未発の空転



1.秤量

 長い夜に浸っている峠に、黒い車があることは、珍しくもなかった。もとより、チームの車は大概白か黒だ。ランエボだけで構成しているチームだった。いろは坂を根城としている。京一が、一から作り上げた。エンペラーと名づけた。皇帝。権力の頂点。理性を基礎とし秩序を構築する、雄大なる支配者。有象無象が自称する、走り屋という概念を統括する場にしたくて、名づけた。今のところ、目標からはさほど逸れていない。
 京一のランサーエボリューション3も、黒塗りである。磨き上げると光を反射し美しい輝きを持つ。チームにおいても、いろは坂を猛速で走る車の中でも、その色はまったく珍しいものではない。
 その黒い車が、いろは坂において珍しいのは、だから、色のためではない。車種のためだ。日産スカイライン。32のGT−R。FR基準の4WD。サーキットに上がることを前提としている車だった。ランエボは、三菱の誇るラリー車だ。数々の実績がある。市販車とて高い性能が備わっている。タイトなヘアピンが連続するいろは坂では、その能力をいかんなく発揮する車だった。コースに適している。速いが重く急角度のコーナーに弱い32のGT−Rは、ランエボと比較するまでもなく、適さないといえた。
 いろは坂には適さないその黒い車が、近頃ではよく目についた。一週間に一度は見る。改めて珍しさも感じられなくなるほどに、その32はいろは坂に現れる。
 その32のドライバーと、京一が会話をしたことは、ほとんどない。目が合えば、挨拶はする。遠ければ会釈をし、近ければ一言二言交わす、その程度だ。目が合わなければ、その場にいても無視をする。無視を、されたがっている節があるのだった。32のドライバーが、だ。黒い、短い髪をしている男だった。服装も、黒が基調で、地味な印象がある。顔をはっきりと見たことはない。たまに、視線を感じる。そして視線のもとを辿ると、その男がいる。だが、京一が目を向けると、視線がかち合うかかち合わないかというところで、男が目を逸らす。顔を背ける。ことによれば、体ごと背ける。だから、目が合うことはほとんどない。男は、よくこちらを見てくる割に、見られたがってはいないようだった。無視をされたがっている、京一がそう感じるのは、そのためだ。そういう相手を敢えて見る趣味も、京一にはない。だから、男の顔をはっきりと見たことはない。その男に近づくことも、話したことも、ほとんどなかった。
 男は清次とよく話している。岩城清次。チームのメンバーで、エボ4に乗っている。賢さには欠けるが、直観力はあるドライバーだ。器用さもある。一度こつを呑み込むと伸びが早い。判断力はなかなか信用できないが、人間性は信頼できる男だった。その清次と、32のドライバーはともにいる。清次はたまに京一に、その男について言ってくる。
 ――前に群馬で叩きのめした奴だよ。俺がな。だから俺にリベンジしたいらしいけど、ここじゃ無理っつっても耳を貸さねえ。悪い奴じゃないぜ。テクニックもなかなかだ。そんなしょっちゅう来るわけでもねえし、まあいいんじゃねえかと俺は思ってる。たまにはああいうタイプと走んのもな。
 そういうことを言われるたび、そうか、とだけ京一は言う。他に言いようもないし、清次にしても、他の言葉を求めてはいないようだった。それは、単なる説明らしかった。その黒い32が、なぜいろは坂に現れるようになったのか、その32のドライバーがいろは坂で何をしようとしているのか、そういった部外者についての最低限の説明を、清次は京一にたまにするだけだった。
 不足はない。京一は、そのドライバーに特に興味も持たない。向こうのホームで清次に負ける程度の、清次にリベンジをしようとしているだけの走り屋だ。京一が率先して相手にする必要もないことは、明らかだった。清次の説明に不足もない。だから、顔をはっきり見たことがなかろうが、視線を寄越すくせに無視されたがっているようなその男に、自分が嫌われているのか何なのか判然としなかろうが、その32のドライバーについてを、京一が今以上に知る必要がないことも、明らかだった。
 その日、京一がチームの集合場所に足を踏み入れたところで、その黒い車は山を下っていった。傍までわざわざ歩いてきた清次が、今帰ったところだ、などと言った。それは、部外者が来たことの報告だった。その最後、
「あいつは京一に、会いたそうだったけどな」
 清次は言った。特別な感情も配慮も、清次の顔には見当たらなかった。それもまた、報告に過ぎないようだった。だが、京一は、少し眉を上げ、聞いていた。
「俺に?」
「ああ」
 当たり前のように、清次は頷いた。それだけだった。どういうことだ。そう言おうとして、だが口は開かず、京一は上げた眉を、ただ戻した。清次は話を終えていた。
 会いたそうだった? どういうことだ、と思った。今までの印象とは、違う。32のドライバーが、わざわざこちらを見てくるくせに、無視をされたがっているのは、悪感情をこちらに抱いているためだろうと、予想していた。予想が違うようだとなれば、疑念が生まれる。どういうことだ?
