ふざけた奴ら:石井一幸



 梅雨の間のわずかな晴れ間がもたらされた日だった。俺はその時中学時代の友人の車の助手席に乗っていた。その友人は明るく人当たりは良いが注意散漫な男で、車の運転手としてはいささか資質に欠けると言えた。しかし運転免許証が彼に発行されている以上、その資質について俺が云々するのは適切ではないと思われたし、それ以外に関しては彼は友人として何の資質も欠かしていない男だったから、彼の車に同乗することに俺は不満も持たなかった。
 俺は彼と中学生の時からずっと友人関係にあった。休みが合えば朝からスーパーへ一緒に行くことも不思議には思わない関係だ。それはいわば共同戦線だった。彼は祖父母両親兄姉弟妹八人からなる家族の中で買い物役を担っていて、俺は一人暮らしで堅実な生活を営んでいて、行きつけのスーパーは同じだった。町内の安いながらも質は良好なことで有名なスーパー。売り出しが行われる木曜の朝九時半、俺は友人の運転する車(彼の所有車はホンダのオデッセイだった)に同乗し、友人と特売品やラジオの話に花を咲かせながら、そこへ向かった。スーパーの駐車場には大量の車が既に並んでいた。彼は慎重に店の入り口に近い空きスペースに車を駐車させた。そのくらいの運転技術は彼にも備わっていて、俺もその点については心配していなかった。俺と彼はそれぞれ買うべきもののメモを片手に持ち、スーパーに突入した。幸い数量限定品は売り切れになる前にカゴに入れられ、お一人様お一つ限りの品もお互いのために二つ入手できた。レジの長い待ち時間を消化して会計を済ませ、購入品の袋詰めも済ますと、俺と彼の間で充実した疲れと安らぎと嬉しさが共有された。戦闘に無血勝利した際にはきっとこのように清々しい気持ちになるのだろうと俺は思った。不備のない買い物を終えることは、誰の血も流されない勝利だ。
 大量の購入品に溢れたカートを押して駐車場に行き、偶然空いていた左の駐車スペースから車に荷物を積み込んで、俺の友人がカートを店内に戻しに行き、俺は彼のオデッセイの助手席に座って彼の帰りを待ちながら、良い買い物だったと振り返った。卵も野菜も肉も魚も安かったし、トイレットペーパーも沢山買えた。俺は満足していて、安心しきって、自分の座っている助手席のウィンドウの外をぼんやりと見ていた。空いている左の駐車スペース。そこに車が入ってきた。まだ多くの車が出たり入ったり行ったり来たりする入口近く、その車はたった一つ空いているそのスペース、俺の中学時代の友人のオデッセイの左のスペースに、素早く、たった一度も切り返すことなく、タイヤを真っ直ぐに駐車した。惚れ惚れするほど見事な駐車技術だった。俺はその赤いホンダのシビック(EG−6)が俺の友人のオデッセイの前をちょっと通り過ぎ、そこからバックに入って俺の友人のオデッセイの左側に駐車するまでの動きの一部始終をじっと見ていたが、そのシビックの動きから一つの無駄も見つけることができなかった。こんなに駐車のうまい運転手とはどういう人間だろうかと俺は思った。いわゆる車を転がすことを趣味とする人間だろうか。俺は友人のオデッセイのウィンドウとそのシビックのウィンドウ越しに見えるシビックの運転手の顔を見た。シビックの運転手は茶髪の男で、青いTシャツを着ていて、運転席で煙草を吸っていた。煙草はまだ長いようだった。シビックのエンジンは止められておらず、その運転手にはそれを吸い終わるまでシビックの運転席から出ることなど考えていないような気だるげな雰囲気があった。俺はその運転手を眺めながら、とても不思議な気分を味わっていた。例えば白い兎とF−15戦闘機が同時に目の前にあって、それをどういう風に受け止めるべきか迷うような、そんな感じだ。俺にとってその赤いシビックとその運転手とは、兎と戦闘機のようにまとまりのつかないものに受け取られた。なぜなら俺はその運転手のことを多少、知っていたからだ。
 その時、俺の友人がオデッセイの運転席に戻ってきた。彼はとても幸せそうだった。嬉しそうで楽しそうだった。彼の明るく人当たりの良い面が俺にのみ発揮されていた。俺は人の長所が発揮される瞬間に立ち合うと、短所を思い浮かべずにはいられない性格をしていたので、その瞬間、嫌な予感を感じたことを白状する。しかし彼はやはり明るく人当たりが良く、友人としては何の資質も欠かしていない男だったから、俺は何も言わなかった。何か言うべきだったかもしれないが、実際何を言う暇もありはしなかった。彼は運転席に戻ってすぐに、今日の戦果を楽しげに語りながらシートベルトを締め、車のエンジンをかけ、周囲を確認することなくすぐに発車し、すぐに左にいる赤いシビックの右のヘッドライトのあたりに左のフロント部分をがつりとぶつけた。俺の嫌な予感は的中した。彼は車を運転するにはいささか資質に欠ける、注意散漫な男だった。
 慌てた彼は発進した時と同様の過程を踏んで元通りに駐車したが(そのくらいの運転技術は彼にも備わっていたのだ)、彼のオデッセイと左のシビックに生じた傷は確かに彼がそこまでオデッセイを進ませたことを証明していた。彼は買い物の勝利を忘れるほどに慌てた。俺はそんな彼がシビックの運転手と会話をすることはとても非効率だと感じたので、俺がシビックの運転手と話すことを提案した。彼はぜひともそうしてくれと頭を下げた。俺は了解して、助手席から降りた。シビックの運転手はまだ運転席で気だるそうに煙草を吸いながら、しかし俺を見ていた。俺は膝を折ってそのウィンドウと同じ位置まで頭を下げ、それを傷つけないように優しくノックした。ウィンドウはすぐに降り、シビックの運転手の顔が生々しさをもって俺の前に現れた。茶色に染められた髪は前髪だけ頬の前まで伸びていて陰鬱な印象を与え、お世辞にも美形とは言えない顔にはどこか愛嬌があったが、人の恐怖心を無条件に呼び起こす刃物のような鋭さもあった。その髪と顔が合わさると、初対面だったら積極的に声をかけることはためらわれるような男ができ上がる。俺はそのシビックの運転手を知っていたから、声をかけることはためらわなかったが。
 シビックの運転手は俺が声をかけてすぐ、面倒くさそうに、端的に金額のみを口にした。それは俺が想定した修繕費としてはいささか多いものだったので、俺は俺が思う妥当な金額では駄目だろうかと尋ねた。シビックの運転手はそれを聞いて、うさんくさそうに俺の顔を見た。俺はシビックの運転手の顔をじっと見た。やがてシビックの運転手は煙草を灰皿に入れ、つまらなそうに口の片方を小さく上げて、小さくうなずいた。交渉は成立した。俺はその場で自分の財布から札を出し(まだ慌ててるだろう俺の友人に金を出させるにはちょっと時間がかかりそうだった)、シビックの運転手に渡した。シビックの運転手は興味もなさそうにそれを受け取った。そのままウィンドウが上げられて、シビックの運転手の顔がその先に消えるのを俺は見ようとした。しかしウィンドウは上がらず、代わりにシビックの運転手の声が上がった。
「石井さんでしょう」
