない。今年初めてあの男と出会ったからだ。今年初めてその熱を感じたからだ。
「そんなに嫌なら、もっと南に行きゃいいんじゃねえか」
 横に立つ寒気をもたらす男が言う。冬のない土地に行けるものなら行ってしまいたい。だがここには生活がある。仕事がある。それ以上に、あの男がいる。
「俺はここが気に入ってんだよ」
 この峠道の起伏、曲直、路面の荒れ方、防護柵の位置、景色、匂い、集う車、集う走り屋、すべてが気に入っている。最も気に入っているのは、他の男との会話で笑みを零しているあの男かもしれない。だが、それは誰にも言わない。他人にこの熱を奪われたくはない。
「地元愛が強いんだな」
 感心するような声だ。慎吾はもう一度横の男を目だけで見た。男は寒気をもたらす目で慎吾を見る。慎吾は男を見ながら乾いた唇から煙草を吹き飛ばした。
「お前見てると寒気がするぜ、寒そうで」
 煙草は男の足元に落ちた。男がそれを見てから慎吾を見る。その顔に笑みが乗っても、もたらされる寒気に変化はなかった。
「そりゃ悪かったな。俺は寒くねえからよ」
 笑いながら言って、男が歩いて行く。男の進む先に何があるかは知れている。黒い車、その傍に立つ男。慎吾に熱を感じさせる男。話し相手が消えて一人になっている。熱を感じさせる男に、寒気をもたらす男が近づいている。その行く末を慎吾は見ず車に戻る。全身は冷え切っている。風邪は回避したい。あの男を見ることで得られる熱を冷やされることも回避したい。それは誰にも言わない。他人にこの熱を奪われたくはないのだった。
(終)


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