そういうわけ
こんな顔、似合う奴だっただろうか。
中里は混乱の只中にある頭の隅のまた隅で、考えていた。にんまり。という表現の似合う顔。微笑とか嘲笑とか冷笑とかではない。ふっ、とか、にやっ、とか、ふわり、とか、そういうのでもない。にんまり。まったく嬉しそうというか、楽しそうというか、何かもう、分かんねえ。何だこりゃ。
そんな混乱しすぎて固まっている中里の前で、にんまりと笑っているのは、高橋涼介、その男だった。赤城レッドサンズを作り上げた群馬の伝説的走り屋である。愛車は白いマツダRX−7FC3S。人呼んで赤城の白い彗星。その速さが伝説的ならその女性ファンの多さも伝説的だ。何せ走りが速くてチームを率いるカリスマ性があって高身長で美形で医学生という、顔良し頭良し腕良し金良しの文句のつけどころのない男であるからして、憧れない人間がいないほどだった。
といっても中里にとって高橋涼介とは、ロータリーに乗っているすげえ速い走り屋というだけだった。その運転技術の高さや冷静な計算力など憧れるところは多いし、女性からキャーキャー言われていることに関しては多少羨ましくないでもないが、崇め奉るわけでも嫉妬で呪殺を試みるわけでもない、要するに同じ群馬の走り屋で何度か会ったこともありバトルをするかどうかという話になったこともあるが、今では自分の生活にはあまり縁のないすげえ速い走り屋が中里にとっての高橋涼介であった。
その高橋涼介に、現在中里は、にんまりとした笑顔を向けられているわけである。そして混乱の只中にある。それは何も、歪みのない綺麗な容貌をしたそのすげえ速い走り屋である男に真正面からにんまりと笑いかけられて、動悸がしているためだけではない。心臓の鼓動の騒音のために集中力が散漫になっているためだけではない。中里の背にはその男の愛車のボディがあった。白いFC。助手席のウィンドウに自分のシャツがすれているのが分かって気が気でない。これも混乱の要因の一つである。そしてその自分の体の横を通って、高橋涼介はFCのルーフに両手をついている。つまり中里は、高橋涼介とFCとに挟まれている状態で、高橋涼介ににんまりと笑いかけられているのだった。だがこの状況が混乱の最大の要因ではない。最大の要因は、そのにんまり男の発言にあった。
「だから、お前は俺のことが好きなんだよ」
笑いながら、高橋涼介はそう言ったのだ。中里にとってそれは空から魚が降ってきたような突拍子もない言葉だった。中里が高橋涼介と会話をするのは久方ぶりである。秋に妙義山で行われた高橋涼介属する赤城レッドサンズと中里属する妙義ナイトキッズとの交流戦以来だ。それは高橋涼介の弟である高橋啓介と中里とのヒルクライムバトルによって、レッドサンズの勝利で終わり、それから中里も遠征してきた隣県の走り屋に負けて愛車が工場に入ったり、ようやく出てきたので一人こつこつ走っていたら何だかんだで箱根で雪辱を晴らしてフラれたりと色々あったので、高橋涼介どうのこうのと考えている場合でもなかった。考えるのはどちらかといえば自分を負かした高橋啓介のことだった。高橋涼介とは秋名のハチロクを負かしたらバトルをするという話をしていたが、結局秋名のハチロクには中里も高橋涼介も負け、そして高橋涼介はそれで表舞台からは退いたため、群馬の走り屋というつながり以外で縁もなくなったのだった。
その高橋涼介となぜまた会うことになったかといえば、ことは単純、本日、高橋涼介が妙義に来たためである。相手は高橋涼介だ。栃木のエンペラー群馬遠征の際も群馬の最後の砦としてエンペラーを追っ払ったレッドサンズの高橋涼介だ。元一匹狼の赤城の白い彗星高橋涼介だ。群馬で走り屋をやっててその男と話をしたくない者はいないであろうという偉大な存在だ。そんな男が来たら中里も挨拶するし、話をしたいと言われれば時間の許す限りは話もする。話をしていた。久しぶりだとか、エンペラーの一件についてとか、互いの近況とか、そういうことだ。同じ群馬の走り屋として、そういう括りでだった。少なくとも中里はそういうつもりで話していた。そのうち高橋涼介が走ってみると言い出した。そして隣に乗らないかと中里を誘ってきた。相手は高橋涼介である。すげえ速い走り屋だ。断る理由も思いつかなかった。そういうわけでカリスマと呼ばれるだけはある男の走りをすぐ横で体感し、数え切れぬほど走った妙義山の新たな一面を中里が発見したのち、高橋涼介は満足げにふもとの駐車場に戻ったが、そこには人がいなかった。皆いつの間にやら帰っていたのだった。そして二人きりの峠の駐車場で話をしているうちに、中里は高橋涼介のFCと高橋涼介に挟まれながら、にんまり顔の高橋涼介に、決めつけられた。いわく、
