錯誤の先



 名前を呼ばれた。
 小規模のスーパー、当日限りの品が叩き売られる時間帯に、その狭い駐車場で、車から降りた途端に誰が声をかけてくるというのか、見当もつかなかったが、反射的に振り向いていた。振り向いた先にいたのは、見知らぬ青年だった。短い黒髪、黒いポロシャツにジーンズ、スニーカー。身なりには凡庸な清潔感があり、店の明かりに照らされた容貌は、十代というには厳しいが、あ、と驚きの表情が浮かぶと、二十代というにも幼さが残るように思えるものだった。少年ではなく、青年といって相応に見える。その青年は、驚いた次に、戸惑った顔になり、固まっていた。一応数秒ほど記憶を探ってみたが、引っかかるものは何もなかったので、
「何か?」
 藤原は尋ねた。青年が泳がせた目は、藤原の顔と車を幾度も行き来していた。おそらくこの青年の親と似たような歳の男の顔と、店の名前が白地に黒文字でくっきりと記されているスプリンタートレノ。
「あ、いや、すみません。何でもないです」
 青年は低めの声で慌しく言い、気恥ずかしそうに一つ頭を下げた。そのしゃちほこばった様子からは、因縁をつけてきそうな物騒さはなかった。あるのは懐かしいような、初々しさだけだ。つまり、用事もない。そうか、と頷いて、藤原はゆっくり青年に背を向けると店に入った。
 ともかく煙草と醤油とトイレットペーパーがなければ始まらない。いずれも切らしたままにしておくと非常時に危険な代物だ。買い溜めしていたものが一斉になくなるとは予定外だった。本当は息子に買って来させるつもりだったが、バイトの懇親会だか何だかで遅くなるというし、時間もあるから、自分で動いた。
 今年高校を卒業する息子は、一丁前に走り屋というものの自覚をもって家の車を乗り回す機会が多くなっている。そのせいか、近頃は藤原とうふ店と車体の横に記したハチロクの認知度も高まっているらしく、稀に出先で妙な視線を感じることがあった。先ほどの青年も、同じかもしれない。見覚えはないし、自分と息子を間違えたのだろう。それにしても、買い物先の駐車場で車を降りた途端に間違えられるということは今までなかった。父親を差し置いて目立っている息子については、憎たらしく感じないでもない。ただ最近になってようやく走ることに執着を見せ始めた息子より、こちらは遙かに先を行っているわけだから、試行錯誤を繰り返して四苦八苦しているその様子を見ていると、優越感があって快いものだ。自ずから車に乗ることを覚えた今後、どれほど腕前が上がっていくのか、楽しみでもある。
 ただ、息子の活動も、店の売り上げにはさほど貢献していないのがいかんともしがたいところだった。息子自身のバイト代で燃料費を捻出しているとはいえ、整備は家持ちなのだから、もう少し営業というものも考えてもらいたい。ただでさえ今年は、ある程度予定していたとはいえ車のエンジンを積み替えたため、出費がかさんでいる。来年も出ていくものは多そうだ。蓄えはあるものの、切り崩しすぎてもいけない。死ぬまで一人で悠々と暮らせるだけの余裕は保ちたい。
 そのように家計について考えながら目的の品物をカゴに入れ、煙草を一カートン頼んでレジを通ると、目の前のサッカー台の左側に先ほどの青年がいた。醤油とトイレットペーパーに安い惣菜と酒の肴と息子の欲しがるパンまでカゴに入れていたら、それなりに時間が経っていたが、狭い店内で青年には遭遇しなかった。ルートがいちいち違ったらしい。そしてここでぶつかったわけだ。藤原は台の前まで進み、青年の隣にカゴを置いた。青年を見ると、青年も藤原を見た。
「あ、どうも」
 慌てたように、先ほどと同じく気恥ずかしそうに、青年は笑った。それは場を取り繕うための笑顔には見えなかった。苦笑でもない。わざとらしくない愛想は余分な意味がなくて良い。どうも、と返して藤原はレジ袋に商品を入れた。青年は既に入れ終えている。ちらと見えた袋の中には刺身と肉のパックが多かった。この時間帯に多く食料品を買いに来るということは、おそらく自炊しているか家族に尻を叩かれているのだろう。
「あの、藤原さんですよね」
 袋にすべて入れ終えたところで、隣にいた青年が言ってきた。苗字を知られていることには驚きはしなかったが、確認するように言われることには少しだけ驚いた。ああ、と言ってから藤原は青年を見た。
「知り合いだったかな?」
 どう考えても見覚えがないので、念のため丁重に尋ねてみる。青年は再び慌てたように、あ、いえ、と大仰に首を振り、口ごもった。
「その、俺は……拓海君と……ちょっと」
 驚きはそして、納得に変わった。やはり息子の方だ。そうか、と空いたカゴを積まれている場所に重ねながら藤原は言った。
「あいつとね。同級生ってんじゃなさそうだな」
「は?」
「さすがに高校生には見えねえよ、お兄さん」
 青年は一瞬にして笑みを消し、信じがたいようにしかめた顔を彼方に向けて、呟いた。
「……やっぱ高校生だったのか……」
 藤原は不審に思って眉を上げていた。
「知らなかったのか?」
「え? あ、ええ……いや、あの、二回しか会ったこともないので……」
 ばつが悪そうに青年は頭を掻く。こちらを車で息子と判断してきたのだろうし、やはりこの青年は秋名のハチロクだかという息子の二つ名の関係のある人物なのかもしれない。興味を引かれて藤原は尋ねていた。
