源流に転じ
雨は強まりも弱まりもせず、一定の調子で天から地へと流れ落ち、山を濡らし続けている。天気予報はどうだっただろうか、32の右側、フロントタイヤを背にして座り込んだまま、中里はぼんやりと思う。今日の朝、テレビのニュースで確認したはずだが、思い出せない。気象予報士は、雨について、何と言っていただろうか。いつ止むと言っていただろうか。いや、雨のことなど話していただろうか。何を話していただろうか。誰が話していただろうか。そもそも、それは本当に、今朝の話だったのか?
記憶があやふやだった。あるいは記憶に関連する回路でも、おかしくなっているのかもしれない。頭蓋内にまで雨水が染み込んで、脳味噌が腐敗し始めているのかもしれない。なぜ自分がここに留まっているのかも、あやふやだ。すべてはもう終わったはずだ。終わったはずなのだ。レッドサンズとの交流戦。ヒルクライムバトル。群馬最速の座を、妙義ナイトキッズの威信を懸けたバトル。チームの代表として、受けて立ったバトル。その途中、雨が降り始めた。バトルが終わってもそれは止まず、今なお降り続いている。人気のない駐車場、雨音は静寂を生み出すほどに規則的で、意識を侵しはしないのに、思考はまとまらない。終わったはずの事態が、記憶が、頭の鉢をぐるぐる回る。
灰色の峠に浮く、目に沁みるような、鮮やかな黄色に覆われた、マツダRX−7FD3S。そのドライバーは、憎らしいほど強気な態度と、端整な顔を持った男だった。その男に、自分は負けた。ぐうの音も出ない、絶対的な敗北だった。それが決した時点で、帰っても良かったのだ。ナイトキッズから、自分以外でそのドライバー、レッドサンズの高橋啓介に敵うほど、腕の立つダウンヒラーを、出せる状況にはなかった。元より雨の止む気配もなかった。チームの敗北を認め、ダウンヒルアタックを中止とし、撤収をしていて然るべきはずだった。だが、中里はまだ帰らずにいる。
何かがあった、静寂の中でと思う。何かあった。何か、用があったのだ。ここに残っていなければならない用が、できたのだ。
水も滴るいい男ってやつだな、と、ぼんやり思った記憶がある。雨に濡れた、怜悧な男の、美麗な顔を見てのことだ。その男が、バトルの後、雨の影響によるダウンヒルの中止を、交流戦の終了を決めた後、何か話を持ちかけてきた。何だったろうか。確か、秋名のハチロクが、どうのという話だ。それで、チームのメンバーに、意見を聞かなければならないと、思ったような気がする。だから、少し時間をくれ、と返したはずだ。俺の独断で、良いと言えることじゃない。他の奴らがどうか、聞いておかねえと。そう返した以上は、帰れるわけもなかった。チームの代表として、意見を取りまとめねばならなかった。
確か、秋名のハチロクの話だ。秋名のハチロクと、そう、レッドサンズの誰かとの、ダウンヒルバトルを行いたい、そういう申し出だった。秋名のハチロクの、雨のダウンヒルだ――水も滴るいい男の、低い声が耳元で囁く。お前だって、興味はあるだろう?
格好の良い奴は、どんな天気でも格好良いもんだな、と、まだぼんやりと思いながら、知ったような口利きやがって、とも思っていた。俺たちの地元で、勝手なことを言ってんじゃねえよ、とも思っていた。ふざけるな。怒りと、悔しさと、歯がゆさとで、心臓が破裂しそうだった。だが、内側の自分が何を思っても、外側の自分には、一つも影響を与えないようだった。そうだな、と勝手に出ていった声は平静そのもので、自分ではない誰かが喋っているようだった。
今でも、その時その男と、レッドサンズの牽引役たる高橋涼介と、話していたという実感が、中里にはない。その後のすべての出来事が、夢の中で起こっていたかのような、手応えのなさだけが、手応えをもって残っている。上ってきていたメンバーに事情を説明して、意見を聞き、まだ下で待機しているメンバーにも電話で事情を説明し、意見を聞き、どちらにも後は自由にするよう伝えた後、高橋涼介に、取りまとめた受諾の決定を伝え、かいつまんだ経緯を秋名のハチロクに説明をする。バトルが行われ、ギャラリーは沸き立ち、時間とともに熱狂は消え、人影は消える。目の前を、数々の人間が通り過ぎる。ギャラリーが、レッドサンズのメンバーが、意味深長な目配せをしてきた高橋涼介が、どこか心細げに立っていたチームのメンバーが、無骨な顔に諦めをにじませた男たちが、次々消える。そして駐車場からは、すべての人間が去っていた。
どれほど時間が経ったのかは知れなかった。ただ、そこで一度は、家に帰らなければならない、と思ったのだ。車に乗ろうとした。帰らなければならない。ドアノブに手をかけようとした。手が、上がらなかった。上げられなかった。足が、動かなくなった。動かせなくなった。膝から力が抜け、全身から力が抜けた。立っていられなくなった。アスファルトの上で、重い体をずらし、何とか32のタイヤに背を預けた。それから、ずっと、こうしている。
すべてはもう、終わっている。分かっている。ここに留まる理由はない。分かっている。後は家に帰るだけだ。それだけだ。それだけのことが、できなくなった。機会を逸してしまったのだ。ここから離れる機会を、ここから離れる気力を保つ機会を、正しい現実へと戻る機会を、逸してしまった。
そのまま、濡れた地面から立ち上がれないまま、どれほど時間が経ったか知れぬまま、そして中里は、ぼんやり思っている。この雨は、いつまで降ってるんだ?
