遊び
空は青く澄み、太陽は中天まで昇り、光を多く降らせていた。
それでも道端には泥水が溜まっていて、気温は上がらず呼気は白く濁り、喉はひりついた。口元に当てた手は、咳を受けて初めてぬくもりを持って、唇を舐めると、水分の抜けた表皮が舌にひっかかった。
乾燥している真ん中を歩くには難のない道であり、距離であったが、やっぱ車で来た方が楽だったかな、と史浩は悔やんだ。近頃散歩もしていないので、いい運動になるかと徒歩を選択したが、思いのほか空気は体に冷たかった。休日の昼間の住宅街に通る少ない人々を見ても、誰もが薄い外套に身を包み、頬を赤らめて、白い息を吐き出していた。春の訪れはまだのようだ。
さっさと冬も終わらねえかな、走れないし、と思ったところで、目的の家が見える位置まで達していた。
青空に映える瀟洒な一軒家である。足を進め、門をくぐり、中へ踏み入った。数台の車を納められるガレージはシャッターが下りており、広い庭は静けさに満ちていて、外観からでは、人の気配の有無は到底窺えなかった。
まあ起きてはいるだろ、と軽く思い、ドアの呼び鈴を鳴らしたが、返ってきたのは沈黙のみだった。
史浩の胸中に、重い不安が広がった。
家に持ち帰った仕事が存外早く終わったという事情も伝えずに、約束の時間よりも三十分早くに来たのはこちらだし、仮に相手が眠りに落ちていても、出かけていても、そこに落ち度はなく、恨むことも史浩はしないが、ただ、完璧な計画や欠陥のない慎重さを好んでいるわけでもないあの男、不測の事態の備えは常にしているはずのあの男が、三十分後に待ち合わせをしている場所から離れていることは、失策にも思えた。
そんな危うい真似を、涼介がするだろうか?
疑問を思い浮かべてすぐ、まあやるかもしんねえよな、俺連絡入れてねえし、と史浩は現実を見て、セーターの生地に食い込んでいる鞄の持ち手を肩に掛け直しながら、もう一度呼び鈴を鳴らした。直接手渡さなければならぬものを持ってきているから、約束の時間を超過しても沈黙がこんにちはとする場合は、携帯電話を使うしかないだろうと考える。
そうして、やはりしばらく動きはなく、仕方ない、仏の顔も三度までだ、と半ば諦めつつ機械音を生じるボタンへと指を伸ばすと、途端、がちゃり、と鍵の開く音がしたので、史浩は驚くとともに、一歩下がっていた。
同時にドアが開き、そこから出てきた男が、少なくともこの家の者ではない男だったため、史浩は更に驚いて、うわ、中里、と驚きついでに意味もなくその名前を口走っていた。
白いトレーナーにジーンズを履いて、スニーカーに片足を突っ込んでいる中里毅は、数度しか顔を見た記憶のない史浩にとっては珍しく、常は真ん中で分けた上で後ろに持っていっている黒髪を、初めからすべて後ろへ撫でつけていて、硬そうな額が随分と露わになっており、その下の顔は、随分と気まずそうだった。
「高橋なら、上で寝てるんだが」
かすれた声で中里は言ってから、喉を押さえて咳をして、唾を飲み込み、やはり気まずそうな表情で、史浩を上目で見た。
「はあ、なるほど」
と史浩は間の抜けた声で事態の把握を告げて、じゃあ、上がらせてもらおうかな、と下手な愛想笑いを浮かべていた。
平日も休日も関係なく、その立場と能力を買われている高橋夫妻は仕事なり趣味なりで方々駆け回り、広い自宅を留守にしがちであり、次男の高橋啓介は学生だが野外活動を好むため同じく留守にしがちであり、長男の高橋涼介にしても学生だが本分たる学業にて多忙を極めやはり留守にしがちであった。
したがって、高橋邸に家族四人が揃うということは稀な状態であって、いても一人二人が関の山であって、その一人が長男涼介の場合に現恋人である中里毅を家へと引っ張り込むことは、何らおかしなことではない、と史浩は考える。
考えるが、中里の後につくようにリビングへと足を踏み入れていくと、状況の不可解さを感じずにはいられなかった。
二人の関係は、大分前に不思議な――今思い出してもなぜあの場に自分が居続けられたのか分からぬほどに不思議な――空間にて、当人から概要を語られ、承知しており、今更マイノリティがどうの世間がどうのと御託を並べる気も微塵もない。むしろ、涼介がそれで納得し、満足しているのならそれに越したことはないし、実際安定しているようだから、友人としても計画の補佐をする者としても、歓迎してもいいとすら思っていた。
しかし、いざ、その涼介と恋愛関係にあるという男を目の前にすると、どう対応すれば良いのか分からず、困惑し、得意の愛想笑いの自信も欠いた。
それは、史浩にとって中里毅という男は今もって、涼介の同性の恋人というよりも、妙義ナイトキッズというチームにて黒きBNR32を手中としている、なかなかに手ごわい走り屋という位置にあり、では涼介の友人として自分は、その中里毅を走り屋として扱うのか、涼介の恋人として扱うのか、どちらを選択するべきか、判断をつけられないためだった。
