風馳せし
チームの人間にウワサ好きが多いのは百も承知だったが、箱根の島村栄吉にリベンジを果たしたことよりも碓井の沙雪嬢にフラれて傷心だという話を流された時には、中里も途方に暮れたものである。
妙義山を本拠に据える妙義ナイトキッズとはあくまでも峠道を超速度・高技術でもって走破することを目的としたドライバーが集まる走り屋チームであり、一部峠で限界ギリギリまで露出してみたり相撲をしてみたり猥談に花咲かせてみたりする野郎集団でもあるが、一走り屋の恋愛事情を脚色歪曲捏造の上で流布する機関などではない。断じてない。
しかしチームの人間にウワサ好きが多いのは紛れもない事実であり、県内全域に怒涛の勢いで中里の失恋話が広められたのも事実であり、真実が根底に据えられたそれはデマとも断じられず回収するのも至難の業だ。
ゆえに中里は途方に暮れるのはスッパリやめて、現在フリーという個人的情報が流されただけだと考えることにしている。彼女がいない程度で引け目を感じていては車に金をくれてやる走り屋などやっていられないし、バトルに勝っても負けても恋に破れてもチーム内はおろか県内の走り屋の笑いのネタにされているらしき現状では、外部の目をいちいち気にしたところで、やっていられないのであった。
それにチームにウワサ好きが多くいることは何も悪いことばかりではない。例えば今回のように、メンバー間のみで語られていた事情が偶然聞けることもある。
「お前、秋名のハチロクには謝ったのか?」
ミラノレッドのEG−6で峠に乗りつけて、チャコールグレイの無地ジップアップパーカのポケットに両手を突っ込み不機嫌そうに猫背気味に現れて、マジ寒ィな今日は、と唇をほとんど動かさずに言った慎吾に対面し、開口一番中里はそう尋ね、途端に慎吾は寒さを憎んでか歪めていた顔を、すうっと能面のようにした。
慎吾の染めムラのある茶髪が高い顴骨を覆い気味の顔は、目つきの鋭さだけは剥き出しで凶器的だ。それは特に感情が窺えないと不穏極まりなく、ただ見られているでも刃物を喉にあてがわれているような寒気をもたらすが、中里は慣れているので圧されずに答えを得られるまで慎吾を黙って見返した。
秋名のハチロクとは遡ること数ヶ月、この夏突如現れて様々な走り屋を下していった白黒ツートンスプリンタートレノAE86である。藤原とうふ店自家用と記されたそのハチロクのドライバーは藤原拓海といい、どこか茫然としているようで泰然としているような、大物然とした雰囲気を持っていた。チーム内に溢れるウワサの一つによれば高校三年生らしく、それは間違いないのだろう、夏にバトルをした際に顔を合わせたハチロクのドライバーの技術にそぐわぬあまりに若い少年と呼ぶに相応しいその容姿に驚いた中里としても思うところだ。
秋名山で迎えたそのハチロクとのダウンヒルバトルにおいて中里は自身のスカイラインR32GT−Rをぶつけ敗北を喫したが、それは負けたことの悔恨や屈辱を上回る車への情熱を感じさせた清々しいもので、今でもあそこで共に走れたことをハチロクに感謝せずにはいられない。
「何で負けた俺が謝らなきゃならねえんだよ」
じっと見合うこと十秒、慎吾はその手入れされたバタフライナイフのような目を横に向け大きく顔をしかめると、至極面倒そうなため息を吐いてからケースにしまった目を中里へ戻し、不満げに言った。感情を表してくれた方が、この男とは対しやすい。中里は変わらず慎吾を見据えながら、話によれば、と言った。
「お前がバトルをけしかけたんじゃねえのか。それに、秋名のスピードスターズのメンバーにも危険なマネした上に、ハチロクとのバトルの時には助けてもらったそうだろ。それも謝ったのか」
中里が負けて一週間も経ぬうちに慎吾はハチロクに非公式で非公認の非常識なバトルを挑んで負けている。両者右手をガムテープでステアリングに固定して行うというそれは、誰が言い出したのかガムテープデスマッチと呼ばれており、舵角が特異的に制限されるために後輪駆動車を駆りその上ぶっつけ本番でやろうものなら早々に操作性を失って最悪ドライバーの命も失いかねないものである。
無論そんな非常識なバトルをしかけた個人の名誉もチームの名誉も確実に失われるだろう。しかし慎吾にとっては自分とEG−6の最速こそが名誉であり、ガムテープ程度の縛りで負ける秋名のハチロクはクズ、そしてその骨董品に負けた中里などクズ以下だという図式を証明できればそれで良かったらしかった。
バトルについての話はその翌日、自宅に様子を見に行った際に聞いている。ハチロクは最終的にあちらこちらに飛び出しながらも始めて右手を縛られた人間とは思えぬ走りで人を抜いて去って行った、自損で怪我した右手を肩から吊っていながらも悲壮感よりも気楽さを漂わせていた慎吾はやけに嬉しそうに語り、普段足の先から頭のてっぺんまでひねくれ切っている男に走り屋としてそのような拍子抜けするほど素直な態度を取られては、中里も勝手な行動への説教はできなかった。ましてや当時の慎吾は怪我人であり、事態の全貌を明らかにするよりも労らねばならないと思わせる痛々しさまで発していた。