 シビックの運転手は相変わらずつまらなそうに俺を見ながらそう言った。石井とは俺の苗字だった。つまり俺のことだった。シビックの運転手は俺を知っていた。俺は驚いた。とても驚いた。俺は一目見た瞬間そのシビックの運転手が俺の高校時代の後輩の庄司慎吾だと気付いたが、それは俺が庄司のことをよく覚えていたからだ。まさか庄司が俺に気付くほど俺のことを覚えているとは、想像もしない出来事だった。庄司にとって俺なんて、時刻のずれている時計ほどの価値もないものだと俺は思っていた。存在意義を失ったただ電池で動いているものにすら及ばないほどの。
「覚えてたのか、庄司」、驚きながら俺はようやくそれだけを言えた。
「先輩ですからね。一応は」
 やはりつまらなそうに、尊敬を感じさせない調子で庄司は言った。ああ変わらないなと俺は思った。髪は短めの落ち着いた茶色になっていて顔も前よりは精悍になっていたが、庄司の醸し出す息をすることすら面倒そうな雰囲気は、高校時代に俺が感じたものとまったく変わりがなかった。もうあれから六年も経っているというのに。庄司は赤いシビックを運転しているから免許を持っているのだろう。俺も免許も自分の車も持っている。あれから六年も経っていた。
「車、乗るんだな」、俺は運転席に座る庄司を見ながら呟いた。俺が見る限りそのシビックは普通の人間が乗るにはいささか手が入れられ過ぎているようだった。シート、ステアリング、メーター。俺が自分の車をたまに持ち込む工場でよく見かける種類の、目的意識を埋め込まれた車。
「ただの趣味ですよ」、庄司は丁寧に言った。その丁寧さはよそよそしい冷たさを含んでいたが、誰か個人を特別に拒絶するようなにおいもなかった。
「どこかで走ってるのか」
 俺は庄司と車という組み合わせを目の前にして、不思議な気分を味わった。それは俺にとって庄司慎吾と車という組み合わせが、兎と戦闘機のようにまとまりのつかないものだったからだ。俺は庄司が車を趣味にするような男だと知らなかった。車を『走らせる』趣味を持つような男だとは。俺はその時庄司のことをほとんど何も知らなかった。だからとても不思議な心持だった。その不思議さを口に出さずにはいられないほどだった。
「妙義山でね」
 庄司は俺の問いに答えたが、やはりつまらなそうだった。どんな趣味も庄司にとっては面白さではなく義務によって行われるんじゃないかと思えるような態度だった。そして庄司はシビックのウィンドウを上げた。梅雨の間のわずかな晴れ間がもたらされた日、そのようにして俺は庄司慎吾との再会を終えた。



 六年前の俺は高校三年生で、バスケットボール部に入っていた。その年の春のことだ。始業式と入学式の翌日、体育館はバスケ部のみが利用できた。その時までバスケ部は県大会でも上位に進む実力があって、待遇は悪くなかった。
 体育館にはよそよそしい冷えた空気が流れていた。そこで部活はじめの前に、既存部員と新入部員の顔合わせが行われた。既存部員は練習着に身を包んでいて、新入部員は制服(地味な紺のブレザー)のままだった。部のキャプテン(原始的な顔立ちだが格好良くはあった)は彼らを横に並ばせると、キャプテンとしての通りいっぺんの挨拶をして、彼らに自己紹介を要求した。名前、出身校、年齢、身長、体重、経験ポジション、希望ポジション。その時点で、『それ』は始まっていた。キャプテンはにやにやと彼らを見下ろし(彼は身長が187cmで、彼より大きい部員は彼の在籍中一人も現れなかった)、他の三年生も何か秘密を共有するににやにやと笑んでいた。俺はああ今年も同じだなと思った。何も変わらない、いつも通りの春。俺以外の三年生が好き好きな体勢でにやにやしている間、二年生はその後ろで直立不動でいなければならなかった。二年生はキャプテンの許しが与えられるまで、自由な行動を封じられる立場にあった。その当時のバスケ部で、それより下の立場となるのが新入部員だった。だから新入部員はキャプテンから挨拶の声が小さいと言われたら、どれだけ声を張り上げていようがそれより更に大きな声を上げなければならないし、身長をごまかしていると言われたら事実を述べていようが嘘を吐いていたと嘘を吐かなければならなかった。『それ』は始まっていた。世間一般の常識も道徳も通用しない、理不尽な世界の始まりだ。
 俺が一年生の時からそれまで、そこは理不尽な世界であり続けた。どの時代のキャプテンも揃ったように部に欠かしがたい高い技量と頭脳を持った良いプレイヤーで、我の強い横暴な支配者だった。試合中にはそれが奇跡的なほどポジティブに作用したが、普段の部活動ではこの上なくネガティブに作用した。その顔合わせでもそうだった。体育館全体に響くほどの声を上げながら、声が小さいと頬を叩かれる一年生、体重を少なく言ったと脛を蹴られる一年生、ポジションを希望するなんて何様だと横暴に頭を殴られる一年生。いつも通りの理不尽な世界だった。それはもはや日常で、日常というものは当事者が変えようとしない限り永遠に変わりはしないとその時の俺は根拠もなく信じていた。その日、一日もいなかった新入部員の庄司がそれを変えてしまうまでは。

 庄司は新入部員の中で一番右端に立っていた。自己紹介は左端から始まっていたから庄司はとりを務めることになったが、良くも悪くもそれに相応しい雰囲気を持っていた。他の新入部員は丸刈りや短髪がほとんどで、長くてもうなじが隠れる程度の量、染めていても光の加減で明るく見える程度の茶色がせいぜいだった。だが庄司ときたら、肩までかかるほど髪を伸ばしていた上に、真ん中で分けたそれをすべて金に抜いていたのだ。それだけでも庄司は他の新入部員とはまったく異なる惑星から来たような、異様な雰囲気を漂わせていた。その上制服のブレザーのボタンは留めずシャツは裾を出していてだらしなく、佇まいは呼吸をしていることすら面倒そうなほど気だるげで、何でこいつはここにいるんだろうかと俺は不思議に思った。こいつはバスケなんてしたくないんじゃないのか。何もしたくないんじゃないのか。それなのに、何でここにいるんだろうか。実際庄司は自己紹介で名前しか言わなかった。その庄司の何のやる気も窺えないことだけは明確な態度は、冷えた体育館の中、キャプテンが支配する理不尽な世界に何の価値もないと言っているようだった。
 キャプテンは、権力を振るえる喜びを噛み締めるためか、自分の世界を揺るがされる恐れを押し込めるためにか、ゆっくりと庄司に詰め寄っていった。俺はそれをただ眺めていた。俺の立っている位置からは庄司の顔がよく見えた。庄司はキャプテンに見下ろされながら(庄司はキャプテンよりも頭半分ほど背が低かった)、まず自己紹介の不備を指摘された。名前以外もすべて言えとキャプテンは庄司に命令した。これはキャプテン命令だと。
「時間の無駄でしょう」
 庄司の態度は気だるげだが、庄司の顔には何の感情も浮かんでいなかった。庄司が何を考えてそれを言ったのか、俺には全然分からなかった。態度は面倒そうなのに、声は平坦で、顔も平坦だった。キャプテンは多分笑っただろう。笑いながら他人に手を出す男だった。キャプテンの手が庄司の頬に飛んだ。庄司の金色の長い髪が、絹糸みたいにはらはらと舞った。綺麗だなと俺は思った。庄司の顔はその当時から綺麗なものではなかったが、頬をぶたれた庄司の乱れた金髪は、現実だとは思えないほど綺麗だった。
