二人の場合
ケース1.赤城レッドサンズのあるメンバー
赤城レッドサンズというチームは、高橋涼介が創設したらしい。
らしい、というのは、彼は新参者で、チームメイトからは『レッドサンズは高橋涼介が作ったんだよ』程度の話しか聞いたことがないからだ。
最近群馬に移り住んだ彼は、家から近かったので赤城山へ足しげく通うようになると、昔から鍛えてきた運転技術を認められてか何なのか、のんびりした男性からチームに入らないかと誘われたので、後ろ盾があった方が良いだろうと思い、あっさり加入したもので、そもそも高橋涼介すらよく知らなかった。以前に白い彗星と呼ばれていたとか、一匹狼だったこととか、金持ちの息子だとか、ドラテクがすごすぎてプロに打診されたがその気がないので断ったとか、もう引退しているとか、そういうことはチームメイトが勝手に喋ってくれたが、高橋涼介と直接話したことはない。その弟の高橋啓介とは、一言二言交わしたくらいの関係だ。
彼は赤城レッドサンズのメンバーではあったが、その元トップと元ナンバーツーである高橋兄弟に関しては、まったく見識を持っていないのである。
勿論、バトルや普段の活動で、姿は見たことがあった。だが、どういう人間なのかは、自分で接触しなければ分からないことだ。だから高橋涼介について彼が知っていることは、ほとんど人から聞いたことのみというわけだった。
ただ、最近気が向いた時のみ観察を続けているうちに、気付いたことがある。それは、彼が高橋涼介を見かける時、隣に必ず一人の男ありということだ。弟でもチームの雑用係でもない、特徴はあるが意図して見なければ非常に地味なその男は、妙義山に昔からあるチーム、妙義ナイトキッズのリーダー格らしい。話によると、高橋啓介にホームで負けたことがあるようだ。はてなぜそんな負けている上に近くもない奴がいちいちこっちのチームの元リーダーに会いに来てるのだろうか、と彼が疑問に思ってチームメイトに聞いてみた時、貰った答えは『言わなくても分かるだろ、暗黙の了解ってやつだよ』というもので、いや分かんねえから聞いてんだけど、と思ったが、チームメイトが浮かべていた笑みは凍り付いていたので、それ以上は聞かずにおいた。暗黙の了解とは、何かそこに触れてはならぬ事実があるということなのだろう。彼は元々物事を深く考えないタチなので、まあリーダー格同士群馬征服でも図ってんだろ、と思うことにした。
そんなこんなで肌寒いある日、彼は峠に来たのは良いものの眠気に勝てず、愛車のセリカの後部座席で毛布にくるまって寝転がっていた。彼は津軽海峡は越えないまでも北国出身であったので、寒さには滅法強く、車の後部座席のウィンドウをすべて下げたまま、うーん金がないなあ金が欲しいなあと思いながら、硬いシートでうたたねをしていたのだ。もうまぶたは開けられなかった。後は夢の世界に一直線だ。
その時だった。雑音が耳に入ってきたため、頭が不意に臨戦態勢に入っていた。まだまだ眠たいが、その雑音が誰かの会話であることには気付くまでの思考が存在しており、いつの間にやらその声を意識が追っかけていた。
「……だから、お前にばっか支払わせるのは俺としては、嫌なんだよ」
「別にいいだろ、俺が払いたいんだから」
「よくねえよ、俺は嫌なんだから。確かに俺はそんな高給取りでもねえし、貯金もほとんどないが、施しもらうほど落ちちゃいねえ」
誰だろうか、人の車の近くでこんなことを喋って、人の睡眠を妨害する奴らは。いいじゃねえかよ貰えるもんは貰っとけば。彼はそんな風に考えた。まったく今時真面目な奴もいるもんだ。その真面目さを少しは状況把握に使ってくれ。
「施すつもりはない。それでお前に貸しを作るつもりでもねえよ。ただ、毎回毎回割り勘だと、お前のプライドは満たされるかもしれねえが、俺のプライドは満たされない」
「お前のプライドってのは、他人に力を見せつけなきゃ保たれねえのか」
「お前のだってそうだろう? それに、他人じゃない」
