無題
1.朝
高橋啓介が夜の闇を薄くしていく朝日に出会ったことは数知れず、眠りから覚めて、朝の太陽と挨拶を交わすことは数少ない。寝坊は専売特許で、中学高校大学と、一時間目の授業を皆勤した試しもなかった。ただ、小学生の頃。まだ何も知らずに有り余る体力を果たすためだけに辺りを走り回っていた頃は、兄が起こしてくれていた。その自分より低い声に耳元で囁かれるだけで、意識は覚醒せざるを得なかった。髪を撫でる指は優しく、頬に触れる掌は滑らかであたたかだった。兄が小学校を卒業し、中学生という括りに入った頃からは徐々に放っておかれることが増えていったが、それでも兄の優しい手が完全に離れることはなく、今でも時折セットしている髪を無造作にかき回されることがある。折角キメたのに、という文句は、溢れてくる懐かしい記憶、感触、思いに流され、結局その手に体も心もとらわれる。それが離れていくことはないだろう。自分たちは兄弟なのだ。だから兄の手の持つ優しさ以外を、啓介が知ることはない。他の人間が持つような熱さ、怒り、悔しさを持つ兄の手を、知ることはない。それは何とも、幸福な絶望だった。
2.昼前
規則正しい生活という言葉は耳にすると反吐が出そうになるが、それでも高橋涼介は弟に対しては度々それを口にした。彼らの両親は世間的に認められるだけの実力を持つ人間として生きていたが、子育てについては少々乱暴な面があり、道徳観念も信念も植え付けられず、人生のしかとした指標も示されなかった。その欠片は生活の中に散らばっていたため、精神が未熟なうちから自立を暗に促されていただけだと今では納得もできるが、弟の場合は両親の放任の本意を汲み取るだけの疑心を持っていなかったため、涼介が先に立って見本にならねばならなかった。規則正しい生活など糞食らえだった。立派な人間になりたいとも思わなかった。それでも愛情を捨て去ることもできなかった。自分の意思によって現在を選択しているかについて、よって涼介は不意に疑問を持つことがある。その度現在は少なくとも最善であるとして打ち消すが、同時にそれは違うとすべてを否定されることも望んでいる。それをできる人間を求めている。自由を与えてくれる人間を欲している。うたかたの夢だ。所詮そうするであろう相手には、狭く深い愛情を奪う相手には、意識してこき下ろすことができる相手には、嫌悪しか抱けないのだから。
3.昼間
太陽が上りきった時間帯に会う際に、長々と何に対する愚痴とも批判とも取れない、支離滅裂な話だけをしてくるのはその男の方で、須藤京一が自分の身に起きた事態を語ることは少なかった。自分が好むのは道理の通った会話を交わせる相手だと思っていた。言葉をぶつければぶつけた分だけ、あるいはそれ以上に実の入った理論が返ってくる相手こそ、自分には相応しいのだと思っていた。正しく賢い人間以外とでは議論を行う必要はなく、感情を引きずり出される快感も得られない。女子供の結論の見えない話を聞いても、微笑ましさよりも鬱陶しさが腹に溜まり、それを抑えることは苦痛だった。苦痛を感じなくなったのがいつからかは思い出せない。その男は正しいわけでも賢いわけでもなかった。出す話は馬鹿正直かでたらめかのどちらかという極端さで、愚鈍という言葉がよく似合った。能力的に優れていなければ拾いもしなかった相手に過ぎない。それが、言葉を交わす時間が減ったというだけで不自然さを感じるとは、京一は自分の劣化を疑わざるを得なかった――女々しい感情が根拠であるならば、それは京一にとって、しくじりでしかないのだ。
4.夕方
勿体つける相手が岩城清次は嫌いである。反応はとにかく素早く、正否も何も関係はない、ただ生々しい感触が欲しかった。結果がすべてだ。過程に何がなされようと、それを振り返るほどの甘さも厳しさも思索も清次は持ち合わせていないため、そこに無駄が生じていようが倹約節約省略改善という意識は生まれなかった。結果がすべてだ。手をかければかけた分の反応があるだけで、十二分だった。だから余計な考えを挟まない相手は好きで、勿体つける相手は嫌いだが、例外もいた。独自性が強すぎる相手だった。嫌いになることなどできなかった。だが好きかといえばまた違う。人格も有する知識も能力も、尊敬はする。信頼もする。隣に並ぶことは誇らしい。特別だ。だが好きかといえばまた違う。好きという感情は、同等のものに対してしか生まれない。人でも物でも、同じ目線で留まる相手だ。それもまた特別で、何が上ということもなかったが、優先されるのはただ、自分を求めるものではなく、自分が求めるものだということは、清次が考えぬうちに決まるのだった。
5.夜
誰もが一目を置くような強い人間になることが中里毅の夢だった。その強さがすなわち車の運転技術の高さと信ずるようになってから、初めてプライドというものが完膚なきまでに打ち砕かれた。再び積み上げるのに時間はかからなかった。だが何かは変わっていた。ただ強くなりたかった。速くなりたかった。それだけが、しかし昔のように懸命に夢想もできないのだった。限界を知らせるものが既に遠く先を行っている。死に物狂いで努力をして、どこまで近づけるのかも不明だった。余計なものに足を取られている今、見えている限界に届くのかすら怪しかった。何かが変わっている。それでも夢は捨てられない。理想は欲望だった。強く、速く、そうすれば現在もまた変わるのだと、そう信じて闇の中をひた走る。先はいつまで経っても見えてはこない。ただその先にいるものを思い浮かべれば、距離が存在すると思い込めた。進むだけだ。進んだ結果に何があるか、それは中里にはどうでも良いことだった。
(終)
2007/08/19
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