うそつき
よほど目的地への距離が短くない限り、出かける時には足として車を使う。徒歩が億劫なわけではない。ただ、自分の足で歩くよりも車を運転している方がしっくりくるだけだ。それでもあまり車に頼ってばかりというのもどうかという気がしてくる。特に給料日前は燃料と食料、どちらを確保するかという二者択一を迫られる場合もある。金銭的な面と体力的な面から、一ヶ月に一度くらい、暇な日に散歩をするようにしていた。何時間か歩き、もうそろきついと感じたら目に入った料理屋で食事と休憩を取り、来た時と同じ時間をかけて歩いて帰る。それだけだ。歩いている間、脳は思考を拒否したがるので、体は疲れるが精神は安らかになる。
夏場は曇りがちの日が良いが、秋場ならば今日のように快晴がうってつけだった。極端に寒くもなく暑くもない。街と街との境の田園地帯も過ぎ、ひたすら歩き続ける。太陽はきらめいているが、突き刺すような熱さはない。風が強いので、喉が渇く。ジーンズのポケットには財布と携帯電話と家の鍵とポケットティッシュとタオル地のハンカチを入れている。手には何も持たない。時々公園の水飲み場を利用しながら歩いていく。太股にだるさを覚え始め、腕時計を見れば、正午過ぎであることが多い。家を出てからは三時間近く経っている。市街地に入っていた。小売店が立ち並ぶ道だ。そろそろどこかで飯でも食おうか、と思った。思って、ふと、名を呼ばれたような気がした。気がしたが、気のせいだろうと思い、料理屋の看板を目で探す。
だが、
「おい、中里」
今度は気のせいとは思えなかった。鮮明な、低い男の声で、後方から、自分の名を呼ばれていた。中里は立ち止まり、振り向いた。歩道の中央に長身の男が立っており、こちらを見ていた。端整な男だった。男はその長身痩躯を黒いセーターとベージュのスラックスに包んでいる。その男が誰であるかはすぐに分かったが、にわかには信じがたかった。だからつい、中里は語尾を上げていた。
「高橋涼介?」
「よお。久しぶりだな」
男は微笑した。その誰が見ても美形と思うであろう顔に、このような華やかな笑みが浮かんだ場面など今まで中里は見た記憶もないが、男は間違いなく赤城レッドサンズの高橋涼介であるようだった。赤城の白い彗星とも謳われた、白いマツダRX−7FC3Sに乗る猛速の走り屋だ。中里は妙義ナイトキッズという走り屋チームに属しており、同じ群馬の走り屋として高橋涼介とは面識もあったが、交流はほとんどなかった。昼下がりに街路樹立ち並ぶ街中で笑顔で会うような間柄ではない。
「ど……どうしたんだ、お前」
中里がその整然とした佇まいにいささか気圧されつつ問うと、ああ、と高橋涼介は何事もないように、中里との間合いを縮めた。
「同級生の買い物に付き合っていたんだが、相手が一向に電気屋から動こうとしないもんでな。抜け出してきた」
「……抜け出し……って、いいのかよ」
「連絡は入れてある。本屋には付き合ったから、サブのサブのノーパソくらい自分で選べってな。あんな優柔不断と飯まで食っていられねえ」
「へえ……なるほど」
中里は得心した。学校の友人と買い物をしていたということか。そういえばこの男は医者の息子で本人も医学生だとかいう話を自分の属するチームのメンバーがしていた。そして将来医者になるために走り屋は引退したという話もしていた。有名な話らしかったが、中里は他の走り屋の個人的な事情など気にもしていなかったので、最近になるまで知らなかった。それにしても、やはり街中で会うような相手ではない。
「で……どうしたんだ」
「別に、どうもしないさ。車は大学に置いてきているし、どうせ戻らなけりゃならないから、ついでに散歩でもしようかと歩いてたら、こっちの歩道にお前らしき奴が歩いてるじゃないか。だからついでに声をかけてみた」