結局ハチロクサイドがその件を表沙汰にしたり警察に訴えたりはせずにいてくれたのもあって、それ以上互いの間でもチーム内でも触れられることなく今に至る。
「お前、それ誰から聞いた」
仏頂面を解いて真顔になった慎吾は、ただ内情を探らんとするように中里を見た。一応は同じチームの仲間だが互いの関係性においては最速を争う宿敵という面が強く、喧嘩腰で接する機会が多いため、敵意も殺意もはらまない、無感情でもない慎吾の目に中里は慣れず、やましいことなど何もないのにいつも戸惑ってしまう。だが慎吾のためにうろたえるのは何となく癪なので、常よりも厳しく慎吾を見据えることで己の動揺が表に出るのを防いだ。
「俺の人望をなめるんじゃねえぞ、慎吾。色々話は入ってくる」
「なるほど、お喋り野郎の相手をなさったわけか」
堂々と発した中里の言を受け、すぐに慎吾は皮肉げにせせら笑った。相変わらずいやに頭の回る男である。これでもう少しキレ癖をなくせばもっと大成するだろうに、中里は思うが、一つの善意からの指摘にでも百の芸術的なほどの悪態を返すのが庄司慎吾という男であり、常に冷静沈着泰然自若なそんな男というのも想像すると何か非人間的で恐ろしいので、思いを口には出さない。
「それで、謝ったのかよ」
粘り強く、中里は尋ねた。今日峠で会ったあるウワサ好きのメンバーは、休日を活かして女子高校生ウォッチという警察官に見つかると社会的立場が危うくなりそうな趣味を実行していた際、秋名のハチロクらしき男子高校生を見かけ、「そういやあれに負けた慎吾の野郎をわざわざ迎えに行ってやったな、貸しがチャラになって良かったな、なんて思い出したりなんかしましてね。やー、あの時の慎吾のヘコみっぷりはマジで見ものっしたよ、やっぱ写真撮っとくべきでした」、と思い出話をふくらませた。そのメンバーは他にも慎吾はハチロクとバトルをすると決めてからはそれとつながりのある秋名の走り屋チームスピードスターズのメンバーに粉をかけて根回ししていた、ガムテープデスマッチを非公式非公認にしたのもFR潰しのルールをハチロクに有無を言わさず呑ませるための策略だったらしいが結果としてシングルクラッシュで負けたのだからネタにされずに済んであの慎吾にしては信じられないほど運が良かった、それにしても冬でも生足でいてくれる女子高生は素晴らしいなどと始終笑いながら話すと満足したようで車に戻って行った。それは根拠の知れないウワサではなく本人の体験談であるから信用はできるはずであった。そしてそのメンバーは慎吾がハチロクに謝罪をしたとは一言も口にしなかった。つまりしていないのだろうとは容易く推測できた。
「謝ったのは謝ったぜ。スピードスターズの奴には、病院連れてってもらった時」
慎吾は笑みを消し、再度面倒そうなため息を吐くと、鬱陶しそうに右肩を小さく上げて答えた。中里は語尾に重ねるように言った。
「秋名のハチロクは」
「だから、ありゃ俺が負けてんだから、謝るも何もねえじゃねえか」
「お前な、卑怯なバトルの持ち込み方しといて、負けたから勘弁してくださいってのは、男としてどうかと思うぜ」
「お前の考える男像なんて俺は知らねえし、どうせ俺のことなんざ、あいつも忘れてんだろ」
それもありえる話だ。あれ以来ハチロクサイドから何ら接触もないのは善意からではなく記憶に残していないせいかもしれない。
「だからって、なかったことにするのは卑怯じゃねえか」
だが問題の本質は相手の記憶に由来するのではない。自分の行為を自分がどう感じるかだ。お天道様の下で恥じることなく真っ直ぐ立っていられるかということである。
慎吾は曖昧に浮かべていたひねた笑みを消し、肺の底からというような深い深いため息を吐いて、片手をひらひらと振った。
「そんなに言うなら、お前が謝って来てくれよ。俺は行く気しねえから。もし忘れられてんだったら、今更思い出させたって仕方がねえ」
「何で俺がお前の非礼を一人で詫びなきゃなんねえんだ。当事者を除いてどうする。詫びるならお前も一緒だぜ」
そもそも慎吾が謝らなければ意味のないことだ。腕を組んだ中里が睨みつけると、慎吾はうさんくさそうな顔になった。
「お前よ、菓子折り片手にこの前はどうも煽ってしまってすみませんでしたとか言えってか?」
「菓子折りまでは要らねえだろ。走り屋同士のことだからな。真正面から謝れば、大抵の人間は誠意を感じて許してくれる」
「お前の言う大抵の人間は、ものすげえマイノリティだと思うぜ、俺は」
「何だと」
睨みを強くしても、慎吾には通じない。目力には自信があるのだがガンを飛ばす機会が多すぎて慣れられているのかもしれない。顔に無感情を乗せた慎吾が静かな声で言う。
「っつーか、時間が経ってから謝るなんてのは自己満足だろ。マジで相手のことを考えてんなら事を起こしてすぐ謝るべきで、何ヶ月も経ってからただ謝りに行くなんざ、罪の意識から逃れたいエゴイストのやることだ。俺はそんなに考えナシの人間じゃねえ」
理屈は正しい響きをもって中里の耳を通る。だが問題の本質はそこでもない。中里は睨むのはやめたが見据えるのはやめなかった。