 しかしそれは現実だった。口答えするな、とキャプテンが怒鳴る間に、庄司は面倒そうに頭を振って髪を真ん中から分かれるように調節していた。そうしないと視界の邪魔になりそうな髪の量だった。庄司は今度は何も言わなかった。するとキャプテンは庄司の胸を押して、自己紹介をやり直せと言った。庄司は遠い目をしていた。身長差の関係でその目はキャプテンの顎先あたりにあったが、その目はキャプテンの顎なんかじゃなく、もっと遠くて深いものを見ているようだった。そして庄司はやはり黙っていた。キャプテンは焦れたように、庄司の金色の髪を掴み顔を上げさせたが、その目が上がることはなかった。
「自己紹介をしろ、庄司」、とキャプテンは脅しつけるように言った。「しないと、今すぐに君を、バスケットボールとして使ってやるぞ」
 庄司はそこで、ようやくキャプテンを見た。その目を俺は今でも覚えている。理不尽さなど存在しない世界の中から射出された光のように、鋭く輝いたその目を。
「人をバスケットボールにするしかねえくらい」、庄司はそれまでとは打って変わって張りのある、意欲に満ちた声を出した。「あんたのボールは小さいんだろうな」
 日本の男子高校生のどれほどがボールと睾丸を直結できるのか俺には分からないが、少なくともその時ただちにその下品な冗談を理解できたのは、俺と二、三年生の数名だけだった。そしてそれにはキャプテンも含まれていた。庄司はすぐに掴まれた髪を引っ張られそのまま床に投げられた。庄司は床に倒れ込み、すぐに立ち上がって、しかしキャプテンの方は向かず、キャプテンとは反対側に歩いて行った。そちらには閉められた体育館と廊下を隔てるドアがあった。
「まだ話は終わってないぞ、庄司!」、キャプテンはいつものように変に丁寧な口調で叫んだ。「今すぐ君がこっちに来ないと、他の連中が痛い目を見ることになる」
 庄司はそこで歩みを止め、少し首を傾げてから、思い出したように振り向いた。そしてまた俺は見た。理不尽さなど殺してしまいそうに鋭く輝いた庄司の目を。
「なら、勝負しましょう」、そして庄司は思い出したように言った。「俺が負ければ話を聞きますよ、キャプテン。じっくり、ゆっくりね」

 その瞬間、俺は庄司のやろうとしていることをぞっとするほど恐ろしく感じたが、一瞬で鋭い輝きを失った庄司の目が何もしたくなさそうな暗い色を取り戻すと、どうして自分がそんなに恐ろしく感じたのか、庄司が何をやろうとしていると感じたのか、まったく分からなくなってしまった。その時の俺に分かったのは、キャプテンにしてみれば庄司の提案は渡りに船だということくらいだった。歴代のキャプテンにいくら虐げられようとも、彼らを辞めさせようとする人間が一人も現れなかったのは、彼らが部にとって欠かしがたい強いプレイヤーだと部員のほとんどが認識していたからだ。顧問ですらそうだった。大人や上級生や同級生でも手を出さない、出せないものを、下級生がどうにかするなんてことは、とても考えられない事態だった。特にキャプテンは、自分の予想しか信じない傲慢な支配者で、県内でも有数のプレイヤーだった。たかが新入部員一人、それもやる気がまったく窺えない一年生に、そんな優れたプレイヤーが負ける可能性は、他の部員は勿論、当のキャプテンの頭にも少しもなかっただろう。彼はただおあつらえ向きの『勝負』で、庄司を思うがままにやり込めることしか考えていなかったはずだ。
 自己紹介は終わり、その後に庄司とキャプテンの1on1が組まれた。ハーフコートで三回勝負、攻め手は庄司、ゴールに入れたらそれで勝ち。ウォーミングアップの時間がとられ、庄司はじっくりとストレッチを行っていた。じっくり、ゆっくりと、自分の世界を確かめるように繊細に庄司は筋肉や関節をほぐしていた。制服に上履き姿でも(さすがにブレザーは脱いでいたが)、庄司はバスケをやる気でいるように俺には見えた。何もやる気のない人間がやるには、そのストレッチはあまりに丁寧で合理的だった。俺は先にストレッチを終えたキャプテンに審判役を命じられるまで、そんな風にストレッチをする庄司を何となく眺めていた。そしてふと、もしかしたらこいつは勝つんじゃないだろうか、と現実味もなく思った。
 分かってるよな石井、と笑顔でキャプテンは俺に言った。それはキャプテンの有利になるようにジャッジしろという言外の命令だった。俺はただうなずいた。俺はキャプテンをプレイヤーとしてはともかく、キャプテンとしても人間としても尊敬や畏怖をしていなかったが、彼の命令に逆らうほどの正義への情熱を持ちはしていなかったし、話の流れとしてはキャプテンが勝とうが負けようが誰かが重大に汚されることもなさそうだった。だから俺は『勝負』の間、庄司に不利なジャッジをした。だがそれはジャッジが必要なほど長いゲームにはならなかった。一回目も二回目も庄司はキャプテンに突っ込んで跳ね返されて終わっていた。床に倒れ込んだ庄司はすっかりやる気をなくしてしまったように、だらだらと手足を動かし立ち上がる。誰もが三回目を見る意欲も失っていただろう。体育館の舞台に座る三年生たちは寝そべっていて、床に座る二年生や新入部員の間でもひそひそ喋りが増えていた。俺は審判役だから、意欲とは関係なくそのゲームを見る必要があった。キャプテンの軽やかなフットワークも庄司の緩慢な割に正確なシュートフォームもそれがキャプテンのブロックによって弾かれる様も、逃さず見ていた。だが必要がなくても俺は庄司のプレーは見ていたかもしれない。ストレッチをする庄司を必要がなくても眺めていたように。
 ともかく三回目は冗長に始まった。しかし終わりは劇的だった。庄司はそれまでと打って変わってボールを持った瞬間から鋭い切り込みを見せた。それはキャプテンを慌てさせるほどの速度をもったドライブインだった。ブロックに跳んだキャプテンを庄司はテンポを遅らせてかわし、ゴールを決め、キャプテンの上に着地した。俺はその一部始終を逃さず見ていた。レイアップの後にバランスを崩した庄司がキャプテンの体を上から潰すのも、先に倒れたキャプテンの上に落下していった庄司が一瞬、とても楽しそうな笑みを浮かべたのも。そこで俺は、すべてを理解した。俺が庄司の何を恐ろしく感じたのか、庄司が何をやろうとしていたのか。庄司はキャプテンに勝つつもりで、その『勝負』を持ちかけたのだ。それも、キャプテンを壊して勝つために。俺はキャプテンに向けられた庄司の鋭く輝く目を見た瞬間、無意識にそれを予感していた。キャプテンが庄司に壊されることを、そして、庄司がそれをいとも簡単に成し遂げてしまうほど残酷で、情熱的な男だということを。
 庄司に潰されたキャプテンは、体育館の床の上で足を抱えてこの世の終わりの只中にいるように痛々しく悶えていた。庄司は片膝を立てて座り、面倒そうに顔をしかめていた。結局キャプテンは足首を骨折していて全治三ヶ月、庄司は足首の捻挫で二週間後に廊下ですれ違った時にはもう普通に歩いていた。



