未確定の視野



「自分の部屋でこんなもん、使うのか」
 机の前で学業と雑事に一段落をつけた涼介が、椅子に座ったまま振り向いてすぐ合った太い目を、倫理を損なう不祥事が露見したかのように気まずげに、だがそれよりも単純な困惑の強い調子で泳がせた中里は、それを手の中にある黒いアイマスクに落としながら、場当たりめいた疑問を発した。
「どうしても目を開けてしまう時なんかはな」
 涼介は祖父譲りの重厚な回転椅子を軋ませるように足を組み、そう答える。ふうん、と中里はぞんざいに頷きながらも、腰掛けているベッドの枕元にアイマスクをそっと置く。そうやってこの部屋に日常を入れ込もうとするのは、中里なりの抵抗なのだろう。特殊性の否定。それこそが、行為に固有の意義を与えることになるとも知らずに。
「つけてみるか?」
「あ?」
 それ、と、涼介が細長い指をアイマスクに向ければ、中里は怪訝そうに顔をしかめる。
「いや、別に、俺は」
「集中できるかもしれないぜ」
 言って涼介は立ち上がり、ベッドに歩く。一歩、二歩、三歩。大股で行く間、中里はあからさまに強張らせた顔を、逸らしはしなかった。いびつな現実に一見果敢に、実際には姑息に立ち向かおうとするその男に、涼介は喉を焼くような愉悦をもたらされながらも、冷然と言葉を振り下ろした。
「俺を見なくていいんだからな」


 自分よりも実力の劣ると知れた相手に、純粋な知識欲が駆り立てる、走り屋のデータベースを構築するため以上の興味など、抱いてもいなかった。だが引退後、久々に自らがバトルをする際の、末端の神経が痺れるような緊張を味わっている状態でも、頂上の駐車場を取り囲む雑然とした数多のギャラリーの中から中里を、あっさりと見つけていた。意図せぬうちにその男を、気にしていたのだ。
 来てたのか、と、思った。意外だった。そこまで自分のバトルに関心を持たれているとは認識していなかったし、第一ダウンヒルのスタート地点に立っていたところで、結果は人づてに知れても、ドライビングを間近で体感することはできない。走り屋として自然に生きていられる男が、速さへの執着心を隠さない男が、何のためにそんなところに現れたのかと、見つけた直後は不思議にも思った。
 だが、すぐに得心がいった。ダウンヒルのスタート地点は、同時にヒルクライムのゴール地点でもある。それをその目で見るためだと、赤城山ヒルクライムのゴールをランエボよりも先に駆け抜けるイエローのFDを見るためなのだと、そのドライバーの勝敗を、勝利を見届けるためなのだと、中里の様子を窺い瞬時に、涼介は理解した。遠くからでも、その濃い眼差しに溢れる情熱、自分の横に立つFDのドライバーであり、実の弟である男に向けられる強い、確固たる意識は、感じられた。
 胃の底が、重く冷えた。失望だった。中里がなぜ現れたのかと不思議に思いながらも、同時に無意識のうちに、その意図を都合良く解釈していた。決戦前の調整の時間であることも、束の間忘れていた。それを思い出した頃には、神経は焼き切れそうなほどに鋭敏になっていて、自分が無視していた卑しい自分の存在を、掌握できていた。
 お前はあいつが好きだろう。
 バトルから一週間が過ぎ、交流戦の時に交換していた携帯電話の番号を利用して峠に呼び出し、他愛もない話から、弟への恋情をそう指摘すると、中里は意表を突かれたように眉を上げ、同時に警戒を露わにしていたその顔から、強張りを解いたものだった。
 何言いやがる、藪から棒に。
 明確な安堵が、血の流れをよく透かすその白い皮膚と唇を弛緩させ、余裕に基づく嘲りを生んでいた。誤魔化しているようには、見えなかった。誤魔化そうとは、していないのだ。秋名山で一度、交流戦で一度、計二度しか会っていないものの、中里毅という男が、嘘を吐くのが下手な人間であるものと、悟っていた。その人間性を感知できるほどに、無意識に近い次元で、意識を注いでいたからだ。
 誤魔化すつもりか。
 そんなつもりがないと分かっていながら、涼介はそう続けていた。中里は、飽いたように笑みを消し、次には苛立ちを反映するように、顔をしかめた。
 何をだよ。
 お前が、啓介を好きだということを。
 馬鹿らしい。そんなくだらねえ話しかねえってんなら、俺は帰るぜ。
 馬鹿らしい。その通りだ、と思った。バトルで敗北を喫したからこそ、走り屋としての中里が、走り屋としての啓介を、憧憬する向きもあったのかもしれない。それを恋情と解釈するなど、確かに馬鹿らしい、くだらない話だった。だが、悠然とそう言い背を向けられる中里の、その過ぎたる余裕の、安堵の正体が、気になった。
 なら、あいつに忠告させてもらうぜ。
 あ?
