美化



「声が聞きたくてな」
 俺の携帯電話には奴の携帯番号が登録されている。だがそれはあくまで非常時のための備えにすぎず、だから奴が午前零時に俺に電話をかけてきてそんなことを言ったところで、その少女趣味な言葉通りの意図があってのことだと考えられるわけもなかった。元々車以外に関する奴の俺に対する言葉にははっきり言って髪の毛一本ほどの信用性もない。これは経験から断言できる。なぜなら奴は事実を偽ることはしないながらも嫌いな相手に親切心をばら撒くような慈愛に満ちた好青年ではない。そして奴は俺のことを嫌っている。
 一応聞いておくが、と俺は一旦下げたテレビのスポーツニュースの音量を元に戻しながら言った。
「涼介、お前は俺がそれを本気に取るなんてことを考えてたのか?」
「俺はお前がそこまでうぶな男だなんて考えちゃいないよ、京一君」
「お前の頭が正常で何よりだ。しかしもう少し言い方を考えてくれないか。寒気がする」
「どう考えてもこれ以上もこれ以下もないくらい適切な言い方だろう。相変わらず認識が固いなお前は、俺に勝てなかった理由の一つはそれだろうに」
 俺はグラスの底に残った酒を舐めながら、奴の健全さと不健全さのバランスがひどいことになっている声を耳の奥で再生した。認識が固い。そう言われようとも認識の固さと信念の強さは切っても切れない関係だと俺は信じている。柔軟性は大抵自己の不安定性を増幅させるからだ。大体、それを言うなら俺よりも奴の方が認識は固いだろう。真に速さを追求するならば自分の趣味などまず論外だろうが、ロータリーエンジンだの公道主義だのというのは明らかに奴の個人的嗜好に基づいている。そこを抜け出さない奴こそ頑固と言うべきだ。奴が主張しているのは万人に認知されるような理論ではなく、奴のそんな固い主観から成り立った詭弁に過ぎないのだ。
 要するに奴は自分の考えを絶対的な正論にしなきゃ気が済まない極めつけのナルシストで、俺がそんな奴の言うことをいちいち真に受ける必要はない。
 そう冷静に分析してみたところでナルシズムに敗北したという事実を改めて実感することになり、結局癪だった。こうして俺は奴に一々腹立たせられる。奴が悪意をもって誘導しようとしているのかそれとも無意識な嫌悪からの発動かは定かじゃないが、どっちにしろ悪趣味だ。そんな趣味の悪い奴を相手にして何の利があるだろうか。いやない。
「涼介、俺がお前に負けたことは事実だから、俺はそれに関して何を言われたところで何の文句を言うつもりもない。それに生憎俺にはお前との昔話に使えるような無駄な暇もない」
「奇遇だな、俺もお前と懐かしき思い出話にふけるような無駄な暇は持ってない」
「奇遇だよ。だからさっさと用件を済ますのがいいんじゃないかと俺は思うんだが」
「聞いてなかったか? 京一、俺はお前の声が聞きたくなったんだよ」
 俺は左肘をテーブルについて、左手でこめかみを支えた。長い仕事を追えてやっと家に帰って風呂に入ってゆっくり上がって一服してそろそろ寝るかと思ってた時に、こんなわけのわからない電話を受けたいと思うような奇特な奴がいるとしたら変わってやりたい。控え目に言ってもこれは俺には荷が重い。
「なあ、お前に俺のようやく終わった一日の、その疲労を忘れられる至福の時間を邪魔する権利があると思うか」
「今は午前零時十六分、一日は終わっちゃいない。もう始まっている」
「ご丁寧なご訂正には感謝するが、俺の質問の答えにはなってないな」
「ではお答えしよう。俺にはお前のいかなる時間も侵害する権利はない。だが共有する権利はある」
「しかし俺に、今この時間をお前と共有したいって意思はないぜ」
 「なら切ればいいだろ」、と奴は大してこだわりもない風に言った。切れるもんなら切りたいが、肝心の用件をまだ聞いていない。ここまで無駄な話に時間を割くということは用件も大層なもんじゃないんだろうが、それでもこいつがよりにもよってこの俺にどんなネタを持ってきたのか、興味はある。それにあっさり言われるとそのまま引くのも癪になるものだ。俺は人生において常に冷静さと合理性を失わないことを目標としているが、社会性を保つためには情熱や意地といった爆発的な感情も多少は残しておくべきだと考えている。それもケースバイケースではある。しかしこの場合は総合的に見て意地を優先しても問題はないだろう。
