ふざけた奴ら:庄司慎吾
その日はバトルの予定もタイムアタックの予定もなく、山には生ぬるい空気が流れていた。何もなかった。花粉の影響もなかったが、その空気のおかげか、EG−6から降りてすぐに、俺は生ぬるい気分になった。無駄にへらへらしている雪雄が話しかけてきても、同じようにへらへらする気分じゃあなかった。
「慎吾、今日何もねえし、ガムテ教えてくれよガムテ」
「面倒くせえ」
俺が丁寧にお断りをしてやると、雪雄は大仰に肩をすくめてため息を吐いた。黄色人種が何やってんだ。思ったが、言うのも面倒だった。俺も黄色人種だ。
「ナニ、その超投げやりな態度。走りを面倒がるなんて、峠の走り屋にあるまじきじゃね?」
「あるまじきだかアルマジロだか知らねえけど、お前に教えるのが面倒なだけで、走りは面倒がってねえよ」
ただ、金がないだけだ。借金漬けにはなりたくない。そんなてめえも生ぬるい。毅はまだ来ていない。一回くらいは全開でドリフトでもしとかねえと、体が腐っちまいそうな、生ぬるい気分だ。
「はあ、そうかい、友達甲斐ねえな」、また大げさに、身振り手振りを交えて言ってきやがる雪雄に、あなたとお友達になった記憶もございません、と言おうとしたら、その前に雪雄が続けて言った。「じゃあ、お前のガムテやるとこナビから見せてくれるだけでいいよ」
「そっちの方が面倒くせえよ」
教えるだけなら口で適当に説明してやればいいが、隣に乗せるとなると準備が必要だ。その準備は、走る俺がしなけりゃならねえ。面倒にもほどがある。
「いいじゃん、あれお前の走り屋的ライフワークだろ。隣に人乗せて走るのも、一つの研究だぜ」
へらへら笑いながら雪雄は言う。ようやくサイバーCR−Xでブレーキングドリフトができるようになった程度の奴に、走り屋だのライフワークだの研究だの、偉そうに言われる筋合いはない。いつもの俺ならそのくらいのことを、へらへら笑い返してやりながら言い返してもやるのだが、どうも今日の俺は生ぬるかった。久々に花粉症から解放されたせいかもしれないし、毅が来ていないせいかもしれない。そう、今日は毅がまだ来ていない。来るかどうかも分からない。今日はバトルの予定はない。何もねえ。生ぬるいほど、何も。
「っつーか、あれ毅の許可取らねえとできねえしよ」
そう言って、呼吸をしても鼻がムズムズしないことに安心しながら俺は、取り出した煙草に火を点けた。雪雄が眉毛も目も鼻も口も、何もかも全体的に薄っぺらいツラを、不思議そうにしかめる。
「え、そうなの。何で?」
「危険だからだろ。何起きるか分かんねえから、即応できる態勢作っとかねえとダメなんだと」
お前がやりたけりゃやるなとは言わねえが、と苦々しそうに言ってきた毅の渋いツラは、何ヶ月経っても、ありありと思い出せる。去年の冬前だ。その夏、俺が『あれ』で自爆して怪我するまで、毅があんなツラを俺に見せたことなんて、一度もなかった。あんな後ろめたそうで、心配そうなツラを、俺の前で晒すことなんて。だからいつでも思い出せる。あいつの言葉の一つ一つ、あいつの声の変化一つ一つ。
「へー、そっか、あれで事故ってんもんなお前。相変わらず愛されてんねえ」
「死ぬか」、俺はようやくへらへら笑いながら、聞いてやった。
「嫌です」、雪雄はへらへら笑ったまま、答えた。
毅にとって俺は、秒数コンマ以下を減らし合うライバルとはいっても、チームのメンバーの一人に過ぎないだろう。『愛されている』としても、その『枠』でだ。それも分からねえ馬鹿が死んだところで、同情はしない。
「そうだ、じゃあ俺が毅さんの許可取るよ、それで乗せてくれよ」
思いついたように、雪雄は言った。その時、生ぬるい俺の気分が何か痛いものに煽られたが、俺は笑いを消さずに言い返した。
「俺が滅多に取らねえもんを、お前が取るってか、雪雄」
「俺はお前と違うからね、そのくらい毅さんと普通に話せるぜ。どうだ、ふふふ」
笑いながら雪雄は、細い目を更に細めて線のようにする。相変わらずの馬鹿だ。
「どんな自慢だ、そりゃ」
「自慢じゃねえよ、普段言いづらいことを代弁してやろうっていう、友達ならではの親切の表れ?」
「俺はトモダチは、隣に乗せねえことにしてるんでな」
馬鹿には適当にしてやるに限る。雪雄が無駄に大きいリアクションでため息を吐いた時、その後ろから石井さんが現れた。