 だが、その疑念が育つ土壌は、京一にはなかった。32のドライバーは、京一に無視されたがっている。京一と関係を持つことを、拒んでいる。そのホームコースで清次に負ける程度の実力しかなく、清次にリベンジを果たそうとしているだけの、取るに足らないそんな走り屋に、嫌われていようが会いたいと思われていようが、結局のところ、京一にはどうでもいいことだ。害もない。それもまた、明白なことだった。
 どうでもいい。どうでもいいことだ。関係がない。俺には関係がない。どうでもいいんだ、そんなことは。
 その結論に至るまでの思考を、峠から戻った自室で京一は、ソファに座り、ニュース番組を肴に酒を飲みながら、六度繰り返していた。携帯電話は傍に置いていた。どうでもいいことだ、と思っていた。既に、考えてはいなかった。思うだけだった。関係がねえ。思いながら、携帯電話を手にしていた。
 見るたびに、臓物を弱火で焦がされているような感覚をもたらす名前が、液晶に表示された。白いFCに乗っている男の名だ。群馬の走り屋だった。一線を退いてもなお、カリスマとして崇められている。群馬の走り屋のことならば大抵は知っているはずの、その男の番号を呼び出しながら、京一はまだ思っていた。どうでもいいってのに。
「何だ」
 低いくせに透明感のある声が、携帯電話から電波越しに耳を打った。その途端、京一の頭は回り出した。どうでもいい、などと思っている場合ではなかった。
「久しぶりだな、涼介」
 努めて平静に、京一は言った。ああ、と、携帯電話の向こうにいる涼介が、感情を窺わせない声を出す。
「何の用だ、こんな時間に。俺もそう暇じゃないんだが」
 どういう顔をしてそれを言っているか、明瞭に想像できる声だった。聞き覚えがある。ありすぎるほどだ。いつも、この男はこちらに対して、余分な意識を感じさせない、特別さのない声を使い、憎たらしいほど綺麗な顔に、わずかに億劫さをちらつかせるのだ。そして、京一は焦る。注意を、逸らされたくなかった。この、走り屋として並外れた才能を持っている男にバトルで勝てば、一生その視界の中にいられるはずだった。だが負けた。視界から、消されることもある。そうされたくはない。忘れられたくはない。だから焦る。焦り、その焦りを、見透かされぬよう頭を働かすことも、平静を表す声を作ることも、習慣となっていた。
「そっちに、黒の32Rに乗ってる走り屋、いるだろ。中里とかいう」
「いるぜ」
 人が言葉を挟んでほしい時には、余計な言葉を挟まないのが、高橋涼介だった。そのくせ、人が言葉を挟んでほしくない時には、余計な言葉を挟んでくる。嫌な男だった。その嫌な男に、自分は電話をかけている。群馬の走り屋のことならば大抵は知っているであろう知り合いは、その男だけだった。その男に電話をした以上、だから、群馬の走り屋について聞かねばならない。
「どういう奴だ?」
「どういう意味だ」
 京一が問うと、すぐさま涼介は、問い返してきた。明確にするべき部分を、瞬時に理解したらしかった。手にかいた汗をシャツで拭ってしまいたかったが、その間が惜しく、京一は言葉を続けた。
「最近よく、そいつをこっちで見かけるんだ」
「見かけるなら、自分でどういう奴か確かめればいいだろう」
「それはそうだが……」
 言葉を濁しかけ、京一は唾を呑んでから、理屈を言った。
「お前の意見の方が、確かだと思ってな」
 間が、あった。涼介の生んだ間だった。それは、ごく自然な間で、京一は何をすることも忘れ、ただ、涼介の言葉を待っていたが、そこには待っているという意識すらなかった。
「京一」
 涼介は、余分な感情を感じさせない声で、余分な抑揚のない調子で、言った。
「思ってもないことをもっともらしく言うんじゃねえよ。お前は先に言った自分の意見を肯定されたい時にしか、俺の意見を聞きたがらないだろ。それくらい俺も分かってる。面倒をするな。お前の理屈なんて、俺には関係ないんだぜ」
 京一は一瞬、息を止めていた。関係ない、という言葉の響きの意外な鋭さのためだった。すぐ、呼吸は再開させ、そうか、と震えぬ声を出したが、心臓は、勝手に拍動を速めていた。携帯電話を持つ手が、汗でぬめる。顔が熱い。酒を呑んでいるためだとは、言い切れなかった。まだ、胃すら熱くなっていない状態で、発信した。
 すぐ耳元で、小さなため息が、聞こえた気がした。意識を向けると、変わらぬ涼介の低い声が、鮮明に聞こえてきた。
「もう、用はないな」
 用件は、済んでいない。32のドライバーが、どういう奴かは聞いていない。だが、所詮はどうでもいい奴のことだった。清次からの報告で事足りている今、どうしても、この男に聞かねばならないことではなかった。涼介は、それらをすべて、見抜いているのだ。電話越しとはいえ、醜態を晒しているという、自覚があった。羞恥心が、顔を、手を焼いている。それでも京一は、ああ、と、平静を保たねばならなかった。
「それだけだ。黒の32の、素性についてな」
 そうまとめて、通話を切ろうとした。切れなかった。涼介はまた、間が生み出していた。今度は、不自然な間だった。だが、やはり京一は、待つという意識も持たず、続けられるはずの涼介の言葉を、待っていた。涼介はやがて、改まった口調で言った。
「啓介よりは遅い。指導する人間がいないからな。ドライビングが自己流でしかないんだ。だが、レッドサンズのメンバーと比較すれば誰よりも速いだろう。GT−Rを操る技術に長けている。それだけを取り上げれば群馬一かもしれないな。暫定的に。ただ調子の波は激しめだ。扇動もされやすい。どうも単純なところがある。短気だな。喧嘩っ早い」
 それは、説明だった。だが、涼介は問いをなした京一に説明しているのではなく、涼介自身に説明しているようだった。その男がどういう人物であるか、わざと自身に確認しているようだった。
「でも、いい奴だ」
 京一が、言葉を挟む間もなく、涼介はどこか深い響きのある声でそう言い、そして通話を切った。そんな声を、今までかけられたことはなかった。
「涼介」
 京一のその声は、もう涼介には届かない。最後の言葉を、本当は誰に言っていたのかを、知ることはできない。ここでもう一度発信しても、涼介は電話に出ないだろう。用件は、済んでしまった。32のドライバーがどういう奴であるか、涼介は明確に述べたのだ。だから京一が、もう一度発信することもない。必要がないからだ。
「クソ」
 つい、呟き、携帯電話をローテーブルに放っていた。代わりに酒の入ったグラスを取る。汗は冷えていた。手も顔も、いつもの体温だ。脈も落ち着いている。気分だけが、優れない。グラスを煽った。
 どうでもいい奴のことで、嫌な奴に電話をした。そして、嫌な気分になった。嫌な気分。とても無意味なことをしてしまった気分だった。とても、ひどいことをしてしまった気分だった。最悪だ。