中里は首筋をぞんざいに掻きながら、リビングのテレビに相対する位置に据えられたソファの前で立ち止まり、その後ろについた史浩は、テレビが点けられており、入力切換の暗い画面を映し出しているのを見つけ、取るべき態度を決められぬまま、何か見てたのか、と他意が含まれぬように尋ね、ああ、とその場に立ったまま、ためらった様子で中里は、勝手にだけどな、と続けた。
「前に見せてもらったことがある、サーキットの、あいつが走っている映像を」
英文を日本語に直訳したような言葉を吐いた中里は、気まずそうに足元を睨んでいた。その姿を見るにつけ、史浩は居たたまれなくなって、ああ、俺が回してたヤツかな、と適当なことを言い、それより座れよ、お茶入れるから、と、適当に笑った。
「え、あ、いや」
「まあ遠慮も気遣いも要らねえからさ、お前はそれの続きでも見てなって」
中里の言葉を遮りそう言い切って、史浩は滑らかに台所へ向かった。やかんに水を入れ終わると、ぼすり、と音がして、中里がソファに座ったことが知れた。続いて、控えめな音声が流れてくる。耳をひねり壊すような車のスキール音、エンジンの回転する腹へ浸透する音、改造車特有の排気音。すべてが収斂するは、涼介の栄光だ。
水を入れたやかんを火にかけてしばらくしてから、ふと史浩は、自分が鞄を肩から提げたままであることに気がついた。
今は気分も落ち着いたが、焦っていたのだ。
台所は綺麗で、使われた気配はなく、リビングのテーブルも一切汚れてはいなかった。どれだけあの男は、煙草を吸うこともなく、水分を補給することもなく、ただ、涼介が操るFCを映し出す手製の映像を見ていたのだろうか。家族全員に認められていないのに自宅へと連れ込まれ――中里のGT-Rが見当たらないということは、涼介が出迎えに行ったと考えるのが妥当だろう――、唯一の味方である恋人は自室で熟睡している、そんな中、事情は知っているが会話を交わした回数は片手で数えられるほどの、恋人の友人兼走り屋関係者が突然来たら、それは慌てるだろうし、至極居心地は悪くなるだろう。その中里の心境を想像すると、史浩は己の戸惑いが、非常に薄いものに感じられ、嫌でも冷静になった。
湯が沸騰したところで火を止め、我慢強いよな、と思い、茶葉を急須に適当にばさばさと入れ、忠犬か、と加えて思う。
いやそりゃさすがに失礼か、犬って感じもねえし、と思い直して、緑茶を注いだ二杯の湯呑みを盆に乗せてリビングまで戻り、はいよ、とソファの片端に座っている中里の前に置き、自分は一人がけのソファに陣取って、ようやく史浩は鞄を床に下ろした。一息吐くと、どうも、と中里は会釈し、ぎこちなく湯呑みに口をつけ、大して熱そうな顔もしなかった。史浩も茶を飲んだが、舌が焼けかけた。
映像は丁度レースが終わったところだった。中里はリモコンを操作してDVDの再生を止めた。
「涼介は」
史浩は尋ねようとして、出した己の声が妙に上擦っていたため、ん、と喉を押さえてから、黒い画面を睨んでいる中里へ、涼介はどのくらい寝てるんだ、と尋ねた。中里は史浩には向けぬ目をさまよわせて、寝始めたのは二時間前だな、と答えた。二時間前、と呟いて、二時間前? と史浩は仰天した。
「お前、それから一人でここにいたのか?」
「仮眠を取るからな、待っててくれと言われたんだよ」
中里の表情の端に走った苛立ちは、諦めも混在したものだった。あいつがそんなに放っておくもんなのか、と史浩は訝りつつ、問いを続けた。
「待ってて、って、どのくらい」
「三十分」
「起こさなかったのか、それ過ぎてから」
「寝てる奴は起こせねえだろ、それもあいつを。かといって一人にするってのも……」
自分の足で帰宅するということも考えたらしい中里は、そこで口を閉じ、窺うように史浩を見て、深いため息を吐くともに、突然立ち上がった。
「でもあんたが来たんだ、俺は帰らせてもらう」
え、おいおい、と史浩も立ち上がり、こちら側にある出口へ向かおうとする中里の前に慌ててはだかった。
「それじゃまるで俺がお前を帰したみたいになるじゃないか。せめてもう少し待っててくれよ」
「俺がいつ帰ろうが、あいつには分かんねえだろ。寝てんだから」
「それはそうだけど、あいつがどうこうっていうか、俺の気分が良くないからさ」
両手を前に出しつつ本音を出すと、中里は難解そうに顔をしかめ、しかし、進んだ分だけ下がって、ソファの元の位置に座り直した。史浩は安堵の息を吐き、自分の定位置に腰を戻した。おそらく自分が来なければ涼介が起きるまで待ち続けたであろうこの忠義者の男に、外部の影響を受けぬ状態での行動を取ってもらわなければ、フライングをした己が殊更不埒に感じられてしまうし、この男をして苛立ちを飲み込みながら待つ相手、涼介にも合わせる顔がない。
間を取るために、茶をすする。ようやく適切な温度になっていたが、先に焼けた上顎がひりひりとした。
と、中里がまた立ち上がり、史浩はすぐ動けるように構えたが、中里は停止したDVDを取り出しにかかっただけで、デッキがんべえと吐き出したそれをケースに入れ、テレビの脇にある収納棚にしまうと、またソファに座り、煽るように茶を飲み、テーブルを睨んだ。