 酒の尽きたグラスの氷を溶かすように回しながら、一つのため息で間を取ってから俺は言った。
「俺の声に、暇じゃないお前にこんなくだらん電話をかけさせるほどの効力があるとは今まで知らなかったな」
「声には顔も人格もさほど関係ないからな」
「皮肉か」
「そう取りたければ取ればいい」
「他にどういう取り方があるかお伺いしたいもんだが」
「一般論だ。ところで藤原がお前に会いたがっている」
 突然の話の切り替えだった。接続詞は間違っていないが、急だった。だが奴が焦ってる様子はない。
「それが、用か」
「お前は群馬にはいないタイプだからな、あいつも興味があるんだろう。前にやったというバトルでの礼も言いたいらしい。しかしあいつの名誉のために言っておくが、これは俺があいつに頼まれてお前に言ってるんじゃない。あいつにそういう意思があることを俺が俺の独断でお前に伝えているだけだ。個人情報の漏洩だという非難は甘んじて受けるが、まあしかしあいつにお前に言うなと制約されたわけでもないから、結果が良ければ良いという考え方もできる。俺のモラルに関しての非難ならば今の段階でも可能だがな」
 まさに立て板に水だった。どうにも不自然だがそれは計算された不自然さかもしれない。今の段階での断定は早い。
「涼介」
「何だ」
「俺はまだ何も言っちゃいねえが」
「戦闘において先手を取るのは当然だろう。命に関わりかねない」
 一つ二つ外れているが間違ってもいない答えだ。奴の強みはそこにあるんだろう。表面上の誤差で他人を混乱させ、その間に主導権を手に入れる。その鮮やかさは見習いたいところだが、そんな無駄でややこしいことをするのは俺の美学に反した。理性的で機能的で簡潔で洗練されていることこそが最高であり最善だと俺は思っている。だから俺はまともな言い方しかしたくはない。
「俺は今の話からお前が悪意をもってそういうことを言ってるとは受け取ってない。だから非難はしない。もっと言えばそもそも今更お前のモラルを非難しようなんて気がねえよ、俺にはな。だからそんな先回りも無意味だぜ」
「無意味と思えることにこそ意義があるんだよ」
「一般論か」
「皮肉だ」
 うまい取り付けだ、結構腹立たしくなる。俺は落ち着きを取り戻すため携帯電話を左手で持ち酒瓶を右手で持って立ち上がって台所へ行き、瓶を流しの下にしまった。男一人の暮らしといえど酒をそこらに転がしときたくはないし、動けば頭は冷える。
「まあ、藤原に会えるなら会いたいもんだよ。奴がどうなっているかは興味がある」
「会いたければ自分でどうにかしてくれよ。俺は他にどうするつもりもない」
 こいつは一体何がしたいんだと思いながらテーブルに戻って、今度は右手でつまみを乗せていた皿と空にしたグラスを持って台所へ行き、それを流しに突っ込んでから聞いた。
「ならなぜ俺に言ってくる」
「最低限の労力のみで最善の結果が得られれば、それに越したことはないだろう」
「無意味に思えることにこそ意義があるんじゃねえのか」
「時と場合によるな。付け加えるなら、今が無意味だ」
 ため息が口から漏れた。この不確定性が多く無駄に複雑な話と抗戦するには、俺の頭はいささか回りすぎる上に論拠に依存しすぎている。俺は長所も短所も一目瞭然の単純さがあるものを求める性分であり、それゆえにこいつの曖昧さを削り取りたくなることもしょっちゅうあるが、スマートさを重んじる俺にこいつと同じレベルに下がることなどできるわけもなかった。もしこいつを暴ける奴がいるとしたら、そいつはくだらない言葉の応酬に耐えられるだけの鈍感さとこいつ以上の非常識さを持って、なおかつこいつに気に入られる奴だろう。俺には到底目指せない人間だ。そう考えるとため息しか出てこなかった。
 俺はテーブルに戻ってソファに座り、リモコンでテレビのチャンネルをNHKに合わせてから聞いた。