「あんた、名前は」
「名前、は、中里です。中里毅」
「中里さんね」
「はい」
「それじゃあ」
「はい」
 かといってそれ以上話すこともないので、気恥ずかしそうに顔を赤くし再びしゃちほこばり出した中里という青年を置いて、藤原は店を出た。車に荷物を積んでエンジンをかける。そこで青年が店から出てくるのが見えた。先に買い物を終えていたのだからもっと早く出てきても良さそうなものだったが、あの様子では驚きにしばらく固まっていたのかもしれない。青年は藤原の車の前を右から左へ横切った。その際には頭を下げてきた。同じく頭を下げて、藤原は青年の姿を目で追った。いつの間にか停められていた隣のデリカに隠れてすぐに見えなくなった。その奥に何の車があったのかは思い出せなかった。とりあえず最後の煙草をシャツの胸ポケットから出して、一つ吸ってからギアをローに入れる。発進したところで、この車と同じく小規模スーパーには似つかわしくない強いエンジン音が聞こえてきた。人と車に注意を払い左側の出口へと車を向けながら、藤原はデリカの奥に並ぶ車を一瞥した。銀のサニーの隣に、黒いスカイラインGT−R。その運転席に、藤原は先ほどの青年の顔を見た。

 店舗兼自宅には電気が点いていた。消した記憶があるものが点いている。ということは、誰かが点けたということだ。
「おはえり」
 家の中には空き巣ではなく、案の定、息子がいた。こたつに入って飯を口に含んでいる。食事は用意されていた。といっても白飯と味噌汁と野菜炒めだ。主食はない。藤原は日用品を入れたレジ袋は脇に寄せ、惣菜を詰めた袋をテーブルの上に乗せた。
「何だお前、懇親会じゃなかったのか」
「中止になった」
 大して残念でもなさそうに拓海は言い、乗せた袋を勝手に開けてマカロニサラダとローストレッグを出した。いかにも食事のタイミングを図られていた気がして癪に障るが、食べ盛りの息子から飯を取り上げるわけにもいかない。こちらは晩酌とする。冷蔵庫の中でグラスは冷やされていた。惜しむらくは冷凍庫に入れておけというものだが、わざわざ一声かけなければならない親切は働きたくないのだろう。不用意に目立つのが嫌いなのだ。まだ若い。酒とグラスを持ってこたつに戻ると、飯を飲み込んだらしい拓海が思い出したように言った。
「親父は買い物だけ?」
 懇親会が中止になった理由を言うことは思い出さないあたりが、我が息子である。藤原は酒を一つやってから、テレビへ顔を向けた。肝臓病の兆候はどうのという医療メインなんだかバラエティメインなんだかよく知れない番組が流れている。わざとだろう。
「使えなかったからって文句は言うな。車は俺のだ」
 言って藤原はリモコンを手に取り旅番組に変えた。拓海はそれについては文句を言わなかったが、
「文句なんか言ってねえだろ」
 とは言ってきた。藤原は自分の分のローストレッグを出して箸で身をほじりながら言った。
「あとは好きなだけ使っていいぜ。ああ、ガソリン入れとけ」
「え、ないのかよ」
「お前が配達以外で使わなけりゃ十分あるけどな」
「自分の車なんだろォ、ガソリンくらい全部出せよなあ」
「俺の車でもあるが、店の車だ。それに燃料ってのは、使ってる奴が出すもんだろ」
 正論には正論を返すのが口を封じるのに最適である。人がこれから一日の疲労を癒す晩酌をしようとしている場で、アルコール依存症で肝硬変などという症例を大仰に出す番組を流したのだから、これくらいは許されるはずだ。ちぇっ、と拓海は口をつぐんで野菜炒めを頬張った。テレビでは昔よく見かけた俳優が温泉に浸かっている。初老の男の裸などまじまじと見たいものでもないし、出先での出来事も思い出したので、藤原はテレビから拓海に顔を向けた。
「拓海」
「ん」
「お前、中里って名前に聞き覚えあるか」
「中里」
 ぼんやりと中空を見た拓海は、三秒後、ああ、と合点がいったように頷いた。
「あるけど……何だよ」
「今日スーパーの駐車場で会った若い兄ちゃんが、その名前だった」
 再び中空を見た拓海は、珍しく小難しい顔になっていた。テレビは洗剤のコマーシャルを流している。不可思議そうに首をひねった拓海は、コマーシャルが開けたところで唐突に尋ねてきた。
「その人、GT−R乗ってた? 黒い、あのー……」
「32だったな」
「あー……そうか」
 そして納得した様子で、食事を再開した。藤原は酒を飲みながら拓海を見た。興味なさげにテレビを見始めた拓海は、山海の幸の並ぶ膳が画面に出たところで、ようやく藤原の視線に気付いた。数秒後に、説明を求められていることにも気付いたらしかった。
「あのさ。前に俺、GT−Rとバトルしたことあったろ」
「ああ」
 夏場のことだ。確かに息子はGT−Rとバトルをして、勝っている。その前のバトルではガソリン満タンを餌にしなければやる気も起こしていなかったが、その時は初めて物目当てではなく一端のドライバーとして拓海が臨んだバトルで、拓海を口車に乗せた古い知り合いが、後々になって俺がその気にさせたとやたらと自慢してきたことをよく覚えている。拓海のバイト先のガソリンスタンドの店長をやっている男だった。性格は良いし、助手席に乗せた時のリアクションは最高級に面白いが、よくくどい。むやみに人と関わろうとする。だから人を使った仕事もできるのかもしれない。