 頭が熱いようで、冷たかった。どうでもいい奴。関係のない奴。そう定めることの、定められることの冷たさが、まだ首筋あたりに残っている。どうでもいい。そうではない。そうではないのだ。どうでもいいと思っているなら、話の種にする気にもならない。嫌な奴。そうではない。そうではないのだ。本当に嫌だと思っているなら、電話をする気にもならない。
 京一は、グラスに酒を注ぎ、ソファに横になった。テレビは、コマーシャルを流している。目を閉じた。ため息が、漏れた。焼けていた。気分は最悪だ。割り切らねばならないことが、多すぎる。理性を基礎としなければならないのだ。秩序を保ち、他者に規範を示さねばならない。それが、自分だった。須藤京一という人間の、やることだった。例えすべて見透かされていようとも、自ら弱味を晒し、情けを請い、慈悲を求め、存在を認められたがることなど、できなかった。したくもない。だが、結局、やろうとしたところで、できないのだ。それは、どうしようもない、身に染みついた、京一の誇りが、こだわりが決める、譲れぬ生き方であった。譲れない。そうしなければ、ならないのだ。ため息が、また漏れた。
 酒を注ぐ手を、しばらく止められなかった。



2.溶解

 胸糞が悪い、という言葉の似合う気分になるのは、久々だった。むかむかしてたまらない。胃酸が大量に分泌されていることだろう。ストレスを、まだ感じているのだ。
「今の誰」
 戸を開けたまま突っ立っていた啓介が、戸を閉めて歩きながら、聞いてきた。涼介は握っていた携帯電話をデスクに置き、椅子に座ったまま、啓介を向き、むかつきは隠しも強調もせず、聞き返した。
「電話の相手か?」
 ああ、と遠慮も何もない、素直な顔で啓介は頷く。部屋着に包まれているだけのその高い体は、見上げると威圧感をもたらすが、鮮やかで単純な感情の広がっている精緻な顔は、親しさをもたらす。自分の弟ながら、鋭さと美しさを併せ持ったいい男だ、と涼介は思う。弟の問いに答えることを拒める人間は、そういないだろう。例え、胸糞悪い気分であったとしても。思いながら、須藤だ、と涼介は言った。
「須藤京一。エンペラーの」
「あ? 何でそいつが中里のこと聞いてんだ?」
 デスクの端に腰かけた啓介の顔が、怪訝そうに歪んだ。涼介は、目の端が勝手に強張るのを感じ、それを苦笑で紛らせ、言った。
「何であいつが中里のことを聞いてきたって分かるんだ?」
 驚いたのか、啓介は目を見開いて、いや、とばつが悪そうに頭を掻いた。
「俺より遅くてGT−Rっつーなら、あいつしかいねえじゃん。だからだよ」
 口ごもった声で啓介は言った。随分なまとめ方だが、他の部分からもその推測が行われていたことは、拗ねていることを如実に表している顔から窺えた。微笑ましさと妬ましさとが、同等に感じられ、涼介は苦笑を続けたまま言った。
「そんなのは口実だ」
「あ?」
 啓介が、不可解そうに首を突き出す。涼介は、弟に向けていた苦笑をやめ、電話の向こうにいた相手へ向けての、余計な気遣いを排した顔と声で、言った。
「あいつは、京一は、俺と話がしたかっただけだ。話題は何でも良かったんだろう。正直にそう言ってくれば、まだ可愛げもあるんだけどな。あいつは偏屈すぎて駄目だ。仕様がねえ」
 そうしてため息を吐くと、弟はおかしそうに笑った。
「アニキ。よほど須藤のこと嫌いなんだな」
「俺は処置の仕様のないものが嫌いなんだ。京一がってわけじゃない」
「それが須藤なんだろ?」
 啓介は、得意げに言ってくる。否定する材料は、なかった。理性的で、合理的。そう、他者に印象付けようとしているのが、須藤京一という男だった。だが、致命的な視野の狭さ、精神のいびつさが、京一にはあった。無理があった。それでも信念という不完全な名目の理想をまっとうしようとしている、その愚かさ、その必死さは、見苦しく、不自然すぎた。そこを、嫌悪してしまう。素直であれば、素直にあの男がこちらにすがってくれば、何の含みも持たず、接することができたかもしれない。いい友人に、なれたかもしれない。だが、あの男はこだわっている。あの男の理想を他者に、こちらに知らしめることに、こだわっている。それでいて、意図しなければ自分を保てられないでいる、その弱さを、傲慢さを、涼介は、疎むしかできない。その誇り高さを、惜しまずにはいられない。おそらくあの男は一生そのままだろうと、容易く予想ができるから、尚更だった。それほどの鈍さを、強靭さを、須藤京一は、持っているのだ。京一がそういった京一である限り、涼介はその京一の処置の仕様のなさを嫌い、惜しむだけだった。互いにこだわってはいても、影響を与えることはない。それについて考えるだけ、無意味な関係だった。
「それで、啓介。お前の用事は何だ?」
 涼介は、啓介の言葉は無視して、言った。啓介が肩をすくめる。
「話逸らしてやんの」
「話を振ってやってんだよ」
「それでもアニキ、須藤は相手にするんだな」
「何が言いたい」
「見込みはあると思ってんじゃねえかって」
「話を逸らしてるのは、お前の方だな」
 何のこともなく言うと、啓介は不愉快そうに顔をしかめ、口を閉じた。涼介はモニタに目をやった。レポートはほぼ完成している。啓介の話を聞くだけの余裕はある。それに、弟との会話であれば、むかつきは生まれない。
「なあ」
 声がしたので、涼介は弟を見た。どこか、不安げな啓介の表情だった。
「須藤は何で、あいつのこと、アニキに聞いたんだ?」
「あいつ?」
「だから……」
 語尾を濁らせて、啓介は顎を掻き、ため息の後、言った。
「妙義の」
 さっきまで、その名を出すことに一切躊躇を見せなかった弟だった。ここに至り、特別な感情を抱いていることは、間違いがなかった。ああ、と理解を示してから、涼介は言った。
「最近、いろは坂にあいつが行ってるらしい」
「中里が?」
 感情を弾けさせたように、啓介は目を見開く。涼介は、また頷いた。
「それで、どういう素性の奴かと聞いてきた」
「ふうん」
「で、お前も中里か?」
 問えば、いや、と言いつつも、
「俺は、あいつどうしてんのかと思って」
 結局は、そうなのだった。涼介は他人事として、言った。
「箱根で勝ったって話だろ」
「その後だよ」
「何でそんなことを、俺が知ってると思うんだ?」
「アニキが知ってるとは思っちゃいねえよ」
 むっとしたように啓介は言い、その口調の冷たさに気付いたのか、柔らかく続けた。
「知ってるかもしれねえとは思ってるけど。でも、一番近くにいるのがアニキだからだ。知らねえんなら、史浩かケンタにでも聞くからいいぜ」
 そうしてデスクから腰を上げた弟に、間髪いれずに涼介は聞いた。
「お前、何でそんなにあいつの現状が知りたいんだ」
 ただならぬ気配を感じた猫のように、啓介は素早く顔を向けてきた。気まずそうに目を瞬いてから俯き、デスクの端に尻を戻す。いや、と尖らした唇の内側で何やら言った啓介は、先の素早さが嘘のように、ゆっくりと首を動かして、再び涼介を見、観念したように言った。
「俺が負かして、調子崩したようなもんだろ、あいつ」
