規則的な波



 硬く、小さく、窮屈なベッドだった。足は壁にぶつかるし、寝返りもろくに打てやしない。だというのに、自分の部屋の、ゆとりのある大きさ、体を適切に支えるマットレス、清潔なシーツ、頭に沿う枕、質の良い睡眠を得られる品々の揃っているベッドに、睡眠のためだけに体を預ける時よりも、神経が緩み、安らぎを感じられるのは、体の一部が重なるほど近くにいる、その男の存在があるためだろうと、涼介は思う。
「俺を卑怯な男だと思うか?」
 渋い重みと弾力のある、二つ並べるだけでベッドの幅一杯となる、そばがらの枕の上に、あらかじめかけておいた右の上腕に、どけ、断るの押し問答の末、渋々頭を載せてきた中里が、気を変えないうちに、その首を抱えるようにして、右の前腕を胸まで回し、一分ほどの静寂、空白でありながら満ちた時間を、涼介はその問いで終わらせた。唐突な切り出しに、びくりと頭を揺らし、顔を向けてきた中里が、互いの鼻が触れかけるほどの距離の近さに、おののいたように顎を引き、涼介の腕の内側を、後頭部で押す。だが、これ以上、離れることは許さない。数瞬でそれを理解したのか、中里は面倒そうに顔をしかめ、斜めに目をやってから、涼介の顔をしかと捉えて、
「そうでもねえだろ」
 答え、その配慮と無神経の混在した言い回しに、そうでも、か、と薄い笑いを涼介が漏らすと、
「お前くらいで卑怯っつったら、みんな卑怯になっちまうじゃねえか」
 不服げに、唇を突き出した。血の色の艶やかな、肉の厚い唇。それをそういう風に動かされると、キスをねだられているように、涼介は感じる。だが、本人にその気はないのだ。自尊心が強く、思考は短絡的で、単純極まりない反応を示し、操作など容易いと思わせるくせに、この男は、何者にも侵されない、誰の影響も受け付けない、素朴で頑丈な自我を保持している。そういう男からどうすれば、求めるものを引き出せるのか、それをいつでも、情事の後の安らぎの合間にすら、念頭に置かずにはいられない、自分の弱さ、浅ましさに、涼介の薄い笑いは、自嘲に変わった。
「みんな、リスクを正確には分かってねえんだよ」
「あ?」
「誰かが死んだ時のリスクさ。誰かが誰かを死なせるリスク、誰かが誰かを殺すリスク」
 右手の指で、中里の、白い肌着の下の鎖骨に、文字を書く。risk。中里は、こそばゆそうに首をすくめ、顔を歪める。
「みんなただ、夢のために突き進んでいる。同じ方向しか見ていない。足元には数え切れないくらいの落とし穴があるってのに、いつかそこに落ちる可能性を、落ちる危険性を、誰も正しく分かっちゃいない。俺はそれを分かっていて、プロジェクトの進行に、拍車をかけることしかしていない。人の命を救う職業を目指していて、それを止めるつもりはまったくない」
 なぜならそれは、俺の夢だからだ。それが、俺の夢だからだ。心の中で、涼介は明瞭に呟き、
「俺を、卑怯な男だと思うか」
 中里にそれだけを、再び尋ねた。そんなことはない、お前は誠実な正直者だ、と激励してほしくもあり、その通り、お前は最低な卑怯者だ、と非難してほしくもあり、そんなこと、お前一人の責任じゃない、と庇護してほしくもある。どれを最も自分が求めているのか、中里がどれを選ぶのかも分からぬまま、答えを待つ、心臓が縮み、呼吸が細りそうなその間は、車に接している時よりも刺激的で、恐ろしい。
 太い眉の周りに、中里は困惑の影を浮かせた。それを、面倒そうに眉間を盛り上げることで消し、深く黒い目で、真っ直ぐに涼介を見る。
「お前は俺を、卑怯な奴だって思うのか?」
 発された問いは、体良く逃げられたような失望感と、体良く逃がしてもらえたような安心感とをもたらし、涼介はその胸の軽く、腹の重くなる、据わりの悪い気分を、作り笑いで紛らせた。
「質問に質問で返すのは、そうかもな」
「それが答えか」
 だが中里は、その目を涼介から逸らさない。あらゆる余地を呑み込む深い目は、逃げも、逃がしもしてはくれない。それに遊びを奪われ、涼介は平坦な口調で、いや、と言っていた。
「そうは、思わないよ」
 中里は、変わらず面倒そうに眉間を盛り上げたまま、ぞんざいに頷くと、
「その俺の選んだもんが、そんなに卑怯であってたまるかよ」
 唇を突き出しながら言って、どこか満足げにまた頷き、心臓を強打されたように、涼介の息は止まった。この途方もない衝撃を、現実を、幾度も繰り返し作り出す、愚かに傲慢で、分かりやすく卑小で、底知れず寛大で、残酷に優しい、時に上を行き、しかし常に下にいることを、自我により選んでいるその男に、胸を潰されそうなほどの愛おしさを覚え、涼介は、無理矢理息を吐き出すと同時に、その理屈は卑怯だな、と笑っていた。
「何だ、文句あんのか」
 中里は、不服げに睨んでくる。いや、と涼介は笑ったまま小さく首を横に振り、まだ突き出されているその唇が、決して求めてはいない接触を、求めて顔を近づけた。
(終)


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