「そのGT−Rのドライバーだよ、妙義、妙義、妙義……ない……ナイトキッズ、の……中里……うん、中里。サンニー乗ってた」
 別の方向に思考が進み出していたが、続けられた拓海の言葉でGT−Rの青年を思い出し、なるほど、と藤原は言った。拓海を知っておりGT−Rに乗っている、ということで何か記憶が疼いていたが、これですっきりした。だが息子は逆に疑念を膨らませたらしい。
「親父、あの人と知り合いなのか?」
「いや、今日初めて会った」
 それだけ答えてブラウン管の中の美味そうな料理を鑑賞しにかかったが、恨みがましい視線を感じたので、藤原は言葉を付け加えた。
「あの兄ちゃん、お前と間違って俺に声をかけてきたみたいでな。慌ててたぜ」
「俺と?」
「車で判断したんだろ」
 あの青年にとってはおそらくあの車といえば拓海であって、まさかその父親が乗っているとは夢にも思わなかったのだろう、随分と動揺を示していた。そのせいかもしれない。どこか初心者じみた素朴さが強い様子からは、GT−Rを転がしていることをなかなか関連づけられず、記憶も掘り起こせなかった。あの青年も、車に乗れば違うのだろう。ドライバーというのは往々にして車とともにあってこそその真価が発揮されるものだ。
「あの人、何だって?」
 説明は終えた、会話も終わったと早合点していたが、息子は続けた。何も、と藤原が答えると、
「元気そうだったか」、と言う。
「俺には普通に見えたぜ」
 何かに打ちひしがれているようにも、絶望の淵に立っているようにも見えなかった。ごく普通の健康な青年。それだけだ。ふうん、と息子は曖昧に頷いて、白飯をもごもごと口に入れた。まだ何か言いたそうだ。口数の少ない息子にしては珍しい。藤原は会話を続けた。
「お前、その……何だっけ」
「サンニー」
「人の名前がサンニーか」
「え。いや、あ、名前か。名前は中里。中里、何とか」
「何とかだったら要らねえよ。で、その中里ってのと、バトルで会ったきりか」
「……あー、いや、その後一回……会ったっつーか見かけたっつーか……」
「それで気になるか? 元気かどうかが」
「いや、あの人、結構有名だから」
「有名」
「負け続けたり、何か……まあ、色々噂が……」
 飯を飲み込んだ後も、もごもごと拓海は口ごもった。特段厳しくしつけたわけではないが、今のところ常識も思いやりも持った人間として息子は育っている。そんな息子が口にするのにためらう類の噂が、中里という青年にはあるということだろう。敗北者はいつの世も見下され嘲られることを避けられぬ運命にあるものだ。思い出してみれば、あの青年には濃い顔立ちと個性的な雰囲気すら覆い隠すような凡庸さがつきまとっていたが、からかい甲斐のありそうな初々しさがあった。他人をいじることが好きな人間には、格好の玩具となるに違いない。となれば多様な噂もされるだろうし、ずば抜けて優れたものを持っていても持っていなくとも、結果的に有名にはなりうる。頷ける話だ。
「俺が最後に見た時は、今にも崖から飛び降りそうな感じだったし」
 拓海はぼそっと呟いた。穏やかではない話になった。それほど絶望感に満ちた様相は、今日見た青年の快活さのある姿から想像もしづらい。藤原は疑念を声に露わにした。
「何だ、自殺志願者だったのか」
「いや、そんなんじゃねえけど。何ていうか、変な人だった」
「変な人?」
「俺とその、バトルした時さ。秋名で。あの人最初、アクセルそんな踏んでなかったんだよ。ストレート。あれ絶対わざとだぜ。俺を待ってた。GT−Rだからって」
 拓海は感情の移り変わりを誰よりも繊細に顔に浮かべる。唇をわずかに尖らせたり、眉間にわずかに力を込めたり、声を低めたり、今も不機嫌だと簡単に分かる。分かりやすすぎてつまらないほどだ。この息子を無口と言うならともかく、無表情と言う奴の気が知れない。
「むかついたか」
「……まあ、ちょっと」
 しかしやはり、頑固なところがある。むかついたことも認めはしたが、その後すぐに話を変えた。
「そりゃいいんだけど、その後、ちょっとしてから、その人の地元で……交流戦? 他のチームと……あの、ほら、えー、親父が前にいきなりやれっつってきた人の」
「はあ?」
「FDの。ガソリン満タン」
 そう、ガソリン満タンで拓海を釣ったことがある。池谷とかいう拓海の先輩らしい若者の熱意にほだされた。秋名を馬鹿にしているFDに地元の意地を見せてやりたいだか何だかで、そのFDとのバトルにハチロクが出てくれということだ。ガキのバトルだった。だからガキを出した。そして拓海は勝ち、今に至る。FD相手の、ガソリン満タンを賭けたバトルが、結果的に始まりとなった。
「そんなこともあったな。懐かしい」
「いやそんな昔でもねえけど。んで、だからそのFDの人のいるチームと、バトルやったんだよ」
「お前がか」
「俺もやったけど、人の話聞けよ。GT−Rの人の話してんだろ。で、えー……どこまで話したっけ」
「GT−RがFDと交流戦をやったと」
「そう。それを俺も見に行って」
 へえ、と藤原は煙草を取り出しながら言っていた。かつてドライビングの愉しさについて塵ほどの興味も示さなかった息子が、その頃には自分の地元以外で行われる走り屋同士のバトルを観戦するまでになっていたわけだ。若者の成長は早い。拓海は怪訝そうにちらと父親を見てから、話を続けた。