「こんばんは」
石井さんは割と見栄えの良いツラをしてるクセに、地味な服を着ているせいか、気配の薄い人だった。おかげで勘は鋭い方の俺も雪雄も、近くに来られるまでほとんど気付けない。今日もそうだ。後ろから声をかけられた雪雄は、跳ね上がるほど驚いていた。馬鹿な上に鬱陶しい奴だ。
「うっわ石井さん。お久っすねー」
「悪いな、驚かせて」
「いえいえ。お元気でした?」
「まあそれなりに。二人はどうだ」
「俺はもうそりゃあバリバリですよ」
へらへら笑いに愛想を加えた雪雄に小さく笑って、石井さんが俺を見る。俺は煙草を吸ってから、花粉がなけりゃいいんですけどね、と答えた。ああ、と石井さんが頷く。
「俺もしばらく辛かったよ。今日は良い方だな、おかげでここにも来れた」
「へえ、石井さんも花粉症っすか」、雪雄が意外そうに言う。こいつは些細なことでも大きく言いたがる。
「外に出るとやられちまうから、仕事以外は大体引きこもってるよ」、石井さんが滑稽な感じで眉を上げて、また俺を見た。「そういえば、中里さんは来てないのか」
他の奴にそれを聞かれれば、俺があいつの動向把握してるわけがねえだろ、とでも言ってやっただろうが、石井さんは一ヶ月に一度、峠に来るか来ないかという人で、俺と毅の間柄もふざけた風には見ない。だから俺も、聞かれたことに答えるだけだ。
「来てませんね」
「そうか」
「毅さんに何か用ですか?」、雪雄が意外そうに言う。ワンパターンだ。
「そういうんじゃないよ」、なぜか石井さんまで意外そうに言った。「庄司がいて中里さんがいないのは、何か不思議な感じがしてな。俺が来る時はいつも、二人ともいるからさ」
そういやまあ大体セットだよな、と大きく頷く雪雄を睨みつつ、セットで見られるってのはいいのかどうか、俺が考えてみた時、雪雄の後ろから、スーツの男が現れた。ここにスーツで来る、縁なしメガネをかけた三十代半ばの走り屋は、桐原さん以外にいない。
「素晴らしいな」
桐原さんが高めの声で独り言みたいなものを言うと、雪雄は鬱陶しい反応をした。それは無視して、俺はどうもと頭を下げ、石井さんは意外そうに言った。
「お久しぶりですね、桐原さん」
「お久しぶり、石井とは去年の夏以来だな。時間が経つのは早いよ。俺もせめて、ひと月に一度はここに顔を出したいんだが」、言ってげんなりしたようにため息を吐いた桐原さんが、俺を見た。「そういえば、毅は来てないのか」
この人は、二ヶ月に一度峠に来るのも珍しいくらいの人で、やはり俺と毅の間柄をふざけた風には見ない。見ないにしても、こう立て続けに日頃山に来ない人に毅の行方を聞かれると、揶揄されているように感じちまうのは、仕方ないだろう。雪雄はげらげら笑い出すし、石井さんまで噴き出す始末だ。うんざりする。桐原さんは、落ちくぼんでいる目を不思議そうに瞬いた。
「来てませんよ」
うんざりしつつも、俺が聞かれたことにまず答えると、げらげらしていた雪雄が口を挟んだ。
「や、それさっき石井さんも聞いてたんすよ。慎吾に。何すかね、やっぱ毅さんに対する愛情の表れ?」
「お前の全身ガムテープで縛って、そのまま山奥放置してやろうか」
「やめてー」
棒読みで言う雪雄は無視して、桐原さんに目を戻す。二ヶ月に一度来るのも珍しい桐原さんと、一ヶ月に一度来るか来ないかの石井さんが揃っているのは、また珍しい光景だ。去年の夏以来なら、石井さんが初めてここに来てからはなかったということになる。毅がこの場にいればまず真っ先に、珍しいなとか陳腐な感想を言っただろう。そういう陳腐なことを素直に言える奴は、ここにはあまりいない。
「何が素晴らしいんですか」
俺が煙草を吸いながら毅のことを考えている間に、雪雄の発言を笑って流した石井さんが、桐原さんにそう聞いていた。桐原さんは感慨深そうに、真顔で頷いた。
「ナイトキッズでホンダ乗りがこうも一堂に会することは、実に三年ぶりだよ。素晴らしいな」
