あなたのために



 つまるところは、力だ。力があればこそ、人は従う。人は力を求める。だから人に求められるには、力を持たねばならない。 腕っ節、金、権威。何でも良い。人を怯えさせるもの。人を恐れさせるもの。それさえあれば、足場は整う。何者にも侵害されない自分の世界が作り出せる。
 そして、力がなくなれば、人は去るのだ。

 白んでいく空を眺めるのは今週に入ってから三回目で、そして今日は週の終わりだった。唇で挟んだ煙草は吸わないうちにカーペットの上に灰となって落ちる。窓の前には黒い小さな焦げ跡がいくつもある。灰皿は窓枠に置いていた。吸殻で山盛りになっている。中学生の時に道で拾った。ガラスの切り込みが綺麗に見えた。高校二年生の夏、五歳年上の兄に、物持ちだけは良いな、と言われた。その時、兄の額から噴き出した血が、まだ端にこびりついている。
 島村は咥えていた煙草を指でつまみ、灰皿に積んだ吸殻の頂に埋めた。
 目を前へと向ける。部屋の窓越しに細い路地が見える。人はいない。生き物もいない。鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。家々はまだ眠っている。沈んでいる景色の上を薄っぺらな青黒さが覆っている。
 あれからどこに行かずとも、朝まで過ごせるようになった。

 ここ一週間、毎日プライベート用の一つ目の携帯電話に着信がある。午後一時、午後八時、午前七時、午後十時など、時刻はばらばらだが、大概が同じ人間からだ。
 島村はそれに出ない。
 メールが二日に一度、違う人間から届く。
 島村はそれを開かずに消す。
 誰が電話をかけてきたのか、誰がメールを送ってきたのか、分かっているからだった。着信拒否まではしなかった。隠されるほど人間は見つけ出そうと躍起になる。何もしないまま待てばいい。そのうち飽きる。その程度のものだと島村は思っている。だから何もしない。あれから一週間近く、仕事以外、もう何もしていない。

 日が過ぎても、財布は薄くならなかった。少し怖くなっていた。

「あ、どうも」
 マンションの部屋のドアの前に立っていた男は、気まずそうに会釈した。柔らかそうな茶髪、垂れた目じり。人を待っていただろうに、待たせたような気弱さが漂っている男だ。
「どうも」
 島村は笑わずに言った。まさか待ち伏せされるまでは考えていなかった。驚きは、しかし長くは続かない。ドアの前に立っている男には、必死という概念が見当たらなかった。島村は男の前に立った。そのまま動かず男を見た。男はドアの前に立ったまま、焦ったように目を泳がせ、そして途端にぞっとするような落ち着き払った顔になった。
「島さん、山に来る気はないんですか」
「ないよ」
 問いに島村は、簡潔に答えた。男はじっと島村を見る。そう変わらぬ背丈だった。視線は同じ高さでぶつかった。
「一回負けたくらいで、何でそんなにいじけてるんです」
「いじけてるように見えるか?」
「自分は必要とされているって思いたいんじゃないですか」
「そうだとしたら、俺はそもそもチームを作っていない」
 男は怪訝そうに眉をひそめた。島村は首を回した。カキカキと鳴った。
「力がなけりゃ、そこで終わりさ。お前らが俺を必要とする必要がない。違うか?」
「一回負けたくらいで、俺らがあんたを必要としなくなるって?」
「そういう義務はなくなるってことだよ」
「義務って何すか」
 島村はそれには答えず、男の着ているパーカーの襟ぐりを掴み、引き寄せた。互いの鼻先がつきかけた。
「怖いか?」
「何言ってんすか」
「殴られるんじゃねえかって」
「チームに戻らないんすか、島さん」
「もう俺のものじゃない。興味ねえよ」
 男の体を横に移動させ、コートのポケットからドアの鍵を取り出し、錠を外す。男はもう何も言わなかった。島村は部屋に入り、鍵をかけた。

 それから三日間、プライベート用の一つ目の携帯電話は一度も鳴らなかった。

 夜、グラスに入れた生ぬるいウィスキーを舐めながら、地上波で入っている洋画――車に人が襲われるだの何だのというホラーなのかアクションなのか分からない映画――を見ていると、ふと、車を使ったのはいつだろうか、と思った。思い出せなかった。記憶にない。多分、乗っていないのだ。あの日、山から帰ってきた時以来、通勤する時ですら乗らなくなった。