「それで、上りのバトルがあって、その人負けてさ。で、その人負けたからナイトキッズ、そのチームが、下り出る奴いねえとかいう話になって……雨も降ってたし……で、俺が出ることになっちまって」
「あ?」、と藤原は火を点けた煙草を口から外した。「お前、そのナイトなんたらに入ってたのか?」
「そんなわけないだろ」、と冷めた目で息子は言う。「俺、どっちとも何も関係ねえよ。ただ見に行ってただけなのに、その勝った方の、レッドサンズっていうチームのよく分かんねえ奴とか、そのチームの……偉い人が、やれとか言ってきて、でもやっぱ俺関係ないだろ? そうは言ったんだけど、あの人……自分たちの負けだから、あとは好きなようにしてくれって」
 そこで言葉を切り、飯を頬張った拓海は、息苦しそうな顔になっていた。想像したのかもしれない。GT−Rに乗った青年。地元のヒルクライムで負け、チームとして下りで出せる人間がいないから、後はよそ者に任せざるを得なかった、その屈辱。不意に、藤原の脳裏にも、あの青年の、見たこともないはずの絶望的な表情が、浮かんだ。
「今にも崖から飛び降りそうな感じでか?」
 何も言わず、ただ拓海は頷いた。藤原も何も言わずに頷いた。変な人と拓海は言った。その感想を否定する材料も何もないようだった。真面目で初々しく堅固そうでありながら凡庸で抜け作にも見え、GT−Rに乗っているくせにストレートで手を抜き、負け続けていて口にしがたい噂を立てられていて、快活なようで絶望も似合う青年。確かに変だ。
 テレビの旅番組が終わる。食事も終わり、あとは煙草と酒でやる。拓海は箸を持ったままテレビを眺めている。まだどこか息苦しそうな顔だ。テレビを見ながら、そして言った。
「親父」
「何だ」
 藤原は息子を見ていた。息子は父親を見なかった。開いた口からは、声は出てこず、一つ小さく息を吐き、空の食器とゴミを持って立ち上がるのみだった。
「何でもねえ」
 そう拓海が言ったのは、背を向けてからだ。藤原はテレビのリモコンを取り、バラエティ番組にチャンネルを合わせた。若い男女がやたらに騒ぎ、無知をさらけ出している。
「拓海」
 背を向けたまま流しに立つ息子に、藤原は声をかけた。
「自分で考えるのはいいことだぜ」
 泡のついた食器を持ちながら、拓海が振り返る。面倒くさげな顔だった。
「偉そうなこと言うなよな」
「父親ってのは子供に偉そうなことを言う権利がある。そして俺はお前の父親だ」
「そんな権利、聞いたことねえよ」
「知識不足だな」
 藤原は煙草を吹かし、テレビの中の若い男女の乱痴気騒ぎを眺めた。昔はこういう世界の近くにもいた。他人の評価によって自分の価値がすべて決まる。その重圧に耐え切れず自ら才能を潰していった奴を何人も見た。我が息子にはこの先様々な舞台で戦うことがあろうとも、せめて自己を保ち、貫いてもらいたい。まだまだ先の話かもしれないが。
 その息子が、皿洗いを終えて藤原の前、テレビの前を通り、おやすみ、と二階に向かおうとする。
「会うならうちの店の営業しとけよ、ついでだろ」
 階段をのぼりかけた拓海は、目を細めて唇をゆがめ、うさんくさそうに藤原を見た。藤原は続けて言った。
「今お前、俺にとても失礼なこと考えてるだろ」
 間があった。長くはない。が、短くもない間だった。
「……そんなことねえよ。じゃ」
 階段をきしませ、拓海は二階へ行った。最後、目を合わせようとはしなかった。嘘だなありゃ、と藤原は呟き、テレビのチャンネルを変えた。

―――

 居心地の良い地元の峠にいても、ため息は止まらない。数えきれないほどだった。中里は愛車のスカイラインGT−Rのフロントに寄りかかりながら、雲のない夜空を見上げ、またため息を吐いていた。周りの走り屋仲間はもう声もかけてこないし気にもしていない様子だ。その方がありがたい。どうしても思い出してしまう、嫌な記憶がある。人違いしてしまった。今日のことだ。その車には、そのドライバーしか乗っていないと思い込んでいた。だがトレーナーにジーンズに突っかけ姿の運転手の顔は、若者と言うことが世辞でも冗談でもなく皮肉になる年齢に見えた。四十代、その頃だろう。声をかけてから、気付いた。藤原とうふ店と記されたハチロクから降りてはきたが、これは秋名のハチロクではない。では誰か――藤原姓であることは確認できたから、おそらくは近親者、確率が最も高いのは、父親だ。
「やっちまったなあ……」
 人違いなど誰でもする。気に病むほどのことではない。そう考えても、思い出すと気恥ずかしくて耐えられない。思い出さないようにしようにも、記憶が新鮮なので難しい。店の車なのだから店主が乗っていて当然だというのに、その可能性を微塵も考えず早合点をした自分が情けなかった。よりにもよって、という相手だった。もうため息を吐いても吐いても吐き足りなかった。
「おい、そこのうぜえ奴」
 そんな風に、あからさまに馬鹿にされても相手を強く睨み返せないほど、気が滅入っている。中里は再びため息を吐いて、人をコケにする声をかけてきた、同じチームのライバル的存在、慎吾を見た。
「何だ」
「何だじゃねえよ、ゲロ吐く方がマシだってくらいにため息ばっか吐きやがって。うぜえから走らねえならどっか行け。てめえは存在自体が邪魔だ」