インテを三代乗り継いで今はインテRに乗っている桐原さんは、インテ好きというよりはホンダ好きとして有名だった。実際話すと本田宗一郎好きだと分かるが、二ヶ月に一度来るのも珍しい人と会う奴も少ないから、ホンダ好きで通っている。俺は去年の春、EG−6に乗っているというだけで、桐原さんにナイトキッズに入らないかと誘われた。当時の俺は、誘いを受けるのも断るのも面倒くさくてたまらなくて、適当に流したのだが、それでチームのメンバーとして数えられるようになっていたんだから、適当なもんだ。その縁もあって、俺は桐原さんが来ている時には、短時間でも会話はする。そうでなくとも桐原さんは、ホンダ車に乗っている奴と話したがるので、CR−Xに乗ってる雪雄も、三代目プレリュードに乗って峠に来るクセに女を連れるわけでも暴走するわけでもない石井さんも、桐原さんとは交流を持っている。
「三年ぶりって、またスパン微妙っすね」、と雪雄がへらへら笑いを戻しながら言った。誰かこいつ、殴らねえのかな。後で俺が殴るか。
「誠を慕ってた奴らが、一斉に辞めて以来だからな」、桐原さんが雪雄を殴ることはない。そもそもあまり動かない人だ。「丁度もうすぐ三年だ」
「誠さんって、前のトップの方でしたっけ」、石井さんが確認する。
「そうだ。千野誠。当時はあいつ目当てでチームに関わる人間がほとんどだった。コンスタントに速くもないのに、派手で人好きはしたからな。そんなあいつが群馬を離れると、ナイトキッズのメンバーも激減した。そしてチームにホンダ乗りは俺しか存在しなくなった。あの時は、この世が終わったかと思ったぜ」
桐原さんは真顔で何でも言ってくるので、大げさには感じられない。雪雄もそこは茶化さずに、石井さんもなるほどと頷くだけだ。俺はただ、煙草を吸っていた。そして桐原さんは、真顔のまま俺だけを見た。
「だが庄司、お前がチームに入ってから、ナイトキッズではホンダ車が隆盛しつつある。実にありがたい。お前には感謝してるよ」
別に、俺はそうしようとしたわけじゃあないが、雪雄は俺の後にチームに入っているし、石井さんは一応俺の高校時代の先輩で、俺が山に誘ったようなものなのかもしれない。まあ、感謝されない義理もないだろう。どういたしまして、俺が言うと、桐原さんは大きく頷いて、俺のおかげじゃないんすか、と薄っぺらなショックを見せる雪雄は無視し、話を続けた。
「それに、お前がチームに入ってから、毅は実に楽しそうだ。誠が辞めてから、あそこまで楽しそうにしてる毅は見たことがない。だからそれは、お前のおかげだろう。事によれば、誠がいた頃よりも、あいつは楽しめているのかもしれないな。今のナイトキッズの柱は毅だから、毅が楽しんでいるのは何よりだ。お前には実に感謝してるぜ、庄司」
やはり真顔で、桐原さんは言ってくる。茶化してこない雪雄は、だが変にへらへらしているし、石井さんも緩く笑っている。俺はとりあえずまた、どういたしましてと言ってから煙草を吸って、熱くなっていく顔を頭で冷やそうとした。しかし神経は言うことを聞きゃしねえ。毅の前にトップを張っていた走り屋の名前は、去年の冬前、一回毅と長く話をした時に、何度も耳にした。ガムテープの使用を許可制にする約束を、交わした時だ。あの時も俺は、よりにもよって毅本人に、あの頃よりも楽しいぜ、とか、穏やかに笑いながら言われちまって、熱くなってく顔を頭で冷やそうとして、うまくできずに途中で話を切り上げた。毅にそんな、『照れている』俺のツラを見せてやるのは癪だった。こいつらに見せるのも、まあ癪だ。いい加減、車に戻るか。思った途端、何か重みのあるものが弾む音が聞こえて、意識はついそっちに向いた。俺たちのすぐ足元に、その何かが転がってきた。石井さんが拾い上げた丸く茶色いそれは、バスケットボールだった。
「ボール?」、雪雄が意外そうに言った。パターンを変える気はないらしい。
周りを見ると、俺たちの斜め前、四人の男が固まっているところで、一人がこっちに手を振っている。春になると馬鹿が増えるもんだが、峠にバスケットボールを持ち込むような馬鹿も現れるらしい。車に当たったらどうすんだ、あいつら。うんざりしながら、拾ったボールを地面についている石井さんを見ていたら、石井さんは突然、俺に向かって速いパスをしてきた。俺は、ボールを胸元で受け取ってから、驚いた。
「うわ、やるじゃん」
雪雄の驚きがどうでもよく感じられるほど、俺は驚いていた。石井さんが俺に速いパスをしてきたことも、俺がそれを普通に受けたこともだ。バスケなんざ何年もやってねえ。中学以来、いや高校初日以来か。それでも、体に動きは染みついているらしい。