そんな答えを求めぬ問いを繰り返させる、散り散りの意識が、不意に、一つの音を拾った。雨音とは違う音だった。それを聞いた瞬間、中里は尻に火を点けられたかのように、立ち上がっていた。それは機械を轟かせ、濡れた路面にタイヤを食らいつかせている音だった。聞き慣れた、妙義山を駆け上る、一台の車の音だった。既にこの地を後にしたはずの、車の音だった。
全身に、緊張が走った。筋肉が強張り、倒れる脆さは失われた。同時に、鳥肌が立った。寒さゆえではなかった。雨を受け続けていることによる寒さは既に、感じなくなっていた。感じたのは、恐怖だ。これからここに現れる人間が、誰であるか直感した自分は、それと対峙することを、恐れていた。
暗がりの道路の奥、差した光が、雨粒を埃のように浮き立たせながら、近づいてくる。
荒い動きで、目の前に、闇夜にも明るく見える、赤い車が停まった。特徴的な台形フォルムの、3ドアハッチバック、ホンダシビックEG−6。鳥肌は消えなかった。現実が迫っていた。それと正しく対峙する方法を、考えられるだけの余裕はなかった。
「毅」
運転席から降りた、茶髪の男は、細やかな雨音を割る、抑揚のついた低めの声で、中里の名を呼んだ。頬が隠れる程度に前髪を伸ばしているが、真ん中で分けられているために、その男の顔はよく見えた。一重の鋭い目、高い顴骨、尖り気味の鼻と口。皮肉な表情が似合うその顔が、今透かせて見せているのは、過度の心配に基づく、甚大な困惑だ。
「慎吾」
名を呼び返すと、EG−6のドライバー、庄司慎吾はどこか――完治していない右腕か、内奥の精神か、あるいは両方が――痛そうに、わずかに顔をしかめ、唇を浅く開いた。そこから何か、雨の築き上げた死に近い静けさを壊すような音が、交流戦で負け、チームに汚辱を招きながら、この場で一人途方に暮れている、腑抜けた自分の惨めさを突きつけられるような言葉が、出てくることを心底恐れ、何やってんだ、と中里は先んじて言った。
「ここにはもう、何もねえだろう。早く帰れよ」
出した声は、雨音の間を、やけに軽い響きをもって抜けていった。帰るために下りたはずの慎吾がなぜ、わざわざここまで上ってきたかは、察しがついた。こちらが帰らずにいることを気にして、様子を見に来たのだろう。交流戦が始まる前から、慎吾は今と似たような顔をしていた。今までこちらを目の敵とし、蹴り落とさんとしてきた男が、決して見せたことのない、チームを愛する者としての、一つの強大な障害に共に立ち向かおうとする、仲間としての、悲壮な顔だった。その顔を変えることなく、ただ今は、強い意志を込めた二つの目を、真っ直ぐ鋭く向けてくる。
「お前こそ」
こんなところで何をやっているのか、と問う、鋭くも柔らかい目だった。こんなところで立ち止まって、何をやっているのか。なぜ戻ってこないのか。なぜ、逃げているのか。命を懸けても守ろうとしたものに、なぜ、背を向けているのか。
「俺は、もう少ししたら帰るさ。気にするな」
その目に潜む、同情の圧力を受けきれず、中里は顔を斜めにし、そう言っていた。どこに帰ろうとも、考えてはいなかった。ただ、誤魔化してしまいたかった。今、どこへも行けずにいる自分を、何もできずにいる自分を、慎吾に知られたくはない。仲間とはいえど、いや、仲間だからこそ、そしてこの妙義山で、唯一同じ次元で張り合える、かけがえのない走り屋だからこそ、弱みを見せたくはなかった。失望されたくは、なかった。
「毅」
雨音を割る、低い声。傍に、困惑に満ちた気配を感じる。中里は横を向いた。慎吾が立っている。髪も服も、雨に重く染まっている。濡れた顔を、痛そうに歪めたまま、白い包帯の巻かれた右手を、胸の前まで上げる。
「毅」、もう一度慎吾が呼び、口を開いた。「悪かった。俺がこんな怪我――」
「気にするな」
中里は目を逸らし、強い口調で、慎吾の言葉を遮った。恐れがあった。同じチームに属する仲間だった。それ以前に、同じ頂点を巡って争う、ライバルだった。互いのバトルは、互いだけのものだ。互いの勝利も敗北も、互いだけのものなのだ。自分の行動を悔やむだけでなく、気遣って、責任を分割するような関係は、違うはずだった。違うはずのことを気にされては、苛立ちを覚えざるを得ない。そうして苛立った自分を、今の自分では、抑制できないかもしれない、その恐怖が肉体を操作して、慎吾に皆まで言わせなかった。
「でも」
「いいんだ、気にするな」
中里は、強く繰り返した。それ以上、聞きたくはなかった。今は、何もできないのだ。心配されても、謝られても、筋違いだと苛立つだけで、どうにもできない。どうにもできない自分に、そんな自分がどうにかできると信じているらしい慎吾に、その信頼を裏切らなければならない自分に、ますます苛立ってしまうだけだ。その苛立ちすら、今は、消化できそうになかった。だから、それ以上、何も言わないでほしかった。
「良くねえよ」、だが、慎吾は強く、言葉を続けてくる。「俺が、ダウンヒルに出られてりゃあ良かったんだ。そしたらお前だって、もっと――」
「関係ねえんだよ!」
その強さに反発し、倍々に膨れた苛立ちを、もう堪えかね、中里は叫んでいた。途端、驚いたように、そして怯えたように顔を引き攣らせた慎吾を見て、すぐに、失敗を悟った。こんなことは、言ってはいけない。言ったところで、どうしようもないことだ。だが、一度開いた喉からは、叫びの続きが零れていくだけだった。
「お前が走れてようが何してようが関係ねえ、バトルをやったのはこの俺だ、俺があいつに負けたんだ、俺が、高橋啓介に、及ばなかった。俺の――」
――俺とお前の、テクニックの差だ。
耳に鮮明に蘇った、FDのドライバー、高橋啓介の声が、言葉を駆り立て、そして止めた。慎吾の顔からは、血の気が引いていた。皮肉な表情の似合うその顔を、驚愕と失望とが、痛ましいほどに、右手を包む包帯と同じほどに、白く塗っていた。内臓が凍るような恐ろしさを、突き刺してくる顔だった。全身に冷たい震えをもたらす、傍にいる慎吾の、遠い顔だった。それを見ていられず、中里は32に向き直った。早く、車の中へと入ろうとした。逃げ込もうとした。しかし、震える喉は、閉じられなかった。
「お前のことなんて、端っから関係ねえんだよ」
それを聞いた慎吾がどんな顔をしたのかは見なかった。何を見ていたのかも見なかった。一定の調子で降り続ける雨の中、ただ、前だけを見て、中里は32を駆り、山から下りた。