彼は毛布を被り直したが、入ってくる声をもう意識から除外することはできなかった。眠気も覚めてしまっている。声の主は、二人とも当然男だ。一人はきわどい低音、艶やかさも含んでいて、テレフォンセックスが得意そうだ。もう一人も基本的には低いが、かすれ気味で、脅しには迫力が足りなさそうだった。しかし友人同士だとしても、随分細かい話をするものである。食事代金にせよ遊楽費にしても、ケースバイケースで奢ったり奢られたりでいいじゃないか。
「しかし……俺らは対等だろう」
「絶対的じゃない。相対的だ。あのことじゃ、俺よりお前の方が負担が強いのは分かるだろ。それ専用の器官を使ってるわけじゃないから、将来的に障害が出るかもしれねえんだ。そうならないようにできる限り注意は払っているが、万が一ということもある。高いリスクを背負っているのはお前なんだ。だとしたら、俺は他の形で同じ分だけリスクを背負うべきじゃないか?」
「理屈を言うなよ。俺は俺が納得して、こういう形を取ってるんだ。それに……俺がしてえってことで」
「じゃあお前が自殺しようとしても俺は手を出すなって? お前が納得してやることだから?」
「そういう話じゃねえだろ、極論を」
「お前の話はそういうことだよ。分からないかな、理屈を通さない限りそういう極論に落ち着くんだ。感情にも欲望にも限度がないから人間は理性を駆使して堤防を設けるんだぜ。出していい場合と出しちゃいけない場合を、思考で分ける。それが動物としてのホモサピエンスである所以だよ」
何の話をしているのかはよく分からないが、テレフォンセックスがうまそうな男は、筋の通ったことを言う奴だ。というか、丸め込むのがうまいというか何というか。もう一人の男も決して間違っていることを言っているわけではない。多分、一般的な人間なら、かえってそっちの話に耳を傾けるだろう。だが、テレフォンセックスがうまそうな男では相手が悪い。その説得力に関しては一朝一夕では埋まらない差があるようにも思う。そして凄みの足りない男はそれを自覚しているようだった。
「……よくもまあ、そんなにうまいことをポンポンと言えるよな」
「愛しているからな」
理屈を、ってことだろうか、と彼が考えていると、凄みの足りない男が噴き出した気配がした。
「……お前よ、そういうことを臆面もなく」
「いいだろ、誰も聞いちゃいない」
「俺が聞いてる。クソ……だから、ガス代も高くなってきてんだしよ」
何だ、こいつらガス代の話してたのか。
「細かい話はなしにしようぜ、中里。重要なのは責任を取る覚悟だ。違うか?」
「違わねえが」
「俺はその点で、お前を信用してる。だからいいんだ。それともお前は俺は信用には値しねえって考えてるのか」
「日頃嘘ばっか吐いてんじゃねえか。……まあしかし、お前ほどやると言ったことをきちんとやるような奴は、今まで見たこともねえ」
「お褒めいただき光栄だ」
「抜かせ」
笑い合っている気配がした。互いを信用し合い、重要性を認め合う。うん、美しい友情だ。何か違うような気がしないでもなかったが、彼はちょっぴり感動した。そして、直後にそれは一つの叫びによって壊された。
「――おい、アニキ! この後そいつとどこのラブホ行くかとかいう話してる暇あったら、さっさと指示出してくれよ!」
…………………………何ですって?
二人とは異質な、健全活発日本男児的明朗さを持つ大声が、世界の何もかもを止めたようだった。何だろう、俺は今、普段聞くことは多いけど、男二人相手には滅多に使わない言葉を聞いたような気がする。彼はごくりと唾を飲んだ。
「……あの野郎」
「悪いな、俺の弟だ」
「どうにかなんねえのか、あの……誤解を招くようなことを言う傾向は」
「招いたとしても誤解にならないから、直しようがねえな」
何だそりゃ! 彼は胸のうちで叫んだ。っていうかラブホって! 今までのってまさか、ラブホ代の割り勘の話かよ、お前ら!
