金と策



 どれほど目を凝らして紙面を見ていても変化はない。五分経とうが十分経とうが三十分経とうが、開いた雑誌に掲載されているマフラーの値段もダンパーの値段もボンネットの値段も、桁数が減少することは一切ない。この状態で、借金取りに内臓を引っこ抜かれることなく理想の車を現実に起こすなど、不可能だ。が、しかし。無理難題と分かっていても、諦めきれない時がある。いや、ありえないことにこそ、無責任な夢想は掻き立てられるというものなのだ。
 かくして中里は、築ウン十年賃貸アパートの一室で、居間兼寝室の床に胡坐をかいてテーブルに片肘ついて眉間にしわを刻みつつ、窓から差し込む日の光を頼りに、雑誌の同じページを延々と眺めていた。己が財政崩壊の危機を乗り越える奇跡の一手を思いつかんと奮闘していた。とはいえ所詮夢想は夢想。具現化仕様のない代物ばかりが頭に浮かんでは消えていくのだった。
「……クソ」
 雑誌とのにらめっこから三十分と数分過ぎた頃、中里は舌打ちをしてため息吐いて、一旦思案を中断した。妙な幻を追いすぎて頭蓋骨の周辺に疲労の重みが溜まっていた。肉体はニコチンの補給を求めていた。そのため一服してから改めて、現実的なチューニングの方策を考えた方がいい、と気付いたのである。そして中里が右手をゆっくりと煙草の箱へと伸ばした時だった。見た目だけは大理石調のテーブルの、中里から見て右斜め上に置かれていた煙草の箱が、中里の右手よりも早く後方から伸びてきた何者かの右手に、取られたのだ。
「……あ?」
 中里は数秒固まってから声を上げ、右から後ろを振り向いた。そこにはパイプベッドが据えてあり、その上には一人の男が仰向けになっている。ベージュのチノパンに紺地のセーターを身につけた、ベッドの尺が足りないと言わんばかりに長い足を折り曲げて、腹にノートパソコンを置き、遮音性の高そうなヘッドフォンを首にかけ、その首から肩甲骨にかけてを濃緑色のクッションでサポートしながらその男は、中里が取ろうとした煙草の箱を矯めつ眇めつしていた。
「おい、高橋」
 名を呼べばその男、高橋涼介はとぼけた顔を向けてくる。とぼけた、といってもそれは決して呆けたものではない。模範的国立大医学生ならではの怜悧さを持った、すこぶる端整な容貌である。見慣れた今も何とはなしに嫌みに感じられるほどの、そんな美貌を睨みつつ、中里は口を開いて、しかし声を発さずそのまま閉じた。
 ここで煙草を返せと迫るのは、湯を沸かすより簡単だ。だが過去の経験が額の裏側に蘇る。前回この家にこの男が来た時のことだった。中里は昼食後の糖分が巡った頭で自身の財政上の問題について煙草をお供に思案していた。友人への祝儀をいかにして捻出するかという問題だった。最悪親に頼ればいいが、できる限りは自前で賄いたい。しかし家計は火事場寸前。この窮状の打開策、走り屋生活を犠牲にせずにしてどう見つけるかとノート上で格闘している時に、無意識に消費していた煙草を、高橋に取り上げられたのだ。
 吸いすぎだ、と高橋は、今のようなとぼけた顔をしながら言ったものだった。なるほど確かに吸いすぎだった。三日で一カートンを使い果たしそうな勢いだった。それは指摘の通りである。だが、自分で買った嗜好品を奪い取られる筋合いはない。中里はともかく煙草を返せと高橋に迫った。すると高橋は、少し考えるような素振りをしてから、おもむろにご持参のノートパソコンの画面を向けてきた。そこに映し出されていたのは、喫煙者と非喫煙者の肺等々の、鮮明な比較画像だった。生々しかった。グロかった。一気に喉元まで胃液がこみ上げた。日頃流血沙汰には慣れている中里ではあったが、それとこれとは別物だった。拷問本を平然と読むどこぞのガムテープマニアとは違うのだ。そんな見目よろしくない画像を突きつけられながら、喫煙の人体に与える影響というやつを淡々と語られては、ペースは乱され辟易とし、煙草を吸う気も萎えてくるもので、その時は結局そのまま高橋に煙草を奪い取られてしまっていた。しかしあれから二週間。喫煙欲は元通り、不健全な財政状況にも変化はない。虎の子とも言える煙草一箱、前のように、唯々諾々とくれてやるつもりはなかった。
 中里は、閉じた口を再度開くための方便を考える。そんな中里を高橋涼介はとぼけた顔のまま見続ける。用件を詰問してこないのが、急場に弱い中里にとっては幸いであるが、そういった中里の性質をよく把握している慧眼の持ち主高橋涼介ともあろう男が待ちの姿勢を取っている動機については、当事者だけが知らぬ不幸であるかもしれない。
 ともかく中里は、傍から見れば不自然になるだけの沈黙の時間を費やし、自分の煙草を取り返せる方向に話を進める逆転の一手を考えに考えた結果、はっと閃いた。
「弟はいいのか」
 無自覚に目を輝かせながら勢い込んで言った中里にも、高橋はとぼけた調子を変えなかった。
「啓介が、何だ」
「煙草。やめさせなくってよ」