家に帰り、熱いシャワーを短く浴びて、着替えも早々に、ベッドに入り込む。疲れていた。もう何もかも忘れて、寝てしまいたかった。だが、布団を被り目をつむっても、中里は眠れなかった。眠気がまったく差さなかった。肌は温まったが、腹の奥が冷えていた。頭の奥も冷えていた。何も考えないようにしても、次々思いが浮上した。
もっと、別の言い方があったはずだ。かわし方があったはずだ。あんなことは、言わなくても良かった。言いたくもなかった。だが、言わずにはいられなかった。自分の思いを、吐き出さずにはいられなかった。伝えずにはいられなかった。
慎吾の気持ちが、分からないわけではなかったのだ。性格は良いとは言いがたいが、自分の取った行動から逃げられない、不便なプライドを持った男だとは、分かっていた。一ヶ月ほど前、秋名のハチロクに、独断で、絶対的に有利なルールを用いて挑み、負けた挙句、いまだ完治しないほどの怪我をして以来、殊勝になった部分もある。チームの面子のかかった交流戦に、その怪我が原因で出られなかったのだから、後悔もしたはずだ。
慎吾が無事であれば、雨天という最悪な状況とはいえ、交流戦で、ダウンヒルを行えた可能性もあるだろう。そこで勝利を収め、引き分けに持ち込めた可能性もあるだろう。あるいはそうやって、下りを任せられるドライバーのいることが、先に上りを攻めるこちらの精神的な負担を、和らげた可能性もあるだろう。そういった可能性を、慎吾は強く意識していたのだろう。過去に自分の取った行動が、そういった可能性を潰したことに、責任も感じただろう。その責任が回避される状況を、安穏と受け入れられるほど、お互い器用な人間ではない。自分の非を告白し、断罪されたくなる気持ちは、分からないではなかった。
だからこそ、反発したのかもしれない。叫んでしまったのかもしれない。そんな風に思われることではないと、そんな風に思われたくはないと、性根を理解しているはずの相手に、知ってほしかったのかもしれない。
それでも、と思う。あんなことは、言わなくても良かった。言ったところで、事実は何も変わらないのだ。どうやったところで、今夜の勝敗に、それらを関係させられはしないのだ。
仮に慎吾が怪我をしていなかったとして、高橋啓介に勝てたとは、中里には思えなかった。そう思いたくても思えなかった。仮に雨が降っていなかったとしても、そうだった。あの敗北には、どちらも関係がない。そうとしか、思えなかった。あの敗北をもたらしたのは、慎吾の不在でも雨でもない。
自分と高橋啓介の、純粋な、実力差だ。
――お前の乗り方は荒すぎる。
強気で、不愉快げな高橋啓介の声が、幾度も耳に蘇り、胃を引き絞る。その言葉は、否定できなかった。今まで、タイヤを労わる乗り方は、してこなかった。常に、全力を出してきた。全力を出し続ければ、勝てると思っていた。そうやって、その乗り方で、現に今まで勝ってきたのだ。速さを保ってきた。コースレコードを維持してきた。妙義最速を、貫いてきた。その乗り方で、しかし、高橋啓介に、負けてしまった。
――クルマのせいじゃない。
今の乗り方では、高橋啓介に、勝てないということだ。今のままでは、高橋啓介には勝てないということだ。慎吾がいようが雨が降らなかろうが、勝てなかったということだ。最後の最後、勝負どころで、車の性能を活かしきれなかった自分は、活かしきった高橋啓介に、それを活かせると信じきった高橋啓介に、勝ちようがないということだ。そうとしか、思えなかった。
なら、と疑問が思考にもたれかかる。今まで自分のやってきたことは、間違いだったのか。勘違いをしていただけなのか。速さなど、身についてはいなかったのか。
畜生。
GT−Rに、あぐらをかいていたつもりはなかった。あの日産スカイライン、BNR32に惚れ込んで、真髄を引き出す走りをしてきたつもりだった。その名を汚さぬ走りをしてきたつもりだった。だが、それで、負けたのだ。間違っていた。そうだ、間違っていた。間違いは、正さねばならない。変えなければならない。もう二度と、チームにも、Rにも、汚名を被せるわけにはいかない。変えなければならない、しかし、どうすればいい。どうすれば、速くなれる。バトルに勝てる走りができる。少なくとも、このままでは駄目なのだ。今のままじゃあ駄目なんだ。けど、一体これから、どうすりゃ速くなれるんだ?
疲れていた。もう何もかも忘れて、眠ってしまいたかった。だが、安楽へと導いてくれるはずの眠気は、一向に訪れる気配がなかった。神経が動揺していた。疑問は頭蓋骨辺りに接着され、その隙間に様々な記憶の断片が潜り込んでいた。わずかに先を進んでいく鮮やかなイエロー、美麗な顔、思いきりの良い声、困惑する少年、失望する男。鼓膜を圧する歓声、雨の音、雨の匂い、内臓が凍りそうな、寒さ。じっとしていると、内側から全身に、その寒さが広がるようだった。混濁した思考を打ち切り、中里はベッドから抜け出した。服を着て、外へ出た。32に乗り込んで、五感を苛める音を鳴らし、雨の匂いを残す街を、そしてあてもなく走り回った。
頭は重く、喉は痛み、節々は強張っていた。目の周囲が熱を持ち、瞬きを強要してくる。手には次々汗がにじんだ。ステアリングを持ち続けるのが困難になるほどで、中里は濡れた右掌を、ジーンズに擦りつけ、同じように左掌の汗も、ジーンズで拭った。
体調は、万全とは言いがたかった。あの日、思考と感情を振り払いながら、朝まで32を走らせ続けたあの日、結局一睡もせず仕事へ行き、帰宅してろくに何も口にせず寝入ったところ、翌日声がまったく出なくなっていた。熱は出ていた。おそらく風邪だった。風邪を引くに足るだけ、雨に降られていたような気がした。寒さに包まれていたような気がした。一日休むと、ある程度声は出て、熱は引いた。病院には行かず、職場に戻った。ただ、微熱と喉の腫れは治まりきらず、今日まで至っている。
それでも峠に来たかった。走りたかった。あの時、交流戦のバトルの後に話した時、頭に打ち付けられた、高橋啓介の『教え』が正しいか否か、確かめたかった。ペースを落とさず、タイヤを温存するドライブ。それができるかどうかが、技術の差となるのか、確かめてしまいたかった。本当に、今の自分の走りでは駄目なのか――今の自分の走りに、少しでも通用する部分がありはしないのか、確かめたかったのだ。
夏場に比べれば、秋の夜、峠に集まる車は減っている。だが、週末にはそれなりの台数があるものだ。妙義山の、ふもとの駐車場には、馴染み深い走り屋の他に、チームのメンバーが三人いた。よく話す、親しいと言えるメンバーたちだった。チームの今後について、決める権利を有している男たちだった。その近くに、中里は32を停めた。