「なるほど、バスケか。よし庄司、俺にボールを渡せ。そして庄司と石井はついて来い。3on3だ」
俺が受け取ったボールをそのまま持っていると、桐原さんが気合の入った顔で言った。俺は石井さんを見た。石井さんは曖昧に首を傾げたが、何かを狙うように笑っていた。桐原さんを見直すと、やはり気合が入った顔をしている。走りに行く時よりも気合が入っていそうだ。あまり動かない桐原さんがここまで気合を入れているということは、バスケ好きなんだろう。春になると馬鹿が増えるが、二ヶ月に一度来るのも珍しい桐原さんまで馬鹿になるなら、俺も馬鹿になった方がいいのかもしれない。毅は来ていない。全開出すのも、あいつが来てからでいいかと俺は思った。毅が来なけりゃ、何もねえんだ。
ボールを持ち込んだ奴らが全員うちのメンバーで、全員バスケ経験者だったのが幸か不幸か、3on3はできる運びになった。うちの奴らは基本モータースポーツ好きだが、他のスポーツに熱を上げている奴も多い。野球やらサッカーやらゴルフやらテニスやら格闘技やら、バスケやらだ。そういう奴らは、峠でも構わずそのスポーツを話題にしたり実行したりする。キリがねえ。大体峠の走り屋が峠でバスケやって、どうすんだよ。そう思うが、一度やると決めた以上、やらなけりゃあ気も済まなかった。他の奴らも、趣味は違ってもやると決めたことをやり抜くところは共通してるから、ラインがない、ハイエースの上に置かれた段ボール箱がゴールの3on3も、成立しちまったんだろう。桐原さんと石井さんと俺が同じ組、相手は三郎と雅彦と平田だった。審判は山藤、守備側か外野にボールが移った時点で攻守交代、ファウルも時間も無制限。観客や車にボールをぶつけた奴は罰金一万。
「販売台数と商品のクオリティは比例しないということを、教えてやるぜ」
周りに微妙な数の人が集まって、三対三で向き合う中で、脱いだスーツの上着を、衣文掛けとして最適な山藤の肩にかけた桐原さんは、相変わらずの真顔で言った。ボール回しをしていた三郎が、半分崩れかけているような顔で醜く笑う。
「ダブルスコアにしてやりますよ」
三郎はサイノスβに乗っている。雅彦はスターレット、平田はセリカだから、三人ともトヨタ乗りだ。桐原さんは、ホンダ対トヨタの構図をバスケに持ち込んだらしい。俺はそこまでトヨタを憎んでいるわけではないが、まあ大手ってだけで気に食わない面もある。石井さんは、特に気にはしていない。この人はただ、パーツをとっかえひっかえするのが好きなだけだ。だが、因縁がなくともゲームはゲームだった。始まれば、勝ちを狙う。それだけだ。
両方が勝とうとすりゃあ、激しく動くし衝突もする。スーツを汚さないように気を遣っていたのか、外からパスを回してくるだけだった桐原さん以外、全員一度は転んでいた。動く度に、体温が上がって、汗をかく。途中から上着を脱いだ奴は、転んで擦り傷作るのも構わずに、ボールめがけて突っ込んでいた。俺も着ていたジップパーカーを脱いでTシャツになったが、それからは吹き飛ばされないよう、ゴールを狙った。何分もしないうちに体は動き方を完全に思い出して、ボールを自然に操っていた。
ドライブインは得意だった。スピードだけで相手をかわしてやり、ゴールに軽くボールを放る。単なるスニーカーじゃあ足に負担がかかるから、そう何回もできはしない。バッシュを履いてた時でも何回もやりはしなかった。ずっと補欠だった。監督にはやる気を出せば使ってやると言われていたが、やる気は出さなかった。やる気なんて最初からなかった。同級生に誘われて、断るのも面倒だから入っただけだ。俺を誘ったそいつはすぐ辞めた。俺は辞めるのも面倒になっていた。部員が多いのも監督が厳しいのも鬱陶しく、部に愛着もわかなかったが、練習はサボらなかった。時間潰しにはなったからだ。高校でも、中学の別の同級生に一緒にバスケをやろうと誘われて、それを断るのも面倒だった。あの時のキャプテンが、あそこまで同情する気にならねえ馬鹿じゃなけりゃあ、そのまま続けていたかもしれない。あの馬鹿の足首に乗ってやった時の感触は、骨が折れた響きは、まだ覚えている。あの一瞬だけ、俺は全部を楽しんだ。一瞬だ。たった一瞬。後は、機械以外、何もかも同じだった。ここに来るまでは。毅に会うまでは。