 その日も朝から雨が降っていた。梅雨時の衣料品売り場は閑散とまではいかないが、客足は鈍くなる。低価格低品質薄利多売ではなく、低価格高品質高利多売のビジネスモデルが登場した昨今、この先百貨店は老舗ブランドに胡坐を掻いてもいられなくなるのかもしれないが、新人に毛が生えた程度のひよっこ社員である俺ごときが経営云々を言えるものでもない。労働時間内では自分の能力が許す範囲で会社の売り上げに貢献するだけだった。
 夜、俺は小降りながらも止まない雨が薄暗く陰気にしている街へ飲みに行くという先輩社員の足となり(俺が従兄弟から買ったブラックのプレリュードは当然クーペで、後部座席に乗った先輩は窮屈そうに身を縮めながら狭い狭いと言い続けていた)、酒の席で酒を飲まずに二時間ばかりお供して、次の店まで送り届けてから、妙義山に車を向けた。
 先週唯一太陽が姿を見せたあの日、俺が庄司に再会してから四日が経っていた。その四日間、俺は高校時代の庄司のことをよく思い出した。自分で意外に思うくらい、俺は庄司のことを覚えていた。昇降口の下駄箱から気だるそうに上履きを取り出す庄司、膝をほとんど上げずに廊下をゆらゆら歩く庄司。集会で一際目立った長い金髪。横を通る俺に決して向けられることのなかった濁った目。そういえば、その当時の俺は庄司を見つけると、目を凝らさずにはいられなかったのだ。俺が持続を疑いもしていなかった日常をいとも簡単に壊した庄司が、次に何を壊そうとするのか、あるいは何にキャプテンの不在を演出したあの情熱をぶつけるのか、俺は気にせずにはいられなかった。しかし当時の俺は何かに興味を抱いてもそれを積極的な行動に繋げるまでの意欲をまだ育てられていなかったから、庄司の動向について他の生徒から情報を得ることはなかったし、庄司自身にコンタクトを取ることもなかった。そして俺は卒業するまで、庄司に見返されることも、庄司と接触を持つこともなかった。
 どうして庄司は俺を覚えていたんだろうか。プレリュードのハンドルを握りながら、俺は庄司のことを思い出す度に感じた疑問を繰り返し思った。俺のことなんて、あいつは目にも入れてなかったはずなのに。その疑問が、脳裏に蘇り続ける綺麗な金髪が、残酷で情熱的な光を帯びた目が、俺を妙義山に駆り立てていた。
 正直なところ、その手の(車を速く、巧く走らせる)目的意識を持った人種が雨の夜の山にどのくらいいるものなのか、俺にはちょっと想像がつかなかった。庄司がそこへ行くのかどうかも。想像がつかなかったから、俺はプレリュードを躊躇せずにそこへと向けていたのかもしれない。どちらに転ぶか分からないことを、今の俺は進んで楽しめるようになっているのだ。
 雨はごく弱い霧雨になっていた。山の駐車場は何台かある車のヘッドライトが照らす部分だけ霞んで見えた。外には何人か立っていたが、誰も傘を差してはいなかった。俺も差さなかった。持ってきてもいなかった。湿った新聞紙のような夜だった。車をライン通りに停めて降りた俺は、一番近くにいる何人かの方へと歩み寄った。三人の男の中、果たして庄司はそこにいた。斜めに停められた赤いシビックの横で、オレンジのTシャツとカーキのカーゴパンツを着て、霧雨を受ける面積を減らそうとするかのように、猫背がちに立っていた。
「石井さん?」
 三歩前まで来た俺を見て、驚いたように庄司は言った。俺からはライトに照らされた庄司たちの姿はよく見えていたが、彼らからは雨と暗闇に紛れた俺の姿はよく見えなかったようだ。
「やあ」、俺は片手を挙げて、普段の知り合いにそうするように当たり障りなく庄司に笑いかけた。庄司は顔をしかめて口を半開きにした。驚きながら不審がっているような表情だった。
「どうしたんですか、こんなとこで」、不審の方が強い声で、庄司が言う。
「どうってことでもないよ」、俺は肩をすくめた。そう、どうってこともない。「ただ、庄司がここに来てるのかどうか、気になってな」
「俺が?」
 庄司は今度は驚きの方が強い声で言った。俺が庄司を気にしてここに来ることは、庄司にとって意外なことでしかないのかもしれない。スーパーの駐車場で隣に庄司が現れた時、俺がそう感じたように。
「後輩だからさ。一応」
 俺はほんの少しだけ得意に笑いながら言った。庄司は納得したようなしていないような、複雑な顔になった。ああ、こいつはこういう顔もできるんだなと俺は思った。あの頃、高一の庄司はこの世に驚くに値することなんて一つもないと言わんばかりに、いつでもよく整備された高速道路のような平坦な顔をしていた。それが何らかの外的要因で破壊されることすら決してないと言わんばかりでもあった。
「まあ、そうですね」、複雑な顔のまま、庄司が言った。
「知り合いか?」
 その疑問を発したのは庄司の奥にいる、白いのタンクトップに迷彩柄のハーフパンツを身につけた、山よりも海にいるのが似合ってそうな色黒の男だった。短い黒髪の下にある顔は幅広で、下がった目じりや大きめの口やまばらな顎ひげに、人好きのする要素を持っている。
「高校の先輩だよ」、庄司は彼に、渋々という調子で言った。「俺が一年の時、三年だった」
「へえ」、と彼は興味深そうに俺を見た。その目つきには観察者の片鱗が窺えた。雰囲気は気さくだが、用心深い人間なのだろう。
「石井一幸です。よろしく」
 俺は彼に手を差し出した。彼は平凡な眉を上げてにこりと笑うと、俺の手を握り返した。
「俺はアズマ、東栄治」、そう言って手を放し、その手でぞんざいに庄司を示す。「こいつの中学の先輩でね。先輩扱いされてねえけどさ」
「先輩らしいこともしてねえからだろ」
 庄司は東栄治を見もせず毒々しく言い放った。なら俺はどうなのだろうと俺は不思議になった。俺は庄司に先輩らしいことを何かしたから、一応の先輩として見られているのだろうか。だが俺には庄司に先輩らしいことをした覚えなど一つもない。
「お前なあ」、東栄治が不愉快さを隠さない目で庄司を見る。「あっつい日にアイス奢ってやったりした恩を忘れたか」
「財布忘れて後輩に奢らせた、の間違いじゃねえか」
「……そうだっけ?」
 気まずそうに首を傾げる東栄治とそんな彼を軽蔑を隠さない目で見る庄司をぼんやりと眺めるうちに、俺の目は東栄治の横にいる、俺と同じような格好のYシャツとダークグレーのスラックスを着た男を捉えていた。俺よりは背が高く、鋭く骨張った顔に縁なしの眼鏡をかけている。年代としては俺の担当売場の主任(三十四歳で、体育会系の威勢の良さを誇っている)と同じ程度に見えた。ただ主任よりは姿も雰囲気もスマートで、国会議事堂が似合いそうだった。
「桐原だ」
 彼は俺と目が合うと、先に名乗って手を差し出してきた。角の多い顔つきからは想像できない、清流のように透きとおった声をしていた。
「どうも、石井です」
 俺は彼の綺麗さには及ばない、地味だが通りだけは良い声で名乗り、桐原氏の手を握った。桐原氏はししおどしが落ちるように一度きっちりと頷くと、握り返した俺の手を最適のタイミングで放した。
「ところで」、彼が俺の後ろを尖った顎で示す。「あのプレリュードは君の車なのか」