それもついでに入るのか、と思わないでもなかったが、そうか、と中里は頷いておいた。高橋涼介について中里は何を知っているわけでもなかった。秋名山で一度、赤城レッドサンズと妙義ナイトキッズとの交流戦を打診された時に一度、交流戦当日に一度、話すことはあったが、それはチームを率いる走り屋としての接触だった。単なる知り合いとしてまともに話すのはおそらく今日が初めてだろう。その程度の仲の相手がどういう基準でものを考えるのか、何を『ついで』とするかなど、知りようもない。とりあえず高橋涼介がそう言うのだからそうなのだろう、ということで、中里は納得した。
「お前こそ、何をやってるんだ」
続いて高橋涼介は問うてきた。
「何って」、と中里はそのまま答えた。「散歩だよ」
「散歩?」
「ああ。散歩」
「散歩か」
「散歩だ」
繰り返すと、高橋涼介は不思議そうに黙った。妙な沈黙が浮いた。中里が何だと尋ねようとしたところで、だが高橋が先に、そうだ、と言った。
「中里、食事はもう済ませたか」
唐突な問いに、あ?、と面食らいつつも、素直に中里は答えた。
「いや、これからだが……」
「俺もだ。一緒にどうだ?」
「は?」
中里は面食らい続けた。丁度そろそろ昼飯を食おうと考えていたところで声をかけられたから、飯は食べていない。しかし高橋涼介と食事を共にしようなどとは考えていない。そもそも今まで高橋涼介と一緒に飯を食べようと考えたことがない。
「それとも何か予定があるか」
高橋涼介は窺うように言ってくる。その涼やかな目に残念そうな色を溜められると、自分がとんでもなく悪いことをしているような気がしてくるから不思議だ。いや、と中里は頭を掻きつつ言った。
「予定も何も、時間があるから散歩してただけで別に俺には本日予定というものは特に……いや、それはともかく、何で俺がお前と飯を食う必要があるんだ?」
「じゃあ、俺とお前が食事を一緒にしてはいけない理由があるのか?」
なるほどこの男と自分が一緒に昼食をとる必要はないが、とらない理由を聞かれても、思いつかない。だから中里は言った。
「……ねえな」
「決まりだ。定食屋でいいか?」
断る理由も思いつかなかったので、ああ、と中里は頷いた。
五分ほど歩くと、高橋涼介は迷わず路地に入った。車がすれ違えるほどの幅はあるが、車も人もまったく見当たらない道だった。古びれた建物が並んでいる。看板が張り出ているものもあれば人の住んでいる気配のないものもあった。
「ここだ」
と言いながら高橋涼介が迷いもなく入っていったのはその中の木造に見える二階建ての一軒屋で、のれんはかかっていたが張り出ている看板にも業種は書かれておらず、一見ではどういう店なのかは分かりづらい様相だった。立て付けの悪そうな戸も高橋涼介は滑らかに開けたが、中里には閉めにくかった。店内は見かけほど狭くはない。テーブル席が四つにカウンターが十席ほどで、正午近くだからだろう、テーブルが二つとカウンターが五席埋まっている。汚れのこびりついているような古びた店の作りに似合わぬ若い女性が愛想良く水を運んでいる。
高橋涼介はその若い女性にこちらも愛想の良いを浮かべながら会釈して、奥の四人掛けのテーブルについた。中里は少々気後れしながらも、なるべく堂々となるように高橋涼介の後に続き、その斜め前の席に座った。
「ここは恐ろしいほど外れがないんだ。何でも好きなものを頼むといい」
立て掛けられているメニューをこちら向きに開きながら高橋涼介が言う。中里は相槌を打ってメニューを見た。手ごろな値段の定食が並んでいる。一品ものもある。酒もある。
「お前は何にするんだ」
「煮魚定食」
メニューから顔を上げて問うと、含みも持たさず高橋涼介はそう答えた。中里はメニューに目を戻した。六百八十円。
「おすすめは?」