体に重くのしかかってきたのは、沈黙だった。引き止めたのは良いものの、一番の共通項である涼介が現れるまで、この男と二人きりの状況をいかに過ごすかということを、史浩は決めていなかった。気楽に手軽にいきすぎても空回りしそうであるし、真剣深刻を通したところで脱出不可能な暗黒世界に入るであろう予感がある。となれば、普通に接すれば良しとなるが、どの程度までが自分と中里毅という男にとって普通であるのか分からぬ現状だ。
第一に、それを実地で確認しなければならない。
というわけで史浩は、いやさ、と一言置き、中里の注意がこちらに向いたのを確かめてから、まあ俺も早く来ちまっただけでさ、と試しになるべく軽く言ってみた。
「約束はしてるんだけど、それは今より三十分くらい後なんだ。ほら、お前も知ってるかな、県外遠征のプロジェクト」
ああ、と中里は頷き、そこに一つ安心して、史浩は勢いを保ったまま続けた。
「その打ち合わせがあって、必要な資料を渡すのと進行状況の確認な、そのための時間の調整があったんだが、ただ俺が予定よりも早く動けることになったから、後に何が詰まってもいなかったし、まあ連絡とかすりゃいいんだけど面倒でな、何も知らせずにいきなり来たっつーことで、無計画だろ。ははは」
無理に上げた笑い声は尻すぼみになって消え去って、威圧感のある目でじっとこちらを見ていた中里は、そうか、とテーブルに目を落とした。会話は続かず、史浩の気は急いた。そして先ほどの沈黙が再び体にまとわりつき、声とともに浮かんでいた笑みをただちに引っ込めるべきか引きつるまで持続するべきか、史浩がどう処理したものかと思いあぐねていると、
「悪かったな」
「は?」
「そうと知ってりゃ、早く出たんだが」
卒然なされた謝罪のいわれを理解し得ず、史浩が頓狂な声を上げると、眉間にしわを作った中里は、
「誰か来ても鍵をかけてるから出るなと言われててな、でも念のため、っつーか何つーか……インターホンを見たらあんただろ。どうすりゃいいか、少しパニクっててよ。遅れちまって」
と、教師に叱られることを予想している小学生のごとき怯えを窺わせながら続け、悪かった、ともう一度言った。
史浩は意表な展開に驚くあまり、顔から力を抜いており、呆けた表情で、咄嗟に、いや、とだけ返していた。中里より発せられる一貫した打ち解けぬ雰囲気とは、立場上の気まずさのみではなく、こちらの素性を警戒してのものか、あるいは実はこの男の性格が涼介と競うほどに気難しいためかとも想像できたが、今の中里の言によれば、何ということはない、呼び鈴が鳴ってからドアを開くまでに時間がかかったことの、罪悪感ゆえだったというわけだ。
――ああ、優しいんだな。
直感的に思い、思ったところで、史浩は肩の荷が下りたような身軽さを得て、その数秒後、腹の奥に鉛の重みを感じた。
――俺は、疑ってたのか?
考えると、こちらが深い罪悪感に駆られ、史浩は努めて柔らかくした笑顔を、俯いている中里へ向けた。
「そんなこと気にするなよ。俺は全然気にならなかったしな。それにお前がいなかったら、多分あいつは時間まで熟睡してて、俺はドアの前で待ちぼうけだったぜ」
わざとらしさがにじみ出ているかと危惧したが、こちらを見た中里は、愉快そうに頬を緩め、そういうところは律儀だしな、と賛同した。史浩は心中で一息吐くとともに、その関係の深さを感じさせる口ぶりと、それでいて素朴な笑顔に、腹の重みが解消されるような、快さを覚え、分かってもらえて嬉しいよ、と努めずとも笑みは柔らかくなっていた。
「大体、俺の方だっていきなり来たんだから、その点では五分五分じゃないか? まあ、涼介が事前にお前が来てること教えてくれてりゃ、五分くらい遅れるって気の利かせ方も取れたんだけど」
「俺だってあんたが来るのを知ってりゃ、終わり次第さっさと帰ってたぜ」
簡単に緩めた頬を引き締め、苦渋の色を浮かべた中里を、啓介みたいだな、と思いながら史浩がじっくり見て、「終わり次第?」、と問うと、中里は、「あ?」、と顔を大きくゆがめてから、はたと気付いたように、なん、と呟き、
「……何でもねえよ、何でも」
と、ゆがめた顔を背け、金属音のような舌打ちをして、利き手の掌で額と目を覆った。その皮膚が徐々に赤くなるさまを目にしてしまえば、爽快感は急速にしぼんでいき、史浩は再び仕様がなくなって、咄嗟に立ち上がり、テーブル上の湯呑みを二つ手に取り盆に乗せると、茶入れてくるよ、と言い、中里が掌をのけて顔を見せてくる前に、台所に向かった。
茶の残りを流しに捨て、先ほどわかした湯の残りを入れておいた保温ポットの取っ手を握り、小さく息を吐く。逃げてしまったな、と思った。現実は容赦なく決断を迫る。受け流すのか、受け止めるのか、拒否するのか。好意的に考えようとしていたが、どうやら、受け流すことになりそうだ。そこが今後の関係における基準となるだろう。涼介とのセックスを日常的に行っている中里を、そのまま受け止めるには、己の精神は把握しているよりも未熟だった。
しょうがねえよなあ、と思いながら、手を動かす。湯を急須に入れ、茶を湯呑みに注ぐ。しょうがねえ。俺にそういう役割はない。
二つの湯呑みに均等に茶を流し入れてから、史浩は首筋にざわめきを感じた。
役割はない?