 ばつが悪そうな、啓介の顔だった。涼介は眉を上げていた。この弟が、他人の関係することで自責の念を窺わせることは珍しい。それも、的外れなことでだ。確かに中里は、互いのチームの交流戦としての啓介とのバトルの後に、須藤京一率いるエンペラーの二番手のエボ4乗りに負けている。中里の属するチーム、妙義ナイトキッズのホームコースである妙義山のヒルクライムでだ。啓介とのバトルもそうだった。中里は、ダウンヒル専門の走者が怪我で出られない中、一人でチームの面子を背負い、途中から雨も降り出した妙義山のヒルクライムで、啓介と張り合うほどの走りを見せている。先行しているところへの雨は、後ろについていた啓介以上の精神的圧力を中里に与えただろう。それでも、啓介と渡り合った走り屋だった。それが、その次のバトルで、同じホームコースで、あっさりと敗北した。エンペラーの二番手であるとはいえ、赤城山では啓介に容易く負けたドライバーにだ。であれば、啓介に負けたことが、中里に悪影響を与えたことは、察して余りある。
 眉を下ろしてから、だが、お前のせいじゃない、と涼介は言った。
「勝ち負けはバトルにつきものだ。その結果どれだけ調子を崩そうとも、それは本人の問題だ。バトルをした人間の責任にはならない」
 啓介は、表情をわずかに変えた。ばつの悪さは変わらない。ただ、苛立ちを含めていた。その声にも、苛立たしさが溢れていた。
「そりゃ、分かってんだけどよ」
「けど?」
 それは、自分が分かっていることを指摘されたことへの、苛立ちのようだった。粘り強く、涼介は続きを促した。この弟が何に責任を感じているのか、まだ判然とはしない。啓介はどこか許しを請うように上目に涼介を見、そして許しなど求めていないかのような荒っぽさで、言った。
「俺、よく考えたら結構きついこと言っちまってたんだ、あいつに。バトル終わった後にな、何つーか、俺が言うのとはちょっと違うんじゃねえかってこと。それ、ショックだったんじゃねえかって」
「それが知りたいのか」
 涼介のその問いに、啓介は苛立ちを消さないまま、いや、と答えた。
「そりゃいいんだけどさ。だから、ちゃんとしてるかどうかってことだよ。中里だぜ。あいつがちゃんとしてねえと、あいつらしくねえだろ」
「なら、自分で確かめに行けばいいんじゃねえのか?」
「そりゃそうなんだけど」
 その啓介の苛立ちは、理解を進めぬ涼介への苛立ちではなく、理解をしていても行動をなせぬ己への苛立ちのようだった。これほど歯切れの悪い弟を見るのは、久しぶりかもしれない。多く割り切れぬものを、弟は中里に感じているようだった。涼介はさまよっていた啓介の目が、一点に留まるまで待ってから、改めて、聞いた。
「何が引っかかるんだ」
 啓介は、中里の調子を崩したのが、自分かもしれないと思っている。バトル後、『結構きついこと』を言ったためだ。それでショックを与えたのかもしれない。中里は、そのショックを引きずっているかもしれない。啓介は、それを確かめたいと思っている。だが、そうしていない。そうできていない。それには理由があるはずだった。それが、啓介に今、細かく貧乏ゆすりをさせている理由のはずだった。
 焦れったそうに舌打ちした啓介は、その答えをただ待っている涼介を、すがるように一瞥し、諦めたように言った。
「またあいつがヘコんでる時に会ったら俺、同じようなこと言っちまいそうで」
 言いたくないのに、という想いが、その声には溢れていた。言いたくないのに言ってしまいそうだから、会いたくはない、だが、ちゃんとしているかは確かめたい。弟の苛立ちの源である葛藤とは、それのようだった。啓介は、中里に会いたいのだ。会いたいが、同時に、会うことを、恐れている。明快な感情の流れだった。涼介はその真剣さのために微笑みそうになったが、そうすることの不相応さを感じ、顔に余計な力を入れないことだけを心がけながら、呟いた。
「優しいな、お前は」
「あ?」
 啓介は、大きく顔をしかめ、いや、と言った。
「そうじゃねえよ。そういうことじゃ」
「本当は、傷つけたくないんだろ、あいつを」
 啓介を見据えながら、涼介は言った。ぎくりとしたように、啓介は身を揺らした。図星のようだった。落ち着かないように足の間で組んだ指を擦り合わせた啓介は、だがすぐに声を発した。
「あいつも俺も走り屋だ。同じ。同情とか、そんなのは違うだろ」
 同意を求めるように、そして涼介を見てくる。この弟は、とても正直だ。理屈への同意を求めながら、その目は、その顔は、許しを求めている。動くことへの、許しだった。他ならぬ、涼介に、求めている。それは、優柔なためではない。啓介はもう子供ではない。本来一人で決められる男となっている。それでも、言外に尋ねてくる。自分はどうするべきかと。その問いに、涼介が答えることを、知っているからだ。啓介の向けてくる真っ直ぐな視線を、少し曲がった視線で迎えながら、涼介は、頭で考えたことを言った。
「でも、あいつはまだ走ってる。箱根では勝ったらしいしな。俺はお前があいつに何を言ったかは知らねえけど、あいつはお前の言ったことを消化したんだろう。恐れるなよ。お前が恐れるほど、あいつは偉大な奴じゃないぜ、啓介」
 啓介は、わずかに寄せていた眉を、緩やかに上げた。その顔に安堵の笑みが浮かぶまで、時間はかからなかった。
「まあそりゃ、偉大な奴じゃねえな」
 笑いながら、啓介は言った。そうだ、と涼介は、同意とほんの少しの諦めを含めた笑みを浮かべながら、頷いた。
「そんなこと、お前が一番分かってるだろう」
「マジでな」
 笑いを堪えきれないように、啓介は口元を手で撫で、デスクの端からまた腰を上げ、涼介を見下ろした。
「ありがとよ、アニキ」
 親密さと不敵さとが、絶妙に入り混じった笑みだった。ああ、と言って、涼介も似たような笑みをくれてやった。じゃ、おやすみ、と啓介は軽やかに、未練も残さず部屋から出て行った。呆気ないものだった。
 涼介は、パソコンのモニタに向かい直った。どこまで打ったかを思い出しながら、つい今しがたの、弟の姿も思い出していた。
 バトルで負かした相手のことを、そう気にかける弟ではない。そういった、割り切りの良さがある。残酷さがある。その情が費やされる相手は、極めて少ない。啓介は、直感を大切にしている。だから、他者からはその価値観を、図りにくいところがある。涼介にも、深いところは理解ができない。啓介がなぜ、中里を気にかけているのかを、だ。
 京一に話した以上の思いを、涼介は中里には抱いていない。啓介よりは遅い。だがGT−R使いとしては、現状で中里以上の走り屋は群馬にはいないはずだった。その性質は、秋名山で一度会った折や、秋名のハチロクとのバトル、交流戦で、感じたことがある。調子の波は激しめで、扇動されやすく、単純なところがあり、短気で喧嘩っ早い。だが、人は良い。それ以上を、涼介は、思ったことがない。京一に、説明してやる義理はなかった。説明をした、という感慨もない。急に部屋に入ってきた弟を見て、つい、確かめてみたくなっただけだ。どれだけのことを、自分はあのGT−Rの乗り手に対して思っているのか、そして、弟はどうであるのか。
