すべての弁明
この物語の主役たる男、わずかな釣り目にとがった鼻、底意地が窺える歪んだ口元、張り出た頬にそれを隠すまだらな茶髪をした、一見してもよく見ても好青年としては受け入れられない男、庄司慎吾は走り屋である。真紅のホンダシビックを駆って、毎夜のごとく山の騒音拡大にいそしんでいる。
そんな慎吾の峠における第一目的は無論、愛車に火を入れその体を労わりながら痛めつけることであったが、しかし慎吾という男は、人並みの思考力を有しているにも関わらず、あるいはだからこそ、総じて愉快な事柄を優先してしまう気質を持っていた。そのため危機を察知しながらも、痛い目に遭うことが頻発する。それでも慎吾は、楽しさに任せて踏み込んではならぬ一線があるということを、よく分かっていた。分かっているつもりであった。そして、そこまで踏み込んでもいないつもりであったのだ。
だが、現実とは意識をせぬ間にぐんと進んでいくものであり、約一ヶ月前、覚束ない足取りで他人を寄せ付けないオーラを発しながら歩いてくる、よく知った男の姿を目にした時、慎吾は何かを通り過ぎてしまったことを感覚として悟ったものだ。嫌な予感が痛みの残る背中を支える背骨を侵食していく感覚、日陰に残る水溜りのようなしぶとさで全身に広がる後悔、それらの身の毛もよだつ味わいを、今でも慎吾はありありと思い出せた。
驚かねえんだな、と一世一代の大告白を終えたその男、中里毅は、当人自身驚いた風もなく言ったものだった。数秒意図せぬ間を置いてから、世の中何でもアリだからな、と慎吾は笑って返したが、洒落にも皮肉にもできずに終わり、また意図せぬ沈黙を作り上げた。言葉はただちに人間の体を縛ってしまうものなのだと、その時慎吾は知った。心臓はどくどくうなったくせに血流は悪くなり、頭は使い物にならないほどに飽和していた。「高橋涼介と」、と、中里の低くかすれた声を聞いた瞬間から既に、慎吾は動きを封じられていたのだ。
「付き合うことになった。いや、した」
へえ、と努力を惜しまず返した声は、平静以外の何ものも示さず、その後の応答でも動揺を見せることはなかったと、慎吾は振り返る。ただ唯一、決意を満ちた表情で、ああ、と頷いた中里の、その全身に目を走らせて、服に隠れる肉体が高橋涼介の素裸を絡む姿を想像し、自己嫌悪に陥った部分を隠せたかは疑問が残った。
悪かったよ、と、己の作った沈黙を壊して慎吾は言った。何が、と訝しげに尋ねてきた中里に、気色悪いとか言ってな、と慎吾は素直に答えた。いや、とかぶりを振った中里は、穏やかな表情で、俺だって他人事ならそう思っちまう、と言った。ああもうこいつは自覚してる、慎吾は理解したものだった。
中里毅は妙義山をホームとする走り屋集団ナイトキッズの便利屋、もといリーダー格であり、容貌はたくましく風采はいかめしく義理人情に厚く、そして詰めの甘い男だった。猪突猛進を呈したかと思えば臆病とも呼べるほどの慎重さを見せる、大胆さと繊細さのつり合いがまったく取れていない男、慎吾が唯一好意と嫌悪を半々に感じる放り出すことのできない男でもあった。
一方、高橋涼介は赤城山をホームとする走り屋団体レッドサンズの創立者であり、リーダーであり、群馬の走り屋のカリスマであって、容貌は美しく風采は壮麗、ただし突飛な服装を好む、個性的も個性的な男だった。表情を動かさず冷静に物事を断じたかと思えば、情熱を己の動機として認める頑固さを全面に押し出す男、性的なにおいを感じさせないくせに非常に動物的に見える男、そして慎吾の価値観の範疇外に存在する男であった。