今度はメニューを見たまま問うた。
「ボリュームが欲しいならAセット。豚丼の量が規格外だ。軽く済ませるなら煮物定食。煮物しかない。安く済ませるならBセット。掻き揚げは野菜の切れ端だ」
「……精通してんだな」
「月に一回くらいしか来ねえよ。それでも八年はメニューが変わってない。リニューアルの可能性はないんですか」
前半は中里への言葉だったが、後半は水を運んできた愛想の良い若い女性への言葉らしかった。女性はころころ笑いながら、よく通る声で言った。
「全然。あたしここにいると、たまに自分が歳取ってないんじゃないかって思っちゃう」
女性は続けて、注文よろしいですか?、と尋ねてくる。高橋がこちらを見た。中里は頷いて言った。
「じゃあBセットを」
「はい、Bセットですね。涼介君は煮魚定食ね」
伝票から顔を上げずに言った女性を見ながら、高橋は肩をすくめた。
「その通りだけど、随分自信があるもんですね」
「だって涼介君、うち来てそれしか頼まないじゃない。お父さんも覚えちゃってるよ、あの子はそんなに魚好きなのかって。じゃ、今しばらくお待ちくださーい」
女性は言うだけ言って奥に引っ込んだ。高橋はメニューを戻してため息を吐いた。テーブルの上には灰皿がある。中里はブルゾンのポケットに手を当てながら高橋に尋ねた。
「煙草いいか?」
「ああ。気にするな、吸ってる奴といつも一緒にいるからな。慣れている」
高橋は説明するように言った。そうか、と頷いて中里は煙草を取り出し咥えて火を点ける。煙を吐き出してから、グラスに口をつけている高橋に、もう一つ尋ねた。
「ここは馴染みか」
少し考えるように眉を寄せた高橋が、曲がらぬ視線を向けてきた。
「中学の頃からかな」
「中学?」、と中里は目を見開いていた。高橋涼介と中学と定食屋という単語が頭の中で絡まなかった。
「塾が近かったから帰りによく寄ってたんだ。ここのテーブルの高さは復習するのに丁度良かったし、酔っ払った他の客が奢ってくれることもあったしな。もずく酢ばかり奢られた時にはどうしようかと思ったが」
高さを確かめるようにテーブルを軽く叩いた高橋が、当時のことを思い出したのか顔を曇らせる。中里は笑っていた。
「中学生にもずく酢か。酔っ払いの発想だな、そりゃ」
「悪気がない分、断るのが難しかった」
「どうやって断ったんだ」
「断らなかった。断ろうとする前にその人が来なくなったからな。脳梗塞で」
高橋はよそを見ながら何でもないように言って水を飲んだ。中里は笑みを引っ込めていた。視線を戻してきた高橋が、重みが出た空気を割るように笑った。
「生きてるぜ、その人は。そんな顔をするな」
どこか悪戯めいた笑みだった。真面目一本な人間は決して浮かべない類の、背徳感の潜んでいる表情だった。何か不意をつかれたような感じがあり、そりゃ良かった、と中里はどもりかけながら言い、煙草を吸った。高橋涼介と一対一と話している。その状況が、今頃おかしな現実感を運んできた。知り合いではある。だが、知り合いといえるほどに互いのことを知っているかというと、否である気がする。調子が掴めなかった。
「中里」
高橋が言った。その声は改まった響きを持っていた。中里は煙草を灰皿に置き、無意識のうちに居住まいを正して、何だ、と言った。
「この前の交流戦では悪かったな」
眉をひそめた高橋涼介が言った。悔恨の念がそこには窺えた。中里は急に走りの話題を振られてまず戸惑った。今まで単なる知り合いとして高橋涼介が接してきていたから、その方向に思考を進めていたところだった。
「ダウンヒルに藤原を出すため、お前たちを利用した。すまなかったと思っている」
戸惑ったがために言葉を返せなかった中里に、高橋涼介は続けてそう言ってきた。その時点で既に中里は落ち着いていた。知り合いといっても走りを介してのものでしかない。走りの話題の方がよほど馴染み深いし、やりやすい。頭もうまく回る。