 あれは何年前のことだったろうか。いや、何年も前のことではない。一年と少し。遊びで行った群馬だ。親父についていくまでは住んでいたから、何となく地理は分かった。本当に速い奴と走る気はしなかった。井の中の蛙を引っ張り出して、無残に干からびさせたかっただけだ。むしゃくしゃしていた。何でだったっけ? きっと些細なことだ。思い出せないくらいどうでもいいこと。気分は晴れたのか? そんなような気もする。はっきりとは覚えていない。その程度のことだったのだ。

 対向車のライトが目に痛く、島村は舌打ちした。何でそんなに明るくするんだ? 基準に沿っているのか? 人に迷惑はかけないようにしましょうって習わなかったのか?
 指先に絡むステアリングの感触が心もとない。シフトノブが硬いような気がする。まるで女のようだ。二週間会わないだけで、心変わりする。新しい乗り手が欲しいか? そうだな、もっと大切に乗ってくれる奴がいるかもしれない。少なくとも、峠道を頻繁には走らないような、道徳的な奴。
 ウインカーを上げていなかったことに気がついたのは、左折してしばらく経ってからだった。
 そもそも、ウインカーに何の意味がある? 方向指示器だ。行く方向を示す。対向車にも後続車にも通行人にも分かる、車の行き先。
 俺の行き先はどこだ?
 島村は前歯を舌先で舐めた。乾燥している。唾を飲むのを忘れていた。俺はどこに行く? 考えようとすると、吐き気がした。考えるのをやめても、吐き気は消えなかった。

 一年と少し前のことだ。一年と、半年に足らないほど前のことだった。母親を懐かしんだわけではない。家族を懐かしんだわけではない。思い出にすがろうとしたわけではない。自分がそうしないことを確かめたかった。自分が人道から外れつつあったのはそれが理由ではないことを確かめたかった。実際、空気を肌で感じても、足で地を踏みしめても、何も思わなかった。何も思わなかった自分を感じた。嬉しかった。だが、やかましい走り屋どもを見ていると、再びむしゃくしゃし出した。

 一年と半年に足らないほど前のことだった。その地ですぐれていた一人の走り屋に勝った。その走り屋に、二週間前負けた。こちらと同じ車に乗っていた。乗り換えていたのだ。同じ車に――おそらくグレードも同じだった――地元で負けた。そして終わった。