 桐原氏にそう言われ、俺は急に高校の体育館を思い出した。滑ると熱く肌を焼いた床、古い木と汗と埃の匂い、ぐずぐずと点くのをためらっている天井のライト、降りてくるバスケットゴール。それはキャプテン(あの理不尽な世界の為政者)を壊した庄司がいるこの場で、桐原氏がキャプテンのように俺を『君』と呼んだせいかもしれないが、ともかく俺は急にふわふわとした感じに襲われた。俺の今と昔はカフェオレのように混ざり合い、黒も白もなくなって薄茶色の一つの液体になってしまう。だがそれは錯覚だ。俺は振り返り、俺の車を見た。暗い山の駐車場でドライバーの帰りをひっそりと待つブラックのプレリュード。今の俺が所有することを決めた車。
「ええ」、俺は桐原氏に向き直り、頷いた。「従兄弟からの貰い物で」
「良い車だ」、桐原氏は俺よりも遥かに正確に一度頷く。「当時のトレンドを反映しながら、ホンダらしさも失っていない」
「最初は乗りにくかったんですけどね」、それらが何かを聞かなければならないほど俺も知識がないわけではなかったが、それらについての持論を展開できるほどの知識があるわけでもなかったから、俺は余計なことは言わず、自分の話を続けた。「クセがあって」
「クセ?」、東栄治が不思議そうに言った。
「あのプレリュードは機械式の4WSだからな」
 桐原氏が綺麗な声で言い、俺は驚いた。今まで俺が説明する前にそのシステムを言ってしまえる人なんていなかった。車を趣味とする人種は知識も豊富だろうから、それは驚くべきことでもないのかもしれない。そもそも桐原氏はこの暗さで遠くに停めた俺の車がプレリュードだと識別した人だ。そう、彼はそれすらも分かっていた。分かってもらうために言おうとしたことを、言う前に誰かに分かってもらっている、それは不思議な感覚だった。体のあちこちに引っかかっている得体の知れない何かが一瞬で解かれてしまったような、長年持ち続けてきた不定愁訴が一瞬で寛解されたような、すうっとした感覚。その時俺は、生まれて初めて味わうその感覚に、驚かざるを得なかったのだ。
「機械式ってハイキャスとは違うのか?」、東栄治は不思議そうに首をひねった。彼は桐原氏よりも知識に劣るのかもしれなかった。
「ハイキャスが何か分かってりゃあ」、庄司はカーゴパンツから煙草を取り出し緩慢に火を点けた。エコーだった。「そんな質問出てこねえよな」
「慎吾君、少しは俺にも敬語を使ったらいかがかね?」
「必要に迫られたらな」
 退屈そうに煙を吐き出す庄司を見て、東栄治はやれやれといった具合に大げさに肩をすくめた。桐原氏は二人を気にもせず眼鏡を外し、その水滴をグレーのハンカチで拭っていた(眼鏡のない桐原氏の顔には、微笑のないモナリザのような違和感があった)。それを新たに湿らせるほどの勢いも雨にはなく、庄司にも桐原氏にも会話を続ける勢いもないようだった。二人の沈黙を受けた東栄治は俺を見た。といっても彼は俺を積極的に見ようとしたわけではなく、目を動かした先に偶然俺がいたというだけなのだろうが、俺は何だか彼に積極的に見られたように感じ、そう感じた以上は彼の疑問に自分で答えたくなった。
「ハンドルの回りが、そのまま後輪の回りに直結するんですよ。小さければ同じ、大きければ逆。だから慣れるまで車の多い駐車場は避けてましたね。人の車にぶつけたら大変ですから」
 俺にプレリュードの売買を持ちかけてきた従兄弟(伯母の息子で車よりも女性に愛を注がずにはいられない男だった)から何度説明されても、俺は実際に運転するまで教習車とは違うその位相変化の性質を理解することはできなかった。
「あーそうか」、東栄治はぱちんと胸の前で両手を叩いた。「切りまくると逆に膨らむのか」
 東栄治は経験を知識に変換できるらしかった。そしてそんな彼もまた俺に、あのすうっとした感覚をもたらした。今度は驚きがほとんどない代わりに、楽しさがあった。話す楽しさだ。ただ車について、言わなくても分かり合えるものについて、それでも分からないことを話す楽しさ。俺はそれに身を任せることにした。
「何もないところだとその場で回れるんで、面白いですけどね。全体的に小回り利きますし、車線変更も楽だし」
「四輪操舵も良し悪しだよな」、東栄治が軽々しく笑う。「俺は嫌いじゃねえけど」
「技術というのはそういうものだ」、眼鏡をかけ直した桐原氏が言い、進学塾の講師のように手を振るった。「一長一短。どれだけ革新的な技術であっても、すべての欠陥をカバーできるわけじゃない。いかに相互に短所を補い長所をならすか、あるいはどの短所を妥協して長所を引き立てるか、そういったコンセプトが明確にされてこそ、初めて技術は生きてくる。コンセプトの曖昧な車、ぶれている車が総じてゴミになることは歴史が証明しているからな」
 桐原氏はその時具体例を明言しなかったが、その後東栄治と庄司が挙げたコンセプトに問題のある車については深い薀蓄を語った。彼の頭の中にはゴミとなった車がずらりと並んでいて、それらがゴミになった理由がそのボンネットにでも刻印されていそうだった。俺は彼らの理論と感情が無作為に入り混じった話を聞きながら、思いついた意見や質問を出し、桐原氏の正確な頷きや庄司の気だるげな相槌や東栄治の気さくな笑いをもらった。何か建設的な話があったわけではない。創造的な話があったわけではない。しかしその会話は俺にとって時間の経過を感じさせない、とても充実したものだった。いつの間にか霧雨は消えていたが、それがいつ消えていたのか分からなかったほどだった。
「止んだな」、桐原氏が空を見上げて言った。それで俺は雨の止んだことに気付いた。
「ホントだ」、東栄治も空を見上げ、思い出したように言った。「じゃあ俺帰るかな、もう時間ねえし」
「庄司」、顔を戻した桐原氏は、それを庄司へ向けた。「俺も帰る。毅が来たらよろしく伝えておいてくれ」
「分かりました」、庄司は緩く頷いた。「お気をつけて」
「俺からもよろしく言っとけよ、慎吾」、東栄治は庄司にそう言ったが、庄司は彼を興味なさげに一瞥しただけだった。東栄治は再びやれやれといった具合に大げさに肩をすくめ(彼はそういうブラジル人のような大げさなジェスチャーがよく似合っていた)、俺を見て色黒の顔に人の良い笑みを浮かべた。
「またな、石井」
「ええ、また」
 いつもなら社交辞令にしかならないその言葉を、俺は心のままに口にしていた。あるかどうか分からない『また』を期待して。東栄治は笑いながら頷くと少し歩き、近くに停められていたシルバーの車に乗り込んだ。
「そうだ、石井」
 東栄治の後ろに続きかけた桐原氏が、思い出したように、だが几帳面な動きで俺を向いた。
「車に興味があるなら是非ナイトキッズに入ると良い。ホンダ乗りが増えることは大歓迎だ」
 俺は何とも言えなかった。『ナイトキッズ』というのが何なのかよく分からなかったし、桐原氏の几帳面な顔を見るとそれについて社交辞令や適当なことを言ってはいけないような気がした。だが桐原氏はそれを言うとまた満足げに正確に頷いて離れていってしまったから、最初から俺の返答なんて必要ともしていなかったのかもしれない。桐原氏は東栄治の乗ったシルバーの車の近くに停められていた白い車に乗り込んだ(大衆車を見てばかりの俺には彼らのスポーティな車が何なのか、十メートルもない距離からでも見分けることはできなかった)。彼らは縦に並んで山の駐車場から出ていった。清流のように綺麗な運転だった。そして俺は庄司と二人きりになった。