――だから、お前は俺のことが好きなんだよ。
「……その、だからってのは……どこにかかるんだ?」
中里は思考も覚束ない頭を通して何とか口から言葉を出した。驚きすぎて、前後が不明になっていた。高橋涼介は笑みを緩めたが、それは微笑のようで、やはりにんまりしたままだった。
「お前、俺と一緒にいると楽しいだろ」
それは事実の確認ではなく、指摘のような言い方だった。微塵の疑念も高橋涼介は抱いていないようだった。中里はそんなことはないと否定したかったが、嘘を吐くことになるのでためらって、否定はしないが肯定もしないような返答を心がけた。
「……まあ、そりゃ、つまんなくはねえし、お前は知識もあるし、テクニックもあるし、さすがに気遣いもうまいし、感心することばかりだが……」
「俺と一緒にいると、ドキドキする」
楽しいばっかってのもないようなところもある、と中里が続けようとしたところで、高橋涼介が先に続けてきた。何を言い出すんだこいつは、と思いつつ、中里は高橋涼介の顔を見たが、にんまりしているままで、その意図は読み取れなかった。しかし言われたことに答えないと、いつまでもこうして高橋涼介とFCに挟まれていなければならないようには思え、中里は渋々ながら言った。
「そりゃ、お前、それなりのツラしてるからよ、お前、そういうもんじゃねえか」
「だからだ」
断定的だった。だから? 中里は思い切り眉間に力を込めた。つまり、高橋涼介と一緒にいると楽しい、ドキドキする、だから自分は高橋涼介が好きだということになる、と、高橋涼介は言っている。中里は眉間に力を入れたまま、高橋涼介を睥睨した。
「何か……分かるような、分かんねえような話だな」
「簡単なことだぜ。お前は難しく考えすぎてんだよ、中里」
高橋涼介の笑みは消えない。何やら自分が厄介な状況に追い込まれているような気がして、中里は焦り、とりあえず思いついたことを言った。
「な、何でお前は、そんなことを、そんな……楽しそうに、言うんだ?」
「楽しいからさ。いや、嬉しいからだな。お前が俺のことを好きだなんて」
「いや、高橋。ちょっと俺にはどうも、よく分かんねえというか、全然分かんねえ」
「簡単なことだと言ったろ。俺はお前が好きなんだ」
「は?」
あまりの話の流れに理解が追いつかず、中里は素っ頓狂な声を上げていた。それすら楽しいことのように、高橋涼介は笑みを深める。
「お前のこと、好きだからだ。俺が。お前を。好きなんだよ。中里」
繰り返されても、理解はやはり追いつかなかった。先ほどから停滞気味だった思考が、凍結しかかっていた。それでも沈黙には何が始まるか知れない恐ろしさがあるので、中里は声を出した。
「な、何で」
「説明するには時間がかかるから、略せばまあ、お前が中里だからだ」
「そ、それは……どの辺が略されてるんだ?」
「そうだな。お前のそういう風に、怯えてるけど怯えてないように見せてる健気さとか」
おそらく飲み物を含んでいたら噴出していただろう。それほど驚くしかない高橋涼介の言い分だった。中里は不快感を顔面と声に強烈に表した。
「けっ、……ケナゲだァ? 何だそりゃお前バカにしてんのか俺をこの野郎」
「そうやって分かりやすく意地張るところとか」
「意地とかじゃねえよお前それ、何だ、ちょっと待て、よく考えろ」
「人のことになると自分のことを忘れちまうところとか」
泰然と高橋涼介は笑いながら言い、中里の頬に手を当ててきた。その手の柔らかさに中里は思わず息を呑んだ。高橋涼介は、大層満足げに笑っている。
「そんな風に、可愛いところとかな」
そこまで言われれば、腹立たしさのために頭に血も上った。
「お前、それ以上俺のことバカにしやがると、容赦しねえぞ!」