 胸糞の悪い気分が、戻っていた。涼介は椅子の背もたれに体を預け、ため息を吐いた。啓介は、もう立派な大人だ。それでも時折、こちらに許しを求めてくる。言外に、行動の指標を尋ねてくる。それは、啓介が優柔だというのではない。本人に意識はないだろう。だが、啓介は、知っているに違いなかった。それを涼介が答えるということを、答えたがっているということを知っていて、敢えて、関係性を提供しているに、違いなかった。そう、自分はされている。特別だろう。だが、啓介にとって本当に特別な相手とは、そんな小細工を必要とする存在ではないはずだった。その純粋さを、ただ一途に費やしてしまう存在のはずだった。混乱をもたらす存在のはずだった。そんな面倒は、兄弟間には挟みようがない。
 この絆には、片方が死してようやく切れるほどの強さがある。すなわち、生のうちには解きようがないほど、鈍いものだ。それはまるで、純粋さを失わない弟とはまったく違う、あの男のような、処置の仕様のないものだった。
 むかつきは、しばらくおさまらなかった。



3.攪拌

 妙義山は、嫌いではなかった。限界寸前まで速度を上げたFDで、崖っぷちに敷かれている道路を行く時など、心地良い戦慄があって良い。だが、啓介は、妙義山には滅多に足を運ばない。基礎固めとして、地元の赤城山で、兄や仲間たちが整えてくれた走るに最適な環境の中、様々なセッティングや状況設定での集中した走行を重ねる時間が必要なせいもある。だがそれも、他の峠に気晴らしに行く間もないほど、冗長に行われるわけではない。まだ、余裕はあった。
 それでも啓介は、妙義山に滅多に足を運ばない。苦手意識があるのだった。コースに対して、ではない。その峠道を走ることは、嫌いではないのだ。
 闇の濃い夜だった。嫌いではない道を上っていったところにある駐車場、そこに足を踏み入れるのは、実に夏の終わりの交流戦以来だった。赤城レッドサンズと妙義ナイトキッズ、群馬内でどちらが上であるかを決めるバトル。ヒルクライムのみ行われ、レッドサンズからは啓介が出て、勝利を収めた。ナイトキッズから出たのは、今、黒いGT−Rの傍に立ち、FDに降りてからの啓介の動きを一つ残らず見てきている、そのGT−Rのドライバーである男、中里だった。その男と会うことも、実に夏の終わりの交流戦以来だった。
「何の用だ」
 右手に煙草を持ち、左手はジーンズの前ポケットに入れている中里は、険しい目と、声を啓介に向けてきた。交流戦以来だから、軽く一ヶ月は経っている。その間、一度も会ってはいない。顔を見たことすらないし、車ですれ違ったことすらなかった。久しぶり、という言葉が相応しい状況で、啓介は眼前の中里の変わらぬ様相に、目の裏に突き上げてくる懐かしさを感じていたが、中里はといえば、突然のことに、強く警戒しているようだった。その警戒心をあざ笑うように、別に、と啓介は軽く言った。
「ただ、まあ、生きてっかと思ってな」
 眉間をきつく狭めた中里が、一瞬目を揺らし、だが力強く、啓介に固定した。
「生きてるぜ。この通り」
「そうだな」
 啓介は、頷いた。確かに、この男は生きている。まだ、妙義で頭を張っているに違いない雰囲気があった。この男に向けられている、周囲の視線でそれが分かる。羨望、関心、嫉妬、心配。どれも、啓介を貫いて、中里に届いている。啓介で、留まってはいない。完全にアウェイの峠では、そういうこともある。だが、群馬内の峠に限っていえば、啓介を通り、あるいは素通りして、他の人物へと視線が刺さることなど、ここ以外では、起こりえないことだった。それだけ、中里という男は、この峠で存在を認められているということだ。羨望され、関心を向けられ、嫉妬をされ、気にかけられ、そして、信頼されている。啓介よりも強く、この峠に存在を刻み込んでいる。それはどうやら、交流戦から、まったく変わっていないようだった。姿かたちも、中身も、中里は中里のままらしかった。
 本当は、ここで、笑いたかった。変わってねえな、と、笑って言ってやりたかった。啓介は、変わらぬ中里との接触に、ほっとしていた。だが、中里はまだ、警戒を解いていなようだった。その険しい中里の顔を見ていると、三日前の、兄との会話を思い出した。
「最近いろは坂に行ってんだって?」
 聞くつもりなど、まったくなかった。だが、口からその問いが、こぼれ出ていた。中里は、ただでさえ大きめな目を、剥き出るのではないかという勢いで、見開いた。そして、所在なさげにそれを泳がせ、たまにな、と口早に言った。
「そんな、しょっちゅうじゃねえよ」
「何言い訳してんだよ、俺に」
 言葉が、思考を挟まず口から出ていった。瞬間、顔を強張らせた中里を見て、ああ待てよ俺、と啓介は思った。これじゃ駄目だろ。
「Rに合うコースじゃねえと思うけどな。峠が目当てなのか?」
 それでも、口は動くのだった。中里は、強張らせたままの顔の、眉根まで寄せた。困惑が、露呈していた。
「何だそれは」
 声にまで、困惑が溢れている。何でもねえけど、と平然と啓介は言いながらも、焦っていた。背中がぞわぞわする。このままでは駄目だと、分かっていた。こんなことを言いたいわけでも、聞きたいわけでもない。いや、聞きたいのだ。聞きたいから、聞いている。だが、久々会って、いきなり聞くことではない。もっと、普通の会話をするべきだ。この男と、ただ一度バトルをして、負かしている、群馬の同じ走り屋として、普通に話をするべきだ。そう思っても、うまい言葉は頭に浮かばなかった。
 中里は、啓介から目を逸らし、やるせなさげに下唇を噛んだ。それを見た途端、どこかの神経が興奮した。
「赤城には来ねえのか」
 再び目が、合わされた。中里の目は、他の車の遠いヘッドライトに晒されているせいか、濡れているように見えた。唇も、濡れているように見えた。その唇が、開いた。
「お前らがいる」
「俺らって?」
 即座に啓介は、聞いていた。中里は、目を逸らし、俯き気味になり、口ごもった。
「だから……お前とか」
「俺とか?」
 その問いには、中里は答えなかった。答えを探すことが、できない様子だった。啓介は、自分でも驚くほど冷静に、得心していた。
「俺がいるから、来たくねえのか」
 それは問いではなく、呟きだったが、顔を上げた中里は、慌てたように言葉を返してきた。
「来たく、行きたくねえとか、そんなんじゃねえよ」
「じゃあ何なんだ」
 今度は、問いにした。中里はたった今、自分一人がいるから、赤城には来ないということを、認めたようなものだった。それを今更否定しても、説得力はない。だが、中里が否定したいというなら、それ相応の説明は、聞きたかった。啓介がじっと見据えると、中里は窺うように見返してきて、だがすぐに、険しい表情を作った。
「手の内は見せたくねえんだ。お前とは、もう一度、バトルをしてえから」
 啓介は、目を細めた。中里の、凄むような容貌は、はったりでしかないことが、透けて見える。その奥の、何かの迷いまでは、うまく見透かせない。ただ、なぜかやたらと冷静な頭は、表に出された言葉については、判断していた。
