気長な変遷
何かを摂取し続ければ、自然と耐性はついていく。酒、煙草、薬。つまり、何かの耐性をつけるには、それを取り込み続ければ良い。したがって、男に強くなりたければ、男の大勢いる場所に行き、男の存在を感じまくれば良いのである。
「これぞまさに毒をもって毒を制すってやつよ、うん」
「そのロンポーは無理あるよ、沙雪」
直線道路を行くシルエイティのステアリングに両手を軽く置いたままの真子に、疑念たっぷりの眼差しを向けられて、あは、と沙雪は笑ってごまかした。
「まあいいじゃない。あたしは中里クンとのわだかまりを解けて、真子は男に強くなれる。これぞまさに、一石二鳥ってやつなのよ」
「別に、強くならなくてもいいんだけど……」
語尾を濁しているのは、全否定をする気もないからだろう。押せばいける。確信を抱いた沙雪は、「でも」、と真子を丸め込むために、声のトーンを一つ落とし、真面目さを加えた。
「これからのこと考えたらさ、慣れとくに越したことはないでしょ?」
「それは、まあ……」
真子はわずかに頷いた。ステアリングを握ると性格が積極果敢な大胆方面へシフトチェンジされ、先行車が筋違いのタイミングでブレーキを踏みやがると顔つきが怪しくなるとはいえ、普段は大人しい女の子である。気心知れた女同士での軽いドライブで、普通の会話ができないほど頭がいっちゃうわけではない。冗談の中に含ませた、こちらの真意は伝わっているはずだ。
走り屋としてのこれからのこと、将来のことは、今まで節目節目で話してきた。その中から真子がどの道を選ぶにせよ、男性との接触は避けられないだろう。だからといってあばずれになる必要はないし、沙雪は真子にそんな風になってもらいたくもなければ、生き方を変えてほしいわけでもないが、ただ、車好きの優男に親切にされた程度でいちいち意識する前に、そんなものは夏場の生ゴミから湧き出るコバエのようにこの世の中に腐るほど存在するという見方も知ってほしいのだ。そして、たくましく、新たな道を切り開いていってほしい。
「ね、いいじゃん。もうここまで来てるんだし、今更帰るなんて言いっこなしよ」
真子の口数は、女の子にしては少ない方だ。ヘアもメイクもファッションもかつては何ともおざなりで野暮ったく、折角の器量の良さが死んでいた。今の真子が、胸まで伸ばした髪に軽さを加え清純な顔に艶を加え、均整の取れた体に飾りを加えながら肌は隠さず、どの男でも振り向くレベルに達しているのも、沙雪が膝丈スカートすら恥ずかしがる真子の尻を散々叩きまくってようやくの結果である。いつも謙遜が過ぎて、時に卑下してしまうほど、純情な子なのだ。しかしひとたび走り出せば、沙雪のナビの元、真子は碓氷峠最速を実証する卓越したドライビングを見せつける。
「……うん」
そして真子は、一度自分がやると決めたことは何があっても貫徹する、そんじょそこらの男では敵わないほどの、タフな魂を持っている。だからこそ、そんじょそこらの雑魚野郎になど、真子を嫁にやりたくはない沙雪なのである。その真意まで伝わっているかどうか定かではないが、ともかく真子の了承が得られたことは定かだった。
「じゃ、決まりね」
沙雪が声のトーンを元に戻すと、はあ、と真子は諦めたようなため息を吐いてから、苦笑に似ながらも毒気のない、優しげな顔が引き立つ楽しそうな笑みを浮かべ、沙雪を見た。
「じゃあ、妙義山に……」
「レッツゴー!」
真子に皆まで言わせず、沙雪がシルエイティの天井を殴打しない程度に拳を突き上げると、はいはい、と真子は正式な苦笑をして、ステアリングを綺麗に切った。
この統一感は何なんだろう、と沙雪は不思議に思った。地元碓氷峠の走り屋にもそれなりの統一感はあるが、それは似たような立場、似たような性格、似たようなセンスの男が集まっているがゆえの、画一的な安全と退屈を伴うものだ。
だが、ここ妙義山に集う走り屋には、ぱっと見ただけでも、金髪にレザーを合わせたロック調、茶髪にネルシャツの学生風、黒髪を清潔に流しているサラリーマン風等々、明らかに違う立場、違う性格、違うセンスの男たちが、無秩序に混在している。だというのに、皆まとう雰囲気は似通っており、碓氷峠に集う走り屋以上の強い、乱雑で刺激的な統一感を放っているのだ。
「おー、シルエイティ!」
沙雪と真子がその場に降り立った瞬間から、そのまとまりに欠けながら統一されている、群馬随一の柄の悪さを誇る男たちは、大げさにざわめいた。