唾を撒き散らす勢いで叫んだというのに、高橋涼介は一つも笑みを崩さなかった。だがその高橋涼介の顔全体を見られたのは叫んだ直後だけだった。すぐに高橋涼介の顔がすうっと迫ってきて、焦点が合わなくなり、唇に他人の唇の感触がした。それは高橋涼介の唇に違いなかった。開けたままの口に入ってきた生ぬるくざらついた物体も、高橋涼介の舌に違いなかった。
「ん、んんんっ」
それは中里の口内をまさしく容赦なく探っていった。相手が高橋涼介でなければ恍惚としてしまうような情熱的なキスだった。相手が高橋涼介であっても足から力が抜けそうになるほどの業前のものだった。だが中里は踏ん張って後ろのFCにはもたれずに立ち続け、耐え続けた。口腔の感覚が怪しくなってきた頃に、ようやく高橋涼介はキスをやめた。即座に罵声を浴びせたかったが、それより酸素が欲しく、中里はひとまずせわしなく呼吸をした。その間に、再び笑みを浮かべた高橋涼介が言った。
「バカになんてしてねえよ。バカにするためだけに、こんなことはしねえだろ?」
もっともな理論だった。いかれた奴ならともかく、相手は高橋涼介だ。先ほどからの発言はもしかしたらいかれた奴としてもいいかもしれない類の奇抜さであったが、それでも群馬の走り屋のカリスマである。その男にもっともなことを言われては、中里も否定のしようはなかった。だが、だからといっていきなりキスというのはどう考えてもおかしかった。
「だ、だからって……なら、何で、こんなこと」
「そりゃ、好きな相手には触りたくなるからな」
触れられたままの頬を撫でられ、ぞわっとして中里は高橋涼介の手を払い、ようやくFCと高橋涼介の間から抜け出した。そして息を整えてからとにかく凄んでやろうとしたが、聞き慣れたエンジン音を立てている車が駐車場に入ってきたので、タイミングを外された。
「まあ、そういうわけだ。また来るよ」
現れた赤い車に中里が目をやっているうちに、高橋涼介は言った。顔を向けると高橋涼介は綺麗ににんまりと笑って、FCの運転席に入る前に、また笑いかけてきた。それ以外高橋涼介に似合う笑みなどないような顔だった。中里は呆気に取られて何も言い返せぬまま、駐車場から出て行くFCを見送り、それと入れ違いにやってきた赤いシビックのドライバーを見、危険性を感じて思い切りその男に背を向けた。顔が、やたらと熱くなっていることに気が付いたのだった。
「帰ったのか、高橋涼介さんは」
背中にかけられた声に、ああ、と言い返す。間があった。そして、訝しげに慎吾は言ってきた。
「どうしたんだお前」
「何でもねえ」
すぐさま言って、中里は慌てて続けた。
「何でもねえからこっちを見るな。そして帰れ。いや、じゃねえ、何だ、この」
「はあ?」
「何でもねえんだ! 気にするな!」
「いや、それはどう考えても無理がある話だろ」
叫んでも、慎吾は冷静だ。チームメイトとしての付き合いは長いし、ずる賢く、また聡い男だった。怒っているのか焦っているだけなのか虚勢を張っているのか、簡単に見通されてしまう。見通されることは諦めるにしても、とにかく今はこの赤くなっているだろう顔を慎吾に見られて、しらっとされたくはなかった。
「なら考えるんじゃねえ。考えなくていい。俺のことは何も言うな、クソ」
「……まあ、別にお前のことなんてどうでもいいんだけどよ。事故んなよ。邪魔になっから」
面倒くさげな慎吾の声に、当たり前だ、と返すと、ため息ののちに足音がして、気配が遠ざかっていった。やがて車の出て行く音がしてようやく中里は振り向いた。赤いシビックのテールランプがすぐに見えなくなった。中里はほっとため息をついて、そして高橋涼介の顔に焦点が合わなくなった時からずっと入れていた力を、足から抜いた。直後、地面にへたり込んでしまった。頭は停滞したままだった。高橋涼介の言っていたことも高橋涼介がしてきたことも覚えているのだが、全体像は把握できなかった。ろくにものも考えぬまま、中里はしばらくその場に座り込み、ただ、何だこりゃ、とだけは思っていた。
(終)
2008/03/02
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