 慎吾は手をひらひら振りながら、億劫そうに言い立てた。常ならばそこまでひどく扱われれば中里も何だとコラとかかっていくのだが、今日はどうにも憂鬱なため、張りのない声で、うるせえよ、と言うしかできなかった。慎吾は顔に不快感を表して、近づいてくる。
「随分殊勝だな、おい。何かあったか。また女にフラれたか?」
 刺々しい言い方だ。だが、何があったかを聞き出そうとしている。天邪鬼なところのある、この男らしい気遣いの仕方だった。それを分かっても、話をする気にはならなかった。できるなら、思い出したくもないことなのだ。
「何でもねえよ。気にするな」
「俺がいつお前を気にしたって」
「気にしてねえならそれでいい。そのまんま気にしねえでいてくれ」
 中里がため息を吐くと、隣に立つ慎吾までもがため息を吐いた。ため息の連鎖である。止まりそうもない。その時だった。この時間帯、ふもとの駐車場は車の出入りが多い。だから、新たに車が入ってきても気に留める人間は少ない。だが、それは違った。唸るエンジン、旧式の白い車体。現代のハイテク満載高性能車を後方へと追いやってしまう、骨董品のごとき古めかしい存在のご登場だった。藤原とうふ店とサイドに刻まれた車体、それは中里の記憶に鮮明に残っている。その車に一度負けたことがあるためでもあるが、二時間ほど前に見たばかりのためであった。
「……ハチロクかよ」
 ぼそりと慎吾が呟いた。この男は以前、そのハチロク相手に自分有利のルールでバトルを持ちかけて負けている。ばつが悪いに違いない、中里の半歩後ろに下がった。この場から去らないのは、興味が残るからだろう。秋名のハチロク。群馬の峠を制覇したといっても過言ではないその車のドライバーが、何のために今更妙義に来たのかということだ。
 中里はそういった妙義山の走り屋としてではなく、一個人として緊張していた。そのハチロクに乗っているのが本当に、自分を負かした藤原拓海であるのかという、疑念を取り払えずにいた。だが、目の前に停まった車から降りてきたのは実際、たっぷりとしたセーターにジーンズにスニーカー、そして端整な割に捉えどころのない、まだ幼さの残る顔立ちをした、青年だった。
「……藤原」
「どうも」
 小さく頭を下げて窺うようにこちらを見上げてくるのは間違いない、藤原拓海だ。中里は安堵して、一際大きなため息を吐いた。藤原拓海は怪訝そうに中里を見た。中里は慌てて、負けてはいるが年上の走り屋としての余裕を示そうとした。
「何だ。どうした。こんな時間に。こんな場所で。走りに来たのか?」
 だが、喋りがどうもぎこちなくなり、後ろからロボットかよという人を馬鹿にした声がして、藤原拓海には聞き取れられぬよう、あくまでも年上の余裕たっぷりの笑顔を浮かべながら、うるせえと中里は呟いた。難しい顔になった藤原が、その呟きを聞いた様子はなかったが、問いへの答えもなかった。別の質問をするべきかと中里が逡巡し始めた頃になって、藤原拓海は顔から無駄な力を抜くと、中里を見た。
「お元気ですか」
「は?」
 何をしに来たかと問うて、お元気ですかと問われる。これではまるで、様子を見に来られたようだ。だが、個人的に色々ありはしても、藤原拓海に様子を見に来られるようなことをした覚えはない。いや、今日に限っていえばおそらく藤原で人違いをした。しかしそのことで藤原拓海がここへ来たとして、自分に元気かと尋ねてくる筋が分からない。中里は確認した。
「俺か?」
「はい」
「俺が元気かって?」
「はい」
 藤原拓海はあくまでも頷く。何でまたこのドライバーが自分を心配するのか、不可思議であるが、聞かれたことには答えねば失礼だろう。ああと中里も頷いた。
「そりゃ、元気だ。この通り。ピンピンだ。お前は?」
「普通です」
「そうか。まあ、普通はいい。普通だからな」
 頷きつつも、中里は自分の会話のこなし方にぎこちなさを感じた。久しぶりに会った走り屋として接触に臨むべきだとは思うが、藤原拓海がここに来た意図が正確に分からない以上、かけるべき言葉も判断しかね、沈黙が生じてしまう。中里は自分の取るべき態度を決めかねており若干居心地が悪かった。しかし藤原拓海はどこか平然としていた。それが素の顔なのかもしれない。そして突然思い出したように、あ、と言った。
「あの、今日親父と会ったって聞いて。スーパーで」
「ああ」、中里は触れるか触れまいかこれも決めかねていた話題を出され、居心地の悪い沈黙を破るべく飛びついた。
「そうか、やっぱりあれはお前の親父さんか」
「ええ、まあ。一応親父です」
「あれは、いや、親父さんに悪かった。あのハチロクだから、ついお前だと思っちまって」
「いや、別に親父は何も気にしてませんでしたから。神経太いんで。性格もそんな良くねえし」
「……そ、そうか?」
「はい」
 淡々と藤原拓海は言う。自分の父親をけなすにしては憤りなどの感情が窺えないから、こちらを気遣って悪し様に言ってくれているだけなのだろうか。それにしては藤原の父親は神経太く性格もそんな良くねえことが当然であるかのようだ。この藤原拓海と同様の淡々とした空気、それ以上に一切動揺することがないような落ち着き払った空気をまとっていた男。少しの野暮さが端整さを引き立たせていた顔、視線の泳がぬ細い目、ゆったりとした物言い。どれにしても、性格の悪さを見せるものはなかった。分からない。藤原親子は俺の理解の範疇を超えている、中里は確信した。何といっても藤原拓海にはもう話をし終えたような満足感が窺える。それでいいのか藤原拓海。何がしたいんだ秋名のハチロク。中里は一人混乱しつつ、何歳もそう違いはしないが先を行く大人として十代の若者と穏やかに接することを心がけた。
