遠い日の近い日



 お前もたまには車を出したらどうだ、と中里は言う。ロータリーは嫌いなんだろ、涼介がその要求の矛盾を突くよう、笑いながら返せば、そりゃまあな、と不愉快そうに、濃い眉の間の肉を盛り上げ、厚い唇をひね曲げながら言い、けど、とそれを平坦に戻して、
「お前の運転は、嫌いじゃねえよ」
 と、穏やかな声で続けた。涼介は、ありきたりの礼は返さずに、運転席の中里を見た。ステアリングを握るその手、その腕、その肩に、緊張から、力が入れられたのが分かった。ちらり、中里が視線を寄越し、すぐに前方を見直す。
「お前の弟の運転よりは、な」
 硬くした声で、中里は言った。その落ち着かない態度も、加速のぶれも、顕著な動揺を示していた。涼介は、笑わないでいてやろうかと思いながら、笑っていた。
「啓介のドライビングは、嫌いか?」
「嫌いってわけじゃ……」、中里は、唾と一緒に言葉を飲み込んだ。アクセルがわずかに抜かれ、戻される。言葉は戻されない。涼介は笑みを惰性で顔に残したまま、ウィンドウの外、防風林の上空を寒風に乗りふらふらと飛ぶ鳥を見て、ふらふらと頼りなく下界を彷徨っていた時分の弟を思い出し、呟いた。
「あいつはまだまだ発展途上だからな」
「まだまだかよ」
 中里は、呆れたように、鬱陶しげに、しかし、共感を零しながら言った。涼介は喉で笑い、
「ポテンシャルを言うなら、あいつの方が俺よりも遥かに高い。俺はただ……」
 言いかけ、やめた。俺はただ、何だ?
「ただ?」
 聞かれ、弟の話を、無意識のうちに自分の話に摩り替えようとした自分の卑しさに、いや、と苦笑して、
「とにかく、啓介の才能は末恐ろしいってことだ」
 完璧な微笑を作ると、中里は、興味もなさそうにそれを一瞥し、
「その身内贔屓を差っ引けば、それは認めるぜ」
 険しい顔で、ステアリングを握る手の甲に、何本も筋を立てながら、不服そうに言った。その顔の、肉の薄い頬に浮かぶ、距離を掴みかねているがゆえの困惑を、涼介は見ない振りをする。
 サイドミラーに映り込む自分は、完璧な微笑を続けていた。こんな作り物、いつ壊されても良いというのに、中里には見逃される。壊したいなら自分で壊せ、と言われているようだ。距離を掴みかねているのは、中里だけではないのだろう。あるいは自分が掴みかねているからこそ、中里も、掴みかねているのかもしれない。
 会話は消え、R32のエンジン音が、田舎道に強く響く。目的地はない。あてもなく走る車に乗り、あてもない話をする。半分の時間、涼介は寝ている。中里は起こさない。毎週のように、繰り返している。目的地はない。
 サイドミラーに映り込む、微笑を消した自分の、人間味に欠けた無表情な顔を見ながら、俺は何を言おうとしたのか、と涼介は思う。
 俺はただ――ただ、あの頃日々は、味のしない飯のようだった。命を繋ぐためだけに消化される。食うにも捨てるにも金がかかる。味はしない。何のために噛んでいるのか分からない。何のために生きているのか分からない。味が欲しかった。刺激が欲しかった。
 理由が、欲しかったのだ。生きる理由が。
 思い浮かんだ言葉の陳腐さに、涼介は失笑していた。頭を振り、ため息を吐いて、右隣を見る。中里は、不審そうに顔をしかめながら、進路を見ている。涼介は、それを見続けた。中里は、やがてためらいがちに口を開き、
「思い出し笑いをする奴は、エロいって話だぜ」
 何か、自慢をするような口ぶりで言った。涼介は、
「ナイトキッズの奴らが、そう言ったのか?」
「俺が言われたわけじゃねえぞ、そういう話ってだけで」
「お前が言われたなんて、誰も言っていないだろ」
 笑って返し、中里は苛立たしげに睨んできて、舌打ちすると、黙った。
 目を閉じる。まぶたの裏を白くする、暖かい日差しと、一定の調子で続く、鼓膜を重く揺らす音は、眠気を呼び起こす。寛ぎがたいシートの上で、比類なきほどに、心身はほぐれ、意識の壁が、低くなる。
「中里」
 口の中にこもる、小さな声で呼ぶと、空気が揺れた。中里は、気付いている。気付かれている。涼介は、声を外に出した。
「何かを失った時にできた心の穴は、一生消えないんだぜ」
 空気が、より強く揺れ、呆気に取られた中里の、雄々しいながら愛嬌に富んだ顔が、まぶたに浮かぶ。目を開くと、それは消え、二車線の道路と、遠く前方に白い大型トラック、左右には工場と広い駐車場が見える。
「時間が経っても塞がらないし、塞げない。代わりのものも何もない。その穴は、他の面積を膨らませれば縮まるだろう。ゼロに近づくだろう。でも、決してゼロにはならないんだ」
 よどみなく言いながら、俺は何を言っているんだ、と涼介は思った。一生なんて知りもしないことを、どうして知った風に言えるのか。誰がそんなことを言えるんだ。けど、俺は言ったじゃないか。思うと、無性に笑えてきた。滑稽だった。
「何でもない。忘れてくれ」
 返答はない。三十メートルほど先、信号が黄色に変わり、赤になる。停止線の前、車は止まる。トラックはもう見えない。
「高橋」
 隙間風のように強引で、乾いた声に呼ばれ、涼介は中里を見た。中里は、真っ直ぐ前を見据えたまま、唐突に、左手を伸ばしてきた。その手が作った拳の底で、胸の中央を、古びた扉を軽くノックするように、一度だけ、叩かれる。振動が、温度が、服を伝わり、肌に届いた。心臓に届き、胸に熱が満ちる。血が、首を、額を駆け抜ける。
 中里は、前を見たままだ。むっつりと、しかし、その太い目は、無愛想に徹しきれず、何度も瞬いている。
 笑わないでおいてやろうか、思いながら、涼介は笑っている。笑いながら、霞みそうになる目を、動き始めた空に向けて、閉じた。
(終)


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