走る前に、その今後について、意見を聞くつもりだった。そうでなくとも、向こうから話を持ちかけてくるだろうと、中里は思っていた。交流戦の翌日以降、メンバーからの電話は、何度もあった。どれにも出はしなかった。声が出なかった時期もある。だが、いつも通りに出せるようになっても、電話に出る気にはなれなかった。例えば心配の声をかけられたとして、どうその思いを受け止めて、自分の思いを伝えれば良いのか分からなかったし、例えば難詰されたとして、一方的に、関係を打ち切られたくはなかった。わがままだとは自覚していたが、せめて、直接会った上で、すべてを決し、決されたかった。
妙義ナイトキッズは、他のチームには到底歓迎されぬ、悪者ぶった、あるいは実際悪者の走り屋によって、計画性なく作られたチームだった。烏合の衆と思われても、致し方ないチームだった。それでも、権力を与えられる基準はある。速さだ。速い者は上に立ち、遅い者はそれに従う。二度の敗北を喫している人間が前者か後者かは、容易に知れる、明快な基準だった。多少の個人的な親しさが、その暗黙の了解、チーム創設時から変わらぬ原則、現実を無視するだけの影響を与えることなど、中里は考えもしなかった。メンバーは、これまでもてはやしてきた人間に、進退を伺わねばならないばつの悪さを繕う愛想笑いか、上に立つに相応しくない敗北を重ねた人間を軽蔑するに、適切な冷笑でも浮かべるのだろう、そう漠然と予想していた。
「毅さんッ」
だが、32から降り、覚悟をもって歩み寄った中里を迎えたのは、柄の悪い男たちの、無邪気なほど、嬉しそうな笑みと、弾んだ声だった。
「ああ」
意表を突かれ、相槌を打つしかできなかった中里に、「みんな心配してましたよ」、顎の太い男が、立て続けに言葉をかけてくる。「毅さんが一週間も山に来ないとか、槍でも降るんじゃねえかって」
「槍降んの心配してたのは、こいつだけだけど」
目つきに険のある男が、顎の太い男を指差して笑い、それに反論が生まれ、二人の間で話は続く。一見乱暴でも、不穏な空気はない、よくあるメンバー同士のやり取りだった。気まずさも、わざとらしさもまったくない、当たり前の、日常的なやり取りだった。時間が進んでいないような錯覚に、中里は襲われた。レッドサンズとの交流戦など、過去にも未来にも存在しないような、不思議な空気に包まれた。
「大丈夫っすか?」
横から、周囲の車のアイドリング音に掻き消されそうなほどの、囁き声が聞こえ、中里は錯覚から脱した。内心驚きながら、表には出さぬよう、自然を努めてそちらを向く。丸刈りに、狐目の男が立っている。普段、慎吾とよく一緒にいて、こちらにはあまり話しかけてはこないメンバーだった。その顔には、不審に近い心配が濃く浮き出ていた。
「ああ、問題ねえよ」
洗面所の鏡で見た自分の顔は、いつでも実際の体調を反映していた。皮膚には浅く赤みが差しているのに艶がなく、疲労の陰がこびりついていた。この男にも、そう映っていることだろう。大丈夫には、見えないだろう。だが、中里はそう言い切った。メンバーは、中くらいに整えられた眉を少し上げ、何でもなかったように、すぐに下ろした。本当に、何もなかったような、自然な態度だった。
「みんな、上に行ってんすよ」、砕けた口調での説明も、自然に行われた。「慎吾もね」
その名を聞いた途端、寒気がした。雨の降る夜の、感じなくなってたはずの冷たさが、まざまざと背中に蘇った。自責の念を見せていた慎吾に、勝手な思いをぶつけてしまったことへの後悔が、全身を冷やした。そこへ、謝らなければならないという義務感と、謝ってどうなるんだという焦燥感が続いて被さり、麻痺したようだった。自分が何を感じているのか、分からなくなった。
「もう、走れるのか」
ただ、気付けばそれを聞いていた。狐目の男は、冗談めかす風に、肩をすくめた。
「流すくらいは全然余裕っすけど、可動域が元通りになんのに、手首の、あと何週間かかかるんだか何だかで、今日も八つ当たりされました」
「ひでえよな、あいつも」、一人が苦笑しながら、話を加える。「痛ェかどうか聞いただけで、蹴ってきやがるし。人の心配何だと思ってんだっつーの」
「お前の場合、関節極めながら言うからだろ」
もう一人の指摘に、一人はまた反論をするが、今度は笑いながらだった。チームのメンバー同士の、気の置けないやり取りだ。そこに、慎吾も加えられている。同じチームにいながら、違うチームのメンバーのように、互いに扱っていた面々だった。それが、同じチームの一員として、認め合っている。時間は進んでいる。そこに、自分も加えられている。認められている。
敗北したことも、チームの名に泥を塗ったことも、確実に過去に存在するにも関わらず、当たり前のように、認められている。今まで通り、チームの一員として、そして何より、ナイトキッズのトップとして、認められている。
原則は変わっていない。現実は変わっていない。あの高橋啓介とのバトルを経た上で、この男たちも、上にいるメンバーたちも、妙義ナイトキッズの最速が、自分であることを、認めている。
中里は、拳を握り締めていた。敗北は、屈辱の証だ。だが、それがあってもなお、トップとして認められているというのなら、トップとして、けじめをつけなければならない。全員に認められるだけの、責任を取らねばならない。いや――責任を、取りたいのだ。このチームを、このメンバーたちを、この手で守りたいのだ。
寒気は吹き飛んだ。握った拳が汗ばんでいた。筋肉が焼けているようだった。熱がぶり返したようだった。メンバーたちは、肘の関節の極め方を熱心に話している。
「おい」、と中里は、熱さの感じられる喉から、明瞭な声を発した。三人が、揃ってこちらを向いた。
「今いるみんなにだけでも、話しておきたいことがある。チームのことだ。俺も上に行くから、お前らも一緒に来てくれ」
それぞれの顔を、真っ直ぐ見ながら言うと、互いの肘を極め技の実験台にしていた二人は、真剣な面持ちとなり、あとの一人は、ワークパンツのポケットから、じゃあ、と素早く携帯電話を取り出した。
「みんなに連絡入れときますよ、まだ下りてくるなって」
「頼む」
「下りたら罰金一万だぜ」、一人が冗談を飛ばす。「こういう時に、共通資産取っとかねえとな」
「取るだけ取って、ネコババしようってか」