「じゃあお前はこのままでいいのか?」
「このままで何の問題がある?」
「秋名に行きづれえだろ。はっきりさせとかねえと」
「俺がそんなに繊細だって?」
「ああ」
ハチロクに忘れられている可能性を自嘲気味に言い捨てた慎吾が、あの行為をまったく一つも気にしていないというようには見えない。事態が鎮火しているのならば罪悪感解消を理由に敢えて再燃させる必要はないと、理屈を立てねばいられないほど気にしているようには見える。
「お前の中にある庄司慎吾像を、書き換えられるもんなら書き換えてえ」
表情を変えぬまま慎吾がぼそりと呟く。
「何だそりゃ」
「お前が機械だったらって話だよ。よっぽど楽だろうな」
「はあ? お前、頭どうかしたか」
「てめえに頭の心配されたかねえんだよバカ」
口早に言った慎吾に「バカとは何だバカとは」と言い返すも「バカはバカ以上でもバカ以下でもねえんだよバカ」と余計に言われた。まったく失礼な奴だ。バカと言う方がバカなのである。次にそう言い返してやろうと中里が口を開いたところで、「とにかく」、と慎吾は上げたままの片手を中里の顔の前で止めた。
「何言われたって、俺は行かねえよ。偽善者には反吐が出るからな」
そのままでは掌しか見えないので首を傾けて慎吾の顔を確認する。目にも頬にも口にも一切ぶれがない。真剣で、本気なのだろう。この男は謝罪に行くことはない。謝罪すべき事態だと理解していても、エゴイストだか偽善者だかにはなりたくないのだ。本気の慎吾に何を言っても無駄であるとは承知している。その点で自分たちはよく似ていた。それならそれでもう構わなかった。割り切った中里は傾けた首を元に戻し、頷いた。
「分かった、なら俺が行く」
それで会話を打ち切ろうと回れ右をしたが、途端慎吾に左肩を掴まれて回れ左を強要された。
「ちょっと待て、お前、何を言ってんだ?」
その場しのぎの笑みが浮いているということは、多少なりとも慎吾は動揺していると思われたが、そこをどうこうする気にもならず、「考えてみりゃあ」、中里は言った。
「お前のしたことは俺の責任でもある。同じチームのメンバーだしな。それを今まで放ったらかしにしてたのが失礼な話だった。向こうさんに甘えちまってたんだ。何ヶ月経ってようが構わねえ。けじめはつけねえと、申し訳が立たないぜ」
会う機会ならいくらでもあった。秋名のハチロクやスピードスターズのメンバーが働いているガソリンスタンドに行けば、関連する人間とコンタクトは取れるはずだった。実際そうやって中里はこの夏ハチロクとのバトルをセッティングしている。その程度のアプローチもせずにのほほんと暮らしていたのは、秋名のハチロクに負けて以降連敗続きで自分のことばかりにかまけていたためでもあるが、藤原拓海が何だかんだで勝ち続けるから、こちらが手出しをする必要などないのだとどこかで安心していたためでもあった。
だがそれとけじめは別問題だ。謝罪はするべきで、慎吾が行かないなら俺が行くまでだ、中里は決意を硬くした。そもそも謝る気もない人間に無理矢理謝らせたところで誠意も何もあったものではないし、偏屈者の慎吾などいない方が話も進みやすいだろう。
そして肩を掴んでくる慎吾の手をゆっくり外してもう一度回れ右をしたところ、今度は後ろから肩ごと首に腕を回されて、中里の息は止まりかけた。
「待て毅」
「な、何だ。離せ。首が絞まる」
「絞めてんだよ、俺が行く」
「あ?」
「あいつらには俺が謝る、だからお前は余計な真似をするな。分かったな」
脅迫するように慎吾が囁いてくる。その粗暴な振る舞いに慣れてはいるが少し恐怖心は芽生える。これだから慎吾を相手にするには気を張ることが必要で、それに張り合いを感じないとは言えない。
「何言われたって、行かねえんじゃねえのか」
「お前に勝手なこと吹き込まれるくらいなら、てめえでてめえのケツ拭った方がまだマシだ」
「ったく、最初からそう素直になっときゃいいものを」
呟くと、首に回された腕に力がこもった。息が止まる。苦しい。加減がない。
「毅。一つ教えといてやる」
「な、に」
「俺の意思に反するようなことを他の奴らに言いやがったら、次は加減をしねえからな」
これで加減をしているなどありえるのかと思えるほどに呼吸と血流は遮断されている。今以上に力を込められると生命の危機だ。走ってもいないのに峠で死ぬなど御免である。
「お前の、意思が、何かは、分からねえが、努力は、する」
中里が声を切れ切れに発すると、慎吾は三秒ほど考えるような間を置いてから、首に回してきた腕を離した。中里は思い切り咳込んだ。じっくり吸う空気はうまかった。
「まあ、譲歩してやるよ。俺もお前ほど頑固じゃねえし」
隣で悠然と慎吾は言う。どこがだこの野郎、苦しみで涙までにじんできた目で睨みつけてやると少しは慎吾も動揺を示し、中里は溜飲を下げ、話を戻した。
「で、いつ行く?」
「何が」
「謝罪だ。あんまり遅いと日も暮れちまうが、平日昼間はいねえだろうしな」
高校生だから学校がある時間帯は避けるとしても、シフトが分からない以上は実際にスタンドに行ってみるしかない。いなければいないでスピードスターズのメンバーにまず謝ってもいいし、何なら豆腐屋を訪ねて豆腐を買って帰ってもいい。そろそろ湯豆腐が食べたくなる季節である。