 湿った新聞紙のような夜だった。こんな夜に妙義山で庄司と二人きりになる状況を、俺は想像したこともなかった。しようとしても、できなかっただろう。それくらい、今までの俺の生活からはかけ離れた状況だった。だが不思議と居心地の悪さは感じなかった。俺には何の不安も恐怖もなかった。あるのは期待だったかもしれない。あるかどうか分からない、すべてのことへの期待だ。
「スマートな人だな、桐原さんって」
 俺が感想を言うと、桐原氏と東栄治の車が消えた道の先をぼうっとした風に眺めていた庄司は、意外そうに俺を見てきて、首の筋を伸ばすように顔を斜めにした。
「あの人はまあ、チームでも一番変わってますよ」
「チーム?」、何かと思い俺は言った。すると庄司はなぜか怯んだ表情になった。食べようとしてたパンに、蝿がとまりでもしたかのように。
「走り屋の」、その表情のまま庄司は言った。
「走り屋」、俺は庄司の言葉を繰り返した。走り屋。車を速く、巧く走らせる目的意識を持った人種。俺がスーパーの駐車場で見た庄司の赤いシビックはそういう人種が乗りそうに整備されていた。なら『ナイトキッズ』はそういう人種の集まるチームなのだろう。そこには桐原氏がいて東栄治がいて、庄司がいる。
「石井さんは、そうじゃないでしょう」
 俺から目を逸らした庄司は、水分の含まれた長い前髪を鬱陶しげにかき上げて、歯に違和感でもあるように口をあまり動かさずにぼそぼそとそう言った。それは怯んでいるというより、何か居心地の悪そうな表情に見えた。確かに俺はそうではない。俺は車をいじるのが好きだが、特別それを速くしたいとも特別快適にしたいとも特別個性的にしたいとも思わない。俺が好きなのは運転することでもいわゆるチューンすることでもなく、車の各部分をちょっとずつ調整したり色んなパーツをつけたり外したり、そういう特に深い意味もない細かい作業を繰り返すことだった。だから俺はそうではない。俺は走り屋ではないし、俺がこの先そうなることもないだろう。俺たちは同じ人種にはならないだろう。走り屋である庄司には、きっとそれも明々白々なのだ。それを庄司はどうして居心地悪そうになってまで、俺に言わなければならないのだろうか。庄司にとって俺はパンにとまった蝿(追い払っても汚した足跡を残すもの)なのだろうか、それとも蝿のとまったパン(食べるか捨てるか迷うもの)なのだろうか。どちらなのかは分からないが、俺はここで自分から離れてやろうという気にもならなかった。居心地の悪そうな庄司を見るのは興味深かったし、何より俺の疑問はまだ解決していなかった。
「なあ庄司」、俺は何も言われなかったような振りをして、庄司に尋ねた。「何で俺のこと、覚えてたんだ? 俺はお前と話したこともなかったのに」
 庄司はまだ居心地悪そうに、そして何か苛立たしげに俺を見て、今度は口をはっきりと動かした。
「何で、誰にも言わなかったんですか」
「ん?」
「石井さん分かってただろ、俺がわざとあの馬鹿に乗っかったの」
 少しばかり早口になった庄司の言葉を、俺は少しばかり時間をかけてから理解した。庄司が乗っかった、あの馬鹿。
「キャプテンか?」
「あんなただの馬鹿は、今でもそんなに見ませんよ」
 庄司は嫌そうに、それこそ蝿のとまったパンを丸ごと捨て去るような激しい口調で言った。庄司がそれほどキャプテンを嫌っていたこと自体に俺は驚きもしなかったが、庄司がそれだけ嫌悪という感情を剥き出しにしたことには、驚いた。だが俺はそろそろ驚くことをやめなければならないだろう。庄司はもう、あの頃とは違うのだ。俺があの頃当たり前に描いていた、理不尽な未来を歩き続けていないように。
「誰かに言う必要を感じなかったんだよ」、俺は庄司を見ながら答えた。「だから誰にも言わなかった」
「じゃあ何で」、庄司は俺を見返しながら聞いた。「俺のこと、あんなに見てたんですか」
「気付いてたのか?」、たった今やめなければならないと思っていたのに、俺は驚いてしまった。庄司はそんな俺に、億劫げなため息をくれた。
「あんだけ見られてりゃね」
 どうやら庄司はあの何のやる気もなさそうな態度の下で、俺が考えていたよりもずっと色々なものを感知していたらしい。それなら庄司が俺のことを覚えていたのも頷ける。俺は庄司に気付かれていないと思い込んでいたから、庄司への視線に何の憚りも入れなかった。あの頃の俺はそれはもう、とことん庄司を凝視していた。今にして思えば、ストーカー扱いされてもおかしくはないほどだった。だがそれほどの俺の視線に気付いていても、庄司が俺をストーカーとして咎めることはなかった。なぜなら庄司は俺を一顧だにすることもなかったからだ。俺たちは多分お互いにお互いの存在を認知していながら、関わろうとはしなかった。お互いに、関わろうという意欲を持っていなかった。
「そりゃ悪かった」
 六年経ってようやく知った自分の非礼を俺が詫びると、庄司はやはり居心地悪そうに俺から目を逸らした。
「俺は庄司のことが気になってたんだよ」、俺の言うことが庄司に与える影響の大きさは、俺を少し饒舌にした。「あのキャプテンをあんな風に壊せるような、残酷で情熱的な奴が、次はどうするんだろう、次に何をやるんだろうって。結局俺が見てた限り、お前はただずっと、つまらなそうなだけだったけど」
「つまらなかったんですよ」、すぐに庄司は言った。「何もかも、全部」
 庄司の顔は苦々しいものになっていた。かつてのそのあらゆるつまらなさを、庄司はひどく(キャプテン以上に)嫌悪しているようだった。あるいはそれを感じていた自分を嫌悪しているのかもしれない。そのつまらなさの中で生きてしまっていた自分を。過去に感情をぶつけられるほど、庄司は変わっている。そして俺も変わっている。
「俺はさ、庄司」、俺の饒舌は続いていた。「情熱の足りない人間なんだ。何かに対するこだわりってもんがほとんどないし、執着心ってやつともあんまり縁がない。生活していくために必要なことはやるけど、それ以上のことは俺の中ではどうでもよくて、何か変えた方が良いようなことが目の前にあっても、それをどうにか変えてやろうとか、そうでなけりゃ変えなきゃならないとか、そんな風に思ったことも一度もなかった。それでも別に不便じゃなかったんだぜ。それが俺の日常だったから。だから、何かを変えるってことが、予想のできないことが、こんなに面白いなんて、知りもしなかったんだ。お前がキャプテンを壊しちまうまでは」
 庄司は戸惑った風に俺を見てきた。今まで一度も話したこともなかった単なる高校の先輩に、いきなりこんな個人的な話を持ち出されたら、戸惑って当然だろう。だが庄司は俺を見ている。俺たちは見合っている。視線を繋げ、関係を維持している。俺たちは変わっている。その結果を、その今を、俺は庄司と共有してみたかった。
「だから、俺はあれを誰かに言う必要も感じなかった。自分の人生面白くしてくれた奴を、面白くない方になんて、やりたくなかったからな」
 俺は思いきって得意に笑いながら言った。庄司は蝿のとまったパンを一飲みしてしまったように顔をしかめてから、しかし味は悪くなかったと開き直るように、笑ってみせた。