一人はそれを、巧みに拾い上げる。深刻な空気にはなりえない。だが、各自の顔には、真剣な色が残っている。話は通じている。これから起こりうる出来事を想定しながら、日常を保っている。こいつらなら、大丈夫だろう。思い、中里は掌の汗をジーンズで拭い、三人に背を向けた。一人の電話は、もう終わりそうだった。32に乗り、上へ行くつもりだった。
進めようとした足を、そして中里は、半歩出さずに止めていた。音が聞こえた。数台の車が、一斉に近づいてくる音だった。多少なりとも改造が加えられている車が、まとまって近づいてくる音だった。
走り屋が、つるんで峠へ赴くことは珍しくもない。走り屋仕様のやかましい車が数台連なって峠に現れることは、珍しくもない。珍しくもないその音は、だがこの峠では、珍しい性質のものだった。
「毅さん?」
後ろから、メンバーが不思議そうな声を上げる。それに応える間もなく、大量のライトが道路を照らした。
視界が白く染まり、黒が際立つ中、白もまた際立った。白い車が先頭だった。市販車に付与されるには大仰で、ともすればどぎつくも見えるエアロパーツが、立体的な均衡を奇妙なほど整然と保ち、大きさに比さぬ磐石さを印象づける車だった。三菱ランサーエボリューション。それが続けざまに何台も、駐車場へと進入してくる。型式が違うものもあれば、同じものもあるようだった。
「何すかね」
後ろからのメンバーの声には、ツーリング目的の車が来ても到底発されぬ、警戒心が溢れていた。
「お客さんだろう」
均等の間隔を置いて停まったランエボの群れを眺めながら、中里は返した。すべてナンバーは栃木県内だった。地元の人間ではない。群馬の人間ですらない。客人であることは明白だ。それも、不穏な空気を運んでくる客人だった。
間近に位置する先頭の白い車は、エボ4だった。その運転席から、男が降りた。恰幅の良い男だった。おそらく肩口まで長さのあるだろう、黒い髪を後ろでまとめて結っているため、その太く、いかつい顔は、何にも隠されることがない。他のランエボから降りる男たちも、無骨と言える容姿だったが、この男のそれは、特別強烈だった。
「こんばんは」
男は地面にしかと体重を伝える歩き方で、中里の前まで来ると、顎を上げ、唇をひしゃげさせ、笑みに似た表情を作りながら、神経を逆撫でする、ねっとりとした響きを持った声で、そう言った。
「どうも」
中里は、見下ろしてくる男に対し、頭は下げず、言葉のみで挨拶を返した。男はつまらなそうに唇を元の形に戻し、上げたままの顎をしゃくった。
「ここで一番でかい走り屋のチームは、どこになる」
世間話の一環にしては、唐突で、不躾な問いだった。世間話が目的ではないのだ。情報を得るために、問うてきている。ここで一番でかい走り屋のチームはどこか、情報を得て、何かをするために、この男はそれを、問うてきている。
「うちだろうな」、反射的に、身体を包み始めた緊張に抗うよう、中里は男を真っ直ぐ見据えながら、答えた。「ナイトキッズだ」
聞いた男が、今度は明確に、笑みを作った。素朴さと残忍さが、自然に絡まり合った、挑発的な笑みだった。
「なら、ちょっとお相手願おうか」
その意図は、察するまでもなかったが、一応、中里は確認した。
「バトルか?」
「条件は何でも良い」、男は笑んだまま言う。「いくらでも相手をしてやるよ。その代わり、こっちが勝ったらそっちのチームのステッカーは、寄越してもらうぜ」
その意図は、察する必要があった。身内同士の勝負なら、物品が賭けられることもままあるが、チームの生命線である名誉が、必然的に懸かる対外バトルで、物品を要求したことも、されたことも今までない。だというのにこの男は、ステッカーを求めてきている。チームの象徴たるステッカーだ。いかなる条件のバトルでも余さず受ける代わりの、勝利の報酬として求めてきている以上、単純な収集が目的とも考えにくい。しかし、では何が目的なのか、正確なところは分からない。
「そんなもの、どうするつもりだ」
「そりゃあ後のお楽しみ、ってやつさ」
聞けば、歯を剥き出しにしながら、男は高い頬をより高くした。下卑た笑みに、不遜な物言い。アウェイに乗り込んでおきながら、この男には、自信がみなぎっている。自分の勝利を疑いもしない、そういう男に、先日、会ったばかりだった。これよりよほど美しく、よほど強気なそういう男に、負けたばかりだった。その件を、まだ処理してもいなかった。
売られた喧嘩を買うことに、非を与えるメンバーはいないだろう。ナイトキッズは、挑発を取り合わないような、大人が集ったチームではない。この男に持ちかけられたバトルを受けることは、チームの流儀に即している。だが、これはチームの今後に関わる話だ。万が一この男に負けてしまえば、チームの象徴たるステッカーを、どう使われるか分かりもしないのに、渡さなければならない。それは、下卑た目的のために使用されるかもしれないのだ。その危険性をはらむ、チームの今後に関わる決定をする権利が、まだ自分にあるものなのか、判じられず、中里は黙った。
「どうした」、男は不審そうに、露わな眉間にしわを作る。
「勝てる気しねえから、バトルはできねえか? ま、それならそれでいいけどよ。所詮群馬エリアの走り屋なんざ、そんなもんだろうとは思ってたから、今更残念でもねえしな」
そうして男がせせら笑うと、横に広がる他の男たちも、同調の笑いを漏らした。明らかに、馬鹿にされていた。頭にかっと、血が上った。汗が噴き出た。上等だ、と言ってやりたかった。俺が残念な思いをさせてやる、そう言って、すぐにでもコースへ出たかった。だが、躊躇した。自分がこの、素性の知れない走り屋に勝てるかどうかは、分からなかった。頭も喉も熱を持ち、体調は万全とは言いがたく、自分の走りの通用する部分を、確かめられてもいなかった。以前であれば、無尽蔵に湧いてきた自信は、まだ残っているのかどうかも知れない枯れ具合だった。勝てる気が、しない――それなのに、チームに敗北をもたらす可能性が高いというのに、バトルをすることなど、そんな無責任な行いなど、できはしない。
「毅さん」
中里の作り出した沈黙を、短く終わらせたのは、目の前の素性の知れない男ではなく、後ろからの、メンバーの声だった。振り向けば、電話を続けていたらしい一人が、その手に持っている黒い携帯電話を差し出してきた。
「何だ」
「慎吾です」
鋭い目が、電話の主の名であることを告げていた。頭が、白くなった。この事態をメンバーから伝え聞いているだろう、ついこの間、勝手な思いをぶつけて別れたきりのその男が今、電話を介して何を言ってくるのか、それすら想像できぬまま、そうか、と中里は機械的に携帯電話を受け取っていた。