違うな、と血が沸き立つような肌の熱さと、氷水に浸しているような脳みその冷たさを得ながら、考える。役割を果たす義理はない、だ。そう思ったから、中里のこもった態度も悪しく疑い、今もまた、互いへの涼介という存在の介入を拒絶するように場を後にして、頼まれてもいない茶を入れている。己の心中には、嘘を吐いた奴に、という暗い感情が、確かに根付いていた。嘘を吐いた奴に、どれだけのことをしろというのか。
だが、仕様がない。分かっている。誰にでもその関係を吹聴するような男が涼介の相手であれば、史浩は裏側から手を回さずにはいられなかっただろうし、涼介との相談にて関係の隠蔽工作がなされたのであれば、中里のみを責めるのはお門違いだ。分かっている。この家を無施錠のまま放るほどに無責任でもないし、あの涼介の勝手を一手に引き受けるほどに頑丈たる男を、不愉快に思うことは、筋が通らぬ上、傲慢だ。分かっていた。頭では、分かっていたはずだった。それでも、二人きりになると、感情を制御できなかった。現実は、想像などとは比べものにならぬほど、容赦がなかった。
『おかしくなりさえしなけりゃ――』
盆に湯呑みを乗せたところで、ああ、と史浩は一つ息を吐いていた。それは唐突に思い出された。中里の自称親友が言っていたことだ。おかしくなりさえしなけりゃ、別に他は、どうでもいい。
時間をかけては戻りづらくなる一方だと思いながら、史浩は丸盆の端を掌で台に押さえたまま、庄司慎吾が言わんとしていたことは、つまりこういうことだったのだろうか、と考えた。涼介の他者に対する手ひどい嘘も切れ味鋭い揶揄も適確な批判も、既に史浩にとっては日常のことであり、それによって精神を崩されることはない。訓練は済んでいる。しかし、中里毅という男が嘘を吐くことや人を揶揄することを、史浩は想定していなかった。片手で数えられるほど顔を合わせただけで、思い込んでいたのだ。この男はそういう類の人間ではないだろう、涼介とは違う、自分とも違う、遠いところにいる奴で、こちらを害することはないだろう――だが、中里は涼介との関係を伏せ続けた。それを今更裏切られたように感じ、避けるようとするのは、それこそお門違いであり、傲慢に他ならない。庄司慎吾は、そうなりたくないから、あれを言ったのかもしれない。あの青年の考える中里毅、あの青年が知る中里毅、そしてあの青年しか知らない中里毅が、失われることが嫌だったのだろうか。俺が、構えていた想像に肩透かしを食らって現実に叩きつけられ、憮然としてしまったように。
未熟だな、俺も、と情けなく思いながら、史浩は盆を掴んだ。ともかく、こちらの都合で断じたに過ぎぬことを、普遍化するのは愚の骨頂だ。今するべきは未来へ通ずる決断ではなく、ただ、自然な働きかけだろう。
とりあえず、まあ元凶はあいつだから俺はまだ大丈夫だろ、多分、と気持ちを切り換えて、史浩はまだ湯気の立つ湯呑みをようやく運んだ。
「悪かったな、遅れて。ちょっと考え事しちまって」
「いや、こっちこそわざわざ」
茶をテーブルの上に置くと、眉を開いたように中里が顔を上げ、しかしすぐに俯いて、眉間に力を入れ始めた。史浩は先ほど座ったソファに腰を落とし、何となく両手で掴んだ盆を太ももの上に立てながら、一向に変化せぬ重苦しい雰囲気を存分に味わって、それから打開を目指した。
「こういうことを話すと、気分悪くするかもしれないんだけど」
聞いてもらってもいいか、と史浩は続け、少しの角度の顔と直線の目を向けてきた中里は、悪くなるも良くなるも、聞かなきゃ分からねえだろう、と、厳しくも柔らかくもある曖昧な表情で、促すように言い、まあそうだよな、と史浩は掴んでいる盆を指で軽く叩いた。思わせぶりな沈黙が生まれ、中里が茶をすする音がそれを壊し、壊れている最中に史浩は、俺はさ、と突き進んだ。
「正直、お前のことをどう受け止めれば良いのか分かんないんだ。それはつまり、涼介と付き合ってるってことで……いや、別にそれが駄目だとかいけないとか言うつもりはないぜ。それはそれでいいんだ。俺は一向に構わない。構った方がいいのかもしれねえけど」
そこで笑ってみたが、中里は笑わなかったので、史浩は笑みをしまってから続けた。
「ただ、俺にとってお前は妙義ナイトキッズの中里なんだ。そこで、涼介の、って考えようとしても、いまいちつながってくれない。だから、涼介とのそういう……ことをだな、分かるような場合、俺はどうしてりゃあいいのかってのが、分からなくなっちまう。まだ決められないんだ。他の奴なら適当にできる。いっそ啓介だったら開き直れる。それも嫌だけどな、生々しすぎて」
そこでも笑ってみると、そりゃ嫌だろうよ、と中里は笑ったので、史浩は笑みを保ったまま続けた。
「でもお前は、何ていうか、俺の中で、どっちにもできねえ感じのところにあってだな。だから極力触れずに済ませたくなるんだが」
「いいよ」
それじゃあ駄目だと思う、という言葉を突如遮られ、史浩が思考を一瞬止めてしまうと、笑いの余韻もない顔をした中里が続けざま、それが普通だろう、と言い切った。