「ブルーじゃねえか!」
「そうだブルーだ!」
「何ブルーだっけ?」
「え?」
「スカイブルー?」
「マリンブルー?」
「ブルーブルーブルー……」
「ブルースカイブルー……」
「ブルーライトヨコハマ……」
「横浜……中華街……」
「中華……チャイナ服……」
「着せてえ……」
「脱がせてえ……」
真っ先に出迎えてきた彼らは、口々勝手なことを呟いた挙句、視線を宙に固定して遠い世界に旅立ってしまう。その妄想たくましきフリーダムっぷりを、いささか強い刺激を受けて唖然となっている真子の横で、相変わらずっていうか進化してるっていうか退化してるっていうか、と沙雪は望郷に似た念を抱きながら眺めた。
「沙雪さん! 真子さん! こんばんはァ!」
と、子犬のような愛嬌のある男が一人、両手を振ってきた。手を振り返しながら、沙雪はそちらに歩いた。真子もついてくる。子犬のような男の周囲にまた別の男たちがいて、そこに二人、特に目立つ男がいた。
左側の、長い茶髪を顔の横に垂らしている柄の悪い代表格のような男は、妙義最速ダウンヒラーを自称する赤いEG−6のドライバー、妙義ナイトキッズの庄司慎吾であり、沙雪の幼馴染である。その腕前は口だけではなく、鋭い速さを繰り出す技術の高さは他者も認めるものなのだが、いかんせん性格に難があるため諸手を挙げて褒められることがほとんどない。幼少のみぎりいくら沙雪が可愛がってあげても金魚の糞のようについてきてくれた健気な男の子は、思春期突入前から繊細さをこじらせてひねくれ始め、偏屈街道一直線、今では群馬随一の凶相の持ち主となってしまった。再会する度に、育て方を間違ったかな、と慎吾の反応が面白くてついからかい、もとい可愛がりすぎたことへの一抹の後悔を沙雪が覚えるほどである。
その凶状持ちと見なされがちな慎吾の右側に立っているのは、去年三連敗の憂き目に遭いながらも、今もって妙義最速の看板を奪われてはいない、豪快かつ粘り強い走りをする黒いR32のドライバー、妙義ナイトキッズのリーダー格、中里毅だ。その短い黒髪の下にある顔は比較的整ってはいるものの、柄の悪さの上に一般受けのしづらい濃さを備えており、沙雪の好みからもかけ離れている。だがしかし、マニアには受けるタイプである。
「こ、こんばんはえーと、お二人ともご無沙汰でその節は、どうもでした」
そんなマニアが多数派を占めているらしい、群馬随一の柄の悪さを誇る走り屋チームの統括者たるいかめしい顔つきの男が、動揺を隠さずに挨拶してくる様には、独特の、胸をくすぐるような愛嬌もあるもので、久しぶり、と真子はにこやかに挨拶し、あはは、と沙雪は心から笑っていた。
「変わんないねえ中里クン」
「は、はあ」
どぎまぎ感を漂わせ続けながらも、中里は素朴な笑顔を向けてくる。それは沙雪の好みには入らないだけに、良い印象が際立って、腹の底に居座っていた罪悪感を呼び起こした。沙雪は一旦横に立っている真子が、まだ唖然としていながらも最低限自己を保っていることを確認してから、中里の前にきちんと立ち、この前はごめんね、と謝った。
「あたしが先走って勝手にやったことなのに、自分にはなーんにも責任がありません、みたいな態度取っちゃって」
それは去年の秋の話だった。沙雪は中里をフッた。正確には、沙雪が中里を好いていると勘違いした中里が沙雪に告白してきて、沙雪はそれを情け容赦なく跳ねつけた。
何も沙雪とて恋心をぶつけてくる異性すべてを勘違い野郎として処理するわけではない。すべては慎吾のせいである。慎吾が中里との定番の妙義最速争いをタイムアタックで決することに満足せず、バトルを持ち出したせいなのだ。
あの提案を、中里は拒んだ。だからこそ、その妙義最速決戦という名目の男二人のじゃれ合いの鑑賞に来ていた沙雪と真子は、売られた喧嘩はすべて買う直情径行の走り屋中里毅が三連敗の傷を癒せず前に進めずにいるのだと早合点もしたのだ。そして急激に湧き上がってきた正義感と、同じある若き走り屋に負けた者同士の共感、おおよそ事件というものに抱く俗な期待から、走り屋中里毅の復活を画策し、その自信を取り戻させるため、中里がS13からR32に乗り換えるきっかけとなった二年弱前の敗戦を掘り起こして、そのリベンジに中里を焚きつけたのである。