周りには車に人、動けるスペースも多くねえ、動くような格好でもねえのに、結局三十分近く走り回って、参加者全員汗だくになっていた。お互い疲れ果て、終わりを決めた時にはスコアは俺たちがシュート二つ分上回った。優勝賞品があるわけでもないが、勝ったのだから気分は悪くない。上半身タンクトップ一枚の三郎は、座り込んで耳障りに荒い息を吐いていた。雅彦は四つん這いで、平田はざらざらのアスファルトの上に大の字になっている。石井さんも疲れたようで、ボールを持ったまましゃがみ込んでいて、桐原さんもその隣で、だらだらかいた汗をワイシャツの袖で拭っていた。
俺も疲れて座っていたが、風に吹かれると寒気も感じた。立ち上がり、山藤に預けたパーカーを取り返すことにする。そして、山藤の傍に立っている毅を見て、引きかけた汗が噴き出てくるのを感じた。終わり際に毅が来たのは分かっていたが、実際に向き合うと、気分が違う。生ぬるさはバスケをやって吹き飛んで、今は沸騰気味だった。毅の周りには浩志も嶋も康平もいたが、俺の視界で強調されるのは毅だけだ。
「お前、バスケなんてやってたんだな」
汗を拭いながら近づく俺に、そう声をかけてきた毅は、楽しそうに笑っていた。モータースポーツ以外にはこだわりを持たないが、スポーツ自体は見るのもやるのも好きだと言っていたから、観戦を楽しんだのかもしれない。
「中学三年間だけだぜ」、出した声がかすれすぎていて、俺は咳をしてから言った。「昔みたいには動けねえ」
「サマになってたじゃねえか」
「素人にはそう見えるのかもな」
顔の筋肉を動かすのにも疲れていたが、笑わないと皮肉になりそうもなかったので、俺は口だけ笑って言ってやり、山藤からパーカーを受け取ってそれを着た。毅は何か、飲み込んではいけないものを飲み込んでしまったような顔をして、それを嫌そうにしかめた。笑いかけられるよりも、嫌そうにされた方が安心しちまうのは、『俺』が『枠』にこだわっているからかもしれない。
「桐原サンたちも、バスケやるんですねえ」
浩志が間延びした口調で、俺の後ろに言った。振り向くと、桐原さんと石井さんがこっちに来ていた。
「まあな」、桐原さんは、山藤からスーツの上着を受け取って言った。「中学高校大学とやっていたんだが、卒業してからはバスケよりも車を優先してたよ。今日は久々に、若い頃の血が騒いだな。たまに外で運動するのもいいもんだ」
真顔の桐原さんの言葉に、山藤に何も預けていなかった石井さんが笑う。「そうですね、俺も高校以来でこんなに動きましたよ」
「学校出ると、基本集団スポーツから遠ざかるよなあ」、浩志が頷く。
「一般人なら後は趣味や健康増進の領域だからな」、康平が妙に賢しそうに微笑む。
「俺も何もやってねえわ、見るのは見るんだけどさ」、言った嶋が持っていたビニール袋の中から、俺と石井さんと桐原さんに冷えたスチール缶を投げて寄越してきた。「どうぞ、観戦料です」
中身は緑茶だった。すっかり喉が渇いていたので貰っておく。缶を開けて一気に半分飲み干す間に、嶋は三郎たちを呼んで茶を配っていた。他人の世話を焼くのは好きじゃねえとか何とか言ってやがるクセに、自然と世話を焼ける奴だ。
「何だよ、コーラとかねえの」
茶を飲みながら不満そうに言った雅彦に、コーラとか炭酸かかるじゃねえかと平田が言ったところで、ああそうそうと山藤が言った。
「サブ三万、マサ一万な」
「はあ!? んな外に出してねえよ俺!」
「俺のハイエースにぶつけてくれたから。三回」
馬面でにこにこ笑いながら山藤が告げる。三郎は頭を抱えてしゃがみ込み、雅彦はすぐに財布から札を取り出した。何だかんだと騒ぎ始める奴らを見るのはやめて、俺は毅に目を戻した。もう嫌そうな顔はしていない。ただ、腑に落ちなさそうな顔だった。
「どうした」、毅が何を考えているのか気になって、つい俺は聞いていた。
「いや」、毅は少し言い淀んでから、そんな必要もないと気付いたようで、普通に答えた。「珍しいなと思ってよ。石井も桐原さんもいるってのは」
ここにはあまりいない、陳腐なことを素直に言える奴が、俺の目の前にいる。それが、俺を今でもここに来させる、理由の一つになってやがる。その理由は、わざと嘲っとかねえと、何も言えなくさせるような感覚を、俺に呼ぶ。