「いろは坂には、リマッチ目的に行ってんだろ」
 ゆっくりと、聞き逃されぬように言うと、ああ、と中里は頷く。
「じゃあ、そっちにも手の内見せねえ方がいいんじゃねえの」
 他人事のように、啓介は言った。中里は、目を逸らした。逸らしたまま、震えを無理矢理抑えているような、危うい声を出した。
「赤城は、お前のホームだしよ」
「いろは坂もそいつのホームだろ」
 続けて出した啓介の声と比べれば、中里の声の動揺の表れは、顕著だった。
「俺がいるからか」
 間を置かずに、啓介は言った。確認だった。先の中里の否定が嘘であることの、その場しのぎのでまかせであることを、確かめる問いだった。中里は、啓介と、目を合わせようとしなかった。黙っていた。十、啓介は数えた。中里は、何も言わなかった。
「そんなんでよ」
 啓介はそれだけ言い、一旦口を閉じた。中里が、反射のように、目を向けてきた。その顔を真っ直ぐ見ながら、啓介は、すぐに口を開いた。
「そんなんで、俺とバトルしようってのは、甘いぜ、中里」
 目が、わずかに見開かれ、眉間も頬も強張り、唇が緩く開く。交流戦以来に見た、そんな中里の、隙だらけの顔だった。今度は啓介が、中里から目を逸らした。そして、目を逸らしたまま、背を向け、じゃあな、とだけ言って、FDに歩いた。立ち止まりたかった。振り返りたかった。だが、啓介は、一直線にFDに向かう足を、止めなかった。運転席に乗り込んで、ベルトをし、エンジンを吹かして、すぐに駐車場から飛び出す。確認したバックミラーに映っていた、黒いGT−Rの傍で、手に持っている煙草を吸わないまま佇んでいる男の姿が、瞼の裏に焼きついた。
 後悔が、全身に染み渡っていた。あの駐車場に戻りたかった。戻って、謝りたかった。だが、Uターンはせずに、啓介は目的地を決めず、FDを走らせた。戻りたかった。それ以上に、戻りたくなかった。妙義山にだ。苦手意識があるのだった。コースにではない。あそこにいる、中里にだった。もっといえば、中里とうまく接せられない、自分にだった。
 やっちまった、としか、思えなかった。ただ、様子を見ようとしただけなのだ。生きているのか、それもそうだ。ちゃんとしているのか。あの男がまだ、あの男らしく、妙義山で走っているのか。確かめたかった。交流戦の最後、自分の言ったことに、傷つきはしなかったか。その後は、どうだったのか。聞いてみたかった。話してみたかった。だが、できなかった。喧嘩を売るようになってしまった。多分、また傷つけただろう。恐れるなと兄は言った。中里は偉大な奴でも何でもないと、兄は言った。その通りだ。中里毅は偉大な奴ではない。ただの走り屋だ。だから、傷つけたとしても、恐れることは何もない。それは、その通りだ。
 だが、傷つけたいわけではないのだ。傷つけたくなどない。ただ、感じたいだけだった。根拠もなさそうな自信に溢れている、意地の塊のような、GT−R狂いのあの男、中里らしい中里に触れてみたかっただけだった。傷つけたくなどない。しかし、そう思われることを、中里は望んでいないだろう。あの男は啓介の前で、走り屋でいたがっている。あの男を傷つけないようにと気遣うことは、走り屋でいたがっているあの男を、否定するということだ。中里らしい中里を、否定するということだ。それではあの男と会う意味がない。もとより、今は、気遣うこともできない。
 同じリマッチ目的なら、いろは坂に行くよりは、赤城に来る方がよほど楽だろうに、中里はそうしなかった。言ってくれば、暇な時には相手をしてやってもよかった。中里の乗るGT−Rと走ることは、つまらないわけでもない。だが、中里は何も言ってこなかった。赤城山に現れもしなかった。
 ――お前らがいる。
 その理由は、啓介がいるからだと、言ったのだ。啓介がいるから、赤城山には現れない。手の内は見せたくないと、中里は言った。だが、いろは坂のエボ4には、手の内を見せているはずだ。それはもしかしたら、正しい理由ではないのかもしれない。峠が目当てなのか? その問いに、中里は正確には答えなかった。峠以外が目当てなのか? あれほど走り屋であることにこだわっている奴が? 赤城よりも、魅力的なものが、いろは坂にあるというのか? 分からない。理解ができない。理解は、しなくてもいいのだ。所詮は中里だ。もう、そのホームで負かしている。実力は知っている。伸びているかもしれない。だが、兄ほどでも、藤原拓海ほどでもないことは、明らかだ。いちいち気にするほどの相手ではなかった。それでも、走ってもいいとは、思っていた。気にするもんじゃねえ、と思うほどに、気にしていた。いろは坂で中里が、何をしているのか気になるほどだった。知りたかった。何が実際に中里を動かしているのか、詳しく知りたかった。知るための取っかかりとしての言葉は、だが、あの男の前では、的確には出てこない。やりたいこととできることが、致命的に違っている。あるいは、本当は、できることが、やりたいことなのかもしれない。理解が、できなかった。
 FDは、赤城に向けた。走ること以外、何も考えないようにした。
 それでも、あの男の、頼りなく佇む姿が、しばらく脳裏から消えなかった。



4.沈降

 懐かしさを覚えるほどには、馴染んでいた。ただ、コースには馴染まない。急勾配の坂に作られたこれでもかというほどに続くヘアピンカーブは、スピードを乗せて曲がるには辛かった。これほど32の短所を際立たせてくれる道もない。だからこそ、このコースを巧く処理できるようになれば、技術も伸びるだろう。そう思っていなければ、走っていられないほど、速度を保つのに集中力の要る場所だった。
 ここじゃ無理だろ、と岩城清次は中里に言った。馬鹿にするまでもない、という自然さだった。それでもその男と互角に再戦できるように何度も通ううち、岩城にせよ、いろは坂に集まるエンペラーのメンバーにせよ、物珍しいものとして見てくることはなくなった。その場にいる走り屋から、車種の違いや地元の違いはあれど、同じコースを走る、同じ走り屋として、中里は接せられるようになっていた。
 よくいる人間の顔ならば、分かる。岩城以外の走り屋の、名前と顔が一致することも多くなった。たまに、会話もする。まだ誰かしらに小馬鹿にされることはあるが、それも癇に障るほどではなかった。エンペラーのメンバーよりも、よほど派手な振る舞いや大げさな言動をする、多種多様な地元の仲間に慣れているためかもしれなかった。
 懐かしさを覚えるほどには、この場には、馴染んでいるのだ。ただ、コースには、なかなか馴染まない。
 中里は、32のフロントタイヤの前に、咥え煙草でしゃがんでいた。タイヤの減り具合を確かめようと、一旦腰を下ろしたら、すぐに立ち上がる気は起きなくなった。タイヤの確認は左右し終えている。まだ十二分、速さを保てるものだ。だが、中里はまだ、しゃがんでいた。煙草を吹かしながら、視界にフロントタイヤをおさめ、しかし意識は向けていなかった。
 ――峠が目当てなのか?