 する気もないことを告知して、そのまま立ち去ろうとすると、おい、と、焦った声が後ろからかけられた。
 待て。何だ、それは。
 頭の中で三秒数えて振り向いた先に、狼狽の染み出している中里の顔があった。計算通りだった。それに気休めの達成感と、陰湿な猜疑心とをもたらされながら、生来的な冷静さ以外を表にも出せぬまま、涼介は詭弁を吐いた。
 俺はあいつの兄としてもサポーターとしても、あいつの走りの障害になることは、排除しなきゃならない。特に、あいつ自身で処理しがたいようなものは。
 待てよ、高橋、俺は、違うっつってんじゃねえか、誤解させるようなことは、言うな。
 平静を失っている中里は、素直なあまりに、詮索させる隙を過度に表していた。そこに付け込む不当性を、涼介は分別をもって理解していたが、それを行動に反映させるだけの社会的理性を、その時点で放棄していた。魔が差した、というよりは、本望を、すくい上げたのだ。
 信用、できないな。
 信用、だァ?
 ありもしないことなら、どうしてそんなに焦る必要がある?
 ありもしねえこと、人に言い触らされたら、誰だって、焦りもするだろうが。
 焦るのは、嘘を吐いているからだろう、不誠実でいるからだろう、そういう疾しいところが少しでもあるからだろう。
 見下ろしながら、違うか?、と問うと、中里は答えに詰まって目を逸らす。それは、違ったのだ。最早弟がどうという話ではなかった。だが、手の内を明かし、冗談として終わらせる気も、起きなかった。
 ……信用なんて。
 小さく呟き、視線を戻してくる中里に、眉を上げて続きを促す。一見威圧的なその瞳には、細かい不安が入り混じっていた。粉砕したガラスが全体に散らばっているようだった。きらきらと光り、同時に頼りなく揺れる目は、涼介のみを、捉えていた。
 お前が、俺を、信用なんて、することが、あるってのか。
 瞬間、噴き出しそうになった。その感情の筒抜けさを信用しているからこそこんな、お門違いと判明した追及を、洗脳じみた断定を、止められないのではないか。
 あるさ、お前が正直になるんなら、俺はいつだってお前を信用できるんだぜ。
 顔面筋の裏側にこびりついた滑稽さを感じながらも、結局最後まで涼介は笑わず淡々と、それを言い切った。
 お前は啓介が好きだろう。なあ、中里。


 ベッドの端に腰掛ける涼介の足の間には、黒いアイマスクをつけた全裸の中里がひざまずいている。冬場でも適温に調節された室内で、汗ばんだ肌を赤らめながら、涼介のペニスをしゃぶる中里の動きは常より過激でいやらしい。直接の視線を意識せずに済むことは、多少なりとも我を忘れさせるようだった。
 その行為を受ける涼介もまた全裸で、いつもなら端麗なまま色も形も変わらぬその顔には、快感に引き攣れた微笑が浮いている。見られていないという意識は、涼介をも半ば自由にさせるのだ。
 中里の熱い口内に勃起させられた、自分の完璧なペニスを見るだけで、笑いたくなるほど、興奮する。だから涼介は、声を出さずにうっすら笑っている。視覚によって感情を知られない安心感が、こうまで口腔性交の快感を増大させるとは、予想外の効用だった。射精欲も、存外早く高まった。
 先走りだけでなく、精液まで吸い出される前に、ペニスを取り戻し、唖然としているような中里をベッドの上へと引っ張って、自分の足をまたがせた。その中心にある立派なペニスは、涼介以上に完璧に勃起している。対象の明白な欲望の象徴たるそれを見るだけでも、絶頂に届きそうなほどの興奮に襲われる自分の存在は、中里に容易く感知させてはならない。関係の崩壊を、招いてはいけない。だが視覚を封じさせている今は、それを防ぐ努力も、多くは不要だ。その分、行為に没頭できる。
 口での奉仕を中止させられた中里は、調教された自発性から、涼介の足にまたがったまま、別の形でペニスを求めようとする。それを制し、涼介はその尻に手を差し入れた。
「ん、うっ」
 中に、人差し指と中指を潜り込ませると、中里が呻く。今の今まで、奉仕と時同じくして、その手で解されていたはずの場所は、指二本を入れただけで、もう余裕がない。
「こんな狭いところに、入ると思うのか」
「待っ、や」
 十分にぬめりだけは纏わりついているそこを広げるように、涼介は指を動かした。敏感な部分を確実に刺激することも忘れずに。う、う、と苦い声を吐き出しながら、淫らに腰をくねらせた中里は、ほどなくして勃起したペニスから濃い精液を、何度も何度も放出した。相当溜めていたようだった。
「我慢の利かない体だな」