「お前、高校生なんだって?」
 しかし会話の端緒は見つけにくく、今日初めて父親を介して確認できた事実を当の本人に確認するにとどまった。藤原拓海はどこか不思議そうに中里を見た。
「はあ」
「道理で若いわけだ。今何年生なんだ」
「三年です」
「そうか。もうすぐ卒業だな」
「ええ」
 卒業となると、授業が少なくなってきていいなとか進路はどうかとか話を進められるが、それは近所のお兄さんのすることであって、単なる知り合いの走り屋とすることではないだろう。いや、と中里は顔の前に手を上げた。
「悪い、何か変なこと聞いちまって」
「いえ」、と藤原は即座に言ってきた。「元気そうで良かったです。ちょっと心配になって」
「心配? お前が俺を?」
「あー……」
 藤原が目を遠くにやる。答えを探しているようだ。実際藤原拓海はこちらを心配していた、ならば最初にお元気ですかと問うてきたことも納得である。様子を見に来た、その通りだったわけだ。しかし何でこいつが俺を心配する、中里の疑問は尽きない。先ほどから藤原拓海へ質問攻めであるという自覚はあるが、分からないものは分からないのだ。話したことなどほとんどない相手だし、思考が読めない。天邪鬼を貫く慎吾の方がまだ読みやすいと思える。
「交流戦の時、あったでしょう」
 不意に中里に目を戻し、藤原拓海は言った。中里は自分が関わった中で藤原拓海が話題にしそうな交流戦を思い浮かべた。自分と秋名のハチロクとのバトルはチーム対チームという感じではなかったし、栃木のランエボとのバトルは藤原拓海にはまったく関係がない。ということは、
「うちとレッドサンズのか」
「そん時、中里さん、結構………………」、藤原拓海はしかめ面で一つ首を傾げてから、じっくりと間をあけて、歯切れの悪い調子で言った。「辛そうな感じだったから」
 間のあき方からしてそういった類のことを指摘されるのではないかという予想はあったが、いざ言われると年下の走り屋に気遣われるほど傷ついた面を晒していた自分に対する情けなさがどっと押し寄せてきて、中里は厳しい表情をしかけ、しかし折角その件を忘れずにいてくれたらしい藤原拓海を怯えさせてはならないと、笑った。
「お前にまでそんな風に思われるなんざ、俺もまだまだだな」
 そうだ、一世一代の大勝負という気合をもって挑んだバトルではあったが、負けたからといって辛そうだったと思われる弱さを他人に見せるなど、まだまだである。もっと精進しねえと、中里は気持ちを奮わせ、あまりの己の情けなさに失望し挫けそうになる心を支えた。
「でも」、藤原は揺るぎない目で見上げてきた。「自分の地元で負けるって、そういうもんでしょう。へらへらしたり諦めたりする方が、真面目じゃないと思います」
 正論だった。そして、真摯だった。それでいて同情ではなく、あくまでも自分の意見を述べているだけという冷静さも窺える態度だった。顔はまだ少年らしさを残しているというのに、服装もどこか垢抜けないというのに、藤原拓海はそこらのメンバーよりもよほど確固とした自分というものを身につけているようだった。
「すいません、偉そうなこと言って。親父じゃねえのに」
 中里は感心して、声を出すのを忘れていたのだが、藤原拓海は気を悪くさせたと取ったらしい、謝ってきた。確かにでしゃばりな物言いではあった。しかし、秋名のハチロクと称される猛速の走り屋、藤原拓海という人間が秘めている強い意志の力を感じられた。悪い気はしなかった。
「いや。まっとうな意見だ、聞いてて心地がいいぜ。ありがとよ」
 中里が心から笑ってそう言うと、そうすか、と藤原拓海は安心したように顔の筋肉を緩めた。旧式の車を操るその技術の高さだけではなく、こういう控えめなところもあるからこそ、皆が応援したくなるのかもしれない。あのへそ曲がりも見習えばいいってのに、中里は意識を後ろに飛ばしかけ、先の藤原拓海の言葉に今更引っかかった。
「親父じゃねえのにってのは?」
「は?」
「今言っただろ。偉そうなこと言って、親父じゃねえのにって」
 つながりがよく理解できなかった。ああ、と藤原拓海は気まずそうに首を掻いた。
「親父が、俺の。いや、俺の親父が、父親には、子供に偉そうなこと言う権利があるって言ってて。そんなの俺、聞いたことないんすけど」
 そう言って不服そうな顔をする、その表情の変わりようはまったく子供のように明快だった。藤原拓海というのは、思考の道筋は難解なようで、感情の変化は分かりやすい奴なのかもしれない。思いながら、中里は納得した。そういえば自分も初めて車を買う時これがいいあれがいいとうるさく言ってくる父親に口出ししないでくれと怒ったら、親というのは子供に口出しする権利があるなどと反論された気がする。その権利が国家に保障されているものとも万人に共通するものとも知れないが、親という立場を親が最大限利用しようとするのも当然だろう。藤原家にしても、そうらしい。
「だから、親父じゃねえのにか。なるほどな」
「全然関係ないっすね。すいません」
「謝るなよ。お前に謝られるほど俺も偉い人間じゃねえ。お前の父親でもねえしな」