「今更かよ」
「悪かったな、今更でよ」、笑った俺に毅はむっとして、そして不思議そうに言った。「けど、何で山でバスケなんだ?」
「あー、NBA見てたら急にむらむらしてきちゃってさー、やっぱやれる時にやっとかんとね」
「俺のセルティックス……」
毅の疑問に罰金を取られなかった平田が答えて、頭を抱えたままの三郎が呟いた。そういや、そろそろプレーオフの時期か。
「……まあいいけどよ、あんま無茶やるなよ」
何とも理解に困ったようなツラをしながら毅が言い、雅彦も平田も山藤も適当な返事をすると、しゃがんでいる三郎を抱え起こし、嶋に空き缶を渡して、ボールを回しながら四人車に戻っていった。俺も嶋に空き缶を投げる。桐原さんと石井さんも茶を飲み終えて、浩志と嶋と康平と、いつの間にか近くに来ていた雪雄とで、ホンダとトヨタのマーケティングの違いについて話をしている。この中にいて、改めて思うのは、珍しい奴らが揃っていたということだ。桐原さんと石井さんは言うまでもなく、トヨタ乗り四人も月一でしか来やしねえ。康平は週一程度、浩志と嶋は来る週来る月、来ない週来ない月の差が激しい。定期的に、頻繁に来るったら、こん中じゃあ俺と毅と雪雄だけだ。今日はまあ、よく集まったもんだろう。思いながら、俺が見るのは毅だった。嫌がってもむかついても困っても、すぐに普通に戻る毅の顔は、見飽きない。ずっと見てると喧嘩を売ってるだのと誤解されるから、長くは見ないが。
「そうだ毅、二ヶ月前、誠と会ったぜ」
桐原さんがマーケティング話を中断し、唐突にそう言った時、毅は驚いてから、変な顔をした。半分は喜んでるのに、半分は嫌がってるような顔だ。複雑さをほとんど持ち合わせない毅にしては、珍しい表情だが、前のトップの名前が話に出ると、毅はそういう風にならずにはいられないらしかった。去年の冬前、一回長く話した時も、そんなツラをしていたからだ。
「誠さんと?」
「仕事先で顔を合わせてな。お前が三年間、まったく連絡を寄越さないと散々愚痴られたよ」
「はい?」
変な顔をしたまま、変な声を上げた毅を気にせず、桐原さんは真顔で続ける。
「それと、旧トップからの言伝だ。夏までに関東全域にナイトキッズの悪名を轟かせないと、罰としてメンバー一人につき二万円ずつ徴収しに来ると」
そのワケの分からねえ話を聞いた途端、笑ったのは浩志だった。
「ははは、いやー、まあ相変わらずだな、誠サンは。群馬全域くらいなら何とかなるってのに」
「不可能な範囲をよく分かってるわな」、嶋が薄ら笑う。
「何月までが夏になるのかも分からないよな」、康平も笑う。
俺は笑えなかった。何が相変わらずなのかも分からねえんだから、笑いようもない。毅も笑っていない。難しそうな顔をして、またあの人はわけの分からねえことを、とか何とか嫌そうに呟いている。毅も分かってないことに、中身は違うにしても、俺は少しほっとする。
「でも今ならプロD連中がっつり潰せば、悪名轟いてくれるんじゃないっすか」
俺と同じく笑っていない雪雄が言った。存在自体が冗談のようなこいつも、笑っていないと冗談にはならない。
「冗談言うんじゃねえよ」
だから、毅が睨むのも当然だろう。悪名よりも名声が好きな奴だし、『プロD連中』と直接バトルをしたことのあるこいつは、奴らに特別な思いも持っている。俺もまあ、持っていないとは言えないから、気持ちは分からないでもない。分かっちまう。
「え、結構イケると思うんすけど」、毅に睨まれても、雪雄は笑わず、平然としてやがる。後で殴ろう。「まあ再起不能レベルだと身の危険を感じるんで、人質とか拉致って有利な展開に持ってくって感じっすかね?」
「卑怯さをがっつりオープンにすることで、悪さをとことんアピールするわけだな」、浩志が話に乗る。
「そこで悪が負けるのが王道、だがしかし」、嶋も乗る。「ナイトキッズは邪道をひた走り、関東の暴走連中全部を敵に回してやるってわけだ」
「非の打ちどころのない悪を演じるには、非の打ちどころのない計画が必要だな」、康平までが話に乗った。「拉致の計画にバトルの計画、あらゆる事態を想定した計画が」
「お前らな……」