「俺だ」
目の前の男の、訝しげな視線を受けながら、震わせぬように、低めた声で言った。少しの間が、とても長い静寂に感じられた。耳に突き刺さったその声が、とても大きく感じられた。
「ナイトキッズのトップはお前だ。どうするかは、お前が決めろ」
揺るぎない声だった。一つの迷いも感じさせない声だった。それだけを言って、躊躇なく、電話は切れた。
中里は、鼻から深く息を吸い、口から深く吐いた。狭まっているはずの喉から肺に、新鮮な空気がすっと通り、体内で停滞していた厄介な何か――出し殻の空気、思考、感情、迷い――そのすべてが、代わりにすっと、外へと抜けていった気がした。
決めて良いのだ。責任を、被って良いのだ。ならば、ここで退くつもりはない。この勝負を、他の人間に任せてやるつもりもない。妙義最速の名は、まだ失ってもいなかった。
「お仲間と相談かよ」
もう誰ともつながっていない携帯電話を、後ろに控えるメンバーに返し、目の前の男に向き直ると、退屈そうだったその太い顔に、憎々しい笑みが載った。
「相談なんてしねえよ」、それを見返し、意識せず、中里は片頬で笑った。「ナイトキッズのトップは、この俺だからな」
眉を寄せていたり、歯を噛み締めていたり、脱力していたりと、見渡した皆の表情は一様ではなかったが、似たような感情が浮き出ていた。怒り、諦め、戸惑い。総じて暗い雰囲気を漂わせている十余人の男たちの前に、中里は前をしっかりと向き、立っていた。
エンペラーの岩城清次と名乗った、あの白いエボ4のドライバーは、態度に溢れる自信を裏付けるだけの、実力を有していた。レッドサンズとの交流戦の際、雨のダウンヒルに駆り出された秋名のハチロクを、途中から追走していた奴ではないかと、バトルの前、一人のメンバーが言っていたが、そうだとしても、おかしくはないだけの、高い技術と、優れた速さがあった。
だが、単純な、初歩的なミスを繰り返したのは、そんな相手の速さに、慄いたためではなかった。相手の速さに及ばない絶望を、傍に感じたためではなかった。自分に、慄いたのだ。自分の走りが失われていたことに、慄いたのだ。
今まで自分の走りには、確固たるイメージを持っていた。加速のポイントも、減速の限界も、ステアリングの角度も、抜け出る視界も、体にかかる重力も何もかも、現実のものとして想像ができた。それが、バトルをする前から失われていた。自分が勝てるかどうか分からない、それ以前の問題で、自分がどういう風に、この妙義山の上りを走るのか、分からなくなっていた。通用するのか確かめようとしていた、今の自分の走りすら、手元から失われていたのだ。間に合わせに構築することも不可能なほど、土台から、跡形もなくなっていた。
相手と勝負できる状態ではなかった。自分と勝負しなければならなかった。走り方を失ってしまった自分に、少しでも残しているはずの自分が、取って代わらねばならなかった。それに焦り、慄き、失敗した。結果、後れを取り、車を傷め、負けを喫した。負けるべくして負けた、そういうバトルだった。
受けるべきではなかったのだろう。他のメンバーに任せるべきだったのだろう。あるいは何か、こちらに利となる条件をつけるべきだったのだろう。その方が、勝つ可能性は高くなっただろう。そう考えもしたが、後悔はなかった。自分のやりたいことを、やろうとしたことを、今の自分にできることを、やりきった。その勝手な行動の責任は、取るつもりだった。
三度目の敗北だ。変わらず屈辱的だが、今度はチームのステッカーを切り裂かれ、見せしめのように相手の車に貼られてしまった。より無残に、チームに多大な不利益をもたらした。その責任を、取るつもりだった。一抹の同情も引かないために、厚顔なまでに平然とし、皆のどんな怒りも、不満も、追及も、要求も、堂々と受け止め、意のままに動く覚悟をもって、中里は立っていた。
そして、息を吸った。自分がそしりを受ける立場にあることを、そうされるべき行動を取ったことを、言葉で示そうとした。
「まあ、次っすね」
その前に、中央にいる男が、出し抜けに言ってきた。それがこの失望感に満ちた場にそぐわない、馴染みの居酒屋で馴染みのつまみを頼むような軽い口調だったため、中里は何の話かすぐには理解できず、言おうとしたことも瞬間忘れた。
「そうだな」、その隣にいる男が、馬に近い顔をわざとらしくしかめながら、頷いた。「こうまでされて黙ってイイ子決め込むとか、ナイトキッズの名が泣いちまうよな」
「って、俺らワルイ子なのかよ」
「フツウじゃねえの?」
「っつーか泣くような名ァあんのかって感じなんだけど」
「てめえはうちの名を何だと思ってんだ」
話の輪は、止める間もなく素早く周囲へ広がっていく。主題がどんどん枝分かれし、実のない雑談があちこちで生まれる、これではいつもと同じ、形骸化した会合だ。中里は慌てて頭を整理した。『次』というのが次のバトルのことなのか、次のトップのことなのか判断はしかねるが、とにかくまず、こちらの話を聞かせることだ。その上で、雑談を交わすなり無視をするなりしてもらわねば、つくけじめもつきようがない。
「はい」
そこで通った声を出した一人は、綺麗な目で、こちらを真っ直ぐ見ながら律儀に挙手し、指名されることを待っていた。この混沌の中、そこまで礼儀正しく振る舞われると、自分の話をするよりも先に、何だ、と聞いてやらないわけにはいかなかった。
「はい」、うら若いメンバーは律儀に返事をして、滑らかに語った。
「多分そのうち血の匂いを嗅ぎつけたピラニアのように、オタマジャクシレベルの身の程知らずな雑魚どもが毅さん目当てに寄ってくるでしょうから、とりあえずそいつら一匹残らず返り討ちにしてやったらどうでしょうか。毅さんに雑魚を片付けさせるのは忍びないですが、雑魚に毅さんを見くびられたりするのはもっと忍びないですし、というかハラワタ煮えくり返りますし」
淀みのない提案に、数秒後、他のメンバーから茶化すような感心の声と、拍手が送られた。その要点を十秒ほど遅れてようやく理解し、どういうことだ、と中里は混乱した。どういうことかは、疑うまでもない。このメンバーも、他のメンバーも、こんな状況でもまだ、自分を上に立つに足る走り屋という前提に沿って、話をしているだけだ。それは疑うまでもないことであり、信じがたいことでもあった。いくら何でも、適当が過ぎる。
「ま、今すぐどっかと正式リマッチってのも難しいし、冬前あたりにガツンと一発かませる状態にでもなってりゃあ、十分だろうよ」