 笑って言うと、そうですね、と藤原拓海は当然のように頷いたが、何かそうではないような気もした。妙だ。秋名のハチロクと何を話しているのかという不可解さが付きまとってくる。走りの話をするべきではなかろうか、そう思っても言うべき言葉が浮かんでこない。
「うち、豆腐屋やってるんですよ」
 中里が感情と思考の隔たりに歯痒さを感じていても、藤原拓海は淀みなく話をし、中里は追いかけるのに終始することになる。
「藤原とうふ店、か」
「そのうち来てください。サービスは、そんなできませんけど、まずくはないんで」
 まずくはないというのはアピールポイントとしてアリなのかどうかは知れないが、藤原拓海が言うと実際まずくはないのだろう、手軽に食べるに相応しい味なのだろうと思え、ならそのうち行かせてもらう、と中里は言った。どうぞよろしく、と藤原拓海は頭を下げ、
「じゃあ俺、明日早いんで」、片手を上げた。
「ああ」、中里は思わず言った。「気をつけろよ」
「はい。失礼しました」
 礼儀正しく頭を下げ、藤原拓海はハチロクの運転席に乗り込み、エンジンの働く車を発進させる前、ウィンドウ越しにこちらにまた会釈をして、駐車場から去った。
 秋名のハチロクがいなくなれば、周囲に集まっていたメンバーも興味を失したらしく離れていく。中里は人気の薄れたその場に立ったまま、自分の発言を思い返し、後悔した。
「お前よ、秋名のハチロク相手に気をつけろってのは、ないと思うぜ」
 気にしていることを他人に言われると、事実であっても腹が立つものだ。中里は振り向いて、まだ後ろに立っている慎吾を睨んだ。
「人の後ろでこそこそしてた奴が、勝手なこと言ってんじゃねえ」
 毒舌家を気取っている慎吾が言葉に詰まるという事態は、大層珍しかった。勝者に心配された屈辱と、まだ完全には忘れられていないという希望、自分への失望と期待とがごちゃごちゃと腹に渦巻いていたが、しかしせいせいした気持ちで、中里は自分の車に向かえた。

―――

 昼間、店に品物を直接買いに来る客は、大概馴染みの顔だった。近所の主婦か大豆製品愛好家だ。そのどちらでもないのは、珍しい。自家用車以外で騒がしい排気音が聞こえるのも、珍しいことだった。床にまで響いてきそうな、厚みのある重い音。それが止まり、店の扉が開かれた。
「こんにちは」
 掠れながらも通る声が、狭い店に響く。特に何もしていなかったが、待ち構えていたと思われても緊張させるだろうから、何かをしていたように動きながら、藤原は言った。
「いらっしゃい」
「木綿豆腐二丁お願いします」
「はいよ」
 ケースから豆腐を二つ取り出す。拓海は中里何とかだと言っていた。何とか。タカシだかタケシだかだった気もするが、苗字さえ分かっていれば問題はない。袋に入れて手渡して、代金を受け取る。
「鍋にしようかと思いまして」
 中里何とかは袋を少し上げながら、笑った。大きい目がありながらも全体的にいかつい顔は、しかし愛想は悪くない。藤原は少し笑い返してやった。
「誰かと一緒かい」
「仲間と。男だけですけどね」
「色気がねえな」
「欠片もありません」
 笑みを引きつらせながら、中里が頷く。この年代の男が何人も集まったところで、建設的な事柄は生じにくいものだ。むしろ何かが壊れやすい。主に食器だ。腐れ縁は案外、続いてしまう。
「拓海に会ったか?」
 それにしても拓海の行方を尋ねないということは、中里は本当に豆腐を買いに来ただけということであり、すなわち拓海が営業をしたという予想が立てられる。藤原が聞くと、会いました、と笑みを緩めた中里が、明瞭に答えた。
「一昨日、こっち……妙義山に来てくれまして。そのうちこちらにも来てくれと」
「あいつ、何て言ってた、うちの店」
 中里の笑みが、再び引きつる。簡単に予想を立てながらも、藤原は言った。
「正直に言ってくれ」
「……サービスはそんなできないけど、まずくはないと」
 まあそんなことだろうとは思ったが、頭を抱えたくなった。どこの世界にサービス過少でまずくはないと売り物を薦める店員がいるだろうか。
「営業の何たるかを分かってねえな、あいつは」
「でも、素直な息子さんですね。いい男になる」
 真顔になり、中里が言う。拓海を庇うにしては、本気が感じられる目をしていた。世辞ではなさそうだ。この青年は営業の意味すら分かっていないであろう拓海でも、将来いい男になると信じているのかもしれない。単純な頭の持ち主だ。しかし、熱意を持っている男は嫌いではない。藤原は、どの程度単純なのか試してみたくなった。
「そりゃ、俺の息子だからな」
「はい」
 相槌にしては、次の言葉を待たれている気配がなかった。額面通りに受け取られた。それだけだ。それだけのことを、珍しく感じた。
「中里さん」
「は」
「あんた、冗談が通じないとかよく言われないか?」
 途端、中里の顔が強張った。図星だろう。
「いや、あ、すみません」
「何も謝るこたねえよ」、藤原はつい苦笑していた。「今のは本音だ。本気に取られるとは思ってなかったけどな」
 すみません、と中里何とかが気恥ずかしそうに目を伏せる。実際に会うとやはり、この律儀で単純で冗談の通じにくい青年がGT−Rをぶん回しているとは考えづらかった。走っている姿を見れば実感もわくだろうが、そこまで駆り出すほどの興味はない。あるのは、世間話の体で言葉を交わしても構わないと思える程度のものだった。
