変えてみよう
愛車の中は、最も気が安らぐ空間だった。隣にこの男が乗っていても、それは変わりなかった。むしろ、癒されるような気さえした。
だが、今は違う。重苦しいことこの上ない。
最初はただ頼みに行ったのだ。断られるのを覚悟で、すがりつくつもりだった。どうしても、速くなりたかった。秋名のハチロク、高橋啓介、栃木のエボ4。誰もに勝ちうるだけの技術。経験。己の限界を超える力が欲しかった。
そんなに速くなりたけりゃ、高橋涼介にでも指導してもらえよ。
いつもの細々とした言い合いの中の、庄司慎吾の皮肉だった。真に受けた。正論だと思ったのだ。そしてすぐ、赤城山に乗り込んだ。人並みすぐれて賢いわけでも、鋭いわけでもない。あるのは行動力と情熱、それだけは、天才と呼ばれる人間にも敵うという自負があった。
俺にも都合があるが、こっちの時間が空いている時で良ければな。
高橋涼介は、何の気負いも感じさせずに言ってのけた。驚いたのは中里だ。いいのか、と何度も確認してしまった。お前が頼んできたんじゃないか、と涼介は苦笑した。疑うなよ。
とんとん拍子に計画は進んだ。アドバイスを貰い、それを元に走り込み、評価を受ける。少しずつ、記録は伸びた。二週間に一、二度、向こうが時間を作った。今まで見えていなかった自分の短所、見えていたはずでも把握できていなかった長所が、鮮明に、理解できるようになった。高橋涼介様々だ。
計画が狂いだしたのは、三週間ほど経ってからだった。いや、正確には何も狂ってはいない。すべてはうまく進んでいた。涼介は限られた時間で丁寧に中里に付き合い、たまに走りだけではない話もし、お互いの間に流れる空気は和やかなものだった。悪いことは一つもない。だから、中里のうちには疑心が生まれた。
こんなにうまくいくのは、おかしい。
学業だの県外遠征の準備だの何だのと、いつ会っても忙しそうな中、なぜこうも時間を作り、弟にすらホームで負けた走り屋に、手も抜かずにアドバイスをしてくるのか。考えれば考えるほどに、猜疑心は膨らんでいった。何か、別の思惑があるのではないか。最初から狙っていたのではないか。散々喜ばせておいて、最後に地獄に叩き落すつもりなのではないか。
繰り返し考えるごとに、確証もないのに、確信が生まれていった。そして、走りに際して無駄な緊張が生まれ、折角順調に伸びてきた記録が落ちてきた。それを見逃す高橋涼介ではない。
「何かトラブルがあるなら、それを解決してから俺を呼んでくれ。今のままじゃとても見てやれねえよ」
助手席に座った涼介に、まったく非難めいていない、擁護する調子で言われた時、これすらも計画のうちかと思い、中里はもう我慢ができなくなったのだ。
「涼介」
何もかもを書き留めているらしいノートを閉じ、最終宣告をした涼介は、中里がそう呼ぶと、何だ、と不思議そうに見てきた。中里は唾を飲み込んでから、改めて涼介を見た。高橋というと紛らわしいから、と言われてから、名前で呼ぶようになったが、それ以来勝手に感じていた親近感も、今では遠くに引っ込んでいる。こいつはこんな顔をして、俺を騙そうとしてるのか。不愉快な思いを抱きながら、中里は、言い訳は聞かぬという意思を込めて、凄むように、
「お前、俺のことを、どう思ってる」
と聞き、涼介は不思議そうな顔のまま、好きだが、と答えた。
中里は十秒きっかり静かに涼介と見詰め合ってから、口をゆがめた。
「何?」
「いや、変な意味じゃなくてな」
涼介は何ということもないように言い、「ってこれじゃあ変な意味以外に受け取るのも難しいか」、と独り言のように続けた。中里は咳払いをして気を取り直し、改めて言った。
「涼介、ごまかすなよ。こうして俺に親切を働いてくれるのも、最後には俺を、どうにかするためじゃねえのか」
「どうにか?」
「いや、俺もお前からそんなに恨みを買ってるとは思わねえで、色々と無神経なことを言ったりやったりしてたかもしれねえ。けど、それならそれで言ってくれりゃあ俺だってそんな」
「中里」、と涼介は立てた右の人差し指を、中里の唇に当ててきた。それだけで、言葉を止めざるを得なくなる。じっと見てくる涼介の目は、恐ろしいほど澄んでいた。その形の綺麗な唇が、開く。
「お前が何を勘違いしているかは知らないが、俺はお前に恨みを持ったことなどないぜ」