「お前、涼介」
「まあいいだろ、最後は否定しちまえば、何もないのと同じだ。証拠もない」
「お前って奴はよ、寛容なんだか冷酷なんだか分からねえな」
「人間をどっちかに決めるってのが傲慢だぜ。じゃあ、俺はやることがあるからな」
「ああ」
テレフォンセックスがうまそうな声の男が去っていく気配がした。彼は小さく息を吐いた。後は凄みが足りない男さえ離れてくれれば、ここから脱出できる。普通では考えられないことを気にすることもなくなる。こんなに冷や汗をかく必要もなくなるのだ。
いやちょっと待て、と彼は考えた。もしかして俺は早合点をしてないか? あの二人は実は片方が女で一人称が俺でってなこともあり得る峠に女がいることもあるしだってなあそんな大っぴらにしねえじゃんいやあれはただ俺がいないと思ってたから言っていただけでいやいやもしかして俺がいることを知っていた上でいやいやいや窓の近くには誰も立ってないはずだし分かるわけがねえし仮に男同士だとしてもやっぱりドッキリという可能性が……とまで考えて、彼は考えることをやめた。まあいいさ、俺には関係ない。彼は毛布から抜け出て、開けているウィンドウから薄く頭を出して周囲を見回し、誰にも注意を払われていないことを確認してから、そっと車から降りた。そして何食わぬ顔で、仲間たちの元ヘ歩いていった。皆一様に、引きつった笑みを浮かべている。何だよ、死んだ奴が生き返ったみてえなツラして、と彼が笑うと、似たようなもんだな、と抽象的なことを言う。だから何だよ、と更に言うと、
「お前の車の後ろだったじゃん……お前が寝てんのバレんじゃねえかって、冷や冷やしてたぜ」
そう返され、まああんな話を聞いてることがバレたら厄介だな、と彼は得心した。そして仲間の一人が、遠い目をしながら、敬意と畏怖と諦念が混じった様子で、言った。
「あのご兄弟はなあ……すげえよ」
――あの兄弟?
彼は皆が目をやっている先を見た。あの兄弟――高橋兄弟だ。ん? つまり、さっきの『アニキ』と叫んだ奴が高橋啓介さんで、リョースケと呼ばれていたテレフォンセックスが得意そうな奴が高橋涼介さんで、あと一人は……。
「……確かに、すげえなあ」
彼もいつの間にやら引きつり笑いを浮かべていた。そういえば、彼は高橋涼介とあの男が一緒にいる時に、高橋啓介が来ているところを見たことがなかった。まさかあの二人はこういうことを恐れて、わざと高橋啓介のいない時間を見計らって……いやいやでも、みんな対応慣れすぎじゃないか。何だ、いっつもあの人はあんなことを言ってるのか。っていうかこんな状態でも否定できるもんなんですか高橋涼介さん。あと割り勘じゃなくてカワリバンコにすりゃいいだけのことじゃないんですか。それともそれをネタに話がしたかっただけですか。
色々な考えは頭蓋骨の内側をぐるぐる巡っていたが、彼はやはりそれ以上を追究することはやめた。何だかもう高橋涼介さんに触れることは、寿命と引き換えにする行為のように思えてならなかった。
だからただ、どうかバレていませんように、と天に祈るのみだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ケース2.妙義ナイトキッズのあるメンバー
彼にとって、事故を起こして病院に収容されて以来、一ヶ月ぶりの峠だった。
これまで妙義ナイトキッズのメンバーの一員として、真面目に走っていたり走らなかったり競ったり競わなかったりしていた彼であったが、ある日空腹を凌んでまで頑張ってみたところ、対向車のライトに目をやられて、あっという間にガードレールに突き刺さり、あと一歩で崖に転落という憂き目を見た。集中治療室で生死の狭間を漂ったが、怪我は常人の何倍ものスピードで治癒していき、後遺症もなく、医者にも驚かれた。そして先日ようやく退院し、松葉杖も要らなくなって、今日、妙義山を愛車で走れるようにもなったのだ。
