ドロー
左腕と、両の拳と、みぞおちと、左の太ももと、右の足首から下に、重く熱い感覚がへばりついていた。ドアノブを回す手が震え、靴を脱ごうとした足がもつれた。口の中まで、鉄くさく感じる。顔は殴られていない。体から出ているものと、相手にかけられたものとだ。それで、全身が腐っていくようだった。
リビングは暗かったが、奥に、テレビの明かりが見えた。電気をつけ、ライトが部屋を照らす前に、キッチンに行き、冷蔵庫を開ける。紙パック入りの牛乳を取り、冷蔵庫を閉めたところで、辺りが鮮明になった。紙パックから直接牛乳を飲みながら、リビングに戻る。乳くささと鉄くささが口の中で混ざり合い、反吐が出そうだった。
ソファに座り、前かがみでテレビを見ていた兄は、突然の光にさらされ、均等な顔をしかめていた。細める目が、咎めるような色をもって、向けられる。
「お帰り」
「ただいま」
昔と変わらずかけられる、返される挨拶に、むずがゆさを、覚えた。牛乳パックをテーブルに置き、何見てんの、と目を細めたままの兄に尋ねると、何も、と答えた。テレビは消えていた。最初から、音はしていなかった。あるいは兄は、テレビを見ていなかったのだろうか。兄に対しての関心など、とうの昔に切り捨てたはずだったが、すぐには目を離せなかった。睾丸を掴まれるような、未練があった。
「いい加減、お前、喧嘩はやめろよ」
唐突に、兄は言った。その声にか、言葉にか、忘れかけていた痛みが、再び体を刺した。牛乳パックを手に取り、気を紛らせ、血の味のしない唾液を飲み込んだ。
「俺がやめたくても、かかってくる奴がいるんだから、相手してやんねえと悪いだろ」
「お前が傷つく必要はない」
「俺より、他の奴が殺されねえか心配なんじゃねえの、俺に」
「お前が殺されなけりゃ、誰が殺されようが、俺にとっちゃあ大したことじゃねえよ」
兄はテレビを見たまま言った。唾液に、血が混じっているような気がした。牛乳を口に含む。それにも、血が混じっているような気がした。吐き出しかけて、飲み込んで、空になった牛乳パックを兄の目の前に、突き出した。
「カリカリすんなよ、そんな。牛乳飲むか?」
ようやく兄が、目を向けてきた。やはり、咎めるように、また、理解しがたいように。何かおかしく感じられ、笑っていた。
「何、アニキ、嫉妬してんの?」
「なぜ」
「アニキにできねえことを、俺がやってるからさ」
「俺はできないんじゃない。やらないだけだ」
「できねえんだろ。アニキは立派な人間だからな」
一つ息を吐き、さとすように兄は、名を呼んできた。笑うのをやめ、牛乳パックを手で、握り潰した。兄は、右の眉を少し動かしただけだった。わざとだ。真ん中が潰れた牛乳パックを、テーブルに落とし、兄を見下ろしたまま、聞いた。
「アニキさ、人殴ったことある?」
少しの間を、わざとらしい間を置いてから、いいや、と兄は首を横に、悠然と振った。右肩の筋肉に、小さく電流が走ったように感じ、ついすくめていた。
「手を傷めない拳の握り方、一発で相手をのせる場所、骨に手が当たる感じとか肉が潰れる感じとか、知ってるか? たまんねえよ。アニキだって一回やりゃ、やめろなんて言わなくなる」
「俺はやらねえ」
「やれねえんだろ、だから。アニキは俺にはなれねえんだ」
「お前だって、俺にはなれないんだ」
兄は、睨んできた。目を角立たせ、正確な侮蔑と、嫌悪と、愛情とをこめて。良い顔をしてる、と思った。
「俺のこと、殴りてえだろ」
声が、上擦っていた。痛みの想像が、口の中に浮いた。兄はこちらを見たまま、ああ、と頷いた。心底の歓喜が、唇を上げた。
「殴ってみろよ。いいぜ、一発、ここに」
左の頬に右手を当てる前に、目の裏に火花が散った。首がわずかにねじれ、頬骨がじりじりとし、肌が熱くなった。唇は無事だった。兄は右の拳を再び、胸の前に構えている。目の下に痛みが出た。慣れ親しんだそれが、今はとてつもなく、うとましかった。鼻の奥に、水が染みたようになったが、それでも体は正直だった。
「それじゃあ、俺には勝てねえよ」
笑い顔は、どうにもいびつになった。兄は眉根を細かく動かしながら、
「そうだな」
と、震える声で言った。
「――それで?」
「終わりだ。後にも先にもアニキに殴られたのは、それだけだな」
「喧嘩か?」
「喧嘩だろ、どう見ても。いや、お前は見てねえか。まあ、とにかく、喧嘩だよ、殴ったんだから」
「そういう基準かよ」
「うるせえな、そういう問題じゃねえだろ。つまり、アニキは俺に勝てねえってことだよ」
「それ、語弊があるだろ」
「ゴヘイもカヘイも何もあるか、俺はアニキには勝てねえけど、アニキも俺には勝てねえんだ」
「待て、話が変わってねえか?」
「どっちが強いかってことだろ?」
「まあ、そうだが」
「ならそうだよ」
「そうか」
「そうだ」
「……そうか?」
「しつけえ奴だなお前は、俺もアニキもお前よりゃあ強いんだからそれでいいだろ」
「いや良くねえよ」
「――うん? 待てよ、アニキはお前に勝てねえのか?」
「あ?」
「あーいや待て何も言うな、俺今自分で言ってすんげえムカついた」
「ああ?」
「まあ、だから俺が一番強いってことだよ、要するに」
「それも聞き捨てならねえが、絶対話変わってんぜ、お前」
「お前とアニキがやり合ってんなら、その間に、俺は無傷で上に立つだろ、だから」
「何?」
「………………ゴヘイ?」
「…………語弊」
「まあ、考えたら負けだ」
「お前は」
「……引き分けだ」
「……俺もだ」
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