「お前も行く気かよ」
目の前の偏屈屋に、うんざりしたように言われる筋合いはなかった。
「当然だろ。お前一人じゃ何やるか知れたもんじゃねえ」
どこか内弁慶な男でもある。正式に謝罪ができるか怪しいものだった。慎吾は頬を極端に引きつらせながら声を裏返す。
「てめえは俺の保護者か何かでございますかコラ」
「そんなのは、頼まれても願い下げだぜ」
「誰も頼まねえよ。クソ、勝手にしろ、俺は明日の夜行くからな」
言い捨てさっさと離れて行こうとする慎吾の背に、中里は声をかけた。
「行く前にうちに寄れよ」
慎吾は背を向けたまま片手をひらひら振った。それで話は通ったと思われた。有言実行の庄司慎吾だった。猫背気味でEG−6に戻っていくその男を安心して見ていると、突如その横から現れたメンバーが後ろから慎吾に抱きつきなぜか取っ組み合いを始めたため、中里は慌てて仲裁に入った。
◇◆◇◆◇◆
日も夏と比べれば随分短くなったものだ。募る乾いた寒さにも慣れて、エンジンを積み変えたハチロクにも慣れてきた。あの車は、速い。乗る度に、拓海はその思いを強くする。走るのはいつもと変わらぬ道なのに、以前のように飽きることはなくなった。むしろ、いくら運転してもし足りないほどだ。
車を走らせることに楽しさを感じるようになるなど、家の手伝いである豆腐の配達を小遣い稼ぎとしか認識していなかった頃の自分は想像もしなかっただろう。変わっている。だが自分はいつでも自分に過ぎず、変化量もよく分からない。明確に分かるのは、だから周りの変化だ。たった半年足らずで今まで身近にいても存在をまったく意識しなかった走り屋と呼ばれる人間が続々出現し、それに追いかけられ、それを追いかけるうちに家と学校とバイト先だけでおさまっていた交際範囲が妙に広がった。以前とは、違う。夏から瞬く間に時は過ぎ、気付けば二学期ももう終わりに近い。急激に速まった事態が起こる流れに、だが拓海は乗りきれていないように感じる。山でバトルだ何だをするにも巻き込まれてばかりなせいかもしれない。大体走り屋と呼ばれる人たちはなぜか皆揃いも揃って強引なのだ。こちらの言い分を聞かずに勝手に話を進めていき、気付けば流れに乗らされている。
あと数ヶ月で高校も終わりだ。もっと、自分の意志で行動したいと思う。そうすれば走り屋の人たちとも真正面から渡り合えるようになるだろうし、何より大人になれるだろう。
しかし現状まだ二学期も終わっておらず、拓海の身分は高校生であり、ガソリンスタンドのアルバイトであった。
「今日はこの後どうするんだ?」
給油を終えた客の車が車道へ出ていき、仕事が一段落したところで並んで立っていた池谷が聞いてきた。このスタンドでずっと働いている先輩だ。無精ひげが少し不潔な感じがしないでもないが、人当たりの良い頼れる店員だった。
「今日は、宿題やらないと」
拓海は光る街灯を細くした目で見ながら呟いた。もう虫がそこに群がることもない時季であっても本格的な夜になる時間帯には改造車が溜まりやすい。しかし今日は平和で、雑談も十分にしていられる。
「宿題かあ。懐かしい響きだなあ」
どこか楽しそうに池谷は笑った。自分も卒業して何年か経って宿題のことを思い出すと、苦しくも楽しく懐かしいものと感じられるのだろうか、拓海はぼんやり思うが、赤点という危険性が存在する現状ではとても想像がつかず、はあ、とため息を吐いて、言葉を続けた。
「提出明日なんですよね。テストに出る範囲だし……」
「テストに出るならやっとかないとな。樹も今頃机に向かってるってところか」
「まあ……」
今日バイトが休みの樹は他の同級生と繁華街に繰り出しているはずで多分まだ遊んでいることだろうが、拓海は適当に頷くだけにした。樹が宿題などの重要事項を忘れがちで大体夜になってから思い出し人に泣きついてくることなどわざわざ池谷に言うことでもない、というか話すのが面倒くさい。それに宿題をやらなければならないと思うと気も重く、言葉よりもため息の方が多く出る。池谷は同情気味に苦笑した。
「憂鬱そうだな、おい」
「何で試験なんてあるんでしょうね……」
「ま、諦めろ。社会に出ても大抵試験だ」
そうなのかもしれない。世の中どこにでも試験はある。しかし高校三年生には大学受験を控えている生徒もまだいるし、そもそももうすぐ卒業だし、単位をきっちり取っている場合にはテストや何や手加減してくれてもいいんじゃないかとも思う。自分も一応学校には毎日通っていて、退屈な勉強も行事も放棄はせず補習とは縁もなく、軽く暴力沙汰を起こしたことはあるが全体的に見て高校に迷惑はかけていないはずで、そろそろ家に帰ってまで勉強しろというのはやめてもらいたい。大体先生方は家に帰ってまで生徒のことを考えているのだろうか。
「あれ」
不意に顔を車道に向けた池谷が不思議そうな声を上げた。池谷の見ている方からは車が一台店に入ってくるところだった。赤い車だ。ハッチバック。多分シビックあたりだろう。学校への不満は打ち切って、拓海は頭をバイト用に切り替えた。不思議そうな声を出した時と同じく不思議そうな顔をしたままなぜか動こうとしない池谷より先に、赤いシビックを誘導する。
