ある側面
じっと見てくるものだから、特別な関係にでもなりたいのかと思い、何だ、と少し顔を寄せて尋ねてみると、
「腹を出せ」
険しい顔をして、中里は言った。
「腹?」
涼介は十度ほど首を傾げた。湯浴み後、ベッドに隣同士腰掛けながら醜悪なテレビ番組に適当な毒を吐き合い気が緩んだところでの、家主による脅迫。状況だけを見ればここで要求されるべきは金銭が第一だが、
「腹だ」、中里は強調する。腹を出せ。腹を見せろということだろう。それは分かる。生活に関するプライドの高い中里が金を無心してくるよりも、よほど妥当な話だ。ただ、妥当であっても意図は分からない。
「なぜ」
「いいから出せ」
言い捨てた中里はぎろりと睨みつけてくる。これだけ礼儀正しい相手の御注文に目的も知らされぬまま諾々と従うのは涼介の流儀ではない。しかし中里は涼介にとって腹を見せてやることをためらうような相手でもない。見せてくれと言われたら、いくらでも見せてやりたい相手ではある。お医者さんごっこでも何でも付き合えば、進んで見返りを差し出してくると信じられる相手でもある。つまり、断る理由はない。
「分かったよ」
ベルトを外し、腰回りを緩めてから、セーターとシャツをまくり上げる。中里は顎を手に当て眉間に皺を立て、涼介の腹を見る。骨董品の鑑定でもしているようだ。この腹の価値を見定めようとしているのだろうか。相変わらずおかしなところのある男だと思う。普通のようで普通ではない。普通以外にもなりえないのだが。
「今何キロだ」
目を上げた中里が、脅すように聞いてくる。
「体重か?」
「そうだ」
「今朝量った時には66kgだったな」
記憶を元に答えると、中里は一瞬心配げに眉をひそめてから、その表情を隠すように大げさなしかめ面を構えた。
「痩せすぎじゃねえか」
「俺の平均よりは重いくらいだぜ」
いつもなら64kgだ。真夏なら60kgまで落ちることもある。それに比べたら66kgは十分重い。
「お前の平均は世の中の平均じゃねえんだよ」
中里の態度は不機嫌一辺倒だが、それに涼介は懐かしさを感じるほど親しんでいる。突っかかる気にはならない。からかう気にはなるから腹を出したまま肩をすくめる。
「含蓄のあることを言うもんだ」
「馬鹿にしてんのか?」
「褒めてるんだよ。何かの平均がすべての平均とは限らない。真実がどの側面から見ても真実とは限らない。深い話じゃないか」
適当なレトリックを撒くだけで、中里は考えるのも面倒そうに顔をしかめる。分かりやすくて結構だ。
「……とにかく、お前は痩せすぎだぜ、高橋」
「ある側面から見ればそうだろうな」
「もう少し、肉をつけろ」
「努力はする」
冬の間に脂肪を蓄えておかなければ、夏は乗り越えられない。中学二年生の時に痛感した。言われるまでもないことだ。だが敢えてそう言うことでもない。中里の心遣いはありがたく受け止めておく。努力もする。嘘ではない。普段通りの努力はする。それ以上をする気はないが。
それはそれとして、
「もう腹はしまっていいのか?」
「ああ」
あっさり頷かれると、何か腑に落ちないものもある。しかし中途半端に腹を晒したままというのも落ち着きはしない。大人しくシャツをズボンに入れながら、涼介はふと思いつく。
「お前の腹はどうなんだ」
「どうって、何が」
「肉のつき具合」
中里は顔をしかめ、五度ほど首を傾げた。
「知りてえのか?」
「是非」
ベルトを締め直し、目を見ながら頷く。訳知り顔で批評をしてくる相手の中身などどうでもいいが、中里ならば話は別だ。中でも外でも知りたいと思う。思いを込めた強い視線はいつでも要求を貫徹させる。中里は渋々といった様子でシャツに手をかけ、しかしさばさばと肌着ごと脱ぎ捨てると、ぞんざいにベッドの上にあぐらをかいて、太腿に両手を置き、
「ほらよ」
腹を見せてきた。中里の腹。細くはない。肋骨の線は見えない。筋肉の線はうっすらと見える。細くはないが、太いとも言いがたい。適度と言えるのかもしれない。これを比較対象としたのなら、中里がこちらの腹を見て痩せすぎと判断しても不思議ではない。ただ、肉のつき具合は見ただけで正確に分かるものでもない。涼介は右手を伸ばして中里の脇腹に触れた。すると、
「ちょっ」
脂肪の厚さを確かめる前に、横に跳ぶように逃げられた。ベッドが安い音を立てて軋む。
「何してんだお前」
壁に背をつけながら中里がひっくり返った声で叫び、涼介は何も掴めなかった右手を上げた。
「肉のつき具合を確かめようとしただけだ」
「いきなり、だからっていきなり触る奴があるか、そんなとこ」
「いきなりじゃなけりゃあ、触っていいのか?」
ある側面から見れば、それは否定の仕様がない真実だ。涼介から見たものではない。中里から見たものではあるだろう。だから中里の眉間の生真面目な強張りは長くもたない。
「……まあ、いきなりじゃねえなら……」
「そうか、なら」
涼介はベッドに上り、中里の前に座った。中里は壁に背を押しつける。壁の中に入りたそうだ。だが入れるわけもない。その困惑の浮いた顔の前に、開いた右手を出してやる。
「触るぜ」
行き先を知らせてしまえば、いきなりではなくなるのだ。ある側面から見れば、だが。
(終)
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