「それで、意義があるって?」
「考えようによってはそう考えることもできる」
「そう考えないこともできる。お前はいつでもそういう言い方だな」
「下手に言質は取られたくないんでね。それでも俺の意図は理解できるだろう、お前になら」
 俺はもう一度ため息をついた。人を邪険にしている割に奴はこうした言い方をする。段々この無駄な会話に疲れてきた俺は、こうなったらいっそ無駄なことを聞いてみるかと思い立った。
「どうでもいいが涼介、俺はお前に嫌われてるのか認められてるのか、どっちだ?」
「どうでもいいことに答える理由もないが、まあいいだろう。俺はどんなに嫌いな奴でもその実力を認めないという不公平な思考は持たないつもりだ。偏見はあらゆる創造の敵だからな。だがまあ、お前のその田舎臭さとコンプレックスの塊じみた性格は生理的に嫌いだよ」
 前半部分は誇大じゃねえかと抗議したくもなったが全体としては質問の答えになっているので、俺は大人しく頷いた。
「なるほど、よく分かった」
「そりゃ結構。しかしさっきも言ったが俺はなるべく偏見は持たないように心がけてるんだ。だからお前が藤原に会いたくて俺にどうしても何かを頼むというのならば考えるぜ。そこに有効性が見られるんなら手伝わない方が不利益だしな」
「考えさせてもらうよ」
「どうぞご自由に。お前の時間をお前がどう使おうがそれは俺の預かり知るところじゃない」
 まったく遠回しな言い方が好きな奴だ。これだけ言葉を費やす方が言質を取られやすくなると思うんだが、すべて計算づくということか。ふざけた野郎だ。こんな奴をどうにかできる奴が本当にいるのか。一つ無駄をしたついでにもう一つ俺は無駄をすることにした。
「ついでにどうでもいい上に関係ねえことだが、一つ聞いていいか」
「どうでもいい上に関係のないついでの質問に答える理由もないが、まあ一つだけならいいさ」
「お前、個人的にこいつにだけは敵わないと思うような奴はいるか」
 涼介は黙った。不思議な沈黙だった。俺の質問にしても不思議だったかもしれない。脈絡がないと言えばないもんだ。テレビのコンビニ強盗のニュースが終わる頃、暗いような明るいような不思議な声で奴が俺の名前を呼んだ。
「お前は俺を超人か何かだとでも思ってるのか」
「そこまでお前を美化できるほど俺の目は悪くはねえな」
「だろうな。俺にだって家族はいるし友人もいる。恋人は、まあいないが。そういう普通の関係性で完璧に敵う相手なんて存在しないだろ」
 俺はこれ以上突っ込む気にはなれなかった。もっと逃げ道を一つ一つ潰すように聞き出していけばいずれ奴もボロを出すに違いないが、そうなると俺も結構な量のボロを出さなきゃならなくなる。俺はそうまでして奴を知りたいとは思わない。奴をどうにかするにはそこも乗り越えられるほど奴に盲目的になれる資質が必要なわけだ。そう考えて俺はこいつの恋人になる女はよほどいい女なんだろうと思った。少なくとも俺が求めることのない能力を山ほど持ってる女だろう。それを考えると非現実的すぎて頭が痛くなりそうだったから、考えるのはやめて、ニュースの終わったテレビを消した。
「分からねえ奴だよ、お前は」
「お前が分かる必要もないだろう、京一」
「理解すれば行動が推測できる。処理も簡単だ」
「理解しなくてもパターンを割り出せる奴はいるぜ。完全じゃあないが近似値は取れている」
「俺はそこまで器用でも頭が柔らかくもないもんでな」
「自覚があるのはいいことだ。精々頑張ってくれ」
「ああ」
 切断するように電話は切れた。勝手な奴だ。それでも押し付けがましさがないのも奴の才能だと思うとやはり癪だった。いっそ着信拒否でもしてやろうかと思ったが、奴が本気で嫌がらせにかかれば自宅の電話番号も調べかねないだろうし、非常時に連絡がこないのは俺としても不都合だったので放っておくことにした。無駄でややこしいことは好きじゃねえんだ、俺は。
(終)

2007/10/03
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