「野郎同士のそういう話を、平然と扱える方が特別じゃねえか。少なくとも、俺はそう思うぜ。だからあんたがどうしてくれようが、俺はいいんだ、気にしないでくれ。そこまで考えられるほどのもんでもねえし」
苛立ちが溢れた声は、ため息混じりに終わった。卑屈にも取れるその中里の態度に、史浩は筋が違うような違和感を覚え、その自発的な意見へ注意を向けた。
「何だそれ」
「あんたは軽蔑なり批判なりしてくれたっていいんだよ。俺のことがどうだのと考える必要はねえ」
違和感は瞬時にふくれ上がり、頭の一部を封じたらしく、史浩は無意識に口元だけの笑みを浮かべながら、早口に、いやそれお前俺のことバカにしてるだろ、と指摘しており、「は?」、と中里は間の抜けた表情になった。それを見て、初めて己が露骨な本音を漏らしていたことに史浩は気付き、一挙に心臓が唸るのを感じた。思考はその衝撃で蹴り飛ばされ、適切な心配りや処置はなせなかったが、我をさらした勢いと、味わい慣れぬ強い緊張があいまって、恐怖心まで蹴り飛ばされたため、史浩は無意識の笑みを意識的なものへと変じさせながら、不思議な冷静さのもと、「お前の言ってることってのは」、と目を点にしている中里へ言った。
「俺がお前を軽蔑やら批判やらをしたいっていう、そういう前提から始まってるだろ。俺はそんなこと言った覚えがないんだけど、いつの間にそういうことになってんだろうな?」
問いではなく客観的な認識の促進であったため、中里が口を開き声を出す前に、俺が言ったのは、と話を流す。「さっきの構わないってことだけで、勿論俺だってお前らがそういうことになって疑問がないわけじゃないし、公のこととかも考えるぜ、けど本人同士が納得して先のことまで念頭に置いていて、だ、精神科医だの薬だの警察だのの厄介なりそうな感じじゃなけりゃ、他人が口挟むような問題でもないだろ。それだけだよ、俺がことお前と涼介の関係で思ってるのは。それを何だ、何だっけ、軽蔑? そりゃあいつの親御さんなら分かるぜ、二十余年もあいつの面倒見てるって実績のある人らだ、体面がどうのあいつ自身の幸福がどうのと主張して、お前を非難したっておかしかねえし、俺はそういうことになってもお前の味方はできねえよ。あいつの味方はできるけど」
そこまで矢継ぎ早に言い、一人で笑うと、茶で喉を癒しから、まだ口をぽかんと開けて落ちそうなほど両目を見開いている中里を見、でも、と先ほどよりもゆったりとした口調で史浩は続けた。
「俺はあいつの親じゃないし、ましてや弟でもないんだよな。そこまで介入しなきゃならない理由がないわけだ、そこまでお前のことを思う必要が。なあ、お前さ、目についた奴をいちいち責めることがそんなに気楽で愉快でたまらないなんて思うのか、中里。だとしたら俺は、それこそお前を軽蔑するぜ。だから」
お前の方が気にしなくていいんだよ、という言葉は、途中で口を閉じ、目も元々の大きさに戻した中里に対して、声を震わせずにかけるには難があったが、史浩は不足なくやり通した。中里はこちらを数秒、何かを確かめるように直視し、目を閉じてから視線を外すと、俯き、悪い、と震えた声で言った。
その時、背筋が凍るような感覚に史浩が襲われたのは、その中里の声が奇妙にかすれていたからでも、俯いた顔がやるせなく歪んでいたからでもなく、踏み込みすぎた、という意識が生まれたためであった。この程度の優しさならば、計略も義務もなく、ただの性分で誰にでも振りまいているし、これは誤解をといたというわけなのだから、何も特別なことではないが、しかし、己の発言の率直さと身勝手さと思い返すと、同時に涼介の顔も思い出された。冷や汗が噴き出し、鼓動は高鳴り続け、指先は震え出した。所有物を汚してしまったような、居たたまれなさだった。史浩は口中に溜まった粘々した唾を飲み込み、中里が次なる言葉を出してくる前に、己の意志によって、逃げることとした。
「そういや中里、見たことあるか、この家のホームビデオ」
顔を上げた中里は、今までにないほどの幼い、無防備な表情で、ホームビデオ、と単語を繰り返し、そう、親父さんが趣味でな、と立ち上がりながら史浩は言い、先の会話を捨て去るごとく素早く動いた。
「撮りためたものがあるんだよ。俺なんてのは中学からあいつと知り合ったんだけど、仲良くなってくうちに、たまに夕食をご馳走になることがあってな」
テレビに向かい、脇の黒い収納棚の下を開いて、薄いケースを奥から一本引っ張り出す間も、口は止めなかった。
「大体そういう時はおばさんがいる時で、そして親父さんもいる時は、食事が終わった後にこうして、その頃は8ミリだったから、テープを取り出してくるわけだよ。優しい顔で笑ってさ、『史浩君、いいものを見せてあげよう、面白いぞ』って」