話に乗れない毅は、疲れたようにため息を吐く。ここで冗談の一つも言えるくらい軽い性格をしていれば、去年こいつはあれほど苦労もしなかっただろう。そんな軽い性格の奴なら、俺もこいつの近くにいたいとは思わなかっただろう。それでも、だからなのか、もうちょっと軽くなれよ、と思っちまう。もっと気楽に生きてみろよ。そんなこと、無意味すぎて、言えもしねんだが。
「っていうか慎吾、卑怯の代名詞のお前がここで意見を出さなくてどうするよ」
笑って冗談になった雪雄が、冗談じゃあないことを言ってきた。俺はわざとらしく、顔の片側だけで笑ってやる。
「そんな代名詞になっていたとは存じ上げませんで、意見もクソもございませんね」
「はー、ざあとらしい」、また大仰な仕草で肩をすくめて、そして雪雄は笑うのをやめた。「けどよ慎吾、マジメな話、人質拉致ってお前がガムテしたら、それだけで十分だって。関東全域にナイトキッズ庄司慎吾の名がだね、最低最悪卑怯野郎って感じで広まるぜ? カッコイイじゃん、やってやろうじゃん?」
『マジメ』に言いやがった雪雄に、誰がやるか馬鹿野郎、と言い返す代わり、拳骨を食らわせた。
「うっわグーパン! 毅さん、こいつ俺の頭をグーで殴りましたよ、グーで! 俺の綺麗な頭を!」
喚く雪雄に黙れ死ねと言うと、死ねとかひどいと更に喚かれる。鬱陶しいし手の骨は痛いが、一回殴るとすっきりした。良い気分だ。やはり殴りたい奴は、殴るに限る。そんな俺と雪雄を見て、毅はまた、疲れたようにため息を吐きやがった。馬鹿な雪雄と同列に見られるのは合点がいかない。俺が自分の正当性を毅に主張しようとした時、そういうわけだ毅、と桐原さんが言った。
「たまには誠に連絡を入れてやれ。あいつが俺にした話といえば、ほとんどお前の話だったしな」
「桐原さん」、急に背筋を伸ばした毅は、真剣に言った。「俺、誠さんの連絡先、知らないんですよ」
その場にいた全員が、黙った。何とも言いようがない空気だった。
「そうなのか?」
「はい。今、どこにいるのかも知りません」
珍しく表情を動かした桐原さんと、表情を動かさない毅の組み合わせは、変な感じがあったが、何とも言いようがない空気は、それで終わった。
「そういや俺も知らねえなあ」、浩志が天を仰ぐ。
「あー、俺も。っつーか気にしたこともなかったわ」、言って嶋が笑う。
「連絡先教えてないことも気付いてないんじゃないかな」、康平は大体笑っている。
「ありうるな……」、毅が眉間にしわを寄せた。
毅を基準にして考えちまうと、前のトップという奴は、随分ふざけたお方だったらしい。コンスタントに速くはなく、派手で人好きがして、仲間に連絡先も教えず群馬を離れるような奴は、まあふざけてるだろう。俺ならまず、関係を持とうとしない。叩き潰そうとはしたかもしれない。
「そうか。また仕事先で会ったら言っておこう、自業自得だと」
「すみません」
どう考えても謝る必要のない毅の謝罪に、桐原さんは首を振った。
「悪いのはあいつだろう。お前の近況を根掘り葉掘り聞いてきて、そんなに知りたければ会いに行けと俺が言うと、それじゃあ嫌がらせにならないと言い返すような奴だ。しかし、あいつがお前を気にかけているのも事実だから、そのうちここにも現れるかもな。よろしく言っておいてくれ。俺はもう失礼する。また来るよ、元気でな」
言った桐原さんは手に持っていたままだったスーツの上を着て、別れの挨拶をする俺たちを一通り見回してから、疲れなんてなさそうに、インテRに歩いて行った。相変わらず、来る時も去る時も突然な人だ。
「俺もそろそろ帰るよ、時間も時間だ。何かバスケをやりに来ただけみたいになっちまったけど」
桐原さんのインテRが鳴いた後、前のトップの話になってから黙っていた石井さんが言った。筋肉痛に気を付けろ、気を付けようがねえだろ、なんて別れの挨拶をして、石井さんは疲れた感じでプレリュードに歩いて行く。バスケをやりに来ただけというのも、間違ってはいないのかもしれない。三郎も雅彦も平田も山藤もそうか。そんな奴らがいるチームに、あの頃の俺がよく入ったものだと思う。あの頃の記憶で鮮明なのは単車と乗用だけで、他人も景色も不確かだ。ほとんどのことを、俺は諦めていた。大した理由はない。ただ、本気を出すことの無意味さを実感したガキの俺が、いつまでも居座っていただけだ。それをどかすのすら面倒だった。機械に関わる以外、何もかも面倒でたまらなかったのに、俺は、チームに入ったのだ。そして、今、ここにいる。