 人がいつか必ず去るものだということは、七歳の頃から知っていた。

 現実を理解することに苦しんでいるような男の顔が、島村の目に映っていた。硬そうな黒髪、太い眉、凛々しい鼻筋、厚みが分かる唇。そして、あらゆるものを見通せそうな大きな目。どれも微妙に歪んでいる。
「何の用だ、島村」
 挨拶はなかった。いや、挨拶はしたのかもしれない。だが、島村は覚えていなかった。どうやってここまで来たのかも覚えていない。誰かがわざと記憶を消去しているようだった。
「久しぶりだってのに、随分な言い草だな」
 すらすらと言葉は出てきた。久しぶりだったろうか? 言ってから疑問が浮かぶ。こいつは誰だった?
「再戦の申し込みか?」
「まだ二週間しか経ってない」
「じゃあ何の用だ」
「あんたが一年以上待ったんだ、俺もそれだけ待つべきだろう」
 ああ、そうだ、こいつだ。島村は思い出した。顔の筋肉に無駄な力を入れているこの男。黒いR32に乗っている。
「中里毅」
 そんな名前だっただろうか? そんな名前だった。人の真似を恥じることなくやってのけている男。鬱陶しい面構えの男。島村は眉根を寄せた。何で俺はこいつと話してるんだ?
「おい、島村」
 男は面倒そうに声をかけてきて、しかし不意にぎょっとしたように目を見開いた。
「お前、まさか……飲んでねえよな?」
 何を、と尋ね返せばごまかす機会もあったのかもしれない。だが、島村は眉根を寄せたまま、ウイスキーだけだ、と言った。なぜ男がますます驚くのか、しばらく認識できないほど、現実が不明瞭だった。
「ここまで飲酒運転してきたってのか、お前」
「酔ってねえよ」
「どう見たって酔ってんぜ。おい、もう車を運転するんじゃねえぞ」
「お前に命令される筋合いはねえな」
「バカ野郎、筋合いだの何だのって話かよ」
 男が肩に手を置いてくる。島村はその手を払うこともせず、飲酒運転について少しだけ考え、吐き気がしてきたのでやめた。
「じゃあどういう話だ? 教えてくれよ」
 尋ねると、男は鼻白んだ。忙しい奴だ。表情を状況に操られているようだった。
「お前にそのまま事故起こされたら、俺らも原因の一端と見なされるかもしれねえだろ」
 答えは男とは別方向から返ってきた。振り向けば、別の男が斜め後方に立っている。悪人めいた顔の中、気のなさそうな二つの目が島村をしかと捉えていた。心配の色はない。窺えたのは、苛立ちだ。はた迷惑。言外にも、実際にもそう言っていた。
「そういうことだ」、と我が意を得たりという風にはっきりとした声を上げたのは、先ほどの男だ。中里毅。島村は中里を向き、肩に置かれていた手をどけた。すると中里は傍に立つ、短い金髪を逆立てている男を向いた。
「仕方ねえ、おい、高瀬」
「何よ」、と金髪の男が不思議そうに言う。
「お前こいつ泊まらせてやれ。32は運転できるだろ」
「は? いや、まあ俺何でも運転はできますけど、うち今無理だぜ」
「何で」
「引越したんだよ、アキんちに。あれ、言ってねえっけ?」
 中里は厳しい顔になり、初耳だな、と深刻そうに呟いた。そうか、とどうでもよさそうに言った金髪が、だからうちは無理だな、と結論を出した。そこで島村はようやく、なあ、と自分の意見を挟んだ。
「何で俺が知らねえ奴に自分の車を使われて、知らねえ奴の家に泊まらなきゃならないんだ? 放っといてくれよ。酔いが覚めるまでここにいる」
 酔ってはいないつもりだったが、そう言っても信用されないだろうと思えるほどに、冷静さが戻っていた。だが、
「酔っ払いの言うことは信用しねえことにしてるんだ、俺は」
 島村の配慮はその中里の言葉によって根底から潰された。
「初耳だな」、と言ったのは斜め後方の男だった。
「てめえは余計なことを言うな、慎吾」、むっとしたように中里は言い返した。へいへい、と斜め後方の男は肩をすくめる。この会話の流れが気に食わないような態度に見えた。だが島村には関係なかった。どいつもこいつも関係がなかった。
 何で俺はここにいるのか。何で俺はここまで来ちまったのか。
 答えの見つからない問いが延々頭の外側を巡っていく。その間にも、中里は話を進める。
「高瀬、それじゃあ俺の家までこいつの32運んでくれ」
「いいけど、お前んちにそいつ泊めんのか?」
「他に良い方法があるかよ」
「野垂れ死にさせる以外俺には思いつかんね」
 金髪頭は島村を見もせずに淡々と言い放った。中里はそれを平然と受け、島村を向いた。
「こいつは今まで乗った車はねえってくらい色んな車に乗ってるから、問題ねえよ。お前はとりあえずうちに来い、島村。嫌っつっても無理矢理にでも連れて行くぜ。そのまんまでお前を放っとくなんざ、俺の気が済まねえ」
 この男の自己満足のために使われるのだと思うと、腹の底をなめくじが這っているようなねっとりとした感触が生まれた。気分が良いものではなかった。だが不愉快が過ぎるわけでもなかった。島村は目を細めて中里を見ていた。万事を受け入れることに苛立ちを覚えるほどの自尊心は残っていた。
「なら、そいつにあんたの車を運転させてくれよ」
「あ?」
 中里は顔をしかめて目を瞬かせた。嘘くせえ、と思いながら島村は言葉を続けた。
「そして、あんたが俺の車を運転してくれ。問題ねえんだろ?」
 金髪男が中里を見る。中里も金髪男を見る。金髪男が肩をすくめる。中里が眉間に縦皺を刻む。金髪男が頷く。中里も頷いた。それで決定したようだった。