「そんなこと言われても困るぜ、高橋」、と中里は言った。「俺も、うちのメンバーもそんなことは気にしちゃいねえよ。俺がヒルクライムで負けた以上、ダウンヒルで出られる奴もうちにはいなかったし、交流戦はそこでもう終わりだった。その先のことは俺らには関係ねえさ。それに秋名のハチロクの走りなら誰でも見てえと思うだろ。雨なら尚更だ。例えばお前が俺らに気ィ遣ってそれを諦めたとしてたら、そっちの方が俺は謝ってもらいたくなったぜ」
そう続けて、笑ってやると、高橋は愁眉を開いた。そして、完璧なようで影のある笑みを浮かべるのだった。
「お前はいい奴だな、中里」
「あ?」
「俺が女なら惚れるところだ」
中里は灰皿から取った煙草を落としかけ、慌てて指に力を入れた。それを見て、高橋は笑みを深める。その顔からも発言からも、冗談だとは分かるのだが、この男の冗談になど慣れていないので、つい言葉通りの想像をしてしまい、中里は顔をしかめていた。
「どうした」、と高橋が笑みを消して不思議そうに眉を上げる。中里は顔をしかめたまま、いや、と煙草を吸って言った。
「お前が男で良かったと思ってよ」
「俺に惚れられるのは嫌か?」
「ドラテクの巧すぎる女に惚れられるってのは、男として辛いもんがあるぜ」
「俺が女だったとして、今ほどの技術を持てるとも限らないさ」
高橋は当然のごとく言う。中里は言葉は返さず頷いて水を飲んだ。この話の流れは妙である。走りの方に向けようと思い立った。
「お前、走り屋はもうやめたのか」
そして出した問いには不躾な色が浮いたが、中里は撤回しなかった。自分のチームのメンバーの話によれば秋名のハチロクに負けた時点で高橋涼介は引退を宣言していたという。その後高橋涼介のいる赤城レッドサンズと中里のいる妙義ナイトキッズは交流戦を行っている。その際に高橋涼介はそのような話を一つもしなかった。バトルはしなかったが高橋涼介は走り屋然としていた。今目の前にいる高橋涼介も中里にとっては走り屋でしかない。本人の口からそうと明言されないと実感が抱けなかった。
「自分を走り屋だと思うことはなくなったな」
間を置いてから、高橋が言った。中里は覗き込むように高橋を見た。
「どういうことだ?」
「走り屋であるかどうかなんて、心持ち次第ってことだ」
「なら、俺がそうだと思ってりゃ、お前は走り屋だってことか」
はぐらかされている感があったので、とりあえず言い返してみたものの、言ってから何か違うかもしれないとも中里は思った。高橋は理解しがたそうに目を細め、しかしすぐ、
「そういうことだな」
と、清々しい笑みを浮かべながら言った。やはり何か違うような気がしながらも、そうか、と中里は頷き、女性が料理を運んできたので、その話はそれまでとなった。
食べ終わってから揚げ物は腹に溜まりすぎるだろうかと思い当たったが、美味かったので良しとした。高橋涼介は綺麗に煮魚を平らげていた。器用だな、と感心した中里に、慣れだ、と高橋は得意げになるでもなく言ったものだった。
食事を終え、一服させてもらっている間、どうしても高橋涼介に目がいった。美麗な男だ。今のように腕を組んで黙って遠くを見ている様はおろか、煮魚の身を箸で取り口に入れる動作ですら絵になる男だった。そのうえ頭は良いらしいし走りは速い。つくづくわけが分からない。実は異星人だと言われても信じてしまうかもしれない。
「何だ?」
中里の視線に気付いた高橋が、用事があると思ったのか問うてきた。まさか異星人かと疑っていたとも言えないので、中里はなるべく打ち解けたことを言おうとした。
「お前、女の子とは来ないのか、こういうところ」
「女の子を誘うようなところだと思うか?」