そんな二人が男男交際を結んだということは、その馴れ初めの多少を望むでもなく眺めていた慎吾にとって、さほどの驚愕ももたらされはしない、ある種の面白みを持った事態だったが、しかし流石の慎吾でも、一つの超過を知ってしまった時点では、それをもてあそぶ気分にもならなかった。
そうして記憶は少しずつ風化していき、今日までそれは、まるでなかったことのようになっていたのだ。
さて、場面は移る。
師匠も凍える季節の深夜のファミリーレストランは、腹を満たすためか暖を取るためかは知れないが、客の入りも上々だ。だぼだぼの服を着た若者からよれたスーツを来た初老の男性、呆然とした顔つきの主婦らしき女性など、身分が定かではない人間が多々いる中、夏服にパーカーを重ね着しただけの慎吾と、動物の毛がわっさりついたコートを着込んだミニスカートの女は、暖かいお茶とコーヒーと冷たいパフェの乗ったテーブルを挟みながら、近況を語り合っていた。やれどこそこの同級生が事故に遭った、結婚した、子供を産んだ、どこそこの峠は状態が悪い、溜まる人間も悪いなど、もっぱら女が喋ったが、慎吾も負けじと口は動かし、情報交換という主目的は滞りなく達成されていた。
「でさあ、そのショウゴって奴がバカなのよ。自分のやってることのバカさを分かってないバカ、手がつけられないバカね。でもちょっと見込みあるから、どうにかできれば結構いい線いくと思うんだけど、なかなかねえ。あたしも困るわ、ああいう男は」
また、日本語に精通した九官鳥のようにぺらぺらと喋る、ウェーブのかかった髪を化粧で彩られた顔の横に垂らしたいわゆる幼なじみの女との会話では、私生活の愚痴の交換も効用の一つでもあったが、毎度毎度じゃあと別れてしばらくしてから考えると、どうにも自分の方が割を食っているとしか思えないため、慎吾はその利益と損失については深く考えないようにしていた。
「困ると言いつつそのすんげえだらしない笑い顔は何なんでしょうねえ、沙雪さん」
「えー、だってその子ォ、すんごいカワイイんだもーん」
慎吾が皮肉混じりに指摘すると、女は途端に目を輝かせ、合わせた両手を頬に当てながら慎吾がほとほと聞き飽きている猫なで声を上げた。そりゃあようござんしたね、と慎吾は心にもない言葉を、心をむき出しにした下劣な笑みとともに送ってやった。
男女の幼なじみというものがどれだけ世間でもてはやされようとも、この眼前にいる男好きのする女、沙雪との関係を慎吾は腐れ縁にしか感じていない。
年を経てからの知人友人恋人選別は、外界からの制限の有無に関わらず自分の意思と責任があまねく付随するものであるが、幼少の時分は環境が決定要因の粗方であり、そうした縛りしかない中で育まれた関係が、自我を確立するまでに成長してもなお続くのは、長々と共有した時間を捨て去ることをためらうため、要すれば、モッタイナイ精神が発揮されるからだと慎吾は考える。こちらは男であちらは女、それも非常に肉感的な顔と体を供えている雌であるからして、突発的な衝動を沙雪に感じたこともなかったとも言えないが、それでも慎吾は沙雪という女性に、幼なじみである以外に付記することを二十一年間の関わりの中持つことはなかった。もはや惰性で続く浅ましい関係に拘泥すらしていない。だが、多くの思い出を共有した相手、己の身を守る女性観を与えてくれた相手、それを蔑ろにするほどの悪意も持ちはしておらず、そして何より慎吾が強いこだわりを持つ車という趣味、それを同じくするという点での共感は、誰よりも長く強く抱き合っていたものだった。