丁寧に入り込んだ車は静かに停止し、運転席のドアは拓海が近づく前に開き、そこから運転手が降りた。胸に英語の書かれた青いパーカを着た、でっぱりの多い顔をしている男だ。頬までかかる茶髪、気だるげな雰囲気。何か、どこで見たことがあるような気がする。前にも来た客なのかもしれない。漠然と思いながら体に染みついたマニュアル通りに接客しようとしたら、
「庄司じゃないか」
笑顔の池谷が横からその運転手に声をかけた。
「どうも。お久しぶりです」
抑揚のない声、無表情で、その運転手は池谷に頭を下げ、こちらにも会釈をする。真ん前にきた男のチンピラじみた顔を軽く見て、そして拓海はそれをどこで見たことがあるのかを思い出した。
「あ」
声を出すと、男はちょっとイラついた色を眉間のあたりににじませた。ガラの悪い赤いシビックのドライバー。この男と夏に、確かバトルをしたことがある。ハンドルと右手をガムテープで固めた状態で秋名山を下ったのだ。詳細は覚えていない。途中でキレてしまったために今となっては本当にバトルしたのかあやふやな部分もある。ただ、この男の剣呑な容姿は記憶の端に残っていた。人の感情を逆なでするようなことばかり言っていた、態度の悪い、走り屋チームの妙義ナイトキッズのメンバー。名前は覚えていないが庄司と池谷が呼んだのならばそうなのだろう。
「何だ、妙に改まって。怪我はもう大丈夫なのか?」
池谷は笑顔のままで庄司に話しかける。池谷もあの夏庄司に後ろから車をぶつけられたり馬鹿にされたりしていたはずなのだが、走り屋同士のことだから水に流してしまっているのだろうか、それとも単に人が良いだけなのだろうか。何となく後者の気がする。
「この通りな」
どこか面倒そうに庄司が右手を胸元まで上げる。それには大きめの紙袋が握られていた。
「皆さんでどうぞ」
庄司はそのまま池谷に紙袋を渡した。池谷は紙袋を受け取り中を興味深そうに覗き込むと、すぐに顔をほころばせた。
「へえ、いやあ、悪いな。店長も喜ぶよ」
「いや」
こちらに向き直った庄司は、多分食べ物か何かだろう差し入れをしてきたのも疑わしいほどの無表情だ。何を考えているか全然読めない。
「藤原拓海」
「は」
無表情のままの庄司にフルネームで呼ばれ、拓海は固まった。池谷のように愛想の良い態度は取れなかった。この夏庄司にやられたことは思い出したが庄司はあの時のように人を見下してくるわけでもないし、差し入れをしてくれた客として見るべきだとは分かっている。それでもうまく対応できないのは、庄司の漂わせる雰囲気が何か不気味なためであった。チャラチャラしていたり不良っぽかったりする人間は学校にちらほらいる。しかしこういう何をしてくるか分からない危険性をかもし出すような人間は見たことがない。庄司のいるナイトキッズがガラの悪いチームと言われているらしいのも、それはそうだろうと思えるほどの庄司の得体の知れなさだ。
「とりあえず、ハイオク満タン現金で」
そういう人間にごく普通に仕事の話をされて、ひとまず拓海の硬直は解けた。あ、はい、と作業に取りかかろうとすると、「それと」、とすぐに呼び止められる。
「はい?」
「先日は無礼な振る舞いをして、誠に申し訳ありませんでした」
無表情のまま、庄司は頭を下げてきた。拓海は半端に身を開いた状態で再び固まり、しばらく庄司の黒い髪が伸びてきているつむじを見ていた。やがて庄司は顔を上げ、少しだけ不機嫌さを表しながら拓海を見る。拓海はそれを見返して、ようやく庄司に謝られているということに気が付いた。
「ああ」
それは多分以前行ったバトルのことだろう。庄司はまったく無礼なドライバーで、バトルではこちらに不利なルールを用意してくれたり車をぶつけてくれたりした。自分の懐から出した車の修理代は痛かった。だが、もう何ヶ月も前の話だ。相手の顔を見てそんなこともあったなと思い出す程度の事柄を今更謝られても、当時の感情は遠いものでどう対応したら良いのか分からない。
いっそもうどうでもいいと言ってしまおうか、しかし今更とはいえ思い出してしまうとあの時の車を粗末に扱われた行為はまだ許しがたかった。かといって恨んでいるというのでもない。恨んでいたら庄司の顔をしっかり覚えていただろう。それにあのバトルで得られた技術もあるから滅茶苦茶にひどい事件だったという印象もない。しかしやはり庄司の『無礼な振る舞い』は思い出すとむかつくし、許すことはできそうにない。
結局どう対応したらいいかは分からないまま、拓海は庄司を見返すしかなかった。庄司は無言で不機嫌そうに見続けてくる。庄司に何を求められているかも分からない。
というかこの人何で黙ってるんだ、拓海は不気味に思う。前に会った時には庄司はよく喋っていたはずだ。むかつくほど喋っていた。それが黙っている。そして見てくる。沈黙が長くなるにつれて庄司の愛想の欠片もない顔に段々とイラ立ちが混じっていくのが何となく分かる。せめて嘲りでもしてくれれば不愉快さも感じられるが、これでは不気味さしか感じられない。怖い。勘弁してほしい。走り屋と呼ばれる人たちと関わる機会は増えたものの、これだけガラの悪い不気味な人と接することには慣れていない。それでこの人は一体どうしろというのだろうか、さっぱり分からない。
