内と外



 休日を控えた峠では、メンバーらが相も変わらずな馬鹿騒ぎを繰り広げていた。蓄積された疲労を感じたので、中里は走りを早く切り上げて自宅に戻ったが、小腹を満たすための晩飯の残りの酢豚を電子レンジに入れながら、突如騒音防止運動を掲げ始めた仲間たちの、台本のないコントを思い出しては、何度も噴き出しそうになった。何でまたああも頓狂な連中が揃っているのか、類は友と言うやつなのか。ありゃもうちょっと、どうにかなんねえもんかな、電子レンジが酢豚を温めている間に、冷蔵庫から缶ビールを取り出し口をつけ、そう真面目に思ってもいないことを、しみじみ呟く。
 そこで電子音が鳴った。レンジのではない。それよりも長く、規則的に続く音だ。携帯電話の着信音だった。その音の合間に、レンジが酢豚を温め終えたことを知らせる。こんな遅くにかけてくるなら、どうせチームのメンバーだろう。峠で何かあったのかもしれないし、何もなくてもただ電話をしてみたのかもしれない。馬鹿騒ぎの余韻に頬を緩ませながら、中里は右手にレンジから出した酢豚の皿と箸一膳を、左手に缶ビールを持ちながら居間に戻り、テーブルの上の携帯電話と酢豚の皿を交換した。
 開いた液晶画面に表示されたのは、メンバーの名前ではなかった。だが、峠関係ではある。それ以外の関係でも、あった。中里の顔からは、波が引くように、笑みが消えていた。その後に押し上げられたのは、動揺だ。コールが三回続いても、中里は動かずにいた。四回目にしてようやく、通話ボタンを押し、耳に持っていった。
「はい」
「俺だ」
 耳から脳に真っ直ぐ突き刺さる、低く深い声。誰であるか、疑いようのない、明瞭な声だ。
「……ああ」
「久しぶりだな」
「久しぶり、ああそうだな、久しぶりだ」
「二ヶ月ぶりか」
「そうか」
「覚えてたか?」
 微かに笑いを含んだ声で尋ねられ、考えるより先に、二ヶ月封じていた記憶が蘇り、中里は恐ろしいほどの速さで、体が熱を帯びていくのを感じた。
「何を」
 出した声が、震えて掠れる。それを電話先の男は、静かに笑う。
「俺のことを」
 嘲るような、それでいて愛でるような声音に、呼吸が詰まった。左手が、やけに冷たく感じる。缶ビールは冷えきっている。それを持つ左手だけが冷たくて、体中に駆け巡る熱の高さを思い知らせる。
「……忘れかけてたぜ」
「薄情な奴だな」
「二ヶ月も経ってんだから、そりゃ」
「でも、覚えてた」
 吐息に似た、嬉しげな声。それを二ヶ月の間、忘れようとしていた。ほとんどは、忘れていた。思い出しそうになったら、他のことを考えた。それで何とか、平穏を保てた。一つ思い出したら最後、全部、思い出してしまうからだ。だから、忘れてなどは、いなかった。忘れようがなかった。覚えていた。その通りだ。
 沈黙が落ちる。二人きりで、ただ傍にいることを楽しむような、沈黙。電話越しだというのに、親しい沈黙だった。気まずさは、伝わってこない。それに、中里は気まずさを感じた。二ヶ月ぶりの会話で、自分だけが、混乱しているように思えた。
「用がねえんなら、切るぞ」
「中里」
 こんな状態を、続けていたくないのに、その声に名を呼ばれると、咄嗟に動けなくなる。ついさっき、ビールを落とした喉は、真昼の砂漠のように、からからになっている。それに鞭を打って、何とか声を出した。
「何だ」
「好きだぜ」
 低く、深く、甘い声が、鼓膜を貫き、脳を刺した。悪寒に襲われたように体が震えて、左手の缶ビールを落としかけた。息が乱れる。酸素が足りない。この苦しさから、どうにかして、解放されたかった。
「切るぜ」
 返事を聞かず、中里は通話を切り、缶ビールと携帯電話をテーブルに置いた。そのまま意味もなく、台所と居間を往復する。頭がどうにかなりそうだった。テレビの前で止まり、落ち着こうとしたが、じっとしていられず、靴を履いて、外に出た。