「あんた、最初手ェ抜いたんだって?」
 扉を開けて外に出た青年を見送るついでに、声をかける。黒いGT−Rの前に立った中里は、言葉の意味が分からぬように顔をしかめた。
「手を抜いた?」
「ストレートでアクセル踏み込んでなかったってな。拓海の奴が言っていた」
「ああ、ありゃあ……コーナー勝負がしたかったんで」
 何でもないように中里が言った。藤原はつい、その後ろにあるいかにも重量級の車体と、中里の顔を見比べた。GT−Rでハチロク相手にコーナー勝負。本気で言っているのか、という疑問があった。それを見抜いたように、中里が言葉を続ける。
「折角ハチロクとバトルするってのに、ストレートでちぎっちゃ勿体ないでしょう」
 やはり、何でもないように、当然のように、疑いようのない事実のように、中里は言う。理屈としてはありだろう。勝ち負けを度外視するバトルなら、という条件をつければだ。だが、それは勝負のはずだった。勝者と敗者が決まるバトルのはずだった。真剣試合で敢えて相手の得意分野に勝負をかけるというのは、よほどの酔狂か、単なる馬鹿である。この青年はおそらく、両方だろう。
「勿体ねえ、か」
「でなけりゃわざわざハチロクなんざとバトルをする意味が……」
 そこまで口にして、中里は声を呑み込み、いやすみません、とまた謝った。まったく、抜けているくせに嫌味なほど律儀だ。だが、不快ではない。むしろ、本音を聞けたという思いで、不思議な清々しさがあった。別にいいさ、と藤原は片頬を上げた。
「普通に考えれば、そんなもんだ。あんたは謝りすぎる」
 すみません、と繰り返し頭を下げ、はたと中里が顔を上げる。藤原は笑みを消せなかった。
「それに、そういう奴をあっと言わせるのも面白いだろうよ」
 型遅れだと見くびってくる相手を技術でもってねじ伏せてやる、その時生ずる快感は、馬鹿にしてくれる人間がいるからこそあるものだ。歓迎したいほどである。なるほど、と真面目腐った顔で中里は頷き、しかしばつが悪そうに咳払いをした。これだけ分かりやすいと、からかい甲斐もあるだろう。あらぬ噂を立てたがる奴の気持ちも、理解できる気がした。
「しかし、おかげで、FRの真髄ってもんにさわれた気がします。GT−Rの長所と短所もよく実感できた。良い経験をさせてもらいました」
 改めった調子で言い、中里はまた頭を下げる。卑屈さを交えず欠点と向き合うことは、自信のない人間にはできない。この青年には、池谷だったか、拓海の先輩とかいうのと似たような雰囲気がある。一つ熱意を持っており、真面目で、粘り強い。だが、こちらの方が、自我の強さを感じさせる。何らかの根拠、それも他人には分からぬ独自の根拠に基づいた、確固とした自信が備わっている。凡庸なようで、突飛な面がある。軽量のFR相手に重量級4WDで、勿体ないからとコーナー勝負を挑むような奴だ、酔狂で馬鹿で、頭のネジが多少緩んでいる。それでいて、実力が伴っていないというわけでもないのだ。
 かつてはかつてでカローラのみを異様に敵視するサニー乗りやガードレールは親友だと力説するような奴がいたが、今の走り屋も、多種多様らしい。だがおそらく、熱中時代に何よりも車を優先し、頭と体を酷使して速さを求めていくことは、あまり変わっていないに違いない。昔の、時間を思い出す。今よりも無謀で愚かなところのあった時代、今よりも食っていくにも余裕のなかった時代、しかしいくら時間があっても足りないほどに車にかかずらっていられた時代――決して、悪くはなかった。その濃密な時代の空気を、この青年はどこかに持っている。あるいはそれは、今の走り屋でも皆多かれ少なかれ持っているのかもしれないが、車の知識がまだまだ乏しいくせに寝食を忘れずにいる我が息子を見ていると、半ば以上車に狂う人種など絶滅したように思えてくるのだった。その分、こういう相手が、貴重に思える。
「あんた、車好きなんだな」
 つい、言っていた。青年は面食らったように瞬きをし、ええ、とどこか不敵な笑みを浮かべる。
「大好きです。藤原さんはどうですか」
 予想外の問いだったが、ああ、と声が勝手に出た。
「好きだな」
 この歳で好きも嫌いもないだろう、と考えたが、どうも中里何たらの若さに当てられたらしい、気持ちは抑えられなかった。言ってしまったものは仕方ない。まあ、と藤原は空気を変えるように声を大きくして言った。
「また来てくれや、兄ちゃん。その時は、もう少し笑える冗談考えとくからよ」
 その笑みがわずかに引きつり、そして緩む。
「また来ます」
 豆腐の入った袋を掲げ、車の運転席へと回り込む。ドアが開き、閉まる、緩い音。住宅地に不釣合いなどぎついエンジン音。こういう車が出入りし過ぎると苦情がくるんだよな、と思いながら、見送った。しかし大事なお客様だ。歓迎したい。店に戻り、扉を閉め、匂いを感じる。労働の結果築かれる生活の匂い。飽きることはない。豆の具合も水の加減も日々変化に満ちている。それでもすぐ隣に死を乗せたくなるのは――まあ、好きなのだろう。
「今度乗せてみるか」
 声にしてから、しかし車好きの豆腐屋の親父のままでも、悪くはないと思った。それはそれで、今だ。
(終)

2008/11/30
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