池谷は給油作業中で口を挟もうともしてこず、果ての知れない庄司との見詰め合いを、そして唐突に起こった車のドアの開かれる音が遮った。庄司をたなざらしにできることにほっとして拓海が音のしたシビックを見れば助手席から男が一人既に降りていた。黒い髪に黒いブルゾン、直線的な輪郭、太い眉。この人のことは、覚えている。
「中里さん」
「よう。久しぶりだな、藤原」
「はい、どうも」
拓海が頭を下げると、ああ、と中里はくすぐったそうに笑った。庄司ほど物騒な感じはないが多少荒くれた空気を発している中里もナイトキッズの走り屋だ。黒いGT−Rに乗っている。そのGT−Rとバトルをした。庄司とやる前だった。
その頃の自分はまだ走り屋扱いされることを疎んでおり、中里に対しても庄司ほどではないにせよなかなか無礼な態度を取っていたように思えるのだが、今の中里の笑顔にそれを責めてくるような嫌らしさはなく、そして目が大きい。かなり大きい。こんなに大きかっただろうか。驚くほどだ。
そういえば、間近でまともに中里の顔を見るのは初めてかもしれない。一度バトルをした時には走り屋なんてものには興味もなかったのでそう呼ばれる人間のことも風景のように見ており、走り屋というものに興味を持ち出した頃に妙義山で行われたナイトキッズと赤城レッドサンズの交流戦で中里を見た時には、直視をできなかった。上りのバトルで中里は負けて、結果ナイトキッズサイドに下りを走る人間がいないとか何とかで、バトルを見ていただけの自分がなぜかレッドサンズサイドにバトル相手として指名されたのだが、部外者がそういう状況で出しゃばれば地元の走り屋を蔑ろにすることくらいはその頃には分かっていたし雨が降っていて早く帰りたいのもあり渋ったところ、レッドサンズサイドが地元の代表格である中里の許可を持ち出してきたのだ。そこで拓海は中里を見た。中里はしっかりとした声を出し、何だかんだで板挟みになるこちらを気遣ってきたが、雨に濡れる俯きがちな様子はとても痛々しかった。だから直視はできず、地元の人間をそうやって追い込んでまでもバトルをしたがる相手にはむかついて、中里の顔がどうのと意識もせずに終わった。
そのため普通の状態でこうして目の前にするのは初めてで、印象的だった眉毛の太さよりも目の大きさの方に拓海の意識は向かった。大きい。大きくて、まつげが濃い。長いとかではない。いや長いのかもしれないが、とにかく濃い。目の周りがびっちりと黒いので、線で書いたようになっていて、とてもはっきりしている。色んなものを顔に塗っているようなクラスの女子でもここまではっきりはしていない。改めて見ると、これは異次元だ。何かすごい。びっくりだ。
「……俺の顔に、何かついてるか?」
びっくりしたまま黙って目を見てしまっていたら、中里は心配そうに窺ってきた。あ、いえ、と拓海は否定し、しかしそれ以上何も言わないのも中里を今以上に不安にさせそうなので、感じたことをそのまま言った。
「その、目が大きいなと」
「目?」
その目を瞬かせた中里が、はっとした風に足を一歩引いた。
「いや悪い、そういうつもりじゃねえんだ」
「は?」
「どうも、普通にしてるだけで睨んでるみたいになっちまうらしくてよ。気を悪くさせたらすまない」
困ったように中里は小さく頭を下げた。拓海はきょとんとした。どうも話が通じていない。
「ああいやそういうことじゃなくて、睨むとか」
確かに中里の目には常時力がこめられているようだが、睨まれたと感じたわけではない。中里は困ったように眉の端を下げたまま、「そうか?」、と窺ってくる。それも睨まれているとは感じない。はい、拓海は頷き、誤解を消そうと言葉を探した。
「ええと、可愛いですよ」
「……かっ?」
「………………あれ?」
しかし、どうも選択を間違ったような気がした。可愛いなんて、自分より年上のガラの悪い雰囲気を残した男の人に言うのは、メルヘンすぎる言葉だ。それでは中里も大きい目を更に大きくするというものだろう。
「あ、すいません」
慌てて拓海が謝ると、「あ?」、とひっくり返った声を上げた中里が、戸惑いの中でも親しみ深い笑みを浮かべた。
「ああ、いや、そんな、謝られることじゃねえ、ぜ。ああ。しかしその、可愛いってのは何だ、俺みたいなむさ苦しい男じゃなくてだな、そう、お前みたいな奴に言うべきセリフであって……」
「俺?」
まさか自分を出されるとは思わず、拓海も声をひっくり返していた。そんなメルヘンチックに育った覚えはない。中里は瞬間止まり、笑みを消して急に真顔になると、「いや!」、と両手を上げて叫んだ。
「違う、待て、藤原。そうじゃねえ。いやそうじゃねえというのはその意見的な問題で、別にお前が可愛くないと言うわけじゃないというか……いや、違う、待て。つまりこれは、程度の考え方というか、間違ってはいないが、俺は決してお前を取って食おうとしたりはしねえし、そういうことじゃねえんだ」