桐原さんと石井さんが峠を下って行くと、怠惰な雰囲気が生まれた。少しの間、誰も口を開かなかった。
「嫌がらせか……」
最初に口を開いたのは、鬱陶しい雪雄じゃあなく、毅だった。それは呟きだった。
「誠さん、お前への嫌がらせに全力を注いでいたからな」、目を閉じて思い返したように康平が言う。「あれだけ手を変え品を変えられる才能を他に回せばいいんじゃないかと、見る度に思っていたよ」
毅が前のトップの話になると複雑な表情をする理由は、それかと思った。嫌がらせ。どんなことされてたってんだ。
「え、どんなことされてたんすか?」
雪雄が勝手に聞きやがる。また殴ってやろうか。
「どんなことって、別に、まあ…………………………大したこと、じゃあ、ねえよ」
大したことがありそうなツラで、言葉を濁した毅に、食い下がろうとする雪雄より先に、浩志が言った。
「でも今は慎吾が優しいからな、毅クンも安心だ」
俺は思わず浩志を睨みつけた。何を言い出しやがるこの野郎。すると浩志は黙ったが、
「まあ、毅のことを考えて動いてるだけ、誠さんとは比べものになんねえわな」、嶋が真顔で言った。殴られてえのかてめえらは、俺は思う。だがこいつらを殴ると毅がうるさい。代わりに俺は雪雄の尻を蹴り飛ばした。すっきりした。
「ってえな! 何なのお前、友達痛めつけてどうすんだよ!」
「あなたとお友達になった記憶もございません」
言いそびれたことを今言ってやると、最低最悪卑怯野郎、と叫んだ雪雄が、CR−Xに駆けて行った。途中で振り返り、ちょっとは止めろ冷酷野郎、と叫ぶ奴に、中指を立てて、後は無視する。
「飽きねえな、お前ら」
感心した風に毅が言ってきやがったので、俺はため息を吐いた。
「あいつが飽きねえんだよ。俺は飽きてる」、俺が飽きないものはここには少ない。
「……まあ、にしても、もうちょっと構ってやってもいいんじゃねえか。筋が悪い奴じゃねえだろ、あれは」
毅は小難しい顔になる。雪雄を庇っているわけじゃあないだろう。あいつの馬鹿さはこいつもよく知っているはずだ。毅はチームの戦力状況がどうのこうのという、前にした話を気にしているのかもしれない。確かに今、うちで表に出ようって腹積もりのある奴は雪雄と春哉くらいで、春哉が対向車や後続車が来るだけでテンパるあたり、バトルができるのは雪雄だけだ。だがあいつは、筋が悪くはないにしても、俺に普通に『あれ』をやらせようとする、自分でやろうとするほどの馬鹿だし、何より俺は、ここからいなくなるつもりはない。『プロD連中』がどれほど走りを極めようが究めようが、それをただ指を咥えて見ているつもりもない。俺はもう諦めてはいない。何も諦めてはいない。『言いづらいこと』は山ほどあるが、諦めているわけじゃあない。
「あいつだろうが誰だろうが、構うつもりはねえよ。俺が俺に、見切りをつけるまではな」
誰のことも見ず、俺は言った。それは呟きだ。こういうのが、『優しさ』になるんだろう。そう考える頭が顔を熱くする。そんなツラ、見られたくはない。優しいなんて、思われたくもない。だが思われたいのかもしれない。生ぬるい自分に笑えてくる。
「大体あんな馬鹿を擁立する暇あるんなら、てめえで何とかしろってんだ」
馬鹿は所詮馬鹿でしかないのだから、期待する方が馬鹿を見る。それでも何とかしようとする毅の馬鹿さも、その馬鹿さは特別に感じるてめえも、生ぬるいのに、顔は熱い。俺はまた途中で話を切り上げた。浩志どもは微妙に笑っていたが仕様がない。あいつらは俺より長く毅と付き合っているし、俺の知らない毅も知っている。だが今の毅と競っていられるのは俺だけだ。広い『枠』の中、限られたその『枠』には、今のところ俺しか入っていない。それ以外の奴らなんて、勝手にしてりゃあいい。
結局バスケをやっても何を話しても、気分は生ぬるいところに落ち着いた。俺はこれ以上体が腐っちまわないように、金が飛んでく走りをすることにした。バトルもタイムアタックも花粉の影響も何もない。ただ、毅はいて、車がある。だから俺は、今、ここにいる。
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