慎吾が沙雪と定期的に直接対面する理由としては、そのように『腐れ縁』が既に完成されていることにもあるが、またその過程において慎吾は、恋愛ファッション芸能流行なども突発的に繰り出される話にかかる精神的負担を軽減する技術も獲得していたため、どれほど小うるさい女性相手とでも対等に渡り合うことができ、その貯金から得た利潤を思うと、技に磨きをかけることも一つ、知れた損失を少しでもゼロに近づける目的にもなりえるからであった。
「やっぱりカワイイ男の子はいいわよお、目の保養になるもの。あんたとは大違いね、あんたの場合そのツラ見ると風邪引きそうな感じがするから」
「俺としてはお前のそのツラ見ると、スッピン思い出して噴き出しそうになるけどな」
「刺すわよ」
「お前の方こそ、いい加減付き合う男を一人に絞んねえと、俺とは言わずそのうち誰かに刺されるぜ」
「しょーがないじゃない、あたしの思いに関係なくう、あたしを好きだって男の子がたあーくさんいるんだからあ」
女性特有の高く通る間延びした声でわざとらしく言った沙雪に、やっぱり俺が息の根止めるのが一番だな、と提言し、慎吾は煮詰まっているようなコーヒーをすすった。沙雪は恍惚の表情をささっとぶすっとしたものに変え、冗談よ冗談、と低い声を出した。
「あたしだってそこまで安い女じゃないわよ」
「どうだかな」
「大体、あんたなんかに刺されてたまるもんですか。絶対刃物に変な毒とか仕込んでそうだし」
「そんなの調達できるほど手広けりゃあ、俺はとっととお前を毒殺してるよ」
ひどおい、と急激に声の調子を上げ、握った両手を頬に当てた沙雪は、潤ませるように努力をしたらしい目を向けてきた。慎吾はそれを細めた目でただ見下ろした。しばらく見詰め合うと、沙雪は慎吾には通用しない作られた可愛らしさを一挙に消したが、小言を言うことはなく、企みの浮かぶ顔をしてにまにまとし出したため、慎吾は何事かと訝った。
「お前、俺相手にオネダリしたと思ったら今度は何だ。気色悪く笑いやがって」
「ま、あんたがそこまで悪事に手を染めてるなんてあたしも思ってないわよ。そりゃひよわーな男の子からカツアゲしたり、CD盗んだり? もしてたけど? そこまでねえ、やるわけないもんねえ」
「よく分かってるじゃねえか。で、その心は?」
「あんたがしたことは絶対やらなさそうだけど、あんたができないことはやりそうな人についてよ」
あ? と慎吾は意を解せずに大きく顔をしかめた。んふふふふ、と沙雪はにやにや笑っている。
「誰だそりゃ。っつーか話の展開分かんねえぞ。もっと順序立てて喋れよお前」
「聞こう聞こうと思ってて忘れてたんだけどねー」
だから誰だよ、と慎吾がため息混じりに問うと、だから、と沙雪は笑みを深め、身を乗り出した。
「中里クンと、高橋涼介?」
その名を一旦頭に収めてから、「はあ?」と慎吾は大仰に顔をゆがめた。だって、と沙雪は尽きない興味の乗った目で慎吾をじっと見た。
「色々ウワサあったじゃない、あの二人。でもあの後全然話聞かないし。で、どうなったのかなー、って」
そのくるりと上を向いたまつげの奥にある、丸い瞳を見返しながら慎吾は、既に言っていることと言っていないことを目まぐるしく思考しつつ、どうなるっつーんだよあの二人が、と無知を晒すふてぶてしさを作った声で言った。沙雪は軽く肩をすくめた。
「考えても分かんないから聞いてんじゃない」
「お前が分かんねえことを何で俺が分かるんだ」
「あんたが一番中里クンと近いからよ」
「それはお前、嬉しくもねえ過大評価だぜ。俺は何も知らねえよ、あいつのことは」
ふうん、と鼻を鳴らす沙雪には、一向にそれを信じた様子もなかった。慎吾は苦味しか口に残らないコーヒーをすすり、意外な焦りに詰まりそうになる喉を開通させてから、言葉を重ねた。