 軽めでありながら、深い重みのあるわずかに掠れた男の声が、頭に響いている。昨日、妙義山に来た、高橋啓介の声だった。高橋啓介の、言ったことだった。そうだ、と中里は思う。俺は走り屋だ。それ以外に何がある? だが、咄嗟にそうは、答えられなかった。
 ――俺がいるからか。
 そういうわけではない。そういうわけではなかった。否定はした。だが、しきれなかった。時間を、与えられたのにだ。
 ――甘いぜ、中里
 それは、そうかもしれない。GT−Rに適しているとは言いがたいいろは坂を走っているよりは、赤城山で高橋啓介の実力を感じた方が、走り屋として、成長の仕様もあるかもしれないとは、中里も考えることだった。甘いと言われても、反駁するどころか、何を言い返すこともできなかった。
 それでも、赤城山よりも、ここに足が伸びるのだ。高橋啓介のせいではない。あの男がいてくれた方が、むしろ、赤城山で走ることは、刺激的だろう。簡単に、想像できる。高橋啓介の、基本に忠実でありながら、本能の知らせる命の危険をも、力でねじ伏せていく走り。一度、間近でその速さを体感しているからこそ、学ぶところの多いことは、分かっている。
 それを分かっていてもなお、赤城山よりも遠いこのいろは坂に通っていることを、赤城に高橋啓介がいるためではないと、言い切れなかった以上、甘いとされても、当然だった。
 だが、峠以外に、何が目当てだというのか。俺は走り屋だ、32のフロントタイヤの前にしゃがみ込んだまま、中里は幾度も思っていた。俺は走り屋だ。ここに来るのは、走りが目的だ。チームの面目のためにも、岩城にリベンジせねばならない。ヒルクライムで負けている。ヒルクライムで勝たねばならない。チームでヒルクライムを速く走れるのは、自分しかいない。だから、自分でなければならない。
「何か変わったことでもあるか、タイヤに」
 背中に、冷や水をぶっかけられたような感覚だった。その声が、突如後ろから聞こえてきた瞬間だ。中里は、咥えていた煙草を落としていた。まだ、長い。それには見向きもせず、座ったまま、振り返っていた。男が立っている。白いタオルを頭に巻いた、いかつい顔の、かさばった服を着ている男だった。いろは坂に集まる大概の走り屋の顔と名前は、一致するようになっている。この男を一番早く、覚えた。姓名も、乗っている車も、その性能のほども、技術の高さも、得られる情報はすべて、頭に入れた。それでも、ほとんど話をしたことはない。話したくないわけではなかったが、敢えて話す機会は、作ろうとしなかった。それをこの男も察しているようで、挨拶以外で、話かけられることは、一切なかった。だから、その男に急に、自分の状態について声をかけられたことに、中里はひどく動揺し、動揺を隠すことに、苦労した。
「須藤」
「ずっと見てるだろ」
 須藤は、こちらを見下ろしながら、だが興味もなさげに言ってくる。フロントタイヤを、確かにずっと見ていた。見ながら、見ていなかった。確認は終えていたし、考え事をしていたからだ。いや、と中里はタイヤに顔を戻し、手短に言った。
「別に、変わったことは、ねえよ」
 そうか、と須藤が言う。それ以上、言葉を受け付けないような、乾いた調子だった。背中全体が、冷たくなっている。ぞくぞくする。悪寒のようだが、違う。首から頭にかけては、思考をかき乱すほどの、熱が生まれていた。中里は、粘ついた汗が出てきた手で、地面に落ちた煙草を拾った。吸えそうにはない。ポケットから出した携帯灰皿にそれをねじ込み、立ち上がる。振り向くと、須藤はまだ、そこに立っていた。真正面だ。その、感情をほとんど窺わせない、いかめしい顔を、見ずにはいられなかった。目を、合わせずにはいられなかった。沈黙があった。何か、言わねばならない。思いながらも、焦るばかりで、中里は口をうまく、動かせなかった。
「お前のこと、聞いたぜ」
 須藤が先に、声を出した。踏み込む隙を見せない口調だった。中里は、間を置いたが、それでも須藤の言わんとしていることが分からなかったため、恐る恐る、言った。
「聞いた?」
「ああ。俺の知り合いに」
 顔を少し逸らした須藤が、わずかに眉を寄せながら、頷く。須藤が、聞いたということだった。須藤の知り合いに、自分のことを、聞いた。それだけで、中里は、簡単に理解していた。
「高橋涼介か?」
 聞くと、須藤は寄せたままの眉を上げ、ああ、と意外そうに言った。その表情の生々しさに、息苦しさを覚え、中里は須藤の顔からは目を逸らし、とりあえず言葉を発した。
「あいつが俺のこと、何て言うんだ」
「何て、か」
 少し考える風に、須藤が黙る。そして、言った。
「ドライビングが自己流だから、あいつの弟よりは遅いが、GT−R乗りとしては、暫定的には群馬一かもしれねえってな」
 またわずかに黙し、あとはどうでもいいことだ、と須藤は続けた。そうか、と中里は慌しく頷き、言った。
「あの野郎、勝手なことを……」
 高橋涼介に言われたらしいことは、中里の感情を揺さぶらなかった。だが、強い焦燥感が、脳を焼き、声がわずかに震えた。息苦しさが、消えない。
 高橋涼介が、高橋啓介よりもこちらが遅いと決めるのは、当然のことだ。中里はホームで高橋啓介に負けている。高橋啓介の兄という関係性を持つが、高橋涼介は、凄まじく速く、冷静で、賢い走り屋だった。過去高橋涼介が指摘してきた通り、中里は秋名山で、ハチロクにも負けた。あの男が、判断を違えることはないと、考えられる。あの男がこちらを、あの男の弟よりは遅いとしながらも、GT−R乗りとして、暫定的にでも群馬一だと評したらしいことも、額面通りに受け取ってもいいだろうと感じられる。それについてはだが中里は、感情を揺さぶられなかった。直接、高橋涼介に言われれば、多少怒ったり喜んだり何なりしたかもしれない。しかし、それを言ったのは、須藤だった。須藤が高橋涼介に聞いたことを、言ってきた。その内容について、感情は、揺さぶられなかった。須藤がそれを言ってきたことに、感情を揺さぶられた。焦っていた。そんなこと言われて、どうすりゃいいんだ。
 焦りながらも、沈黙の時間が長いことは、中里にも分かった。目を、須藤に向けた。須藤は唇を結びながら、中里を見ていた。何か、物言いたげな顔貌だった。奇妙だった。欲望を遠慮で覆っている須藤を見るのは、初めてだった。これまでその顔に、遠慮も欲望も見たこともなかった。
「何だ?」