啓介の素行が悪くなり始めてからは、ここの家庭はめっきり冷え込み、改善されてからもなお、ぬくもりを完全に取り戻すことはなかった。その時期、涼介が史浩をこの家へ誘うことはなかったし、再び史浩が通うようになって以後、テープが使われた形跡が見受けられないまま、DVDへと編集がなされていた。涼介に尋ねたが、いつの間にか、父親が自室で作業を済ませていたことしか分からなかった。ただ、新たな電子媒体に移されてもなお、これが取り出された形跡はなかった。使われず、捨てられもせず、ただ保存だけされている状態は、まるで、切れもせず、さりとて強固につながりもしない、この家庭を示しているように史浩には思え、敬遠し、涼介の父親に勧められなくなってから、手をつけることもなかったが、今は、ともかくこの家に関連性があって、涼介が下りてくるまで、間を持たせてくれるものならば何でも良いと、溺れる者が藁にも縋るような思いで、ディスクをデッキにセットした。
夏、庭にて、啓介四歳、涼介六歳、という題だった。テロップも何もなく、ただ、青々とした芝生の端から端までを、小さな歩幅で素早く駆け回る子供と、植木の傍に背中を向けてしゃがみ込んでいる子供が映し出されていた。走り回っている子供は、時折飛び跳ねたり、急に止まってぼんやり空を見上げたりして、『疲れた!』、と甲高い声で叫ぶと、靴を投げ出し家の中へと駆け込んでいった。それをカメラは追い、『まだ夕食はできませんよ』、という女性の声が入ったところで、再び庭へと戻った。手ブレはあまりなく、なかなか見やすい映像だった。しばらく庭が固定して移され、そのうち植木の傍にしゃがみ込んでいる子供へと、近づいていく。
『涼介君は、何をしてるのかな』
子供を見下ろす位置になると、低く、艶のある声がした。子供が顔を上げる。ぱっちりと開いた目、通った鼻、弾力のある唇。幼さが溢れていたが、同時に、少年とは思えぬ怜悧さも浮かんでいた。
『蜘蛛が蝶々を食べてるところを見ています』
変声期を迎えていない高い声、舌足らずな口調、それらは発された言葉には似合わなかった。
『へえ。面白いかい』
『面白いです』
『そうか。ならよく観察しておきなさい。きっとこの先の君のためになるだろう』
『はい』
少年は頷き、すぐに顔を植木へと戻した。画面が大人の目線となる。それから家へと向かう。そこで映像は終わった。
「……あんまりホームって感じじゃなかったかな、今のは」
ははは、と乾いた笑い声を上げながら、史浩は他のものも似たような雰囲気であることを思い出し、再生を止め、音量を下げて、日本放送協会へチャンネルを合わせると、中里を窺った。真剣な表情で、画面を睨んでいた。史浩は冷える両の指先を揉み合わせ、笑みを浮かべたまま、一人何度か頷いて、でもまあ、と放送されているフェンシングの試合に目をやった。
「これ見ると俺は、あいつらも昔はガキだったんだな、って思うんだよ。俺らとは違うかもしれないけど、それでも」
四人での食卓を、一定の角度から引いた画面で撮ったもの、勉強を教えながら撮影しているもの、様々あったが、やはりどれも、涼介にせよ啓介にせよ、親の庇護下にある子供であった。だから史浩は、成長したその兄弟を見続けてもなお、神聖化せずに済んだものだったが、今これを中里に見せたことに、そこまでの計算はなく、鼻をすする音が聞こえてきた時には、ただ己の過失が何たるか分からず、純粋に狼狽するのみだった。
「中里?」
そっと窺うと、中里は鼻の下に人差し指を当て、すん、と音を立ててから、わずかに充血した目で史浩を見、いや、と鼻の下に当てていた指で、耳の裏を掻いた。
「話で聞くのと実際見るのとじゃ、やっぱ……違うな」
言い淀み、再び鼻をすすると、やる方ないように唇を噛む。大丈夫か、と思わず史浩は言っており、そんなんじゃねえよ、と中里はため息を吐くと、舌打ちして、眉をひそめたまま続けた。
「あいつらのこういうところはな。俺は、知らねえ方がいいんじゃねえかって」
「……まあ大人になってまで、ガキの頃の思い出共有しなきゃならないってワケもねえだろうけど」
史浩が言って茶をすすると、テーブルを睨んでいた中里は、ああ、小さく頷き、掌で目を覆った。フェンシングの試合は細かく続いていた。史浩は腕時計を見た。まだ後五分あった。もう一度茶を口に含み、味わってから、喉に押し込み、中里を見る。目を手で隠したまま、微動だにしない。しちゃダメだってワケもないだろう、と史浩は喉の奥で言っていた。無論それは中里の耳には届かず、史浩の喉の奥に落ちるのみだった。何が中里の感情を刺激したのか、史浩には分からなかった。永遠に届かぬ彼らの過去か、互いのすべてを掴み得られぬ現在か、自己を重ねての郷愁か――目から手を離し、顎を撫で、またもや鼻をすすった中里の、涙が浮かばない顔には、どれもがあるようで、どれもがないようだった。逃げることを決意した史浩であったが、己の優柔不断さは冷酷を貫くことを、既にためらわせており、むずむずし出した口を抑えるほどの権力を失っていた。
「何か、あったのか?」
「……あ?」
と、微かに濡れた目を訝しげに向けてくる中里を、気遣いを忘れて不躾に見ながら史浩は、涼介と、と溜めも作らず付け足して、いや何も、と中里にしても即答した。
「何だ?」
「いや、だったらいいんだけどな」
「何もねえよ。いつも通りだ」
「泣いてんのかと思って」