 そうしたのは自分だと、後ろの拡張を十分に行う前に射精してしまうほどに、中里の体を快楽に従順なそれに仕立てたのは自分だと、分かっていても、揶揄せずにはいられなかった。柔らかくなった尻が、抵抗するように、それでいてより太いものを欲しがるように、入れた指を締めつける。反応は、いつでも期待通りなのだ。
 涼介はしばらくその感触を、目を閉じ指のみでうっとり味わってから、それを引き抜いた穴に、コンドームで覆ったペニスを挿入した。中里はまた呻いたが、そこに苦痛の種は撒かれておらず、涼介がベッドに背を預けて腰を揺すると、あ、と堪えがたいような声を上げた。
「は、あ……」
 短く息を吐き、しゃがんだ体勢でぎこちなく動き始める中里の、尻は適度に滑らかで、いつも通り、吐き気がするほど官能的だ。問題はない。ただ、見上げる先、アイマスクをつけている中里が、浅ましく腰を振りながら何を、誰を、暗闇の中で思い描いているのかという疑念が、不意に意識に絡まった。
「あいつの名前を呼べよ」
 お前はあいつが好きなんだろ。浅い位置で先端を内側に擦りつけ、下から囁くと、中里は涼介を包む肉で応える。あいつに抱かれたいんだろう。我慢ができなかったんだろ、だからここに来たんだろ。
 我慢ができない時には言えと、そう言った。そうしたら、信用してやると。偽りの自白を強要した後に、真実に縋らせた。それは最早、弟がどうという話ではなかったのだ。今の中里の頭にそんなもの、あるはずがなかった。だが自ら捏造した前提を、忘れることもできなかった。
 あいつを抱きたいのか、それとも抱かれたいのか。そう尋ねた時、中里の目に映っていたのは、確かに自分だった。掠れ切った声で、だかれ、とだけ言った中里が、追い詰められた様子で見上げてきたのは、確かに涼介だった。中里に見られていないという意識は、中里が、自分を見ていないという意識は、そんな涼介の確信を危うくする。相反する言葉をもってして、正しき反応を引き出さねば、安心できないほどに。
「本当は、あいつのペニスが欲しいんだろう」
 だったらあいつの名前を呼べよ、言って際どい部分を圧迫すると、背を反らして切れ切れに喘いだ中里が、苦しげに唾を飲んでから、すべてに屈するように、口を開いた。
「け、啓介……」
 一度声にすると、たがが外れたらしかった。中里は涼介の腰の上、下品に尻を振り始め、勃起したペニスを揺らしながら、気持ち良さそうに喘ぎ立てた。
 啓介、啓介、啓介。
 そう言わせたのは自分だというのに、その名が耳に入る度に少しずつ、澱のように、胸の奥に溜まっていくものがあった。重く刺々しいそれが、心臓にまとわりつく。鼓動を速めながら、体温を奪っていく、それは嫉妬だ。アイマスクに閉ざされた中里の視界、そこにいるはずのない人間に、あるいはそこにいるはずの人間に、今ここにいる自分を介在させられない状況に、涼介は嫉妬しているのだ。
 幼くして愚かな感情だった。だからこそ捨て去れない、自分の一部だった。それが、背中にまで入り込んだような気がした。涼介はその重みを振り落とすように上半身を起こし、中里の体を抱くと、自分ではない男の名を呼び続けるその口を、自分の口で塞いだ。
「ん、ん」
 そうしながら、腰で大きく突き上げれば、反射のように素早く強く抱きついてきた中里が、大きく震える。その舌は涼介の舌に素直に絡み、その内臓は涼介のペニスを厳しくも器用に締めつけて、快感を注ぎ込んでくる。頭に恍惚の空白をもたらすそれに幾許か身を委ね、涼介は中里をシーツに倒し、正常位にして律動を始めた。
「あっ……ひぁ、あ」
 口を離すと、濡れた厚い唇から、甲高い声が上がる。尻を打つ度ばら撒かれる音は、しばらく何の意味もなさず、ただ涼介の耳に快く染み入って、だがやがて、一つの言葉を作り出す。
「りょう、すけぇ……」
 涼介、涼介、涼介。
 この関係の前提を覆す、固有の意義を自ら吐いているとも気付かぬように、行為に陥った中里を、涼介は充足と諦念の笑みをうすら美しく浮かべながら、穿ち続ける。あるいはこの男は、既に気付いているのだろうか、嘘は真実を追い払うのだろうか、真実は嘘を、踏み潰すのだろうか。答えはいつか、出るのだろうか。考える涼介の顔には、決して見られぬと分かっているからこそ、抑圧されない憎悪がのぼるも、呼吸も覚束ない中里に、首を引き寄せられてキスをねだられるにあたって、それも消えた。
(終)


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