「変な人だな、石井さんは」、笑いながら庄司は言った。「変な人だ」
 それは良い笑顔だった。庄司の顔の陰鬱さも危険さも魅力的に見せる、ふてぶてしいのに茶目っ気のある笑み。
「そうかな」、俺は苦笑せずにはいられなかった。凡人の俺が変人なら、庄司なんてとんでもない変人ということになるだろう。
「そうですよ」、庄司は頷いてカーゴパンツの前ポケットから煙草を取り出したが、それをそのままポケットに戻した。急に気が変わったように、笑うのもやめた庄司は、落ち着かなさげに髪をいじり瞬きを繰り返す。
「どうした」、俺は不自然に思って聞いた。
「いえ」
 庄司は顔をしかめて口ごもった。それもまた不自然だった。何が庄司をそんな風にいきなり変えたのか、俺にはすぐには分からなかった。駐車場は静かだった。だが気付けば夜寝ている時に聞こえたら迷惑に感じる質の、車のエンジン音が近く聞こえるようになっていた。庄司の顔はますます不自然に緊張していく。それは何かを我慢しているような人間の顔だった。そしてその何かを庄司に我慢させているものは、たくましい音を立てながら駐車場に現れた。スポーティな黒い車だった。その車のライトの眩しさに、俺の目は霞んだ。
「何ていう車なんだ、あれ」、視界が正しく確保されていても誰かにしていただろう質問を、俺は庄司にした。
「R32」、庄司は発声練習をするように、はきはきと言った。「スカイラインGT−R。でかくて重い、パワーだけの車ですよ」
 語尾を、庄司は笑いと共に吐き出した。我慢も限界のように、庄司は笑っていた。いきなりどうしたんだと俺が唖然としてしまうほど、とてもおかしそうに、それよりもただただ嬉しそうに。十秒ほどそうして笑い、庄司は真顔を繕った。俺の車よりも手前側に停まったR32(そうでかくは見えない)から、ドライバーが降りる前のことだった。そのドライバーは白いポロシャツに色あせたストレートジーンズを着た、平凡な体格の男だった。たが顔立ちは特徴的だった。眉は太く、目は大きく、鼻も唇も厚めなのに、輪郭は鋭い。畑仕事が似合いそうな土臭さと、事務仕事が似合いそうな物堅さとが絶妙に整えられた、いわゆる濃い顔立ちだ。年齢の判別しにくいそこに、真ん中から後ろへ分けられた短めの黒髪が少しだけかかっていて、それが若さ(二十代半ばの)を主張しているようだった。彼は俺たちの方へ、体幹の強さを感じさせる足取りで歩いてきた。
「よお」、彼は庄司へ手を上げた。
「よう」、庄司は頷いた。
 庄司と短い挨拶を交わした彼が、俺を不思議そうにちらっと見て、庄司に目を戻す。
「どちらさんだ」、彼は顔によく調和する、低くハスキーな声で庄司に聞いた。
「それがお前に関係あるか?」
 庄司ははっきりと、透明なジェルのようなクリアにねとついた声で、彼にそう聞き返した。そんな庄司の声を俺が聞くのは初めてで、それを出した庄司ときたら、また今まで俺が見たこともない、天才的に嫌みたらしい顔になっていたから、やはり俺は驚かざるを得なかった。驚きながら、庄司はこれを我慢していたのかと俺は思った。彼にそういう風に自分をぶつけられる時への待ち遠しさを、そういう風に自分をぶつけられる彼への待ち遠しさを。だから彼の車がついに現れた時、庄司は突然笑い出したのだ。俺の目か、あるいは自分の目を気にする我慢も、わくわくと待望していたものが手に入った(欲しかったおもちゃを買ってもらった子供のような)、著しい歓喜に限界を迎えて。そんな風に庄司を笑わせながら、それを知らないだろう彼は、嫌らしさに長けた庄司を何かうんざりしたように見てから、俺をまた(今度は真っ直ぐに)見てきた。彼の露骨な目つきは俺への不審を隠していなかったが、それは東栄治のような観察者の片鱗を窺わせるものではなく、知らない人間を誰かと思う普遍的な心理の素朴な表れに過ぎないようだった。
「はじめまして」、そんな目を無視もできず、俺は彼に右手を差し出した。「石井一幸です、よろしく」
「ああ」、彼は口角を分かりやすく大胆に上げ、少しもためらわず俺の手を取った。「中里毅だ。よろしく」
 俺は中里毅と握手した。目方の重い体格には見えないのに、東栄治よりも桐原氏よりも、彼の手は厚く強く感じられた。握ると何とも言えない安心感があり、放した時には何か物足りなく感じたほどだった。
「桐原さんが来てたぜ」、俺と中里毅の握手が終わってすぐ、庄司がどこか慌ただしく、拗ねるように言った。「もう帰っちまったけど」
「桐原さんが?」、中里毅が驚いたように庄司を見た。
「お前によろしくだと」、庄司は面倒そうに、しかしやはりクリアな声で中里毅に言うと、彼を数秒じっと見た。何かを言いたげだが、言いたい何かはその視線に乗せているから、実際には何かを言うつもりもなさそうだった。中里毅がそれについて疑問を呈する前に、庄司は彼を見ることをやめ、俺へ目を向けてくると小さく頭を下げ、傍にある赤いシビックに体を向けた。もうここから出ていくつもりらしかった。その庄司のオレンジのTシャツが運転席に消える前に、俺は心のままに言った。
「庄司、またな」
 庄司は半分運転席に入りかけた状態で、俺に顔を向けた。そこにはもう俺なんかと二度と関わりたくもなさそうな表情の後、あのふてぶてしい(魅力的な)笑顔が生まれた。それが運転席に消え、庄司の赤いシビックもすぐに駐車場から消えた。

 どうやら俺は、庄司に二度と会いたくもない人間と思われずには済んだらしい。悪くはないと俺は思った。いつものような、俺が意識しなくてもできる無難な接触にはならなかった。それは、悪くはない。
「桐原さんが来てたのか」、庄司の帰った後を見ながら、中里毅は憮然としたように呟いた。「もうちょっと早く来れば良かったかな」
 彼は手持ち無沙汰のように顎を掻いた。その単純な仕草に何か妙に目を引くものがあって、俺はつい彼を見ていた。顎の掻いた部分を手で撫でた中里毅が、俺の視線に気付く。意外そうに密度の高い眉を上げた彼は、そのまま思い出したように言った。
「石井さんは、慎吾」、そこで間違いに気付いたように言葉を止めて、眉を下ろしてから続ける。「庄司とは、付き合い長いのか」
「いえ」、俺は正直に答えた。「全然」
「全然?」
「まったくですね」
「まったく」、中里毅は不思議そうにおうむ返しにするが、馬鹿にしているような感じはしなかった。表情や声音から、純粋に不思議がっているのが伝わってくるからかもしれない。だからその仕草には、目を引くものがあるのだろうか。感情を正確に反映する、生々しい仕草には。
「ええ」、俺は頷いた。付き合いも何も、俺は今日庄司と初めて話したくらいだった。だがそれを言っても彼はもっと不思議そうに、トルコ人のような濃さのあるその顔をしかめるだけだろう。
「中里さんは、あいつと付き合い長いんですか?」、俺はそれは言わず、気になったことを聞いてみた。
「俺か?」、中里毅はまだ不思議そうだったが、俺の質問には真面目に答えてくれた。「長くはねえよ。あいつがここに来るようになったのが春先だから、まだ二ヶ月くらいか」