客層は作業服の若者や中年者の男が主だ。デートの場には相応しくないだろう。そもそも打ち解けたことを言う必要もないのだ。まあそうか、と中里は言葉を濁したが、何かおかしそうに一つ笑った高橋は、流麗な声を出した。
「飯が食えりゃいいのに、女は無駄なものを付けたがるだろ。やれ店の雰囲気がどうだのやれそこの店員の態度が悪いだの」
女性と二人きりで食事をとるという機会が滅多にない状況にある中里としては、そうだな、と頷くのは立派な虚勢だったが、高橋はそれに気付かぬようにグラスを持ちながら続けて言った。
「無駄口を叩きたくて俺は店に来るんじゃない。そういう場合はファミレスにでも行く。そもそも折角安らかに過ごせる時間に敢えて女と無駄口を叩く気はない」
人間の情を絶つようなばっさりとした高橋の言だった。中里は煙草を吸いつつ顔をしかめた。
「お前、女の子が嫌いなのか?」
「そういうことじゃない」、と高橋はすぐに答えた。「ただ俺は、俺のやり方を邪魔するような奴とプライベートな時間にまで一緒にいる気にはならないだけだ」
「……なるほど」
筋の通った話だが、こいつと付き合う女の子は大変そうだな、と思う。ルックスとスタイルとステータスが目当てだけでは捨てられるということだろう。この男の思考を読めるようにならねばならないのだ。俺には無理だ。いや、女じゃねえしな、俺は。そんなことを高橋の顔を見たまま思っていたので、
「お前、何考えてる」
「あ?」
「人のこと、宇宙人か何かを見るような目で見てるぜ」
と高橋に言われ、中里はぎくりとした。それはさっきだ、とつい言ってしまうほどうろたえはしなかったが、今も似たような思いを込めて高橋を見ていたような気はするので、否定もしきれなかった。
「そんなことは……ちょっとはあるが」
「ふうん」
冷たい空気を放ってくる相槌だ。いや、と中里は慌てて話を具体的な方向に進めた。
「その、お前と付き合う女の子は大変そうだと思ってよ」
「どうしてだ?」
「邪魔しちゃ、一緒にいられねえんだろ。お前の考え先読みするのはきついと思うぜ。俺にはサッパリ分からねえ」
空気は少し暖かくなり、そこで高橋が堪え切れぬように笑ったので、体感温度は元に戻ったが、そうして突然脈絡もなく笑われたため、中里の思考は凍結した。
「……何、笑ってんだ」
「中里、お前は前提を間違ってるぜ」
「ああ?」
「俺は自分が好きになった女性には、そこまで求めないさ。それも含めて好きになるってことだからな」
嫌らしさのないしたり顔、というものを中里は初めて見た。どうも先ほどからうろたえてばかりだった。咳払いをし、煙草を二度吸ってから、中里は凍結した思考を叩き割ってつなげて進めた。
「言い方間違えた。お前を好きになった女の子は、大変そうだってことだ」
「好きになるだけなら害はない。手に入れたいと思うなら、それ相応の努力はしてもらわないと。こっちも生身の人間だ。都合がある」
筋の通ったことしか言ってくれないのが高橋涼介らしい。何とかこの男に一矢を報いられないかと、別段攻撃されているわけでもないのに中里は気を張り、つなげた頭を尋常でない速度で回した。普段ならそこで過負荷のために全体が停止してお手上げになるのだが、幸運なことに今回は思いつくことがあった。
「こりゃ、無駄口じゃねえのか?」
高橋は口を閉じて、中里をじっと見てきた。相変わらず涼やかな目だ。顔の筋肉を凍らせるような涼しさも含んでいる。走り屋として対した時には見当たらなかった冷たさをその目に埋めたまま、高橋はわずかに曲げた口を開いた。
「俺はお前にそこまで求めねえよ、中里」
その冷たさの奥に粘着質な炎が見えた気がした。そこまで求めない。好きになったらそこまで求めないと、高橋はついさっき言った。どくりと心臓が大きく鳴った。