混乱し、言葉を発せずにいる中里をよそに、傍で成り行きを眺めていた古参が、何かを狙うような笑みを、肉厚の顔に浮かべながら、当たり前のように話を加えた。その言葉を、他のメンバーは聞いているのかいないのか、否定しようともしない。これではいつもと同じなのだ。肝心な部分がなし崩しに決定され、後は下らぬ話題に終始する、いつもの、今まで通りの会合と、同じになってしまう前に、いい加減、話を聞かせてやりたかった。
「お前ら――」
さっきから、勝手なことばっか言ってんじゃねえ、とまず叫んでやりたかった。俺の話も少しは聞け。だが、息が喉でつっかえた。何もかも、勝手に片付けられていく。敗戦の説明など、立場上の責任など、そんなものは取るに足らないのだと、そんなもの、いささかも自分たちに影響は与えないのだと言わんばかりに、事は片付けられていく。そうしながら、この男たちは、認めているのだ。今も以前も変わりはないと、かかってくる奴らがいればぶちのめしてやればいいと、その役割は、自分に、ナイトキッズの中里毅にあるのだと、認めている。許している。感情が喉元に詰まり、声が出ていかない。
「っつーわけで、毅さん」
思い出したように、一人が顔を向けてきて、そして笑った。
「このナイトキッズ、妙義最速、続けてやりましょうや」
力強い笑顔だった。力強い言葉だった。周りの男たちはその言葉を聞いて、苦笑に似た、許容の笑みを浮かべた。
「お前何一人でまとめてんだよ」、脇からまた思い出したように言い、小突く男がいる。
「そうだよ抜け駆けしてんじゃねえよ」、その尻馬に乗る男がいる。
「いいだろ別に」、一人は反論する。「抜け駆け先駆けは江戸の華ってよく言うし」
「それって夜討ち朝駆けじゃねえの?」、一人は首を傾げ、
「どっちも違うからな、それ」、一人はため息混じりに指摘する。
愉快そうに笑っている者がいる。不機嫌そうに睨みを利かせている者がいる。眠たそうに呆けている者がいる。帰りたそうにもぞもぞしている者がいる。別の話に熱を上げている者がいる。こんなにも身勝手で、無責任で、したたかで、奇特な仲間たちに、認められ、許されて、支えられている。
「……悪いな」
辛うじて、声が出た。そこから感情が噴き出して、熱く目に沁みた。閉じたまぶたを指で押さえ、顎に力を入れる。ほんの少しの間、そうやって堪えていたただけなのに、「あ」、と目敏いメンバーに気付かれた。
「おい、こいつ毅さん泣かしたぞー」
「あーあ」
「ちっげえよこりゃ毅さんの、俺の愛に対する感激の涙だろ!」
「いや愛ってのはもっとこう、そんな限定的なんじゃなくて、宇宙的なもんなんじゃないか?」
「ブラックホールか?」
「愛があんまり広すぎるとな」、話が勢いづいた中、一人が妙に流暢に呟いた。「大事な人には逃げられちまうんだぜ」
抽象的だが、実感のこめられた言葉だった。誰もが瞬間黙り込んでしまうほど、鮮烈な印象を与える言葉だった。悟ったような顔をして遠くを見ている言葉の主には悪いが、話を振るには丁度良い沈黙が落ちていた。目に溜まった水分を指で拭ってから、咳払いをすると、どこか呆然と佇んでいたほぼすべてのメンバーが、はっと顔を向けてくる。
「どうせ噂が広まるだろうが」、それぞれの意識をより引き寄せられるよう、中里は果断に言った。「さっきのエンペラーって奴らのことについては、お前らで連絡のつく走り屋に、できるだけ正確な情報を回してやってくれ。群馬の走り屋全体に関ってくる話だからな。俺も知り合いに当たっとく。それで今日は、お開きだ」
了承の頷きと、別れの挨拶を交わし、皆は自由に動き出す。ナイトキッズとして、他のチームと仲良くしているわけではないが、メンバー個々人では方々の走り屋に通じている。栃木のランエボ集団エンペラーが、群馬侵攻を狙って来たという話は、明日には県内に隈なく伝えられるだろう。後は任せておけば良い。
信頼が安心を誘い、一つ息を吐いただけで、緊張が解け、腰が砕けそうになった。慌てて体に力を入れ直し、周りに目を転じると、道路に出る赤い車が一台見えた。思い出して横を見たが、チームのステッカーを蹂躙した男たちに、矢面から、悲壮に噛みついていた男の姿は、当然なかった。
国道沿いのファミレスの駐車場、建物から中ほどの位置に32を入れ、降車し、時刻と反比例するかのように明るい店内へと進む。客は少なく、口角の皺の目立つ女性店員が、暇そうに待ち構えていたが、知り合いがいると告げ、席を示して一人、通路を進む。窓際の喫煙席に、一人の男が座っている。テーブルには、底の見えかけているコーヒーカップと、煙草の吸殻が三本入った灰皿。
男は右手で頬杖をつき、その手と反対側にある窓を向いていた。長い茶髪が顔を隠して、通路から表情は窺えない。その男の前に、テーブルを挟み、中里は無言で座った。気配を察した男が、こちらを向いた。
「毅?」
ファミレスの駐車場の端に停められていた、赤いEG−6のドライバーは、頓狂な顔をして、そう言った。中里はただ頷いて、水を持ってきた女性店員に、ホットコーヒーを頼んだ。
硬くも柔らかくもない座席に腰を落ち着けて、ジーンズのポケットから煙草を取り出し、火を点ける。煙を吸い込み、吐き出すと、今日で最も安らいだ気分になった。その間に、目の前の男、慎吾は、頓狂な顔を、不審と不安で徐々に歪ませながら、こちらを見ていた。中里は煙草をもう一度吸い、灰皿に預けてから、その視線を真っ直ぐ受けた。
「この前は、悪かった。ちょっと、気持ちの整理がついてなくてよ」
唾で湿らせても、水分の足りない喉から出ていく声は、『この前』の気持ちと同じように、濁っていた。
「いや」、慎吾はすぐに口の中で言い、再び顔を窓に向けた。「お前の言う通りだろ。あのバトルは、俺には関係なかったんだ」
その平坦な横顔も、その平坦な声も、言葉以上の無関心を表していた。装っていた。こちらのことなど歯牙にもかけない振りをして、接触を避けようとしていた。実際、あのバトルに、この男は関係がない。自分と高橋啓介とのバトルの勝敗に、庄司慎吾は関係しない。だが、だからといってそれ以外、すべてに関係しないと解釈される義理はない。そんな消極的、良心的な振る舞いをこの男にしてもらいたくて、言わなくても良かったことを、言ってしまったわけではない。皮肉な表情の似合う顔に、罪悪感をにじませてもらうために、それを隠すための無表情を作ってもらうために、あんなことを言ってしまったわけではない。中里は水を飲んだ。冷たかった。喉が潤い、冷えて、意識まで冷えるように感じられた。グラスを置いたテーブルに、両肘をつき、身を乗り出した。