 何も考えないようにして、車通りも人気もない、深夜の寂しい住宅街を、ただ歩く。だが、考えないようにしても、足を進める度に、あの男の声が、頭蓋骨の中に響き渡った。
 ――しばらく会えないからな。
 二ヶ月前、高橋涼介は端整な顔を、少し苦そうに歪めながら薄く笑ってそう言うと、中里の体を翻弄し尽くした。あらゆる部位、あらゆる体勢、あらゆる言葉で、中里を追い詰めた。凄まじい体験だった。思い出すと、あの男に触れられた部分が、すぐに熱を持ち始める。だから、思い出さないようにしていた。忘れようとしていた。
 幸い、会う約束を取り付けるのは向こうからで、中里から何もしなければ、忙しいとした高橋涼介が、訪れることもなかった。会いたくない、わけではなかった。こんな、通常の走り屋同士、男同士ならあり得ない関係を持ったのは、それを積極的に進めようとした高橋涼介だけにではなく、自分にもそういう意思があったからだと、中里も認めてはいる。あの、引退した以後もカリスマと崇められる伝説の走り屋、理知的で現実的なくせに、それ以上に情熱的で夢想的な、高く、細く、美しい男。その非の打ちどころのない歪んだ強さ、嘘くさいほどの真っ直ぐな弱さに、どうしようもなく惹かれたからこそ、自分からあの男を、受け入れたのだ。
 だが、さすがに二ヶ月前の体験は、度が過ぎた。二日用意した休みを、寝込んで過ごす羽目になった原因を、あの野郎、と憎々しく思うだけでも、押され、つねられ、吸われ、噛まれた痕跡の残る体が、かっと火照り、敏感なままの下腹部が、甘く疼いた。そんな状態で、日常生活がまともに送れるわけもない。思い出さないようにしなければ、忘れることを心がけなければ、やっていられなかった。自慰ですら、できなかった。二ヶ月だ。最初は夢精したり、無性に苛立ったりもしたが、しなくなると、それはそれで慣れるものだった。元々、走りに傾倒している間は、関心も途絶える事柄だった。
 ――中里。
 車が二台すれ違えるかどうかという幅の道を、一心不乱に歩こうとしても、そのなれなれしい声は、変わらず頭の中から聞こえてくる。外へは決して出ていかない。歩調を速めると、呼吸が疎かになって、思考がまばらになる。そこに記憶が這い出してくる。癖のない黒髪、細められる目、綺麗に上がる唇。
 ――好きだぜ。
 耳元で囁く深い声、合わせられる体毛の薄い肌、下腹部を這う長い指、その下をえぐる熱いもの――。
 中里はよろけるように歩き、電柱に手をついて、そのまましゃがみ込んだ。顔が熱い。膝が利かない。胸を押さえる。心臓が苦しい。それよりも、ジーンズの奥が苦しいが、そこにはとても手をやれない。
 呼吸を整えて、あたりを見回す。誰もいない。ほっとする。だが、このまま座っているわけにもいかない。これでは不審者だ。早く、家に戻らなければならない。電柱伝いに立ち上がる。その動きだけで、股間にどうしようもない刺激が走って、内股になる。
 すぐに乱れた呼吸をまた整えて、改めてあたりを見回す。うねる道に沿って建ち並ぶ家、その切れ目の広場。公園だ。明かりはない。
 中里は、唾を飲んだ。駄目だ、と思う。家まで五分もかからない。早く戻れ。思いながら、足はその小さい公園に向かって動く。小さな車止めを越えて、中に入る。ブランコに進み、その横にある、ベンチに座った。端に尻を乗せ、背もたれで半身を隠すように、身を縮める。何を考えてるのかと思う。誰かに見つかったらどうするのか。見つかったら、どうにかなるようなことを、するつもりなのか。そんな意地汚い人間に、いつからなかったのか。
 遠くには幹線道路を過ぎる車の音があり、近くには緩い風に木々が騒ぐ音と、虫の声がある。いずれも大きくはない。自分の息遣いは、はっきり分かる。自分の考えも、はっきり分かる。クソ、クソ、クソ。思いながら、手を股間に伸ばしている。触れてしまうと、もう駄目だった。ためらうこともできなかった。膨らんでいるジーンズの前を開き、下着の中のものを掴み出す。硬くなっているそれを、上下に軽く擦っただけで、達してしまいそうな快感が腰の奥に広がった。久々の確かな刺激に、思考が飛ぶ。手が、止まらなくなる。
 ――気持ちいいか。
 目を閉じて行為に耽ると、頭の中に声が響く。耳元で囁かれた感覚が蘇る。後ろから抱かれながら、誘導された手の感触が蘇る。答えを声にしてしまった羞恥心と、それが増加させた快楽が蘇る。右手で膨れたものをしごきながら、左手をシャツの下に入れて、撫でられた肌を辿っていく。胸を軽く擦っただけで、腰に甘い痺れが走った。それが尾骨から脳天まで駆け上り、弾けて、簡単に中里は達した。
 ――沢山出たな。
 楽しげに笑う声が聞こえた気がして、目を開く。薄闇でも分かる、土の上に、白いものが点々と零れている。手の中の自分が、まだそれをぼたぼたと零している。風が吹き、汗のにじんだ肌を冷やす。頭も冷やす。ぞっとした。収まりきっていないものを構わず下着にしまい、ジーンズの前を左手だけで閉じて、周りを見る。誰もいない。急いで立ち上がり、地面に落ちた精液を、靴で土の中に隠す。もう一度周囲を見回して、人気がないことを確認してから、公園を逃げるように出た。べたつく右手は、何にも触らないようにした。
 一歩、何かを越えてしまったような感覚だった。それが何かは分からない。だが、もうその一歩前には戻れない。その喪失感が、欲望を吐き出した後の倦怠感よりも、後悔よりも強く、体を縛った。足元はふわふわしていた。家に帰って、手を洗いたい。すべて洗い流してしまいたい。そうすれば、何もなかったことにできる。戻れない場所を、気にせずに済む。
 アパートが見えてくる。もうすぐだ。玄関のドア。それが見えた。その前に立つ、背の高い男の姿も、見えた。
「鍵もかけずに出かけるなよ。どうかしたかと思うだろ」
 責めるような、それでいて労わるような声。近づくにつれはっきりとする、少し苦そうに歪んだ笑み。思考も呼吸も、時間も場所も、忘れそうになる。どれも、忘れられない。何も忘れられないから、こうして立っているしかない。
「どうした」
 暗がりでも光って見えるような、白く美しい顔が、怪訝で曇る。中里は何かを言おうと試みる。口を開き、息を吐く。声にはならない。忘れそうな呼吸だけが、繰り返される。クソ、クソ、クソ。いくら思っても、言葉にならない。
「中里」
 曇った顔が間近に寄る。そしてその曇りが取れていく。右手はぴりぴりしている。俯きたいのに動けない。駆け出したいのに動けない。動けなくなっている。
「お帰り」
 何も知らないくせに、知ったような顔をして、知らないような声を出す、その男に名を呼ばれれば、中里は、動けなくなる。咄嗟にも、永遠にも。
(終)


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