耳から脳へと直接滑り込んでくる低い声が、意外なセリフを吐いた。まさか、と唇に指を当てられたまま中里が言うと、つまりこういうことか、と被せてくる。
「俺がこうしてお前に度々走りの指導をしているのは、中里、俺がお前に何か恨みを抱いていて、それを晴らすためのあくまでセッティングに過ぎないと」
「それ以外に、妥当な考えは浮かばねえよ」
好意だけでやるには、面倒が多い作業だ。データを得られる利益があるとしても、およそ週一のペースで行うのはやりすぎだとも思う。となれば、そこには何か他の策があって当然だ。それが中里の思考が下した結論だった。だから素直に内実を述べると、くっ、と涼介は笑った。俯き、肩を揺らし出し、中里の唇を押さえていた手で、自分の口を押さえる。中里は呆気に取られ、何も言えなかった。ひとしきり笑った涼介が、いや、と笑みを浮かべたまま頭を振る。
「面白いな、お前」
「何だ、お前、違うのか」
「俺は嫌いな奴や恨みを持っている奴と進んで会えるほど、理性的にはなれない男だよ。それが義務なら受け入れるけどな」
釈然とはしなかったが、そうか、と中里は頷いた。本人に否定されてしまっては、証拠もないのに追及はできない。そう、証拠はないのだ。あるのはただ、漠然とした疑念だけだった。涼介は苦笑に変えた。
「まだ疑ってるみてえだな」
「そりゃお前、よく考えりゃあ、お前が俺相手に色々こうして手間かけてくれるってのが」
「信じられないか? でも、気に入った相手には手はかけたいもんだろう」
微笑みながら言った涼介を、中里はまじまじと見た。
「気に入った?」
「お前はなかなかいい筋してるぜ。いじり甲斐がある」
いじる、という言葉の響きに奇怪さを感じ、中里が思い切り眉根を寄せると、涼介はシートに座り直し、真面目たらしい顔をした。
「才能のある奴を正しく伸ばしていくのも面白いんだけどな。ただ筋が良いくらいの奴を上に引きずり出していくのも、ギャップが強くて結構な快感になるんだ。お前が納得できるように言ってやりゃあ、俺がこれだけお前に手をかけるのはつまり――趣味だな」
そうして微笑を浮かべ、目は逸らさない。中里は自分に下されている評価について、納得できるけれども憤りたいような、複雑な感覚を持ち、涼介から顔を背け、それを手で覆った。ため息が漏れる。確かに、自分に対し恨みを持っていると考えるよりも、ただ丁度良い駒だったので使われたと考える方が、妥当性は高い。
だが、それではあまりに単純すぎやしないだろうか。中里は信じやすく、疑い深い性格だった。
「趣味か」
「ああ。楽しいぜ、お前の成長記録をつけるのは」
「本当に、趣味なのか」
「俺だって、自分のためにもならないことをやるほど暇じゃない」
「本当に、本当なのか」
改めて顔を見合わせる。何度確認してもし足りないのは、中里の高橋涼介像とは、このような軽さを持ち合わせてはいないからだった。何度か普通の会話をしても、楽しみや趣味について聞きはしなかった。だから、現実感がわいてこない。涼介は微笑を苦笑に戻した。
「よっぽどお前は、俺のことを残虐な人間だと思ってるらしいな」
「そんなことはねえが」
「じゃあ単純な私欲のためでは行動しない、厳格な人間だと?」
「それは、あるかもな」
「なら」、と涼介は真剣な表情をして、言った。「こういうこともしないと」
言われてすぐ、涼介の顔が近づき、唇に生ぬるいものが触れ、離れていった。元の位置に戻った涼介の顔を、中里は目を剥いて見た。
「はあ?」
「俺に対する認識を、これで変えてくれると嬉しいんだがな。とりあえずは来週だ。変わってなけりゃ、次で終わりにさせてもらう」
涼介は助手席のドアを開けた。おい、と中里は運転席から呼びかける。荷物を持って車から降りた涼介が、中を覗き込んできながら、
「所詮趣味なもんでな。嫌な思いが先行したら、どんな利益が目の前に転がってても、できはしない。残念ながら、俺はそういう狭量な人間なんだよ。じゃあな」
と、さらっと言ってのけ、ばたんとドアを閉めた。呆気に取られた中里が、我に返るのはしばらく先のことで、車内の空気に癒されるのは、もっと先のことだった。
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