つまり、あの時点で慎吾が中里とのバトルを逸って求めなければ、沙雪が中里のためと見える行動を取ることもなかったわけで、すべては中里への親切心を表に出したがらないくせに中里復活計画にまでこっそり参加してきた、女々しき慎吾のせいというわけだ。
とはいえ、チンピラもどきになってもまだEG−6と中里に対してのみは発揮できるらしい慎吾の懐かしき健気な一途さを、非難するのは筋違いの鬼の所業だとは沙雪も感じるところであり、何より中里の勘違いを引き出したのが慎吾ではなく、先走った自分に他ならないことは分かっていた。ゆえに、慎吾の存在と共に中里を思い出す度にもやもやしたものを感じもし、新たな春も迎えたのだし気分も新たにしてしまおうと、真子の男性耐性獲得訓練に寄せて、こうして中里の前に立ったのだ。
「は?」
沙雪の謝罪を受けた中里はぽかんとし、しばらく時間を置いてから、「ああ」、と慌てたように両手を目の前で振った。
「いや、そんなことはねえ、ないよ、あれは本当に俺が悪かったんだ、何というか、こう……はい。すみません」
片手を後頭部にやって、気恥ずかしげにぺこりと頭を下げる。どうやら事についてのばつの悪さはお互い様のようだ。あるいはこの様子では、中里の方が強いのかもしれない。しからばこれ以上気を遣っても、逆に気を遣わせてしまうだろう。
「うん。じゃあ、あの時のことはこれでおしまいってことで、いいかな?」
あ、はい、とほっとしたような笑みを浮かべた中里に、あたしの方がちょっと分が悪いかもしれないけど、と続けるかどうか迷ったら、「毅」、と横から嫌みったらしい声が入ってきた。
「こんな女にヘコヘコしてんじゃねえよ、馬鹿」
そう言ってため息を吐いたのは、中里の横に微妙な距離を置きながら立っている、ご挨拶な幼馴染だった。自分の縄張りでは大きな顔をするものである。
「こんな女とは何よォ、慎吾」
「人を勝手にアリバイ作りに使ってトラブル持ち込みやがった、どっかの礼儀知らずの女のことですけど何かァ?」
沙雪が睨んでみてやっても、慎吾は余裕綽々にせせら笑う。だが、中学時代の話をまだ引きずっているあたり、相変わらずの繊細さだ。だからといって、昔の思い出を引っ張り出してくる相手に、沙雪は手加減をする気もない。
「ふうん。あんたが学校でウンチ漏らして泣いてる時に助けてあげたのは、どこの誰だったか忘れたみたいねえ」
腕を組みながら丁寧に言ってやると、うわー、と周りのメンバーがさっと引き、慎吾の顔がさっと引きつった。
「沙雪ちゃん。君のそのよーく働く小さいお口、がっちり閉めとかないと、犯すぞ?」
「へえ、あんたにできんの?」
物騒な物言いで立場を上に見せようとしているのだろうが、青褪めた顔では迫力もない。沙雪が挑発し返しても、慎吾は引きつり笑いを深めるだけだ。が、しかし、
「お、おい、お前……」
と、うろたえを露わに、中里が介入してきた途端だった。
「あ? どうした、毅」
中里へ向けられた慎吾の笑顔は、爽やかなものに急変した。爽やかなあまり、恐ろしい笑顔だった。あ、やばい、と思った時にはもう、沙雪は顔を戻してきた慎吾に両手首を掴まれていた。抵抗する間もなく、片手だけで頭の上まで手を持ち上げられて、もう一方の手で、頬を掴まれる。恐ろしいほど真剣で、鋭く、情の介在しない慎吾の顔が、目の前にきた。咄嗟に叫ぶこともできないほどそれは、生命の危機を感じさせるものだった。
「バーカ」
その顔のまま、慎吾は言い、あっさりと顔も手を解放した。このっ、と蹴りをお見舞いしてやろうとしたが、一歩身を動かすだけでかわされた。慎吾は得意げに、くっ、と喉で笑う。
「ざーんねん」
「あんたねえ……」
まったく、妙義ナイトキッズの庄司慎吾でいると、意地が強くなるやら悪くなるやら、呆れ果ててしまう。
「沙雪、大丈夫?」
我を完全に取り戻したらしい真子が、心配そうに肩に手を置いてくる。乱れる心臓を抑え込みながら、ダイジョブダイジョブ、と沙雪は返した。
「ま、こいつのやることなんて見え透いてるからね。いつものことよ」
「いつもの、って……」
真子は怪訝そうに慎吾を見る。慎吾が単なるひねくれ者であって人でなしではないことは真子も分かっているだろうが、ここで誤解が生じて不和まで生じては厄介だ。
「んー、何ていうか、一種のコミュニケーション?」
「っつーかさ、俺がこの女に勃つなんてこと地球が爆発してもありえねえし、マジにするのは自意識過剰ってもんだぜ、真子ちゃん」