「……はあ」
中里の言っていることはよく分からないが、中里が慌てているのはよく分かる。動揺しやすい人なのかもしれない。これでガラの悪い走り屋を率いるのは結構大変なんじゃないかと他人事ながら思う。この慌てっぷりでは誰に負けただとか誰に勝っただとか誰にフラれただとかわけの分からないウワサを各所に流されることで、からかわれていそうだ。むしろナイトキッズの人間は中里をからかうことを目的にしてわけの分からないウワサを色んな方面に飛ばしているのかもしれない。この動揺しやすい中里と不気味な庄司が上にいるような集団ならば、何をやってもおかしくはないという気さえする。
「おい毅、ガキ相手にオタオタしてんじゃねえよ」
「おっ……」
その庄司の嫌々そうな声が横から入ってきた。オタオタしているのは中里のことで、ガキというのは自分のことだろう。庄司は多分池谷と似たような歳だから自分は年下にあたるだろうが、ガキと言われる筋合いはない。何となくむっとして庄司を見る。庄司は先ほど見合っていた時よりも不機嫌さとイライラを深めているようだったが、拓海が目を向けると顔から感情を消し、おもむろに両手を顔の横に上げた。
「俺はもう、謝ったからな。二度とお前らにあんな真似はしねえし、無駄に関わらねえ。そういうことだ」
そのまま庄司はくるりと背を向け、給油を終えていた池谷には一礼すると、ズボンから出した財布を開いて金を払った。池谷はおっかなびっくりといった具合に渡された金を確かめ、だがすぐにまた人の良い笑顔を浮かべて地面に置いていた紙袋片手にレジに走り、庄司はそのままこちらを振り返ることもなく運転席に戻った。突風のように素早い行いだった。引き止めるような間もなかったが、引き止める必要も拓海にはなかったので、とりあえず店員としてフロントガラス越しに会釈だけしておいた。
「……あー、藤原」
直後、歯切れの悪い調子で呼ばれ、はい、と中里を向く。首を掻いてちょっと顔をしかめている様相は、声の通りに決まりが悪そうだ。こうして見ると庄司のような不気味さはなく怖くもないから、冷静に言葉も待てる。
「その、慎吾……そいつ、まあ素直じゃねえ奴でよ、天の邪鬼極まりねえというか、なかなか自分の非も認めやがらねえんだが」
中里はシビックをちらちら見ながら気まずそうに言う。まあそうなんだろうな、と思いつつ、黙って拓海が話の続きを待つと、中里は咳払いをし、動揺を綺麗に除いた真剣な顔を向けてきた。
「そういう奴が、謝った。本気で、逃げずに。それ、認めてやってくれねえか。許せとは言わねえよ。言うつもりもない。あれはそういう次元の話じゃねえからな。ただ、あいつの決意を、認めてやってほしいんだ」
そうだ、許せる話ではない。車も人の命も粗末にするような行為は、どうやっても許せない。だが、その悪質さを認めて謝ってきた人間の心を、認めることならばできる。庄司の謝罪を受け止めることならば、できる。
「分かりました」
拓海は応えた。修理代は痛かったが庄司に一方的にやられたというよりは自分でやったことでもあるし、ハンドルと右手をガムテープで巻いて運転することなど二度とないだろうから良い経験になったとも言える。それをいちいち振り返って相手を許す許さないと考えるのも面倒だ。許さないのは許さないとして、謝られたことは謝られたこととして、ただそれだけを認められるなら気も楽だった。
「ありがとよ、藤原。お前は大人だな」
中里は晴れ晴れしく笑った。いえ、何となく居心地が悪くなって拓海はつばをつまみ帽子の位置を調整した。別に礼を言われることでもないし、自分は決して大人ではない。庄司がしてきた謝罪の受け止め方も、この人に言われなければいつまでも分からなかっただろう。だがここでムキになって否定するのもガキのやることだと感じられて、結局黙っているしかない。
笑った中里はそして、ふと何かを思い出したように真顔になると、再び真正面から迫力のある目を向けてきた。
「お前とバトルできたこと、感謝してるんだぜ、俺は。おかげですげえ走りを見られたし、何のためにバトルってもんがあるのか、思い出すこともできた」
生々しい中里の声、胸に食い込んでくる中里の言葉だった。それこそ礼を言われるようなことではなかった。自分はまだその頃走り屋と呼ばれる人たちが大切にしているものも知ろうともしないまま、ただ周りが用意した流れに乗らされていた。強い意志でもって挑んできただろう中里と、向かい合う資格も本来なかった。ガキだった。今でもそうだ、流れに乗るだけ乗っておいて、決着をつけられていないことが残っている。そんな自分が一気に恥ずかしくなり、色々と否定しようと出した声は小さくなった。
「あの、俺は」
「だから、お前が俺を覚えててくれて、嬉しいんだよ」
中里は、ガラの悪い不思議な集団を率いている、ちょっとガラの悪い走り屋だ。そういう人が、にやりと貫禄のある笑みを浮かべて、また真剣になる。
「俺はまだ、お前のことも諦めちゃいねえからな」