「お前よ、そんなこと無駄に勘繰る暇あったらそのショウゴクンをモノにしとけ」
「顔だけ良ければいいなんて考え方してないわよ、あたしは」
「でも第一関門は顔だろ」
「ま、良いに越したことはないけどさ。で? あんた、話題逸らそうとしてない?」
眼前の至極楽しげな女は引き下がりそうもなかった。慎吾は出所の知れぬ焦りを抱えたまま、しかし他人には深い思索を窺わせるであろう笑みを作り、まあ実はだな、と身を乗り出して言う間に、何にも抵触しない説明を瞬時に考え、沙雪が目を輝かせ耳を差し出して、ナニナニ、と尋ねてきたと同時に、あいつらはな、とおごそかに宣言した。
「ダチになったんだよ」
再び場面は移る。同日約二時間後、夜露に濡れた路面を好んで走る人間もそうそういないが、それでも峠に集まる寂しがり屋はままいた。慎吾は愛車から冷気に満ちた外へとそろりと出、おしくらまんじゅうをし始めそうな男衆の固まりに、のそのそと近づいていった。
上半身のラインを浮き立たせる黒いセーター一枚に、くすんだジーンズ、くすんだスニーカーを履いた男が目標物であり、慎吾はそれに辿り着く前に、沙雪の甲高い声を思い出し、不機嫌さを取り戻した。
よお慎吾、相変わらず寒いんだか暑いんだか分かんねえ格好だな、と目標物を囲っていた顔見知りが気安く声をかけてきたが、ああ、と眉間に力を入れたまま言葉少なく頷くのみにして、慎吾はすぐに男を見据えた。男も慎吾と似たように、眉間に力を入れていた。
「毅、話があんだけど」
慎吾の深刻ぶったその一言で、周囲の男たちは各々の偏見に基づいた『とばっちりを食うのは御免こうむる』という判断を下し、挨拶もそこそこにするすると解散していった。残ったのは男と慎吾、二人だった。
その男、中里毅の車であるスカイラインのボンネットに腰を下ろすと、所有者が露骨に嫌そうな顔をするのも気にせずに、慎吾は煙草とライターをパーカーのポケットから取り出して、悠々と火を点けた。急ぐことはない、慌てる必要もない。これは何も、特別なことではない。
「何の話だ」
煙を吐き出し、エンジンを尻の下にしてくつろぎかけていた慎吾に、辛抱たまらぬように中里は尋ねた。慎吾は中里を軽く見、にんまりとした幼なじみの納得顔とその声を思い出しながら、お前よ、といかようにも取れる調子で言った。
「高橋涼介と、どうなってんだ」
は? と間抜けな声を上げた中里が、問いの意味を噛み締める間に、慎吾は煙を肺に深く収めた。中里は戸惑い明らかに目を泳がせ、別に、と口をあまり動かさずに言った。
「どうもなってねえよ。これ以上どうなるわけでもねえ、っつーか、話ってのはそれか」
「俺はどうでもいいけどよ、お前は他の奴らに聞かれたくねえだろ」
疑心と困惑を露わにしている中里に説明してから、優しいな俺は、と慎吾は自分の気遣いを自分で褒めてやった。中里は、何で今更そんなことを、とうろんげなまま呟いた。慎吾は鼻で笑った。
「あれから全然触れねえできてたのに、ってか?」
「そうだ、不自然なくらいに無視しやがって」
そりゃお前の方だろうが、と慎吾は更に笑ってやった。