 閉じている目の上を光が時折過ぎていく。硬いシートとうるさいエンジンに挟まれ、震動が足の底から絶え間なく伝わってくるのに、羽毛にでも包まれているような柔らかさを感じていた。休息を求めているから、心地良いと認識しようとしているのかもしれない。精神は肉体を包む。肉体は精神を後に回す。
「気持ち良い走り方をするな、あんた」
 目をつむったまま島村は呟いた。錯覚にせよ、今この身が安心という名のぬるい溶液に漬かっているのは事実だった。
「別に、いつも通りだ」
 運転する男の、不機嫌そうな声が耳を打つ。島村は苦笑していた。
「話が通じてねえよ」
「酔っ払いが文句を言うんじゃねえ」
「酔ってないんだけどな」
「酔ってる奴ほどそう言うんだよ」
「世話焼いてる自分に、腹立ててんだろ」
「あ?」
「俺に八つ当たりはしないでくれよ。放っといてくれりゃあ自分で戻ったんだ」
 一過性の衝動だ。何もしなければ何もなかったことにできた。島村は目を開いた。対向車はいない。この車のヘッドライト以外に辺りを眩しく照らすものはない。何で俺はこんなところにいるんだ。島村は思った。考えて行動をしないことは久しぶりだった。久しぶりすぎて、始末の方法が思いつかない。
「お前がこれほど性格の悪い奴だとは思わなかったぜ」
 重い車のタイヤを滑らかに動かしてカーブをすり抜けた隣の男が、腹立たしそうに言った。俺もだよ、と島村は口の中で呟いた。

 愛想は良く、女子供老人に親しまれるような態度。仕事で失敗することはなかった。峠でも騙される奴が現れた。同年代の男相手に用いるための技術ではない。それでも人当たりが良いだの人格が良いだの頼りになるだのと囁かれることが多かった。演じているつもりはなかった。自然体。そこに、習慣が響いた。他人の自尊心が傷つく様を見るのはなかなかに気分が良かった。それ以上に、抵抗する気を捨てていくクズ共を見るのが楽しかった。だというのに、そのクズ共は勘違いをしている。そのクズ共でさえ、勘違いをする。

 ワンルームの広いとも狭いともいいがたい部屋だった。雑然としていた。それでも数列を見ているような規則性を感じられる空間だった。解法を知っていれば理解ができる。知らなければ単なる記号。人をあまねく受け入れると見せかけて、選別している部屋。
 俺は選ばれたらしい。招かれた部屋に立って島村は思い、そう思った自分を嘘くさく思った。
 部屋の電気をつけ、財布や携帯電話をテーブルの上に置き、押し入れの戸を開けた家主は、厄介払いをしたそうに言ってきた。
「あれだ、布団敷いとくから、その間にシャワーでも浴びてろよ。頭洗ってスッキリさせとけ」
「頭はスッキリしてるし、俺はそれより早く眠りてえ」
 中里は怪訝そうに振り向いた。島村は肩をすくめた。眠気はなかった。ここ最近、眠れない日々が続いている。今日もそうだ。眠れなかった。だが早く眠ってしまいたかった。こんな部屋で悠々としている必然性を見つけられなかった。
「そうか」
「そうだ」
「なら、そのテーブルを窓の方に寄せてくれ」
 指示通りに島村は動いた。空いた床に中里は布団を敷いた。几帳面にシーツのしわを伸ばし、立ち上がる。島村は布団に座ってその男を見上げた。男はどこか居心地悪そうだった。
「俺は風呂に入るけど」
「俺のことは気にしないでくれ。気にされると鬱陶しい」
 島村は中里を見上げたまま、はっきりと言った。中里は瞬間的に子供じみた不機嫌そうな表情を作ったが、すぐに半分を諦めにし、分かった、と頷いた。島村はセーターとチノパンを身につけたまま布団に入った。きっちりと仰向けになり、目を閉じる。電気は点けられている。人間の動く気配と音がする。床が軋む音、何かが擦られる音。寝る環境ではない。島村は思った。俺は何でこんなところにいるんだ?

