向き合い、向き合わない



 内臓がぐうっと押し上げられて、挙句に潰されているような圧迫感と痛みだった。肉体は悲鳴を上げ、侵入物を拒もうとする。意思が通用する場所ではなかった。ただ、慣れるのを待つしかない。中里は奥歯をがっしりと噛み、歯の隙間から浅く呼吸を取った。
「焦るなよ。過呼吸になる」
 こちらを貫いている男が、軽く眉をひそめて言った。その美しい顔を見上げると、胃が痙攣しかけたようで、中里は体をねじって突っ張りを伸ばした。目を閉じて、ゆっくり、小さく、息をする。涙が目頭に溜まっていた。痛みと、吐き気のせいだ。反射的な下部の収縮が止まったので、中里は目を開けた。相変わらず、見下ろしてくる男がいる。眉間のこわばりを取って、ただじっと、汗でしっとりと濡れている顔で、見下ろしてくる。見られること自体は、得意でも苦手でもなかった。峠で注目されれば気分は良いし、変にジロジロと眺められれば不愉快だ。要するに問題は、状況と限度である。そして、この状況で、ただ黙ってこれだけ見下ろされていては、頭がおかしくなりそうだった。中里は、顎に入れていた力を緩めた。
「何だよ」
 出した声は、みっともないほどしゃがれていた。男はこちらの両足を抱えたまま、くっきりと通っている目を細めた。
「よく動くからな」
 それが何を指しているのか、数秒してから理解すると、全身がかっと熱くなった。燃えているようだった。同時に、体を緊張させており、そこで男が初めて、く、と笑った。
「お前の顔を見てるよりも、反応が分かりやすいぜ」
 馬鹿にされていると分かったが、
「でもあんまり締め付けるなよ。萎えちまう」
 と続けられると、反撃はできなくなった。主導権は相手にあった。このおかしな事態が始まったのは、そうだ、この男のせいだ。だが、それに乗ったのは自分ではないのか? 中里は再び目を閉じ、全身に力を入れないように意識をした。これは、単なる肉だ。意味などない。何をされても、意味はないのだ。
「目を開けろよ」
 だが、声は降ってくる。中里は再度目を開いた。その拍子に、左の目じりから涙が一滴こめかみへと流れた。
「俺を見てろ。つまんねえだろ」
 男はつまらなそうな顔で言った。中里は何かを言おうとしたが、何を言うべきか見つけられなかった。ただ見上げているだけで、時間が過ぎる。いつまで経っても相手の肉は異物に過ぎず、溶け込んでくることはなかった。やがて何の予兆もなく、みしみしと突き上げられた。歯をかみ締めていた。吐きそうだった。半分ほど抜かれて体が安堵すると、次の瞬間また埋められている。休まる時がないほどの繰り返しに、息の仕方を忘れかけた。目を開いていることすら苦しく、男を見続けるのは至難の業だった。視界が閉じたり開いたりするたびに、感覚が切り替わる。くるくると回る。音は異様な響きを持ち、かと思えば単調で、脳みそを滑っていき、また意味を取り戻す。それでも繰り返されるうちに、男の顔に疲労を見つけるうちに、何かが体内においてか魂においてか、諦められ始めていた。痛みはしびれに変わり、しびれは全身に広まった。無感覚とは似て非なるものが、体を支配していく。そして動作を一旦緩めた男は、やおらその顔を奇妙にゆがめた。
「俺じゃ、不満か?」
「ああ?」
 問いの意味が分からず、こちらも顔をゆがめていた。男は奥まで入れた状態で止まり、手を頭の両脇に落としてくると、顔を寄せてきた。
「あいつにはこうされたいんだろ」
 ゆがんでいた顔は、いつの間にか単調に昆虫の足をもぎ取る子供のような平凡さに覆われていた。問いの意味を理解して、中里は舌打ちしていた。
「そんなんじゃ、ねえよ」
「へえ」
「そんなんじゃねえ」
「好きなんだろ?」
 この男はそうして少しも笑いもせず、かといって真面目さにも欠ける声で、ただ興味がなさそうに、脳みそを揺らすような問いをかけてくる。何かを掴みかけ、しかし逃したので、中里は同じ答えを繰り返した。
「そんなんじゃねえんだよ、俺は」
「じゃあ何で、俺はお前にこんなことをしなけりゃならないんだ?」
 中里は右手を握り、その指や掌の鮮明さを確かめながら、苛立ちによる舌打ちをした。男はそれを答えと受けたのか、変わらぬ素朴と言うには裏に奥深いものを潜ませている顔で、好奇心すらないような声で、続けてきた。
「あいつが好きなら、俺でも勃たせろよ。俺はあいつの兄弟だぜ」
「ワケ分かんねえこと言うんじゃねえよ」、と中里はたまらず叫んでいた。「頭おかしいんじゃねえか、お前」
 沈黙がおりる。頭がおかしくなりそうだった。最初からおかしかったのだ。倒錯的な欲望は否定できなかったが、それは具体性もなければ現実性もなかった。肉体には結果として現れるのみで、過程は必要なかった。
「俺の頭をおかしいって言うならな、中里」
 間近で睨み上げても、男の表情は一切変わらない。一切何も、影響を与えられない。男はその整いすぎて二次元と三次元が混在している顔のまま、言うのだ。
「その頭のおかしい俺の言うことを聞いたお前こそ、頭がおかしいってことだ」
 そして顔を再び遠ざけ、問答を打ち切るように動き出す。欲望は否定できなかった。具体性のない、現実性のない欲望だ。それが今、形を与えられようとしている。今、この男は、蚊を殺すほどの情熱も憎しみも持たず、それを明確にしようとしている。抑圧されたその欲は、喜び勇んで浮かび上がろうとする。握った拳の感覚は、もうおぼろげだった。しかし、概念だけはいつまでも鮮明だ。意味は明らかで、それを理解できるだけ、頭は正常だった。
「真面目にこんなことを話しても、反吐が出そうになるが」
 動きながらも男は、息切れもせずに言う。
「俺がこうしてお前に欲情するのは、お前があいつを好きだからだよ」
 中里は何かの影を脳裏に見た。すぐにそれを見失ったのは、喉が決壊しそうになったためだ。まったく、反吐が出そうだった。痛みは遠い。ただ吐き気がだけが続いている。しびれは頭を襲い、思考をさえぎる。自身の把握が難しくなり、あるいは既に形は与えられているのかもしれないが、原型には決して重ならないだろう。なぜなら目の前にいるのはこの男に過ぎず、中里にとってその男は、あくまで高橋涼介という人間だった。


2007/01/16
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