沙雪の配慮を徒労とするかのように、慎吾が軽々しくも生々しく言い放ち、真子は一気に顔を紅潮させ、無言のままに俯いてしまった。効果的過ぎて、逆効果な説明である。「あんたさあ」、沙雪は腰に手を当てて、深々とため息を吐いた。
「そうやってわざとデリカシーゼロな人間演じんの、そろそろやめたらどうかと思うよ」
「お前もそうやって他人に自分の勝手な理想押しつけんの、いい加減やめたらどうかと思いますよ」
慎吾はしれっとした顔で言い放つ。ホントにこいつはもう、と沙雪はもう一度ため息を吐き、慎吾を性根の曲がった走り屋にしてしまうこの場に目をやって、その目を疑った。
遠巻きにしていたはずのナイトキッズのメンバーが、近づいていた。それだけならば、不思議でも何ともない。ただ、各自ただならぬ気配を発しながら身構えており、それらの手にはロープや金属バットや角材やプラスチック製スコップ等々、緊縛及び撲殺のためと思わしき得物が持たれていたのだ。
「お前らまで、何マジになってやがんだよ」
さすがの沙雪も柄の悪い男たちの迅速な臨戦態勢に咄嗟に反応できずにいると、それに気付いた慎吾はぎょっとしつつも、すぐに言い返していた。経験の差だ。
「いやー、お前だったらやりそうだなあと」
それに対し構えた得物をあっさりと下ろしながら、呑気に言うメンバーと、だよなあ、だべだべ、と力強く頷く他のメンバーと共に、うんうん、と反応速度を取り戻した沙雪も頷いていた。イメージというものは簡単に定着してしまうのだ。しかし慎吾は自分で作り出しておきながらそれが不満らしく、「冗談じゃねえ」、とまたしてもすぐに言い返す。
「好みじゃねえ女襲うほど、俺は見境なくねえっての」
「お前の好みって、どんなタイプだ?」
そこで思い出したように聞いたのは、誰であろう、慎吾に爽やかな笑顔をかまされてからずっと口を閉ざしていた、中里だった。ようやくこの展開に思考が追いついたようだ。真子はまだその道の半ばのようだが、スタート地点を考えれば、どっこいどっこいのウブである。案外似ている二人なのかもしれない。
「あ、それ聞いたことねえかも」
「まあ聞いたってしょーもないしな」
「でも何か聞いたことねえってなると慎吾とかどーでもよくても気にならね?」
「まあなー」
メンバーが次々声を発し、慎吾は反論はせずに、難しそうに眉を寄せた。本気で考えているようだ。中里に問われたからだろう。沙雪もちょっと考えてみた。慎吾の好み。それは慎吾に好みを問うた男が当てはまるに違いないが、慎吾がそれを答えとするかと言えば、また別だ。
「浮気しねえ奴」
慎吾がぼそりと呟いた。やっぱり、と沙雪は吐息と同等のため息を吐いた。予想通り、ひねくれ者は素直に理解を求めずに、当たり障りのない、しかし確実な消去的要素だけを表に出した。
「うお、意外とまともだ」
「ホントだ、意外にまともだ」
だが、意外意外と連呼するナイトキッズメンバーにとっては、実際意外な慎吾の答えだったらしい。
「意外でもないよ」、と、普通の庄司慎吾というやつを、慎吾の仲間である男たちに少しは知ってほしくなり、沙雪は口を動かしていた。
「慎吾って、独占欲強いからさ。人に手をつけられちゃったら、一気に興味失せるタイプなんだよね」
え、と吊り目の一人が不思議そうに挙手をした。
「独占欲強いのって、普通浮気した奴とか浮気相手、半殺しにしねえっすか?」
「それがさあ、独占欲強いくせに、それをやたらと隠したがるんだよ。だから本気になっちゃう前に、相手をシャットアウトすんの」
付き合っている相手の話をする時、慎吾が幸せそうに微笑んだことなどない。いつでもつまらなそうに、この前飯食った、映画に付き合わされた、無駄話を聞かされた、と言い、大抵は愚痴になる。何で付き合ってんの、あんた。そう聞いたこともある。楽しそうじゃないのに。慎吾はそういう時、やはりつまらなそうに答えるのだ。知るかよ、そんなこと。
「まあこいつも本気で恋すれば、半殺しどころか全殺しにするんだろうけど」
そんな日がいつ訪れるやら、世渡り上手に見せかけている幼馴染の不器用さには、沙雪も苦笑するしかない。
「そっか、ムキになるとこ誰にも見せたくねえってことっすね」
挙手した一人が拳を叩いて合点をすると、「あーだろうな」、と他のメンバーも頷いた。
「こいつ変にプライド高えもんな」
「いや、本気でフォーリンラブる自分が怖いんだろ。要するに怖がりなんだよ、自分と向き合う勇気もねえんだよ」