 口を開かずにいる須藤に焦れて、中里は尋ねた。須藤は何かを言いたいはずだった。いや、と須藤はどこか慎重に、言った。
「涼介とは、親しいのか?」
「は?」
 思わず、頓狂な声を上げていた。須藤が一瞬、何か嫌な感情を表すように眉を寄せ、だがすぐに平静な表情を装った。
「つまり、あいつはお前を知っているようだったから」
 その顔を覆っていたのが、自分に対する遠慮ではなく、須藤自身に対する、自制心であることを、中里は唐突に察した。須藤の顔にはまだ、それと欲望が入り混じり、揺れていた。中里が高橋涼介と親しいかを知りたいという、欲望だ。いや、違うだろう。会話をしたことはほとんどないが、須藤が誰かと喋っている声は、何度も聞いたことがある。これほど歯切れが悪いことは、なかった。まだ、須藤は、自制している。欲望と、戦っている。おそらく、高橋涼介が、誰かと親しいのかを、確かめたいという欲望だった。高橋涼介が関係しなければ、この男が自分に話しかけてくることなど、ないとも思えた。
 中里は、瞬間的に、何も考えぬうちに肯定しそうになり、慌てて唾を呑み込んで、一旦喉を閉じた。親しい? 高橋涼介と? そんな話は、どこにもない。須藤の顔はなるべく見ないようにしながら、炙られているような頭を働かせ、中里は閉じた喉を開いた。
「親しくなんかねえよ。バトルするんで、ちょっと話したことがあるだけだ。秋名のハチロクについてとか、うちのチームとあいつのチームの交流戦についてとか。個人的なことは、俺は、何も知らねえ。高橋涼介のことなんてよ」
 須藤が、湿った声で言う。
「そうか」
「そうだ」
 中里は頷いた。唾を飲む。空気が薄い気がした。息苦しい。声を出さねば、呼吸も忘れそうだった。
「あいつのことはすげえ走り屋だとは思うけど、それだけだ。俺は別に……あいつとはバトルをしたこともねえし。交流戦には結局あいつは出なかった」
「分かった。もういい」
 鋭くそう言った須藤は、声の余韻を消すように、咳払いをし、続けた。
「悪かったな。変なことを聞いて」
 謝られてまで、顔を見ないわけにはいかなかった。中里が目を上げると、須藤はいつもの須藤の顔だった。欲望も遠慮も見えない、感情自体がその皮膚の奥底に沈みきってしまっている、いかめしい顔貌だった。それが、須藤の顔を間近でほとんど見たことのない中里にとっては、いつもの須藤京一だった。
「いや。気にしないでくれ」
 中里は言い、俯いた。まだ言葉を続けようとする口を、無理矢理閉じた。話は終わったはずだった。須藤は、高橋涼介のことを聞きたがった。そして、自分は答えた。あとは、須藤が立ち去るのを、待つのみだった。
「いい奴だと」
 立ち去らない須藤が、ひび割れたような声で、言った。
「言っていた。あいつは。お前のことを」
 顔を上げると、須藤の顔が見える。それまで、ひび割れているようだった。ひび割れたところから、どろどろとした欲望が、漏れ出ている。中里はすぐ、顔を背けた。
「そうか」
 その自分の声こそ、乾いた、微塵の隙もないものとなった。ぴんとこなかった。高橋涼介が、自分のことを、いい奴だと言った。だから何だ、という気分だった。高橋涼介からなされる、走り以外での評価など、気にしたこともなかった。高橋涼介と自分とに、さほど縁を感じていないためかもしれない。それ以上に、それを、須藤が言ったせいかもしれなかった。
 ――あとはどうでもいいことだ。
 どうでもいいことしたことを、須藤が今、わざわざ言ってきた理由など、高橋涼介という言葉以外に、浮かばなかった。中里は、唾を呑んで、声を湿らせようとした。
「あいつのことは、俺には分からねえよ」
 だが、出てくる声は、やはり乾いた、冷たいものとなった。これ以上、聞いてくれるなという思いが、にじみ出ていた。
「そうか」
 こちらは、湿った声で言った須藤が、背を向けた。その気配が離れてから、中里は顔を上げた。黒いランエボへと歩いていく、須藤の後ろ姿が見えた。気合を入れなければ、その体から、目を剥がせなかった。
 自分の車に向き直り、もう一度、フロントタイヤの前にしゃがみ込む。タイヤは幾度も確認したから、もう、見るべきところもない。煙草を取り出し、火を点ける。吸って、ため息とともに、煙を吐き出してしまうと、動く気力がわかなくなった。
 折角、という思いが、指を痺れさせている。話をした。須藤とだ。折角、話をした。高橋涼介が話題とはいえ、高橋涼介のことに終始したとはいえ、もう少し、会話を膨らませる方法も、あったかもしれなかった。話は、したくないわけではなかった。したいのだ。あの、無駄を極限まで削ぎ落とした、高い運転技能に基づく計算づくの走りをする、堅牢で偉大な走り屋と、じっくり話をしてみたかった。しかし、敢えて話す機会を、中里は作らない。須藤と話すために、ここに来ているのではない。走り屋から逸れることが、恐ろしかった。
「何見てんだ」
 また突然、後ろから声が降ってきた。筋肉は反射的に震えたが、背筋が冷たくなることはなかった。中里は細く息を吐いてから、膝に力を入れて、立ち上がり、振り向きながら、いや、と言った。
「別に、何も見てねえ」
 降ってきた声の主は、須藤よりもごつごつとしている顔を、怪訝で染めた岩城だった。
「タイヤ、見てたんじゃねえのか」
「見終わったんだ」
 中里が答えると、一拍何かを図るような間を置きながらも、なるほど、と岩城は興味もなさそうに言った。気にならなければ、余計な詮索もしてこないのが、この男だった。須藤よりも、よほど分かりやすいこの男に、リベンジしなければならない。そのために、ここに来ている。それが終われば、ここに通い詰める必要もなくなる。次には赤城山に行ってもいいかもしれない。だが、それがいつになるか、現状では、見当はつかない。それまでは、ここに来るしかない。地元の連中にも、ここの連中にも、認められてしまっている。もう、止められない。
「走っていいか」
「ああ」
 尋ねると、何でもないように岩城は頷き、じゃあ出るか、と自分の車に歩いて行った。中里は、リアタイヤも確認してから、32に乗り込んだ。やるしかない。いつか、雪辱を果たすために、岩城と走る。32のステアリングを握りながら、だが、中里の頭には、高橋啓介の精緻で冷たい顔が、浮かんでいた。須藤京一のいかめしく静かな顔が、浮かんでいた。
 勝てんのか、と、ふと思い、その思いを消して、コースに向かうには、少し、気合が要った。
(終)

2008/03/02
トップへ