努力



 肘関節は前腕骨と上腕骨からなる。上腕骨は一つだが前腕骨は橈骨と尺骨の二つがある。橈骨は親指側、尺骨は小指側で手首と関節をなす。肘関節において手のひらを返すといった前腕の回転のために動くのは橈骨である。上腕骨と尺骨は手のひらを返す動きには関与しない。橈骨は手首側が太く肘に向かうにつれて細くなる。一方尺骨は手首側が細く肘に向かうにつれて太くなる。尺骨は体幹に近い方の後ろ側に丸みを帯びた肘頭と呼ばれる部位がある。相手の鼻っ柱を折ったり瞼をカットするのはおおよそここである。

「で、どうしてまたこんな怪我をしたんだ」
 一通り右の瞼と目の動きを確認されてから、鼻先近くに造作が極端に美麗な顔を寄せられたまま尋ねられ、中里は地元の峠にいるというのに極端に居心地が悪くなり、肩をもぞもぞと動かしつつ、それでも何とか答えた。
「いや、その、うちのチームにちょっと、あれな奴がいてな」
「あれな奴」
「……まあ、口が悪いというか、短気というか、喧嘩っぱやいというか……」
「そいつと、殴り合いでもしたのか?」
 通常でも低いその美麗な男の声が、皮膚を震わすほどの重さを含んでおり、中里は脇の辺りに冷や汗をかいた。
「いや、俺じゃなくて、他の奴らとやってたから、そこは俺もリーダーとして止めとかねえと、で、割って入ったら、まあたまたまその、そいつの肘が俺のここに、こう、ピッとな。はははははは、はは、は」
 中里の乾いた笑いは車のエンジン音や排気音に溢れている夜の山に響き、何も生まずに収束した。ダークブラウンのタートルネックにオフホワイトのテーラードジャケットを着たスタイルの良い美麗な男は何も言わず、間近に構えたまま、中里の顔を見据えている。無言の圧力が擦り切れの目立つジーンズに包まれた足から毛玉の多い黒いセーターに包まれた腹から押してきて、中里は息苦しくなり、静寂に対抗するため声を出さずにはいられなかった。
「まあ、その、何だ。このくらい、あれだぜ、Rでコンクリートブロックに突っ込んだ時ほどの痛みもありゃしなかったし、な。ほら、五日も経ってだ、もう治ってきてるしよ、平気も平気、っつーか怪我の範囲内に入れるのもどうかってもんだぜ、おい。ははははははは、はは、は……」
 中里の乾いた笑いは冬の香りに満ちる峠に響き、やはり何も生まずに収束した。目の前の男は無言のまま、中里の顔を、幅は一ミリにも満たず長さは一センチほどのかさぶたがある右の瞼の端を、じっと見据え続け、いよいよ中里がこれは俺はもう逃げるしかねえのかと追い詰められた頃、深く深く、妥協の窺える溜め息を吐き、「中里」、と、先とは違い、耳に心地よい柔らかな声を発した。
「何かあってからじゃ遅いんだ。怪我をしたらまず、病院に行って、適切な治療を受けろ」
「んなオオゲサな……」
 中里は軽く笑おうとしたが、男に強烈に冷たい目を向けられて、止めた。おもむろに目に人間の温度を戻した男は中里の目へと、手を伸ばしてきた。その白く長い指が、右の瞼のかさぶたを優しく撫でる。
「ここだって、目に問題が生じる可能性もある、頭に近い部分なんだ、神経や脳に影響が出る場合もある。用心するに越したことはない。傷跡も残らずに済むかもしれない」
 まだひりひりとするかさぶたを擦られると、背筋がむずむずとし、中里は首をすくめ、少し顔を斜めにしつつ、平然となるような声を出した。
「用心は、まあ、そうだな、するけど、傷跡くらい別に」
 かさぶたを撫で終えた指が、手が、頬に当てられ、真っ直ぐ向かされる。何度見ても美形という言葉が思い浮かぶその顔と向かい合うと、ますます背筋がむずむずする。
「くらい、なんて言うな」
 そんな顔をした男に、真っ直ぐ、真っ向から、真剣にそんなことを言われては、首筋から顔にかけて一気に熱くなって、中里は真面目にしてなどいられず、よそを見ながら、適当なことを言うしなかなかった。
「別にお前、俺の顔なんざよ、転んだ時にできた傷とか机の角に額ぶつけた時の傷とかうっかりボールペン刺した時の傷とか、もう傷だらけで、今更いくつできようが何とも……」
 頬に当てられていた男の右手の親指が、上唇から下唇にかけてを押し、中里はそれ以上声を出せなくなった。目を、恐る恐る前に向ける。眉間をわずかに強張らせた男の顔がそこにある。その目に乗っているのは、冷たい軽蔑ではなく、熱い、憤怒だ。
「お前が傷つくと、俺が傷つくんだよ」
 低い低い声が、脳天から下腹部までどしりと響き、中里は瞬きを繰り返した。唇にはまだ男の親指が触れている。声を出したいが、口を動かすとその指の感触が嫌でも意識されそうで、出せない。
「だから、体は大事にしろ。医者には行け。行きたくなけりゃ俺を呼べ。でも、できる限りは診察を受けろ。努力をしてくれ。俺のためにだ。頼むぜ、中里」
 声を出せないまま、中里は必死に頷いた。目の前で透き通った顔の皮膚の下に怒りの炎を万遍なく燃やしていた男は、中里が八回頷いたところで一瞬にしてそれを消し、爽やかに笑った。
「そうだ。お前なら、分かってくれると思ったぜ」
 そして頬から手を離され、距離も取られる。急に現れた男の笑顔にどぎまぎしつつ、中里はようやく声を出した。
「そ、そりゃお前、そうさ、まあ、俺だってそのくらいはするぜ、お前……」
 お前のための努力、という言葉が温度の高まった頭に浮かび、より一層の熱を感じ、中里は口を閉じた。男はうっすらと笑みを残したまま、頷いた。
「それじゃ、俺は赤城に戻るよ。邪魔したな」
「……いや、まあ、いや。うん」
「体には、くれぐれも気を付けて」
「……うん」
「そのうち連絡をする。またな」
 言って、また男は爽やかに笑い、背を向けた。中里は喉元にまで強い心臓の拍動を感じつつ、その男とその男が乗った白い車が山から去るのをただ黙って眺めてから、体中を支配した緊張感と不埒な熱から解放されたための溜め息を吐き、そして改造車に溢れるこの場での自分の立場を思い出し、息を止めてしまったのだった。
(終)


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