「恋愛なんて丸裸で上等なのになあ」
「お前の場合それやったら明らかに猥褻物だけどな」
「は?」
「まあ心は裸でぶつけてくべきだよな、心は」
「慎吾みてえに心以外に取り柄のない奴は特にそうだよな」
「え、こいつ心に取り柄あんの?」
「取り柄っつーか弱みじゃね?」
「弱み晒して同情ゲットとか、どんだけ高等テクだよ」
「まあ攻撃は最大の防御って言うし?」
「肉を切らせて骨を断つわけだな」
「何か自爆っぽいんすけどそれ」
男たちが交わす会話は、沙雪が言葉を挟む余地もないほど小気味良く、また慎吾の性質を的確に表しながら、慎吾個人に重きは置かれていない。この混沌とした適当さは、過度に注目されることも無視されることも苦手とするデリケートな慎吾にとっては大層気楽ものだろう。慎吾を知りすぎている沙雪では決して作り出せないそれを、だだ漏れにしてしまえる貴重な仲間が、ここには既に山ほどいるのだ。あたしが出しゃばるまでもないか、沙雪は安堵と共にわずかな寂しさを覚えた。
「君たち、人のことを随分楽しく分析してらっしゃるようですね」
ただし適当さも過ぎれば不快になることもあるようで、メンバーたちの会話に散々利用された慎吾は、頬をひくひくと引きつらせ、額に青筋を浮かべ始めていた。口調が妙に丁寧なところからも、怒りのほどは窺える。
「なら庄司君は、今まで本気で恋をしたことがないのね」
そんな若干キレ気味な慎吾へと、何とも痛ましそうに言葉をかけたのは、ようやく平静への道を踏破した真子だった。慎吾を見るその顔は切なげで同情に満ち溢れており、深刻な真子の真剣な視線を浴びた慎吾はキレ切れず、居心地悪そうに顔をしかめるだけである。その光景もなかなか見物ではあったが、結果的に発動された高等テクに完全に落ちた真子が慎吾に対する誤った思いを深めても、あるいは優しさという凶器を食らいすぎた慎吾がこれ以上ひねくれても困るので、「あたしが見た限りじゃね」、と沙雪は真子の言葉を軽く受けた。
「っていうか、普通に付き合ったこともないんじゃない?」
「だからお前も勝手なこと言うんじゃねえって」
慎吾は唇を尖らせると早口に言い、いつもの反抗的に甘えた調子を取り戻す。これでひとまず真子と慎吾がただならぬ関係に陥る危機は去った。
「お前も結構辛い人生を送ってるんだな……」
ついでにもう一人、引っかかりやすさまで真子と似ているのか、中里も慎吾の高等テクに落ちていたが、中里と慎吾がただならぬ関係に陥ったところで沙雪は問題に感じないので、言葉は挟まなかった。
「てめえまで調子こいて話に乗ってんじゃねえよ、この童貞が」
「だッ、誰が童貞だ誰がッ」
慎吾にしても、中里に対しては平素の自分を維持できるらしく、いつものゲスな調子で突っかかり、中里は憤怒か恥辱かで顔を赤らめる。無関係な真子まで気恥ずかしげに俯いてしまったのは、まだまだ男修行が足りないということだろう。沙雪はただ、どっちなんだろ、と思った。
「あれ? でも慎吾は童貞じゃねーだろ?」
その時ソフトモヒカンなメンバーが巻き舌で呈したのは、慎吾についての疑問だった。ナイトキッズ内では中里の童貞非童貞議論はし尽くされているのかもしれない。
「ああ」
「そんで普通に付き合ったことねーって、どうやって相手見つけんの?」
「ナンパ」
慎吾の簡潔な即答に、「ええええええ」、と、近場のメンバーが地鳴りのようなどよめきを上げた。沙雪は普段の慎吾が女性全般に対して見せる嫌らしさのない自然な馴れ馴れしさを知っているため驚きもしないが、峠でゲスっぷりを前面に押し出している慎吾ばかりを目にしている走り屋がそれを大げさに疑う気持ちも分からないでもなかった。
「うっそマジかよ」
「ありえねー」
「え、お前ナンパ成功させられんの? 天変地異起こるっしょ?」
いかがわしく悪辣な男が、どうして容易く女を引っ掛けられようか。その偏見にも慣れているのか、「起こんねえっての」、慎吾はただ面倒くさそうに頭を掻いてため息を吐く。
「がっついていかなけりゃ、どんな女でも飯くらいは付き合うぜ」
「なるほど、深いな……」
「いやいやいや」
「でもそれでやれんだったら普通に付き合えんじゃん」
「いや、俺彼氏持ちとしかやんねえし」
簡潔に答え続ける慎吾へと、近場のメンバーは「はあ?」と威圧感たっぷりの声を上げるも、「だから」、と慎吾は当然顔で説明した。