 それは思いがけない答えだった。庄司の中里毅に対する短い接触でのあのしつこいほどの素っ気なさは、もっと長い期間に育てられた感情の、歪んだ発露の仕方にも見えた。だが彼と庄司は、二ヶ月くらいしか付き合いがない。
「あいつはよくここに?」、ならその頻度はどの程度なのかと思い、俺は続けて聞いた。
「週末は大体な」、彼は俺の問いの意図を気にした様子もなく淡々と答え、思い出したように続けた。「良い腕してるぜ。あれで性格も良けりゃあ言うことねえんだが、どうもあいつは俺を目の敵にしやがって、他にも色々……」
 彼の語尾はため息となった。量ったら五百グラムくらいはありそうな重いため息だ。庄司の性格の良し悪しを言えるほど、俺は庄司を知りもしないが、彼はきっと知っているのだろう。約二ヶ月。その週末の大体、ずっと庄司は中里毅にあんなにも嫌らしい顔を向け、あんなにもクリアな声をかけ続けて、彼をうんざりとさせてきたのかもしれない。それなら彼も、庄司の性格を良いものとは捉えないはずだった。だがそれを、きっと庄司は猫じゃらしを追い続ける猫のように、一心不乱に楽しんでいる。あの頃、何もかもがつまらなかったと言った庄司は、そのつまらなさを嫌悪できるほどの楽しさを、ここで見つけたのかもしれなかった。たった二ヶ月ほど前に、たった一人のドライバーと共に。
 そのドライバーは、目の前の俺のことなど忘れてしまったように、腰に両手を当てながらもういない庄司に対する渋面を作っていた。それは俺に忘れられているような落胆は感じさせず、そこまで自分の思いに集中できる彼への興味を感じさせた。そして彼は、あんな風に庄司を変えられる。
「中里さんも」、俺は質問を彼自身へと向けていた。「ナイトキッズに入ってるんですか」
 彼は俯きかけていた顔を上げ、俺の存在を思い出したように黒々とした大きな目を見開くと、沈黙を取り戻すように素早く頷いた。
「ああそうだ、入ってるぜ。一応俺がチームのトップなんだ。妙義じゃ一番速いしな」
 中里毅は当たり前に言ってのけた。一番速いということを、そうやって今日の日付を言うようにあっけらかんと言われると、驚いたり感心したりするのも何か違うように思えてくるもので、結局俺は特に反応もせずに、ただその答えを飲み込んだ。ナイトキッズ。走り屋の集まるチーム。そこには桐原氏がいて東栄治がいて庄司がいて、トップには妙義で一番速いという、もしかしたらそれが原因で庄司に目の敵にされている、庄司を楽しませている、中里毅がいる。悪くはない、と俺は思った。まったく悪くはない。ならそれは、良いといってもいいんじゃないか。
「俺もそこには入れるのかな」、呟くように俺は言った。
「は?」、中里毅は額を竹刀で叩かれたように目と口を大きく開けて(そうすると彼の顔には十代半ばの少年ような幼さが混じった)、その衝撃が分散したように歪んだ顔をした。「ああ、まあ、うちは別に入るも出るも自由だけど……」
「俺が入ると何か、不都合なことでもありますか」
 ばつが悪そうに言いよどむ彼に、俺は正式に尋ねた。彼の態度は分かりやすいので、俺も分かりやすい質問ができた。
「不都合があるとしたら、そちらさんにだな」、彼はばつが悪そうなまま笑い、しかし迷いを吹っ切ったように、潔く言った。「俺や庄司を見てりゃ分かるだろうが、うちは柄が悪いとかってことで、評判が良くねえんだよ。あんたみたいに普通の人には、絶対プラスにならないぜ。峠に慣れてもないだろう」
「分かります?」、そんなに初心者っぽかったかと思い、俺は聞いた。
「空気でな」
 彼は唇をねじ曲げるように上げて、挑発的に笑った。そうすると彼の顔には壮年期の労働者のような堅実な渋さが加わった。新品の墓石のように安定した顔立ちなのに、表情次第で印象が不安定なくらいに変わるのは、見ていて飽きないものだった。だがそんな彼にも確かに庄司と同じように、柄が悪いと言われてもおかしくはない雰囲気はあった。例えば彼らは未成年の頃から飲酒や喫煙をしていそうだし、自転車の二人乗りや信号無視や運転免許停止処分が下されるクラスの違反は当たり前のようにしていそうだし、誰かをしこたま殴る痛みも誰かにしこたま殴られる痛みも経験していそうだった。俺は少なくとも、他人に軽く殴られる痛みしか経験したことはない。俺の友人たちもきっとそうだろう。俺たちと彼らの住む世界はかけ離れていて、例え二車線の道路が一車線になるように社会構成上交わったとしても、同じ車に乗ってそこを走るわけではないのだ。
 しかし俺は今、中里毅と何の隔たりなく話している。彼は柄が悪いとされている走り屋で、俺が峠に慣れていないことも分かっているが、だからといって俺を威圧することも馬鹿にすることもない。俺が彼に遠慮することもない。それは庄司のおかげかもしれなかった。俺にとって庄司は高校の(バスケ部のキャプテンと俺の価値観をぶち壊した)後輩で、つまりは同じ世界に住んでいた者同士だった。だから俺は怖気づかずに庄司と話すことができたし、庄司と同じ人種である東栄治とも桐原氏ともそうだった。俺は彼らとかつてないほど充実した会話を持てた。彼らの車のドアは開かれている。俺は偶然そこに乗り、追い出されずに今もいる。中里毅と一緒に。
 いいじゃないかと俺は思った。住む世界が違おうが何だろうが、庄司はさっきまでここにいて、俺は今もここにいて、彼が今はここにいる。後は乗るか乗らないか、乗せるか乗せないか。それでいいじゃないか。
「じゃあ、よろしくお願いします」
 俺は気を付けをするように姿勢を良くしつつも、適当に笑いながらそう言った。中里毅の老けて見える表情は、驚きが加わったためだろう、幼く見えるものに変わった。
「おい、俺が今言ったこと……」
「分かってますよ」、焦った様子の彼の語尾に被せるように、俺は言った。「だから、よろしく」
 そして俺は再び右手を彼に差し出した。俺はきっと彼らと一緒にいることで、彼らの同類として見られはしても、実際に彼らのように車を速く、巧く走らせるようにはなれないだろう。俺の情熱は、そこに向かうには足りない部分が多すぎる。だがともかく俺はもう乗ろうと決めていた。彼らの乗っているものに、予想のできない方へと進むものに。後は中里毅が、それに俺を乗せるかどうかだった。彼は幾何学の難題にぶち当たりでもしたように、厳しく顔をしかめて俺の顔と俺の右手を交互に見た。俺は笑ったまま、彼に手を出し続けた。俺の笑顔は意識しなければいつでも当たり障りのないものになるが、その時俺は特に意識もしていないのに、庄司にやった以上に、思いきり得意に笑っていた。三回目にそんな俺の顔を見て、中里毅は問題を解かずに理解してしまったように、一瞬で清々しい笑顔になった。
「分かった」、彼は俺の右手をしっかりと握った。「歓迎するぜ、石井。ナイトキッズにようこそ」
 それはやはり、放すのが勿体なくなるくらいに厚く、強い安心感を生み出す手で、俺は彼の庄司とは違う魅力のある(熟成されたウイスキーのように、濃密で透明な)笑顔が、露骨な気まずさによって消されるまで、それを握り返していた。



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