彼は様々な感慨に浸っていた。死に際を見た人間は多少のことでは動じなくなるというが、まったくその通りだ。些細なことでは感情が揺れ動くこともなくなった。一種悟りの境地である。見舞いに来てくれた仲間の慰めと励ましのおかげで、車に対する恐怖心が根付くこともなく、峠で起こった事態もリアルタイムで聞くことができたから、浦島太郎にもなっていない。事故の処理では迷惑をかけた我らがリーダー格中里が、久々にバトルに勝利したことも、勢いあまって失恋したことも聞いている。もう一人迷惑をかけた庄司慎吾が中里との友情を少しずつ育んでいることも聞いている。地雷回避の準備は万全だ。彼は気合を入れて、駐車場に降り立った。
案の定、仲間たちはやれナースをナンパできたかだの病院プレイっていいよなだの差し入れの分だけエロ本返せよだのお前が死んだら車を貰ってやる予定だったのにだの自縛霊にならなくてよかっただの、歯に衣着せぬ言葉で快復を祝ってくれた。ある程度騒ぎが落ち着くと、よお、と、リーダー格自ら歩み寄ってきてくれた。
「中里さん」
「もう大丈夫なのか」
「ええ、まあ。筋力とかは完全に復活してませんけど、動くには十分っすよ」
そう言って胸の前で拳をぐっと握ると、そうか、良かったな、と中里は笑った。良い笑顔だった。ご心配おかけしまして、と彼が謝ると、もう心配させるなよ、と握った拳を拳で叩かれる。変わらない人だ。チームに入ったのは車に一枚くらいステッカーを貼っておきたいという不純な動機からだったが、気の置けない仲間やこの運転技術が高く人間味も強いリーダー格に出会えたのは結構な幸運だった、と彼は思う。事故の時も、この男が以前していたアドバイスを思い出したから、大惨事を避けられたようなものだ。それを告げると、中里は皮肉げに笑った。自信に満ちた振る舞いが、この人には似合う。
さて、久しぶりに走ろうかと彼が思い、ひとまず別れの挨拶をしようとした時だった。急に辺りが静まり、それと呼応するように、一台の白い車が現れた。すると中里は、悪い、じゃあまた後でな、と妙に複雑さが見える顔をして、入ってきたその車へ駆け寄っていった。
ああ、FCだ、と彼が気付いたのは、その車から降りた人物を見て、ようやくだった。高い背に、ジャケットとパンツで固めた服装。赤城でのバトルで見た以来だった。
しかし何で高橋涼介がここに来るんだ、と彼が訝っていると、中里が高橋涼介に声をかけ、その場で二人で話し始めた。辺りには異様な静けさが漂っているため、もう少し近付けば会話の内容は知れそうだったが、彼にはそこまで踏み込む無鉄砲さはなく、ただ、何となく声を潜めながら、近場にいた仲間――庄司慎吾に声をかけた。
「おう」
「ああ、お前か。不死身だな」
「三途の川渡りかけたぜ」
「渡った方が幸せだったんじゃねえか」
このチームの中で、最も嫌味が得意なのがこの庄司だ。以前までの彼ならカチンときていたところだが、事故後の彼は生まれ変わった。何事にも、広い心を持てるようになったのだ。だから、ひとまず謝った。
「あの時は悪かったな、色々助けてもらって」
「道の真ん中に車があると通行の邪魔だからな。二度はねえぞ」
「ああ。なあ、ところであれって何で?」
「何が」
相変わらず、やる気なさげに庄司は言う。だが声は同じように潜められている。
「中里さんと高橋涼介って、何かあったっけ?」
「何もねえよ」
「でも話してるだろ」
「俺が知るか、気になるなら本人に聞けよ。奇跡の生還遂げたお前なら、高橋涼介さんも興味を持って相手にしてくれるだろうよ」