「そうすりゃ付き合う必要ねえだろ。やるだけやって終わりってのが一番簡単でいいじゃねえか」
その理屈を聞いたところで沙雪は慎吾の女性遍歴と恋愛事情の大筋を知っているため驚きもしなかったが、不良じみた男も含むナイトキッズのメンバーが「うわあ」と思いきり引く気持ちも、分からないでもなかった。
「んだよ、俺は無理強いしねえし優しくするしフォローもするぜ。お前らみてえな欲望を理性で抑えられない野生動物と一緒にすんな」
そこは不服そうに慎吾が言い、「っつーか理性でそれやってる方がモラル低いと思うんですけど」「女の敵だな」という意見を受け、「オナニーしかできねえ奴らが何言ったって負け犬の遠吠えだ」、と一蹴する。
「馬鹿抜かすなや」、それに坊主頭が抗弁した。「俺はしょっちゅう女の子と触れ合ってんだよ。ピンサロでな!」
「俺は右手が恋人だけどな!」
「んなこと自慢してどうするよ」
「俺は左手だな。彼女いるけど」
「まあエッチとオナニーは別モンだよな」
「彼女と風俗も別モンなんだよ、全然浮気じゃねえんだよ……何で分かってくんねえんだよ……」
「それなー、分かんねえ子はホンット分かんねえからなー」
「でも女抱くのも疲れね? っつかセックスって疲れね?」
「それ言ったらイくだけでも疲れんぞ、マジで」
なぜそこでシモの方面へ話題が変ずるのか、沙雪にはいまいち彼らの思考回路が理解できないものの、そうして慎吾の相変わらずの偽悪趣味も意に介さず、自由奔放な議論が展開できるあたり、走り屋としては平々凡々揃いながら、結構なツワモノ揃いのナイトキッズである。
そんな彼らを沙雪の隣で真子は、両の拳をスカートの横で堅く握り締めながら、潤んだ目に火照った頬に引き結ばれた唇という、必死の形相で見据えていた。何だか要らぬ誤解を招きそうな表情はもっと整える努力が必要だが、俯かずにいられるようになったのは、進歩と言えるだろう。このお下品なお話は、育ちの良い男の子ばかりの碓氷峠の走り屋たちでも、傍で聞いたら反応に困るはずだ。
ただ、このお下品さに慣れているはずの妙義走り屋で一人、どうも反応に困っている男がいた。濃い目の顔の割合白い皮膚には気まずさがにじみ、慎吾に送られる視線には複雑な感情がにじんでいた。それをすぐ隣で受けながら気付く風もない慎吾は苛立たしげに煙草を吸い始める。自分の流儀を仲間たちに軽くいなされた後では、常に気にかけている相手の様子を見る余裕もないのだろう。しかしこのまま放置することは慎吾の意にも沿わないだろうし、一応は慎吾の無条件な味方として、「あーちょっとちょっと」、と沙雪は声をかけた。
「慎吾ってば、ね」
「あァ?」
「中里クン、引いてるよ。多分ブラジルくらいまで」
億劫げに沙雪を向いた慎吾は、煙草を口に咥えた状態で隣の中里を一瞥すると、次の瞬間勢い良くそちらを向いた。
「……お前、もっと女性を大切にしろよ」
深刻な中里が、真剣に言った。慎吾は呆然と口を開き、そこから煙草が地面に零れても目もやらず、数秒硬直していた。そしてはたと沙雪を見、この現実の否定を求めるように顔をしかめてすぐ、そんなことをしていても事態は解決しないと思い至ったのか、中里へ顔を戻しつつも、慎吾の目はうろうろとさまよい、半開きの口はぴくぴくと動くだけで、言葉を作らなかった。こうして視線を固定できなくなって黙り込むのは、突然の不安と焦りに襲われた慎吾の特徴だ。それもいつもは数秒で落ち着くのだが、今回は十秒もかかっていた。あるいは中里が相手の場合には、それが慎吾のいつもなのかもしれなかった。
「女だろうが男だろうが、クズな奴を大切にしたって仕方ねえだろ」
平静を装えるようになった慎吾が、嫌みたらしい嘲笑と共に言い放ち、中里は不愉快そうに顔をしかめ、馬鹿よねえこいつは、と沙雪は思った。その他大勢に弱者と見なされたくないからといって、大事な人間にまで悪ぶっては、結局理解も何も手に入れられない。まったく、変にプライドが高いのだ。問題はあまりに単純で、根が深い。本人に改善する気がなければ何をやっても無駄骨だが、幼馴染のよしみもあるし、折角だ、後で一肌脱いでやろう。慎吾にだって少しは幸せそうにしてもらわないと、つまらないし。そう沙雪が決心した時、「沙雪さん」、と明朗な声が横から呼んだ。
「良ければでいいんですが、写真撮らせてくれませんか」