「あるとすれば」
中里は史浩の言葉を無視するように、声を真っ直ぐ出した。調子を崩さず口を挟むべきか、あるいは黙して続きを待つべきか、史浩が逡巡している間に、中里は迷わず続けた。
「俺の中でだけだ」
苦渋に満ちた台詞だった。ぬるい湯呑みを右手に持ったまま史浩は、正しい対応を探ることに意義を感じられなくなっており――それはすべて、涼介がやるべきことだ――、それも何かあったってことだと思うけどな、と本音を呟いて、茶を飲んだ。中里がこちらへ顔を向けてきた気配がして、湯呑みをテーブルに置き、「ん?」、と向き合う。なぜか、目を逸らす気にはならず、史浩はその時初めて、中里の顔を真っ向から見据えていたが、中里から顔を背けたため、それはつかの間に終わった。再び目を手で覆った中里に、いや、差し出がましいことを、と、そろそろ涼介も来るだろうからまとめないとと思いつつ史浩が謝ると、中里は史浩の思惑には乗らず、実際には、と硬く絞った雑巾から落ちた一滴の水のような声で言った。
「何も進んでねえし、何も始まっていねえだろ」
何が、と史浩が素直に尋ね返すと、間を置いてから中里は、目から手を離し、それを両膝の間で落として、何もかもだ、とテレビを見ながら呟いた。決められもしてない。誰に、という問いは宙に浮いたまま、すくわれることはなかった。史浩は身じろぎした。考えられるのは、高橋夫妻だった。あの両親がどう出るか。偽装結婚をしろくらいは言ってのけるかもしれない。可能性の問題だ。中里はあの人たちを知らないが、何かしら想像はしているだろう。不安にもなるだろう。この家に招かれて良いものかの判断もされず、ただ涼介の意のみによって保留されているのだ。
「クソ、らしくねえ」
何かに気付いたように顔をしかめた中里は、舌打ちしてそう言った。ようやく、走り屋じみた狂信と、暴虐さ、頭の足りなさ、臆病さが、感じられるようになり、なぜか史浩は一瞬、電気のような苛立ちを覚え、まあ、と思いついたことをつい言っていた。
「だったら始めりゃいいだけだよな」
そうして茶を飲むと、中里は驚いたように史浩を見た。史浩も驚き中里を見返したが、すぐに湯呑みから口を離し、特に意識を使わない、適当な笑みを浮かべてみた。中里は今度は自然に史浩から目を離し、大きく鼻をすすり、大きく息を吐き出して、そりゃそうだ、と同意した。今度は史浩のうちに、恐れも怯えも生まれなかった。本来この男が知っていることを、言葉にしただけだ。個人の問題として片付けてしまうなら、すべてが交換されることも、共有されることも、進むこともなく、他者とともにある必要性もないということを、例え涼介相手でもそうであることを、この男は知っているはずで、当然のことを史浩は言ったまでだった。のん気に史浩は茶を飲んだ。これくらいなら、大丈夫だろ。すると、それまでの重い雰囲気を一蹴するかのように、すくりと中里は立ち上がった。先ほどのように気構えがなかったため、史浩は驚愕のため呆然と目の前を通ろうとする中里を眺め、あれ、とその背が廊下へと消える前に、ようやく声をかけた。
「中里サン、どちらに?」
「あの野郎、叩き起こしてくる」
振り向いた中里は、ごく普通の顔で、ごく普通にそう言った。え、と史浩が立ち上がり、歩こうかどうか迷いつつ、もう時間だからそんなことしなくても、と恐る恐る言うと、「俺はな」、と中里は引きつった笑みを送ってきた。
「二時間だ、二時間待たされてるんだぜ。いや、もう二時間半だ。これのどこが三十分だ。約束を破った奴には、制裁は加えなけりゃあならねえだろうが」
制裁ですか、と流れについていけなくなり始めた史浩が問うと、制裁だ、と中里は頷き、廊下へ出た。階段を上っていく足音が聞こえる。史浩ははたとして、頭上にその音が移った頃、床に置いていた鞄を肩にかけ、慌てて大股一段飛ばしで追いかけた。
部屋のドアは開いており、中にそっと顔を入れると、布団にくるまりベッドで寝ている涼介の肩を、おい、起きろ、と中里が掴んで揺らしているところだった。史浩は中にそっと体も入れ、三歩の間を取って斜め後ろから様子を窺った。揺する中里の手を涼介が払い、肌が露わになった上半身を起き上がらせたのは、その時だった。
「起きたよ、起きた起きた」
涼介は眠気がまだあるのか、目を細めており、髪は乱れ、中里か、問う声もかすれていた。ああ、俺だ、と払われた手をジーンズのポケットに入れた中里は、お前、と続けざまに、ゆっくりと尋ねた。
「今、何時だと思ってる?」
「時計が正確で、そいつが」、と涼介は史浩を一瞥して言った。「時間通りに来てたなら、二時半だな」
「お前が寝始めたのは何時だ」
「十二時だったか」
「俺に待てと言った時間は」
分かった、と涼介は鋭く言って中里に向けて両手を上げ、しかし話の前にパンツを履かせてくれないか、と懇願したが、話はもうねえよ、と中里は腹立たしそうに舌打ちした。
「俺は帰るぜ。後は好きなだけ寝てやがれ、お疲れだろうからな」
「いや、送っていく、待ってろ」