「なあ、慎吾」
静かに呼べば、うろんげな目を向けてくる。その程度の関心は、残している。消せないのだ。お互いに、その程度の関心すら、絶やせはしないのだ。
「お前が怪我をしてなけりゃ、俺はもっと、楽に走れてたのかもしれねえな」
頬杖をついたまま、慎吾は顔もわずかに向けてきて、鋭い眉をわずかに上げた。その尖り気味の口が開き、前歯だけが見えたところで、女性店員がコーヒーを運んできた。定型的に注文を確認した店員は、速やかに去り、アメリカの古いロックの音が、くっきりとした厚さで、席の周りを埋める。唇を閉じた慎吾は、テーブルに増えたコーヒーへ、目を移している。その慎吾を、中里はじっと見据えている。気配を感じたらしい慎吾が、居心地悪そうに、ちらと目を寄越す。その目が逸らされる前に、けどよ、と中里は言った。
「そんなことはありえねえ。秋名のハチロク卑怯な手段で潰そうとして、逆に潰されかけちまうのが、お前だろ。そういう奴がイイ子でいたらどうなったか、なんてこと、考える方が馬鹿ってもんだぜ」
声に弄する色を含めれば、慎吾の顔には隠しようのない苛立ちの色が乗る。意地が表れる。それを中里は見据え続ける。そして言う。
「そういうお前が、いつでも俺を目の敵にして、蹴落とそうとしやがるから俺は、お前にだけは絶対に負けねえ、って思えるんだしよ」
慎吾の目が見開かれる。逸らされることはない。逃げられることはない。逃がしはしない。互いが飽きるまで、互いを見限るまで、互いに終わりを決めるまで、逃がしはしない。離しはしない。
「だから、慎吾」
目を捉えたまま、離さぬまま、そして言った。
「お前はそのまま、お前でいろ」
目で、伝えた――お前は妙義で、俺を心底熱くさせてくれる、たった一人の走り屋だ。だからそのまま、いつでも俺に、かかってこい。
その目を、慎吾は手で覆った。もう包帯の巻かれていない右手で、目元を擦り、苛立たしげに舌打ちをし、横を向く。摩擦によるのみではない赤みが、不機嫌に歪んだその横顔に窺えた。何かにほっとしていそうで、何もかもが気に食わなさそうな、素直で、ひねくれた横顔だった。妙義ナイトキッズの最速ダウンヒラーと吹聴してやまない、庄司慎吾らしい横顔だった。一年もそれを見ていなかったような懐かしさと、常にあったような気安さを同時に覚え、中里は、少し笑った。
「俺の愛に感激したか」
良い気分が、口を緩ませた。窓を睨んでいた慎吾が、露骨なしかめ面をしてこちらを向き、横に口を開く。だがそこから何の言葉も出さず、強く舌打ちをすると、テーブルに乱暴に手をついて、席を立った。慎吾は横を過ぎ、中里は気を抜いた。目をつむりかけた。そのすぐ前に、脇から現れた慎吾の顔が寄ったのは、直後だった。
「妙義最速はこの俺だ。三連敗もしやがったてめえなんざ、話にならねえ。負け犬は負け犬らしく、家に帰ってそのちっせえ息子でも慰めてやるんだな」
テーブルに両手をつき、目線を合わせ、朗々と語った慎吾は、嫌らしい、自信に満ちた笑みを浮かべ、現れた時と同じ素早さで、目の前から消えた。驚きのあまり、中里は数秒動けなくなった。我に返ってすぐ、その姿が消えた方へと顔をやるも、視界の及ぶ範囲には慎吾の影も形もなく、狐につままれたような気分で、席に座り直す。何となく釈然としないまま、コーヒーに口をつけ、舌を苦味に晒すと、今しがた聞いた声が、言葉が突如耳に蘇り、適度に熱い液体を含んだ口よりも、耳がかっと熱くなった。
それのどこが、負け犬らしいんだよ。
思ったら、頬まで熱くなってきて、中里は水を煽った。しかしどうにも顔から首まで熱がある。これ以上微熱が悪化しないよう、慎吾の言葉については記憶の棚の上にやることにして、改めて目をつむり、棚の中から別の記憶を意識まで引っ張り出した。妙義山、負けたバトル、切り裂かれたステッカー、傷のついたメンバーたち。その生々しい記憶は、残酷な情景は、熱を引かせ、思考を冷たく回していく。
あのランエボ集団、エンペラーは、秋名にも行くだろう。秋名のハチロクは苦戦するかもしれないが、きっと勝つだろう。あの車もドライバーも、絶対に見くびってはならない相手だなどと、調子に乗ったよそ者には決して分かるまい。そして、赤城にも行くだろう。レッドサンズともやり合うだろう。高橋啓介は、必ず勝つだろう。アウェイであれだけの走りのできる奴だ。ホームアドバンテージがどれほどかは、想像に難くない。その上、後ろには高橋涼介が控えている。レッドサンズが控えている。サポート体制は万全だ。負ける要素は見当たらない。
高橋啓介は勝つだろう。そう思える。今の自分では、まだ敵わない。冷静に、そう思える。だが、この先の自分が、敵わないのではない。未来永劫、敵わないわけではない。だから、もっと、速くなってやる。そう思う。妙義で誰も並べないほど、慎吾も置き去りにできるほど速くなって、この先いつか、できるだけ近いいつか、自分らしい走りを、勝てる走りを、車を活かしきった走りを、あの男に見せつけて、教えてやる、そう思う。GT−Rは、無敵の王者だ。ロータリーなど、及ぶようなものではないのだ。
それが、今の自分にできることだ。自分にしか、できないことだ。
中里は、深く息を吐いた。体はまだぼんやりと熱いが、汗で濡れた下着は、冷たく感じた。今日、ゆっくりと寝てしまえば、明日には、微熱も治まっているかもしれない。疲労の残る腕を動かし、灰皿に預けていた煙草をつまみ、ぎりぎりまで吸って、視線をずらす。テーブル端、アクリル製の筒の中に、白い紙が丸めて入れられているのが目についた。伝票だ。
嫌な、それでいて親しみのある、些細な予感を覚えながら、煙草を灰皿に押し付けた手で、中里はそれを取った。案の定、コーヒー一杯の値段が記載されている伝票は、二枚あった。自分の分と、慎吾の分だ。伝票をテーブルに放り、あの野郎、と呟いて、椅子に体を預ける。
相変わらず、セコイ真似しやがって。
何の気なしに、そう思った途端、なぜか、やたらと笑えてきた。相変わらず、あの野郎。思うだけで、おかしくて、たまらなかった。堪えようがなかった。そうしてしばらく中里は、席に座ったまま、少ない客や店員に不審者として見られるのも構わずに、やけに晴れやかな気分でくつくつと一人、笑い続けた。
(終)
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