「は?」
顔をしかめることも忘れて、中里は声をひっくり返していた。動悸がしてきた。頭に血がのぼってきた。言葉を続けることも忘れている中里へ、意味深長に顔を寄せてきた高橋が、言った。
「同性の場合はその限りじゃない」
開けっぱなしになっていた口から、
「……ああ、なるほど」
と、納得の声を中里が出したのは、それからたっぷり十秒経ってからだった。途端、寄せてきた顔を元の距離まで戻した高橋が、おかしそうに肩を揺らした。中里は首に浮いた汗を拭ってから、灰が溜まっていた煙草を灰皿に捻り潰し、高橋を睨んだ。
「笑うんじゃねえよ、そんな」
「騙されやすい奴だな、お前は」
馬鹿にされていることは丸分かりだった。中里は新たな煙草を吸おうか迷い、やめた。これ以上店にいると、からかわれ続けそうだ。口寂しさを水で紛らわせて、吐き捨てるように言った。
「お前が、高橋、俺を騙すだなんて誰が思う」
「無用心だ。俺は嘘吐きだからな」
「そうなのか?」
「どう思う?」
興味深げに高橋は尋ね返してきた。答えに困る質問だ。嘘吐きだと思うわけではないが、嘘吐きだと本人が言うのなら嘘吐きかもしれないし、しかし嘘吐きな人間が自分を嘘吐きだと言うのならば、それは嘘なのかもしれない。考えても分からない。どうやら、先の反撃など思いつかなかった方がよほど幸運だったようだ。後悔しつつ、中里はため息を吐き、言ってやった。
「厄介な奴だと思うぜ、俺は」
はは、と高橋涼介は明瞭に笑った。いくら中里が睨んでも、その顔が遠慮を表すことはなかった。
勘定を別々に済ませ、店を出ると、高橋はそこでようやく謙虚さを見せた。
「用事がなければ送ってやりてえんだけどな。生憎学校に戻らなけりゃならない」
「どうせ散歩中だ。気にするな。気持ちだけいただいとく」
中里が顔の前で手を振ると、そうか、と頷いた高橋が、
「俺はな」
と言って、殺されたように声を止めた。話の流れとして、そんなに送りたいのかと中里は訝ったが、声を生き返らせた高橋は、今の流れではないことを言った。
「ずっと、負けてからが始まりだと思ってたんだ」
その流れを、すぐには中里は探ることができなかった。
「何?」
「それだけのことさ」、と言った高橋が、片手を上げ背を向けた。「またそのうち会おう」
そのまま高橋はこちらを振り向きもせず、歩いて行った。中里はため息を吐いてから、高橋が進んだ逆方向、家へ帰る道へ足を踏み出した。
自然とまたため息が漏れてくる。高橋涼介と昼食をともにしたというだけなのに、精神的にやけに疲れた。高橋涼介。あの男と、一度はバトルをしたかったものだ。群馬の走り屋の鏡である。群馬に遠征してきた栃木のエンペラーをも撃退した男だ。
そういえば、面食らい続けたあまり、その件での礼を言うのを忘れていた。中里は振り向いた。道には誰もいない。今なら走って追えば見つけられるだろうが、中里は帰路に戻った。群馬の走り屋の面目を保ったことへの礼ならば、妙義ナイトキッズの中里毅として行いたかった。今では、そこまで体裁を整えられそうにない。近いうちに赤城山に行き、走り屋として、高橋涼介と相対したい。いつか走る約束が取り付けられれば言うことはない。あくまで走り屋としてだ。自分のことを走り屋と思わなくなったと言った、負けてからが始まりだと思っていたと言った、自分のことを嘘吐きだと言った男ではなく、走り屋である高橋涼介と、走り屋である中里毅として、話がしたい。そうでなければ、調子が狂わされ通しになりそうだ。
「……心臓に悪い奴だな、ありゃ」
歩きながら一人呟き、中里はまたため息を吐いていた。
(終)
(2007/11/17)
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