そう尋ねてきたのは、爽やかな笑みを浮かべている青年だった。短すぎない黒い髪に白いシャツがよく似合っており、強い清潔感があり、手には掌サイズのデジカメがあった。こういう顔の造作は並ながらも、トータルでは上々な男まで紛れ込んでいる、ナイトキッズの混沌さは不可思議にせよ、レベルの低くない男に写真を頼まれて、沙雪も悪い気はせず、自然な笑顔を返していた。
「写真って、あたしの?」
「はい」、青年は爽やかな笑顔のまま、言った。「オカズにしたいので」
「……はい?」
聞き間違えたかと思い、首を突き出すようにして、沙雪は再度の発言を要求したが、爽やか好青年が再度口を開く前に、「この野郎!」、とその後ろから熊並の造作の男が叫んだ。
「抜け駆けをするな! いや、してもいいが分配は平等に行え!」
「そうだ、一人はみんなのために!」
「ワンフォーオール! ワンフォーオール!」
「赤いねーそりゃ」
「大事に使わせてもらいますが、どうでしょうか」
周囲の喧騒も何のその、青年は爽やかに笑い続ける。どうもこうも、性的な使途を前提として写真を撮らせてあげる奉仕精神も露出欲求も沙雪にはない。しかしこれだけ堂々爽やかに頼まれると、ずばっと拒みづらくなるのだから不思議である。
「いやー、それはどうかなー……」
「駄目ですか? お礼はします、僕でできることなら何なりと」
「えー、そうねえ……」
愛想笑いは苦笑と化して歯切れはとことん悪くなり、大人な対応すらしがたくなる。これちょっとやばいかも、と沙雪が集中してお断りの言葉をひねり出そうとした時、「あ!」、とその集中力を削ぐほどの大声が傍から上がった。
「俺、真子さんがいいっす! 眼鏡かけて髪はアップで罵ってくれたら一発オッケーっす!」
「あ、俺はそれにミニスカグレースーツの黒パンストでお願いします! ニーハイでもいいです!」
「俺はそのままで全然いいです。妄想するんで!」
「俺お二人がいいです。妄想するんで!」
雨後の筍のように挙手すると同時に自信満々に持論を展開させる男たちに、まあ真子なら女教師コスも似合うだろうけどっていうかそういうことじゃないし、と沙雪は滞りかける頭を無理矢理回したことによる混乱に落とされた。真子は最早、生気が抜けた状態である。だが彼らは、茫然自失に近い沙雪と真子もお構いなしに話を続けるのだ。
「お前レズ専かよ」
「野郎の裸見たってしゃーねえし」
「いやー、俺3Pの方がいいわ、拘束オプションもつけてさー」
「抵抗できないのって最高っすよねー」
「もう何つーか、極楽?」
「ビンビンくるよなー」
「どうせなら毅さん入れてほしいよなー」
「そこは慎吾じゃねえの、ツラ的に」
「いや慎吾がお二人の美しさを侵害するとこなんざ見たくねえし、っつーか慎吾見たくねえし」
「やっぱ毅さん一択だろ」
「その場合毅さんは責める側なんですかね、責められる側なんですかね?」
「そりゃ責められてナンボじゃね?」
「だな」
そして微妙な猥談をあっけらかんと進めた挙句、一斉に、彼らは乱れもなく頷き合い、刹那、沙雪はヤンキー風や大学生風やサラリーマン風等々の多種多様な男が同時に存在するナイトキッズが、それでも抱える強い統一感に直接触れたような気がした。それは意識だ。思考は十人十色でも、彼らの意識は最終的に同じところに落ち着くのだ。ゆえにこの共感による静けさが、あの独特の統一感が生まれるのだろう。
「てめえら、いい加減にしねえとぶっ飛ばすぞコラァ!」
だがそれも、話のオチにされた中里の、堪忍袋の緒も切れたような空気を震わすほどのその怒鳴り声が、一瞬で締め出した。「うわ怒った」「こえーこえー」とメンバーたちは別々の感想を述べながら、三々五々退散する。未練もなさそうなのは、激した中里をいじる必要もないまでに、十分お楽しみになったからだろうか。
「沙雪さん、また今度是非」
「タイチ!」
「はい、失礼します」
別れの挨拶を欠かさぬ爽やか好青年も、中里には抗わず、ただ笑顔で去っていく。そののほほんとしている背中を睨みつけ、熱そうなため息を吐いた中里は、沙雪と真子の前に直立すると、きっちり頭を下げてきた。
「うちの連中が、失礼致しました!」
実に見事な謝罪態勢だったが、ナイトキッズのメンバーの能天気さが表れている動きが背景となると、真面目さゆえのおかしさが際立つもので、いいよ、大したことないし、と言ってから、堪えきれず沙雪は噴き出した。
「ホント、大変だよねえ、中里クン」