その話題に触れずにいたのは、まず中里がどこの誰と付き合おうが、例えそれが同性、高橋涼介という断じて下流階級にはない男であろうとも、慎吾の日常にはまったく無関係なことだったからで、そして慎吾が軽率に発した中里に対する忠告からの罪悪感、情報量の過多による思考の停滞からくる逃避もわずかながらはあったが、何よりも、中里自身が触れさせないほどの不自然な自然さをかもし出していたからであった。幾度か慎吾も思ったものだ、何もかもを白状させることが、己のためにも中里のためにもなるのではないかと。だが中里はその『僕たち付き合い出しました宣言』から今まで、付け入る隙を見せたことがなかった。まれに慎吾に対して滅法親切を働いたり寛大になったりもしたが、それは過去にも行われていた気まぐれ的行為であるから、過大な意識が働いているとも思われなかった。
「俺はただ、お前が聞かねえことを言う必要はないと考えてただけだ」
「俺も、お前が言わねえことを聞く必要はないって考えてた」
腕を組み、誤解を解こうとするように力強く言った中里に、慎吾はそう返した。言葉が途切れた。慎吾は煙草をじっくり吸い、急ぎそうな口を制し、でも、と煙を吐き出しながら、要点のみを言った。
「そういう優しさをわざわざよりにもよってお前にかけてやることにな、もう疲れたんだよ。俺が聞きたいことは聞きゃいいんだし、聞きたくねえこえとは聞かなきゃいい。今後はそうすることにした。だからお前にとって今更だろうと、俺は聞くぜ。高橋涼介とどうなってんのかってのはな」
なぜ聞く気になったのかという動機は語らなかったが、中里は追究しようとしなかった。そうする余裕を慎吾は与えてやらなかった。不自然でありながら自然である日常に回帰することにより、余分な配慮は隔離されたため、同時に一つの疑念も切り離されていたが、それが他者からもたらされた時には、曇りのない感情で取り扱えるようになっていた。だが慎吾がその、二人の関係性についてを真正面から捉え直すきっかけを作ったのは、この男をいまだ挙動不審にさせる名を持つ女であったから、そこまでの説明は避けるべきであったのだ。
苛立たしげに舌打ちし、自分勝手な野郎め、と吐き捨てた中里に、それが取り柄だ諦めろ、と慎吾が引導を渡してやると、観念したように中里は深い嘆息とともに、言った。
「どうもこうも、普通だよ。大したこともねえ」
慎吾は声を出さず数度頷いた。そして不意に思いつき、会ったらやっぱヤッてんのか、と問うと、中里は顔をしわだらけにし、「てめえは何をサラッと言いやがる」、と巻き舌に凄んできたが、慎吾は落ち着き払ったまま煙草の灰を地面に落とした。
「付き合ってんならそれが普通じゃねえか。毎日会えるわけでもねえ関係なら尚更だ」
「クソ、ああそうだよ、それがどうした」
「どうもしねえ」
中里は怒りか羞恥かで顔を一気に赤くしたが、それはどうでもいいので無視をして、っつーか、と慎吾は再び思いついたことを言った。
「お前らどっちが掘ってんの?」
「下ネタにしか頭が回んねえのか、てめえは、慎吾」
「お前のそのキモくて無意味な恥じらいが早くなくなるようにって、手助けしてやってんじゃねえか」
不服を唱えると、大口を開けて怒鳴るかと思われた中里は、感情の流れを何かにせき止められたかのように、じっとしていた。慎吾は顔の筋肉を動かさぬようにしながら、中里を見、答えを待った。だが中里はそれには答えず、お前、と慎吾を睨むように圧力のある目で見詰めながら、迷いに揺れる声を出した。
「どうとも思わねえのか」
何が、と慎吾が真意の予測もできぬため先を促すと、中里は一旦慎吾から目を逸らし、切り出し方を考える風な時間を取って、視線を戻し、しっかりと口を動かした。
「俺は言っちまえば、ホモだぜ。野郎で勃つんだ。今のところはあいつだけだけど、元々素質があったのかもしれねえ。どうなるか分かったもんじゃない。お前はそれを、何とも思わないってのか」