昔から情けに欠ける奴だったので切り捨てるような口調も気にならないが、タチの悪さが上がってねえか、と彼は思った。本当にこれで中里と仲良くなっているのだろうか。いや、仲良くなっているからこそ、高橋涼介と進んで話をしていることが気に食わなく……なんてことは、この極悪人に限ってないだろう。
まあリーダー格同士、群馬の将来についてでも計画立ててるんだろ、と彼は思った。うちのリーダー格は直情径行だが、計算もできる人だ。特に柄の悪い相手に対しては二枚も三枚も上手を取る。そして万全の体勢で相手を倒していく。頼れる男だった。手を組むには悪い相手ではない。
と、何するでもなくぼんやり考えていると、視界にいる高橋涼介と中里が、不意にこちらを向いた。何だ、と変な寒気を感じていると、やがて高橋涼介がゆっくりと歩いてきた。中里もその後からついてくる。彼は思わず庄司を見、そのふてぶてしい顔にある鋭い目と目が合ったところでその肩に片手を乗せた。
「何だ」
「お前だろ?」
「お前だよ。事故起こしてるからな」
「何で」
「だから俺に聞くんじゃねえよ、俺はお前の母親かってんだ」
苛立ったように庄司が彼を指差したところで、中里が彼の名前を呼んだ。
それは庄司の言う通りに、事故を起こしたからだった。
「各峠のデータベースを作っているんだ。完全な趣味だから、協力はあくまでお願いだよ。無理だとしても構わない」
高橋涼介は見かけ通り丁寧な態度だった。何で俺は久しぶりにここ来て高橋涼介と話してんだろ、と不思議に思いながらも彼は事故の詳細を語った。場所と性質と被害を聞いて手帳に書き留めると、ありがとう、参考になったよ、と高橋涼介は微笑した。これならまあモテるな、と思う。各部の造りが綺麗な上に、配置も申し分がないし、動きに粗雑さもない。もとより圧倒的なオーラがある。高級感だ。セレブだセレブ、セレブリティだ。そんなことを思いながら彼は、いやいいっすよ別に、と愛想笑いをし、二人の関係性について踏み込むかと逡巡した。人様の事情に首を突っ込むのも賢くはないが、しかし気になる。どうにも気になる。よし当たって砕けろだ、と彼が素早く決意を固めたところで、
「飴食べるか?」
と、中里が尋ねてきたため、彼は咄嗟に、あ、いたただきます、と手を差し出していた。乗せられたのはハッカ味の飴だった。包装を破って口に放る。すうっと鼻の奥まで冷えていくような味が広がった。飴か、飴だな、と思い、聞いてみた。
「何でっすか?」
「職場で貰ったんだよ」
そう答えてゴミを回収した中里は、高橋涼介にも飴を勧めていた。庄司は最初から断っていた。高橋涼介が、飴を口に入れる。途端、その端整な顔の、主に眉間に深いしわが刻まれた。中里はそれを見て、口開けろ、と言い、高橋涼介は素直に口を開け、舌をべっと出した。その上に乗っている飴を、中里は指で取り、何でもないように自分の口に放り込む。
「やっぱお前、こういう味はダメか」
「苦手だな」
そして二人、何でもないように話をした。彼は信じられないものを見たような気がした。錯覚かと思い、隣の庄司を見る。庄司はこちらを見て、鬱陶しそうな顔をした。
「そんなまずくもねえと思うがな」
「うまいまずいじゃないな。生理的に受け付けない」
「香草類は大丈夫なんだろ?」
「また別物だ」
口の中がスースーしている。そうだ、きっと錯覚だ。飴が見せた幻だ。きっと事故のせいで空間認識能力にヒビでも入ってるんだ。あの医者はヤブだ。そうだそうだ、そうに違いない。彼がそう思い込もうとしていると、隣の庄司が大きくため息を吐いた。
「……あんたら、もう少し考えて行動しろよ」
それは高橋涼介と中里に向けられた言葉だった。彼が判断に困っていると、高橋涼介さんが肩をすくめる。
「友情の範囲内だろ?」
「どこがだよ! 下手なエロゲでもそんなことやんねえぞ!」
「エロゲはエロイシチュエーション重視だろ」