 高橋涼介には弟がいる。頭の出来は違うようだが、顔の造作もドライビングの腕前も似たり寄ったりな弟だ。中里が数ヶ月前走り屋として直接辛酸をなめさせられた、その弟を高橋涼介は随分可愛がっている。髪は金色、喧嘩もバトルも喫煙も上等、挑発的で攻撃的で小生意気なヤンキー丸出しの弟でも、大層可愛がっている。そんなブラコンの兄なのだから、弟の話題に出せばそちらを気にかけ、こちらは健康布教ターゲットから外れるに違いないというのが、先の中里の閃きであった。
「あいつは弟だからな」
 そして高橋は考える素振りも見せず、あっさり答えた。中里はそうだろうと首肯しかけ、すんでで止まり、何かの違和感に思考を傾け、八秒ほど考えてから、待てよ、と言った。
「それはひょっとして、弟だから、やめさせなくてもいいって意味か?」
「俺とあいつが夫婦ならまだしも、二親等に過ぎない以上強制する義理はないだろう」
 再び高橋はあっさりと言い、何?、と中里は顔をしかめた。話の展開が急すぎて、夫婦はまだしも、二親等が何であるか咄嗟に理解できなかった。
「健康は案じても、行動を管理する立場にはないってことだ。薬中なりアル中なり要介護状態にでもならない限りはな」
 まあそうなる懸念が見えた段階で現実には口も出せば手も出すだろうが、掌に収めている煙草のパッケージへ退屈そうな目をやりながら朗々と高橋は続け、そこで中里はようやっと、二親等が兄弟であることに気が付いた。つまり高橋涼介の言い分は、兄弟間で無理矢理煙草をやめさせる義理はない、だが相当な危険性が見込まれる場合には干渉するのも致し方ない、というものなのだろう。そのように中里が理解するまでには実際、再びの結構な沈黙が費やされたが、高橋涼介はその時間もただじっと中里を見続けるだけで過ごした。顔をしかめたまま目を閉じ考えに没頭していた中里は、無遠慮に向けられる高橋の視線にはまったく気付かなかった。突如かっと目を開いたのも、見られている気配を感じたためではなく、高橋の言い分を理解した結果、違う疑問が頭に浮かんだためだった。
「それなら何で、俺がお前に煙草を取られなきゃいけねえんだ」
 不服に目と唇とを尖らせながら、中里は高橋を睨み上げた。こちとら血縁関係などさらさらない。同郷ゆえに、遥か昔まで遡れば何らかの縁故はあるかもしれないが、少なくとも今の時代で、高橋涼介の家族理論に適合するものではない。
「二親等どころか、俺らは赤の他人じゃねえか」
 中里が苛立ち露わにそう言い切ると、高橋は、ただ純粋に意外そうに、両眉を高く上げた。その大仰な、わざとらしい仕草を見て中里は、妙な悪寒を覚えざるを得なかった。高橋の眉が、滑らかに元の位置に戻る。それと同時にその上半身がしなやかに動き、その顔が中里の目の前を埋め尽くした。とぼけた雰囲気の霧散した、剃刀一枚通す隙も歪みもないかのような、完璧に美しく、堅固に真剣な顔だった。
「野暮なこと言うんじゃねえよ、中里。恋愛を前にすりゃあ、道理も引っ込むってもんだぜ」
 演技と知れる、粗暴な言葉だった。艶のある低い声が発すると、深い色を持つ言葉だった。それが耳に触れた瞬間で、中里は自分の顔が意思とは無関係に熱くなるのを感じた。その変化の表れを見届けたように、再び大仰に両眉を上げた高橋は、冗談だ、と囁いて、上半身をするりとベッドに戻し、中里は昂った血の勢いのまま、てめえ、と叫んでいた。
「真顔で何、言ってやがる!」
「ニヤニヤ言えば良かったか?」
 悪びれた風もなく、高橋は肩をすくめる。そこまで軽々しく飄々と振る舞われると、途端にすべてが馬鹿らしく感じられ、そういうことじゃねえよ、と言う中里の語気も弱くなった。手玉に取られたような屈辱はあったのだが、この男との間柄を簡単に赤の他人と断言した疾しさも接触せずして扇情させられた気恥ずかしさも、引きずりたいものではなかったし、何より仮にあの台詞をどんな顔で言われていようが、今と似たような状況に陥ったとは知れきっていた。恋愛を前にすれば、道理も引っ込む。まさしくそういうことなのだ。我が身を振り返ると、反論の仕様はなかった。
 そうして道理を引っ込められた中里が、その後に明瞭な言葉を続けられずにいると、高橋は不意に、当たり前のように、右の手に携えたままの煙草の箱をセーターの襟から内側へと差し込んだ。それには中里も、おい、と反射的に反発の声を上げたものの、高橋は躊躇なくセーターの下、ボタンダウンシャツの胸ポケットに煙草をしまい込み、まあ結局は、と、柔らかい苦笑を浮かべた。
「俺とお前の、物の見方の違いだよ」
「は?」
「お前は俺を他人と見てるんだろうが、俺はお前を配偶者と同じように見てるからな」
 かくして高橋涼介は、中里からの煙草の無血奪取に成功した。中里はといえば、配偶者の意味するところを二親等より遥かに容易く理解した直後、テーブルに突っ伏すだけで関の山であり、開いたままの雑誌が噴き出した汗と皮脂と熱とを吸っていこうが後ろに気配を感じようが背中に硬い人肌を感じようが、しばらく動けもしなかったのだった。
(終)


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