 閉じている目の前が暗くなったのは、ひとしきり近くで人の気配がした後だった。島村は目を開いた。ほの明るい蛍光灯が見えた。十秒数えたらここから出るつもりだった。五秒数えたところで、声をかけられていた。
「島村」
 左隣には家主のベッドがある。無視はできた。だが島村はもう五秒を数えてから身を起こした。ベッドのあるはずの方を見ると、ライターの火がかすかに揺らいでいた。それが消え、小さな赤が宙に点滅する。煙は暗闇でもうっすらと見えた。何より呼吸器がいち早く察知した。
「お前、何があったんだ」
 島村が一言も発さぬうちに、中里はそう続けてきた。顔はまだはっきりと見られなかった。目が慣れていない。向こうもこちらの顔は分からないだろう。島村は何の表情も作らず言った。
「野暮だな、あんたも」
「答えるつもりはねえか」
「ここまで引っ張ってきといて、今更物分かりが良くなるのか」
 沈黙がおりた。目が徐々に慣れてきた。輪郭は明確となった。赤い光が移動し、元の位置に戻る。島村は布団に入り直し目を閉じた。煙草の灰を落とす音がした。他人が息を吸う音がした。島村は意識せずに声を出した。
「負けないようにしてきたんだけどな」
 衣擦れの音がする。呼吸の音はしない。目をつむったまま声を出し続ける。
「負けたら終わりだってことは分かってたから、堅実にやっていたつもりだった。けどあんたが32に乗ってリベンジに来るなんて、考えもしてなかった。ありゃ想定外だった」
「負けたら終わり?」、暗闇から低い、ささやかな声が返ってきた。
「ああ」
「何が終わりなんだ」
「全部だよ。俺が作ってきたもの、全部だ」
「どういう意味だ?」
「負けはゼロでなけりゃあ完璧じゃない」
「だから終わりか」
「あんたには分からねえだろうな。負けた相手の車に鞍替えできるあんたと俺じゃあ性質が違う。俺は一度壊れたものには興味が持てない。だからそこで終わりなんだよ。何も始まらねえ」
 再び沈黙。他人の呼吸音。遠い煙草の香り。懐かしいものを島村は感じた。目の奥を揺らがせる感覚だった。眠気だ。それは唐突に切断された。
「走ってんのか?」
 かすれている声は復活していた。島村は目をつむったまま口を動かした。
「いや」
「チームはどうした」
「さあな」
「お前の作ったチームだろ?」
「もう俺のもんじゃねえよ」
「何だ、その理屈は」
「そこが俺である必要性がなくなった」
「もっと分かりやすくものを言ってくれ」
「あんたじゃねえからな、俺は。分からないのは当たり前だ」
「だから、もっと分かりやすく言ってくれよ」
 自分の心理を隣にいる男に説明する義務は島村にはなかった。それでも島村は口を動かした。
「負けたら終わりにするようにしてきた。力がないもんに縋ろうとする奴を見るのは嫌いなんだ。俺の速さにまとわりつくのは許せる。そういう奴らはまだいい。利用できる。けどそいつらが俺にまとわりつくなんざ、考えるだけで反吐が出るね。勘違いを真実だと信じる馬鹿に付き合いたくはねえ。だから終わりだ。俺は、そうできるように今までやってきたんだ。誰に文句を言われる筋合いもない」
 島村はそれを自分のために言った。だから、
「よく分からねえが」
 という中里の言葉に、島村はさほど失望しなかった。それよりも、続けられた言葉に驚いた。
「作ったもんを作りっぱなしにするのはどうかと思うぜ。責任もって回収しろよ。お前が何を言おうと、そりゃお前のもんだ。お前が守ってやらなきゃ、誰が守るってんだ」
「守る?」
 目を開け、頓狂な声を島村は上げていた。守る。聞いたことのない言葉に感じられた。
「チームってのは、自分の一部じゃねえか」
 当然のごとく中里は言った。補足のようだった。島村はしばらく何も言わなかった。
「あんた、俺に負けてどう思った」
 話の変え方は唐突だったろう。だが中里はそれに疑問を挟んではこなかった。
「悔しかったぜ。このままじゃ駄目だと思った。もっと速くなりてえって。俺は、そう器用にはできねえからよ。でも何とかしたかったんだ。俺の手で」
 押し殺したような感情の波に、その声が揺れているようだった。島村は背中に熱を感じた。起き上がっていた。煙草の火はもう見えなかったが、闇に目は順応していた。中里はベッドの上に片膝を立てて座っている。目が合った。

 理解してもらいたいとは思わなかった。ただ、勘違いをされたくなかった。そう、最初から何一つ勘違いをされたくなかった。つまりは何もかもがそれだけだった。分かり合いたいわけではなかった。チームは自分の一部。運命共同体とでも言いたかったのだろうか? チームが自分のものであるというなら分かる。この男に敗れる前まではそうだった。だが今はもう違う。自分の力からは離れたものだ。自分のものではない。自分の一部などはありえない。その考え方を理解することはできなかった。だからそれについては何も言い返さなかった。だというのに分かり合えるわけもない。だがそれでも同じだった。負ければ悔しい。速くなりたい。自分の力でどうにかしたい。その思いは変わりない。そして、それを表に出すか、それを実行するかどうかが、違いなのだ。