それは慎吾の軽薄さへの非難だった。複雑な広がりを見せる事実を真剣に受け止めよという苦言だった。だがいくらどう指摘されようとも、慎吾にはそれを重大なものとして捉えることはできなかった。短くなった煙草を湿ったアスファルトに落とし、スニーカーの爪先でぐりぐりと踏み潰すと、慎吾は顎を上げ、下目に中里の切迫した顔を見つつ、思わねえよ、とあっさり言った。
「それでお前が仮に万が一、完璧見境なくなって俺に襲いかかりでもしたんなら、俺はてめえをぶち殺す。それだけだ。そうでもなけりゃ、何でもねえよ、そんなことは。お前が俺の家族だとかってんなら話は別だけどよ、そんなんじゃねえしな」
実際のところ、その仮定を現実味を感じることもできず、どのような卑しい現実に中里が対面しているのかも知れなかったが、慎吾は確証でもあるかのようにそう言い切った。あるとすれば、この中途半端に世間体を気にする男が下半身の命ずるままに暴走するという想像が不可能であるという事実、そしていざという時はいざであるという思考停止にも似た覚悟のみであったが、慎吾にとってそれらは楽観的でいるに十分な条件だった。
そうか、中里は様々な感情を押し留めたような表情で言った。そうだ、慎吾は自分の甘さを感じながら言った。
どうせお前のことは、俺には関係ねえんだから。
その言葉は関係の拒絶にも思われるが、慎吾はそう言うことにより、不必要な気遣いを省こうとしていた。結局のところそれは優しさだ。しかし明言しない限りはどちらもその存在に寄りかかることはできず、一定の距離と一定の感情とが残るのみだった。
だが、「ありがとよ」、とその時中里は言った。慎吾の婉曲過ぎるほど婉曲な互いの逃げ場作りが、その時点で大っぴらに表明された。そして逃げ場は逃げ場ではなくなる。だから慎吾は浅く頷くだけで、その言葉をそれ以上取り上げることはしなかった。こうして器用さを酷使し、結果的に不器用な関係に引き入れてしまいながら、この関係は続いていくのだ。例えどちらかが借金地獄に陥ろうとも、男色家になろうとも、明確な別れが訪れるまでは、続けさせる。慎吾はようやく、それを認め、長きに渡った中里に関する行動の言い訳を積み上げる日々に終止符を打った。
で、と逃げ場を半ば封じられながらも、晴れやかな気分になった慎吾が、最初の問いを蒸し返そうとした時、タイミング良く、ああこれはあれじゃないかと勘付かせる独特の車のエンジン音が響いてきた。慎吾は目を閉じ音に耳を澄ませ、しばらくしてから目を開き、スカイラインのボンネットから腰を上げ、腕を組んだままの瞑想から脱した中里と見合った。
「なあ、俺って地味にタイミング良くねえ?」
「もしかしたら、そうかもしれねえが、多分ねえぞ」
「でもこりゃ、どうもこういうウワサをすれば何とやらみてえな場面で、聞き覚えのある音だぜ」
中里は否定したがったが、実際現れた車の姿を見てしまえば、認める他はなかった。丁度慎吾の斜め前に立つ中里の奥、プラスチックのような安っぽさがありながらも、威厳をもたらす壮麗さが全体を覆う白いボディ、直線が幅を利かせた形状。そして何の引っ掛かりも感じさせず、その車体は中里と慎吾の直前で綺麗に停止した。そのマツダ車の運転席から降りた長身の男は、黒い革靴に黒い革のパンツ、焦げ茶色のシャツの上には黒革のジャケットを着込んでた。季節感のない服装に慎吾はよく分からぬまま圧倒されたが、中里はその美形の男の出で立ちに動じた風もなく、だが不審げに、お前、と声をかけた。
「今日は家族でバーベキューじゃなかったのか。庭で」
「こんな時間だぜ、もう終わった」