彼がつい口を挟むと、てめえに言ってんじゃねえよ! と庄司は怒鳴った。あれ、こいつ冷静にキレる奴じゃなかったっけ、と彼は不思議に思った。あたり構わず喚き散らすより、ウィークポイントをネチネチとえぐり回すタイプだったはずだ。
「君まで変なウワサにとらわれないでくれ、庄司君。俺も迷惑してるんだ。清く正しい友情が不潔な解釈で汚されるのは」
「ならウワサを裏付けるような行動をお取りにならないことが先決だと思うんですけどね! 俺は!」
「そんなことは自由の侵害だ。認められない」
どちらかというと今は、高橋涼介がそのタイプなようだった。庄司はといえば、下劣な笑みを浮かべていたが、その目は笑っていない。うわあ、こいつマジだ。彼はさっさと退散するのが最善だと思ったが、会話に切れ目がなかった。今度は中里が口を挟んだのだ。
「おい高橋、やめろ。慎吾、俺が悪かった、しかし今のはその……わざとじゃねえ」
「わざとやってたら俺はお前をとっくの昔に絞め殺してるぜ、毅」
「分かってる、いや、でも俺はお前相手でも、同じことはやるぞ」
「やるんじゃねえよ! てめえの行動基準が絶対だと思いやがるんじゃねえ!」
庄司は完全に怒っていた。紛れもなく怒っていた。中里は反論に苦しんでいた。ここで殴り合いに発展しなくなったということは、やはり二人とも仲良くなっているのだろう。良いことだ、うん。彼は飴を噛み砕きながら、過去の壮絶な二人の戦いを思い返し、時代の流れを強く感じた。
が、高橋涼介は昔の二人を知っているわけではないらしく、庄司にすっと顔を寄せ、ふっと笑った。
「おい、お前もてめえの行動基準が普遍のものだと驕るんじゃねえぞ、庄司」
「……てめえこそだろ、高橋涼介、考えてやらねえ奴より考えてやる奴の方が始末に負えねえんだ」
「妄想がお好きなようだ。しかしお前が何を吠えようが、今のはれっきとした友情に基づく行為だからな。美しいものとして受け取ってくれ」
あれ別に美しくねえじゃん、と彼は思ったが、どうやら高橋涼介も庄司も中里も、そういう次元の話をしているわけではないようだった。自分が峠から離れてる間に、何かの事態が進んでいるらしい。誰も言ってなかったじゃねえかよ、何なんだこれ……いや、言えなかったのか?
高橋涼介は庄司から顔を離すと、彼に顔を向け、清潔な笑みとともに丁重に礼を述べた。彼がびっくりしている間に、そうして高橋涼介はFCへと戻っていき、中里も庄司に「悪かった、話は後だ」、と再び妙な複雑さが窺える顔をして言い、高橋涼介を見送りに言った。
友情、と彼は考えた。つまりあれは友情の範囲内で、ということはそれを越えるのは何だろうか。っていうか、ウワサって何よ。あんまり好ましくない感じがしたので、彼はそれ以上の思考を停止させ、再度庄司を見た。庄司は顎を引き、ピリピリとした笑みを浮かべていた。明らかに、人を刺したがってる雰囲気だ。彼は無鉄砲ではなかったが、スリルを楽しむ性分は持っていたので、なあ庄司、とつい口にしていた。
「ウワサって何?」
「俺に聞くな」
「ウワサくらいはいいじゃねえかよ、誰も教えてくんなかったんだぜ」
「うるせえな! ウワサもクソもあるかッ、巻き込まれる方の身にもなれ、クソッタレが!」
必死の形相で叫ばれると、愉快に思うこともためらわれた。法律は破るためにあるとするこの庄司がここまで切羽詰っているということは、かなり心労がかかっているのだろう。つまり誰も言わなかったんだから、と彼は飴を飲み込み、何もなかったってことだな、と思い込むことにした。
そして彼はとりあえず走ったのちに、たやすく仲間からウワサについて耳にして、人間動じないためには類稀なる鍛錬が必要だということを悟ったのだった。
(終)
(2006/08/19)
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