「おやすみ」
 ひどく大きな目だと思った。何もかもを見透かされそうだった。同時に何も見られていないようでもあった。島村は布団に入り横になった。しばらくして隣も静かになった。それまでもそれからも唇は妙に熱かった。だが眠気がすべてを遮った。

 夢は見たかもしれないし、見なかったかもしれない。

 尻が震えていた。正確にはチノパンの尻ポケットに入れていた携帯電話が震えていた。それを手に取ってから、島村は覚醒した。布団から起き、携帯電話を見る。着信だった。見知った名前からだった。携帯電話を開き、まず通話ボタンを押して、島村は立ち上がった。
「もしもし」
「え、あ……」、通話相手が戸惑った声を出している間に、玄関で靴を履く。外に出ると、ようやく相手が続けてきた。
「栄吉か?」
「ああ」
「あー……えーっと、久しぶり」
「そうだな」
 久しぶりに、早朝の冷たい空気に触れた。かけてきたくせに、まさか電話に出るとは思っていなかったのだろう、相手の沈黙は長かった。
「……なあ」
「何だ」
「タカから聞いたんだが……チームに戻る気、ホントにねえのか」
 ない。そう明言すればそれで済む話だった。もう何に煩わされることもない。自分の力は奪われた。自分のものではなくなった。それだけだ。だが島村はたった二文字を言うために声を出すことができなかった。目の前は薄青い空と路地。人はいない。街はまだ眠っている。自分もまた先刻まで眠っていた。そして今、目覚めた。
「気が変わった」、と島村は言っていた。
「え?」
「今日、出られる奴は全員出ろって伝えとけ。いつも通りだ」
「え、栄吉?」
 相手は混乱しているようだった。だが意思は明示したので島村は通話を切ろうとした。ただその前に、自分に対して意思を明示することにした。
「俺のもんを、他の奴らにいじられるのは、気に食わねえからな」
 混乱に拍車がかかった声を、島村は最後まで聞かなかった。

 部屋に戻るとベッドの上に男が座っていた。島村は玄関のドアに差し込まれていた新聞を差し出した。男はまだ眠たそうな顔でそれを受け取った。
「行くのか」
 島村が布団を畳んでいると、眠たそうな声が飛んできた。布団をその場に揃えて置いてから、島村は声を返した。
「ああ。回収しなけりゃならねえ。だろ?」
 目を向けた中里の顔は、完璧に目覚めている人間のものだった。島村はチノパンの前ポケットを左手で探った。貸して返された車の鍵がそこにあった。
「また会えるか」
 立ったまま、尋ねる。座ったまま、中里は答えた。
「リターンマッチにはいつでも応じるぜ」
 どこか皮肉げな笑みがつけられていた。島村は似たような笑みを浮かべて右を見た。玄関がある。一歩足を進めた。ベッドの方へだ。顔を前へ戻す。すぐ傍に、相変わらず現実を理解することに苦しんでいるような男の顔がある。それに顔を寄せていっても、動きはなかった。唇を触れ合わせても、動きはなかった。触れるだけで離しても、動きはなかった。
「避けねえんだな」
 島村は先ほどとは別種の笑みを浮かべていた。男はそこでようやく瞬きをし、顔を俯かせ、口元を震わせた。
「……い、意味が分かんねえ」
「会いに来るよ」、中里の呟きは聞くだけとして、島村は話を戻した。「そのうち」
「……そうか」
「金は余ってんだ」
「あ?」
「山に行かないだけで、減らねえんだよな。億万長者になりそうな気分だったぜ」
「やっぱそういうもんか……」
「その分、楽しまねえと」
 今度は笑わずに言った。俯いていた中里が顔を上げた。複雑そうな顔だった。
「まあ、頑張れよ」
 また複雑そうな声で、それでもそう言ってきた。ああ、と島村は頷いた。そしてその部屋から出た。

 愛車は傷一つなく駐車場にある。昨夜、先にこの車から降りた男が調べていた車も無事な様子で隣にあった。あらゆる光を吸い込む黒と、一切を跳ね返す白のコントラスト。島村は少しの間、その二台を眺めてから、白の32のドアロックを外した。

 つまるところは、力だ。力があればこそ、人は従う。腕っ節、金、権威、テクニック。人を怯えさせるもの。人を恐れさせるもの。そして、人を溺れさせるもの。
 指先に馴染む車の感触を楽しみながら、島村は細く長く息を吐いた。
 もう、負けるつもりはない。
(終)

(2007/08/19)
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