整った顔に、整った薄い笑みを浮かべて高橋涼介はそう言った。それは何を表しているのか分からぬ笑みだった。喜びでも安堵でも自嘲でも蔑みでもなく、ましてや愛想を作っているでもなく、慎吾がその笑みの源に見当もつけられないままぼんやりと、バーベキューなんて夏にしかやんねえな、と思っていると、中里が素早く「どうした」、と問い、何が、と微笑を続けながら返した高橋涼介へ、強めに言葉を重ねた。
「何がじゃねえよ。家でも焼けたか」
「それなら俺は今頃、もっと解放されたいい顔をしてるだろうな」
涼介はそう言って笑みを消すと、今度は目をくらませるような得たいの知れぬものを浮かべた顔を、慎吾に向けた。慎吾はそれを真っ向から受け、どうも、と口先をすぼめつつ会釈した。
「どうも。久しぶりだな、庄司慎吾君」
「毎度、タイミングが良くて悪いね。あんたとこいつの話は少しは聞いてる、お邪魔なら俺は帰るぜ」
「邪魔なんてことはない。そうであれば俺は最初に言ってるからな」
両手を革パンのポケットにかけ、何の気兼ねも感じさせず薄い肩をすくめたこの男に尋ねれば、明確な答えは得られるだろうと慎吾は思った。ひと月も関係を続けて何の思索もやらない男には見えないものだ。だが明確な答えを得るためには、明確な質問をしなければならない。下世話な好奇心と真実の心配、それをこの男に晒さなければならない。それをできるほどに慎吾はまだ、高橋涼介という男を信用しておらず、だから慎吾はただ涼介を眺めるのみにした。
ポケットにかけていた右手を柔らかそうな茶に染まった髪に差し入れて、高橋涼介は少しうつむき、頭を押さえるようにした。中里はその様子を少し見てから、どうした、と不安にかすれた声を出した。その中里の顔は不安よりも怪訝に染まっていたが、それをうつむいたまま上目に見た涼介は、何かを満足したかのように、唇を閉じたまま大きく笑った。慎吾はそれを見た。高橋涼介が手を離した頭を徐々に下げていき、一歩足を出し、そのまま中里の肩に、ゆっくりと、まったく違和感を持たせぬ速度と動きで、額を乗せた。中里はすぐさま涼介の肩に両手を当て、おい、と、作られた鬱陶しさとともに言った。
「高橋、何だ。お前」
「めまいが起きたが、すぐに治る。そういうことにしといてくれ」
小さな呟きだったが、慎吾の下にも届く、低く通った声だった。中里はほんの少しだけ顔をしかめたが、涼介の額を右肩に乗せ、自分の手は涼介の肩に当てた体勢をしばらく続けた。涼介の左手は革パンのポケットにかけられたままで、右手はただ空にぶらぶらと浮いていた。自立している方がよほど楽に見える不均衡な体勢だった。ある程度の時間を置いてから、中里は涼介の両肩を押して、自分の身から離した。地面と垂直に立った涼介は、ゆっくりと中里の手を外すと、中里ではなく、その奥にいる形となった慎吾を見ながら、言った。
「最近、寝不足気味でな」
涼介は笑っていた。不敵な笑みだった。所有権を明らかにする者の笑みだった。何で俺に言うのかね、と慎吾はややこしく感じながら、それでも何の躊躇も見せない潔い涼介に、抜け目がねえってことか、と思い、右の口端をわずかに上げて了解を示した。中里は不可解そうに慎吾を振り向き、そしてまた不可解そうに涼介に顔を戻した。
「お前、そんなんで車運転してんじゃねえよ。人には細けえことでいちいち注意するくせに」
「ご忠言、ありがたく受け取っておくよ」
形だけの非難を中里はし、形だけの反省を涼介はした。そこには経過した年月を思わせる慣れがあり、慎吾はその関係を表せる既知の何かを掴んだ気がした。
高橋涼介は顔を上げて潰れた前髪に空気を入れると、中里をそっと見た。