走り屋と呼ばれる人たちは、聞いている方が恥ずかしくなる台詞を真顔でよく口にするが、中里もそうだった。拓海は唖然として、小さい声すら出せなくなった。中里はまた楽しそうに笑い、じゃあな、と軽やかに片手を上げ赤いシビックの助手席に入る。池谷は庄司に釣りを渡して変わらない笑顔で何事かを喋っている。拓海は言葉を発せられないまま俯いた。色んな形の恥ずかしさがどうにも消えない。
やはり走り屋の人たちは強引だ。勝手に話を進めて満足げに終わらせて、こっちの言い分を聞こうともしない。だというのに、自分よりもよほど大人で、格好良いのだから、敵わない。それから赤いシビックが店から出るまでの数十秒、照れ臭さを消し去れず、拓海は顔を上げられなかった。
「どうした、拓海」
店員としての見送りを済ませた池谷が隣に来て不思議そうに声をかけてくる。最初から走り屋であるこの人には分からないに違いない。自分がどれだけそれを軽んじていたのか、感謝される義理もない存在なのか、きっと分かろうともしないのだ。拓海は俯いたまま、いえ、と言った。
「まあ、学校も三学期に入っちまえば終わりみたいなもんさ。それまでは、我慢我慢」
横目で見た池谷は人の良い笑顔を浮かべていた。中里も笑顔だった。それは無邪気ながらも確実に大人のものだった。庄司のことも自分のことも気遣いながら、中里は気遣われようとはしていなかった。あの人は分かっているのかもしれない。許せているのかもしれない。自分にとって何が大切なのかを分かっている人は、自分が何をしたいのかも、何をするべきなのかも分かっていて、自分が何を許せるのかも既に分かっているのだろう。そして、そういう人こそが、大人なのだ。
「そうですね」
まだ池谷には宿題のことを気にしていると思われているらしいが、それを気にしないということもないので、顔を上げて同意を示しておく。許せないものが明らかなら、大切なものも明らかのはずだ。自分が何をしたいのか、考え拓海はとりあえず、バイトを真面目にこなすことにした。
◇◆◇◆◇◆
精神はささくれておらず、会話のすべてに皮肉を加えるような気分でもなかった。そのため慎吾は壁の一部が剥がれ落ちていそうな二階建てのアパートの前に愛車を停めるまで、助手席に置いた中里に対しては自然に出てくる毒をぶつけるだけにした。
「ほらよ」
あとは別れるだけなので、無駄な言葉も使わない。ああ、とベルトを外した中里は、しかし座席から離れずに不可解そうに窺ってきた。
「絞めねえのか?」
別れ際には首を絞めるのが礼儀と言わんばかりの口振りである。だがそう思っているわけではないだろう。昨夜慎吾は峠で次に余計な真似をしたら首を完全に絞めてやると半端に首を絞めながら中里に警告して差し上げた。そして中里は今、余計な真似をしたと思っているに違いない。ゆえに絞められるべきだと考えていて、絞めないのかと聞いてきた。さすが昨日それに所以して自分に襲いかかってきた仲間のことも単なるプロレスマニアとしか捉えなかった想像力に欠ける男だ。そのくせ律儀でどうしようもない。慎吾はステアリングに両手をかけたまま、深いため息を吐いた。
「何でお前はそんなにくっだらねえのかな」
「人をあげてくだらねえとは何だ、この野郎」
暗い車内でも中里のしかめ面はよく見える。反応が逐一定型的で代わり映えのしない、何ともくだらない男だ。そういう男の行動に振り回されて真面目になって結局胸がすっとした自分も何ともくだらなく、可能であれば棚に上げてやりたいところだった。慎吾は再びため息を吐き、呟いた。
「お前の存在なんて、自賠責やら暫定税率やらと同じでよ」
「……何だって?」
負担を承知できるのは利益が確実に予想されるからこそなのだが、しかめ面を間抜け面にした中里に何が負担で何が利益かを一から十まで説明してやるのも癪であり、ま、と慎吾は話を打ち切った。
「どうでもいいからとっとと出てけ」
中里は再びしかめ面になると、面倒そうなため息を吐いて助手席のドアを開いた。
「素直じゃねえな、お前は」
呟きのような発言には、惰性の嫌味を飛ばしてやる。
「素直が美徳になるのは小学生までだぜ」
「美徳にならなくても、可愛げは出るもんなんだよ」
車から出ながら中里は深刻に言い、だがすぐに声を軽くして、またな、とドアを閉めた。顔は見えなかった。
素直じゃなくて結構、慎吾は中里がアパートの一階の一室に入っていくのも見ずに車を発進させ、ただちにスピードを上げた。可愛いなどと野郎に思われたくもない。特に峠で一部の野郎にそう思われているくせにそれにまったく気付かずに人に干渉してくる野郎には、何を思われたくもない。
「くっだらねえのな」
不足なく動く右手でステアリングを握り締めながら自嘲する。くだらないことをやっておいて爽快になっている自分をずっと感じたがっている自分も所詮はガキで、想像力に欠ける律儀な男にオタオタさせられそうになるだけ余計にそうなのかもしれず、慎吾はせめて街中で暴走はしないようにギアとアクセルを調節した。
(終)
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