運
「俺はな」、と、事を終えてから初めて涼介が声を出した。「正気じゃない奴の言うことは信用しないことにしているんだ。例えば雰囲気に呑まれてたり、熱に浮かされてたり、平常心を欠いていたり、そういう奴の言うことだな」
中里はベッドに寝転がりながら、視界に広がる安っぽい天井を、心身を喰らっている理不尽さをぶつけるように睨んでいた。その中里の視界に、涼介の狂いの見当たらない顔が入ってきて、唇に乾いた感触を落とすと、出ていった。中里は天井を睨んだままでいた。涼介は、中里の隣に体を落としており、耳元で話を続けてきた。
「言葉ってのは口から出した瞬間に、もう自分のものじゃなくなっちまう。だからそれを聞いた相手にどう解釈されても――どう都合良く、都合悪く、悪意をもって解釈されても、それはそういう余地を残した奴の責任だ。馬鹿な奴はすぐそれを忘れる。いつでもどこでも世界は善意に満ちていると思い込んじまうんだろう。だから俺はそういう奴の言うことは信じない。責任を忘れた奴の言うことなんてな」
暗い声が、耳の中にねばねばと張り付いていくようだった。涼介の左腕が、中里の胸の上に落ちていた。中里はその手を右手で握った。疲れていた。ただでさえ、この男の話は分かりにくい。この上、手に肌の上を動かれては、話に逃れることもできなくなる。
「しかし、俺が思うに、何かを信用するためにはまず疑うべきだ。疑って、あらゆる要素を吟味し、検討した上で、それが信じられるという決定を下した時、初めて真実のそれを信じることができる」
唾を飲む音がした。生暖かい風が耳を撫でた。
「お前は俺を信じるか?」
中里は涼介を見ず、安っぽい天井をじっと見ていた。虫を呼ぶような蛍光灯、薄い茶色のしみがそこかしこに大きく広がるクリーム色の壁。非日常的だった。中里は、目を閉じた。一旦思考を切り離さねば、精神が痛みそうだった。
「小難しいことばっか言うんじゃねえよ、お前は。頭まで痛くなってくる」
「二者択一、簡単だ」
「信じるぜ、そりゃ」
中里が捨てるように言うと、涼介は痙攣したような笑い声をこぼした。中里は首をねじり、隣の涼介に目をやったが、蛍光灯の、光の残像がちらついて見れたものではなかった。
「お前は、どうなんだよ」
「俺か、俺は信じないよ」
「そうか」
中里は涼介の手を離し、体を起こした。あぐらをかいて目を閉じる。煙草が吸いたい。思いながら、今話したことを、ぼんやり考えた。全体の流れを理解するまで、三十秒近くはかかった。それから、涼介を見た。いつの間にかうつ伏せになっている。
「お前、そりゃ俺が馬鹿だってことか」
「いいや」、と涼介は枕に顔をつけたまま、平坦な口調で言った。「お前に限っちゃ俺は、それでうまくやってけるんだからそれでいいと思ってるよ。馬鹿な奴とは思ってない。そこまで思える権利があれば、俺はとっくにお前を離してるしな」
中里は頭を掻いた。汗で頭皮が濡れていた。涼介は動かずにそのまま話を続けた。
「ミスのない生き方をしてきたよ、俺は。なるべく失敗しないようにしてきた。きちんとあらゆる要素を吟味し検討し、常識からも道徳からも道理からも感情からも是とできるような、間違いなく信じられるような、正しい選択をしてきたんだ。半分は努力だよ。残り半分は、勘だな。途中、何度も思ったんだ。失敗しちまえばいい、何もかもうまくいかなくなっちまえばいい。そうすりゃ取り返しがつかなくなる。一巻の終わり。でもそう思えば思うほど、間違えることができなくなった。強迫観念と言った方がいいのかな。俺は間違えちゃ駄目なんだよ。俺という人間は、完璧じゃなけりゃならないんだ。俺は神は信じてないけど、おそらく運命はあると思っている。今まで全部の行動を計算の上でなしてきたわけじゃないが、それでもその全てが成功しているからだ。おそらく最良の形で。例えば、分かりやすい例えを出すなら、藤原に負けたこともだ」
「藤原?」
「そうだ」
「負けたことが、最良か」
「結果的に見れば――俺の人生はこの言葉に集約されるようだが――結果的に見れば、どんな選択も正しいんだ。あそこで藤原に負けなければ計画の変更に余儀はなかった。啓介だけでは荷が重い。だから俺のすべては今に間違っていると思えても、最後には勝利を掴める」
涼介はするりと仰向きになり、中里に両手を差し出してきた。そのありさまと所属する場を思い知らされる言葉との不均衡さに、中里は迷いもしたが、迷いの根幹を見抜くことができず、結局呼ばれるままに涼介に被さった。
「信じられるか?」
両手で頬を包まれ、真剣な目で問われる。中里はつかの間、戸惑った。
「お前、小難しいこと言うんじゃねえって」
「俺は信じてないぜ」
「そうか」
「今の俺は正気じゃないからな」
涼介の膝が、中里の腹から下腹部を押し上げた。無意識に腰が引けたが、頬を離れた手が腰に回っていたので、むしろ押すようになっていた。痛みと柔らかな刺激が背中を駆けた。涼介が口を開けた。赤い舌が覗く。誘われるまま顔を近づけていくと、舌が触れる間際、涼介が言った。
「好きだよ」
「信じねえよ」
迷うことなく返してから、中里は唇を合わせた。
(終)
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