女というだけで侮ってくる身の程知らずのふざけた輩とは違い、実力差をわきまえた上でひたすら自分の欲求に従っているだけのここの走り屋たちには嫌みもないし、走りでもってその鼻を再起不能なまでにへし折ってやろうとも思わない。唐突に角度の変わった下ネタを繰り出されると反応に困りはするが、中里が毎晩のように猥談のオチとなり勝手な思考を持つ面々の意識を引き受けているであろうことを考えればその程度、大したことでもないと思えてしまう。
「はあ、まあ……」
頭を上げた中里が、笑う沙雪を不思議そうに見て曖昧に頷き、照れ臭そうな笑みを浮かべながら視線を逸らしてすぐに、その笑みを消した。怪訝と心配で曇っていく顔は、沙雪の横に据えられる。
「……真子ちゃん、大丈夫かい?」
「…………」
中里に目の前で手を振られながら問われても、ぼんやりそこに立ったままの女の子にとっては、その程度も十分大したことだった。これでも長くもった方だろう。よく頑張った。
「んー、元通りになるまでちょーっと時間かかるけど、まあ大丈夫よ。ね、真子」
「………………えっ? あ、うん……」
沙雪が強めに肩を叩いて五秒後、真子は沙雪を向いて、ぼうと頷いた。どこまで話を聞けていたものか、怪しい状態だ。あまり真子を汚れにさらすのもためらわれるから今回の鍛錬は打ち切るにしても、好きになった男に一足飛びにバージンを捧げようとする前に踏むべきステップも知っていてほしいから、オカズの意味くらい後で説明しておくべきか、沙雪も悩むところだった。
「それならいいんだが……いや、本当にすまない」
「うちの奴らが馬鹿ってことは粒子レベルで事実なんだから、お前が謝ったって何にも変わりゃあしないぜ、毅」
再び頭を下げてきた中里へ、猥談の火の粉が飛んでこないことを確認し終わったらしい慎吾が、慰めるように言った。
「だからって」、中里は慎吾を苛立たしげに睨むと、厄介そうに顔をしかめる。「放っておくわけにもいかねえだろ。ただでさえチーム評判悪いってのによ」
ナイトキッズの評判の悪さは残念ながら確かだった。この有様では仕方ない、と沙雪でも思える不人気さである。慎吾にしても中里に、そんなこと気したところで馬鹿らしいと言いたいのだろう。気分を楽にさせたいのだ。だというのに、わざわざ慰めではなく皮肉に聞こえる言い回しを選んでいる。ここで慎吾のその意図を中里に説明することは、沙雪にとって呼吸するように容易いことだった。
「ね、中里クン」
声をかけると、中里は驚いたようにしかめ面を解き、「はい?」、と沙雪を見る。だがこれは、結局慎吾の問題だ。慎吾が自力でどうにかしようとして、初めて慎吾が得られるものだ。それを横から奪って押し付けるのは、嫌がらせにならないほど事態が困窮した時のために、取っておいてやろう。
「慎吾のこと、これからもよろしくね」
もっと素直になるまで、まだまだ時間かかるだろうから。思いながら、沙雪は特別手厚い笑みを中里に送った。
「……は?」
中里はそんな沙雪の内心をまったく理解していないように首を傾げたが、慎吾は瞬時に気付いたらしく、例の爽やかなあまり恐ろしい笑みを浮かべながら、「さーゆーきィ?」、と一歩近づいてくる。その魔の手にかかる前に、「じゃ、とりあえずまたね」、と沙雪は突っ立っている真子の腰に腕を回し、素早く転回のち後退した。
「え? 何?」
ただのアスファルトにけつまづきそうになっていた真子が、あっという間にバランスを取り直し沙雪が支えずとも歩き出すも、状況を呑み込めていないのか、きょろきょろと周りを見る。
「沙雪、ちょっと、何なの」
「はいはいさー真子、一発ぶちかましましょーか」
「ええ?」
「ナイトキッズの皆様に、これ以上何とかブルーとか言われないようにね」
言って背中を押し、シルエイティの前に突き出す。真子はまたけつまずきそうになるが、踏みとどまって沙雪を向く。おどおどとした気弱なその顔も、沙雪が挑発的に笑ってやれば、やがて熱情を宿した泰然さに包まれる。
「うん」
紛れもない、走り屋の顔で、真子は少し笑った。まあどれだけぶちかましても、妙義ナイトキッズにかかれば何とかブルーかインパクト何とかになってしまうのだろうが、そんな勝手気ままな走り屋たちも彼らに受けた影響も、こうして闘志を美しく秘める真子をただ速く走るために隣で導き、導かれる、痛快でかけがえのない時間の前では、沙雪にはどうでもよくなってしまうのだった。
(終)
トップへ