史浩の方へ向かいかけた中里をそう呼び止めると、涼介は布団から出て、全裸でパンツを探し出した。いい、と中里は涼介を向いて、すぐに史浩の方を向き直した。ここは見ない振りをしておくべきか、と史浩は考えたが、考えている間、じっと涼介の動きを見てしまったので、ベッドの端でパンツと服一式を見つけ、「俺が良くねえんだよ」、と言いながらまず下着を身につけ出した涼介をも見続けた。
「俺だって良かねえよ。大体お前はこの人と約束があるんだろう」
「約束は約束だが、時間はかからん。人生相談するわけじゃない」
ベージュのズボンを履き、白のセーターを被り、涼介は中里の後ろについて、その肩に手を置いた。そういうことじゃなくてだ、と腹立たしさをそのままに、中里は涼介に顔を向け、涼介は中里に口付けた。そこはさすがに史浩も顔を逸らした。何か水音がしたのも、気のせいだと思うことにした。「お、お前……」、という中里の困惑と憤怒と恥辱に満ちた声が聞こえて、史浩はやっと二人に目を戻した。
「つまり、俺はいつでもこういうことをできるわけだ。分かるか?」
涼介は薄く笑っていた。中里は声の通り、困惑と憤怒と恥辱に満ちた赤い顔で、歯噛みし、クソ、このクソ野郎、と単純ゆえに働きの少ない罵りをすると、俄然勢いを増して肩に置かれた涼介の手を叩くように振り払い、史浩の方へ――正しくはドアの方へ――歩き出し、だが、史浩の横を通る時、わずかに歩調を緩めて、「悪かった」、と囁くように言い、そしてどたどたと部屋から廊下から階段から、去っていった。
その謝罪の言葉が己のどこにも震えをもたらさなかったことに気付き、史浩は己の望みというものを悟った。
どれほどストレスをもたらされようが、本来してもらいたかったことは、一方的な罪への罰、恩赦の期待ではなく、ただ、共に、楽しむことだ。それを、自分は些細な引っかかりからためらって、中里はそれを受け、思い込みで遠慮をしたのだろう。まったく視界が狭かった。
中里が立てる足音が終わらぬうちに、終わってから何でも気付くな、俺は、と史浩がぼんやり思っていると、
「よお、早く来てくれてたのか」
髪を指でとかしながら、涼介が常の砕けた調子で言い、思考を簡単に切り落とした史浩は、いや、と鞄から大型封筒を取り出し、涼介に差し出した。
「こっちこそ連絡せずにな。時間はまあ、今で丁度だし」
「いつもすまないな」
「俺の担当は半分だろ。このくらい、朝飯前、ってわけにもいかないが、まあ三食前くらいだよ」
そして、PCでのディスクの中身の確認と、情報から推測される総括的な勢力と現状、今後の打ち合わせについての話を、ひとしきり行うと、目頭を指で揉み、机の脇にあった小型のバッグをしゃがんで手にした涼介が、その体勢のまま、素っ気なく言った。
「あんまり泣かせるなよ」
見られてもいないのに、がく、と片方の肩を下げずにはいられなかった。お前さ、と史浩がため息を吐く間に、涼介は立ち上がり、史浩を見ていた。
「俺相手に誤解しないでくれるか、頼むから」
「俺の前じゃ目も赤くしないぜ、あいつは。あの時以外」
あの時、と呟いて、今しがたのやり取りがよみがえって、史浩は微妙な顔になっていて、それを隠すこともできなかった。
「……お前もあけすけだよなあ」
「慎んだ方がいいか?」
「いんや。けど、俺はお前のせいだと思うぜ、涼介」
遊びすぎだ、とその時、明確に思い、お前が遊びすぎるから、と勝手に思考が働いた。俺は引くしかできないんだ。その史浩の考えを見透かすように、涼介は時間をかけ、とび色の目を直線的に注いできて、それから何もなかったように、そこに余分なものを混じらせ、追求を終えた。
「その逆接は、どこにかかるんだ」
「どことも言いがたいな」
「そんな風に言われると、傷ついちまうな、俺は」、としれっと言って、涼介は史浩の横を通りかけ、ふと思い出したように、先ほどとは違い、友人としての眼差しで、真っ直ぐ見据えてきた。
「お前も乗ってけよ。家に帰るだろ?」
「乗れるのか?」
「親父の車を使う」
「あー、お邪魔だろ」
「その思いやりがお邪魔だな」
「いいよ、別にすぐ傍だし。お前も知ってんじゃねえか」
「ついでだ。けど、この寒い中ウォーキングをしてその腹についた脂肪を少しでも減らしたいってんなら話は別だぜ」
淡々と涼介は言い、外の気候を思い出して嫌気を起こした史浩は、真面目くさって頭を下げた。
「では、よろしくお願いします」
「かしこまりました」
涼介は丁寧に頭を下げ返すと、心安い笑みを浮かべ、それでおかしくなってしまって、史浩は大きく笑っており、そして、不意に、今度はこんな感じになってくれりゃあいいな、と思った。それはいつか必ず得られるはずの機会で、いつの間にか史浩は、それを無条件に信じており、その自分に、すんなりと馴染んでいた。そして、史浩の笑いを面白そうに眺め、背を軽く叩いて行動を促した涼介の傍に立って、三人で乗るベンツを想像し、俺、啓介の方が合うのかな、性格的に、と今更思った。
(終)
(2006/10/14)
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