「そろそろ啓介には言おうと思っている」
「ああ。まあ、いつかは知ることか」
「その際には、お前にも同席してもらいたい。それと、庄司慎吾、君にも」
ついで、というようにさらっと言った涼介へ、あ? と慎吾は分かりやすい嫌悪の表情を作った。
「何だそりゃ、俺はもう言われなくたって知ってるぜ、あんたらが掘り合う仲だってことは」
「合っちゃいないがな。立会人が最低一人は必要だ。無理強いはしないが、考えておいてくれるとありがたい」
それだけ言うと、慎吾の答えも聞かずに中里へ向き、じゃあな、と言って、高橋涼介は背を向けた。連絡よこせよ、とかけた中里の声に、仰せの通りに、と満足げな笑みとともに応えると、涼介はFCに乗り込んで、何の余韻も残さぬうちに去っていった。
静寂が戻った。慎吾は消えていった白い車体のテールランプの残像をずっと見ているような中里に、追いかけねえのか、と尋ねた。中里は何のためらいもなく言った。
「あいつはそこまでヤワじゃねえよ」
高橋涼介が何のために中里に会いに来たのかを、慎吾は推測するしかない。家族との団欒にて男と付き合っているということを隠す身に罪悪感を得たためか、嫌がらせか、はたまた脈絡もなく恋しくなったのか。おそらく高橋涼介以外に答えを知る者はおらず、慎吾よりも多くの可能性を知る中里ですら、例外にはならないだろう。それでも中里は、今の涼介が孤独に滅するほどに脆弱ではないと断言した。事情を聞かぬうちに断じられるだけの確信が基づくものは、単なる独善なのだろうか?
毅、と慎吾は呼んだ。中里は振り向いた。その特に変わりのない顔を見ながら、慎吾は言った。
「お前が掘られてんだろ」
中里は慎吾から先ほどの残照に目を戻し、よく分かったな、と感慨もなく呟いた。慎吾は鼻で短く笑った。
「あの野郎が腰痛持ちには見えねえからな」
「そういうことかよ」
「それに、自分でケツの穴開くようなタマにも見えねえ」
どれほど通俗に堕ちようとも、一定の高踏さを保たずにはいられない、根っからのお坊ちゃんだ。でなければ、高橋涼介のあの笑みはもっと切迫したものになっているはずである。
中里は考えるように顔を固め、それから目を細め、いや、と言った。
「俺が望んだことだ」
真っ直ぐ前を見据えながら言い切った中里を見て、慎吾は震えを感じた。このかばい合いはどうだろうか。この認め合いはどうだろうか。互いを掌中に納めながら、互いの掌中に納まっている。まだぎこちなく見えながらも、独善すらも共有される、恐ろしいほどの均衡がその間には成立しているのだ。
かっこいいねえ、ふと慎吾は呟いた。あ? としかめた顔を向けてきた中里に、何でもねえよ、と返すと、この男とあの男の関係を、己が知る一つの感情の最大値として結論付けながら、その横を前かがみに素通りし、そうしてから振り向いて、
「まったくお前らは、いい――」
「あーでも、何か、分からないでもないかなあ」
「へえ」
「うん、分かるわ。中里クンと高橋涼介。案外合うじゃない」
「そうかね。俺にはやっぱ分かんねえな」
「あんたも相当鈍いわね。けど、もっと怪しいかと思ってたんだけどな」
「怪しいって何だよ」
「分かんないけど。秘密結社的な怪しさ?」
「地下にもぐって地球征服に暗躍でもするってか」
「あ、それいいわね。面白そう」
「特撮かよ。ありえねえ。お前、どう疑ったって、あいつらは、ただの」
そう、ただ、ひとつの、
「――オトモダチだ」
と、慎吾は笑った。
(終)
(2005/12/03)
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