頑固だらけ



「アニキさあ、いい加減、ナイトキッズの奴ら一回シメといた方がいいんじゃねえの」
 兄の唯一の弟として啓介は真心からそうアドバイスした。しかしいつも宇宙の果てから床下の湿り気具合まで小難しく考えていそうな聡明な兄の顔は、途端に子供っぽい不満で覆われた。
「シメるだのシバくだのヤキを入れるだの、下品なことを言うな」
 シバくとかヤキを入れるとかまで言った覚えはないのだが、似たような意味だし、下品であることに違いはない。すんません、と一応軽く謝っておいて、啓介は話を戻した。
「でも何か対応しとかねえと、どんどん状況こんがらがると思うんだけど」
「他の奴らがどういうシチュエーションを想定していようが、俺には関係のないことだ」
 兄の態度は素っ気ない。この話になると毎回そうだ。どうにも気に食わないらしい。日頃年齢不詳なほど落ち着いている人だから、こういう風に子供っぽくなるのも人間味があって良いとは思うのだが、もう少し話を聞いてほしいとも思う。何といってもこれは、兄の話なのだ。
「関係ないったって、名誉は傷つけられてるだろ。去年から中里と付き合ってるとか普通に広められて、今度は中里落とせねえなんて高橋涼介も終わりだな、みたいに言われてんだぜ」
 啓介は右手に持ったままの携帯電話を兄に見せつけるように振った。そこには古い仲間からの、『【速報】高橋涼介、中里毅を未だ落とせず』というそんなの速報にしてどうすんだメールや、『お前の兄貴まだ毅さん落とせてないとかどうなってんの?馬鹿なの?』というてめえがバカだろうメール、『おれ高橋涼介さんがかわいそうで泣けてきます』という勝手に泣いてろメール、『ハレー彗星(笑)』という遠回しすぎるメールなどが入っていた。最初のだけは兄に見せたが、残りは見せたら勝手に論文じみた返信メールを打たれそうなので、啓介の心の中にしまってある。
「言いたい奴には好きなように言わせておけ。どうせあいつらには何も見えちゃいない。俺は中里を落とそうとなどしていないし、終わることもないからな」
 兄は自慢げに鼻で笑った。啓介は反論しかけ、ならいいけど、と頷くだけにした。仕方がない。頑固になった兄には刃物も通じない。何せ公道最速理論とか関東制覇とかぶち上げて、一年でやり切ろうとしちゃう熱意と実行力のある人だ。これを説得するのは難しいし、論破するともなればまず無理だった。
 兄が中里と付き合っているという話は、去年の暮れから群馬中に伝わっている。啓介はそれを古い仲間に知らされてすぐ、今日のように兄の部屋を訪れて、『否定しといた方がいいんじゃねえの』、とアドバイスをしたのだが、兄はその時も、机に向かって椅子に座ったまま、『言いたい奴には好きなように言わせておけ、かかずらうだけ時間の無駄だ』、と不満げに言い捨てた。兄にとってはそんなデマ、頭に入れておくのもきっと煩わしいのだろう。そう、それはデマである。兄は中里と付き合っていない。兄の意見を信じれば、兄は中里を落とそうともしていない。中里も中里で、去年の暮れ頃どこかの女にフラれたらしいから、ノーマルに違いない。だから、そもそも兄と中里が付き合っているという話が出ること自体、おかしなことだ。
 しかし啓介には、それが完全におかしなことだとは思えなかった。兄と中里が付き合っているというデマを寄越してきたのは、ナイトキッズにいる古い仲間たちだ。ナイトキッズは中里がトップに立つ、ムサい・モテない・人気がないことで有名なチームなのだが、そこで日々走りよりも馬鹿騒ぎに全力を注いでいるらしい古い仲間たちは結構な遊び人で、狙った女も狙っていない女も確実に落とせる話術やら技術やらを持っている。そういう奴らが恋愛沙汰を見誤るとも思えないのだ。つまり、兄は見る者が見れば簡単に分かるほど、妙義山で中里にゾッコンな行動を取っていたのだと考えられる。実際兄が妙義山に行くのは中里と話すためだから、中里狙いだとか中里を落としにかかっているだとか表現されても、仕方がない部分はあるだろう。火のないところに煙を立たせたがる、傍迷惑なタイプが多いナイトキッズの連中が、それを火種として『付き合っている』とまで話を飛躍させるのも、仕方がないことなのだ。
 ただ、疑問は残る。『付き合っている』と見なされるには、兄が中里にゾッコンでいるだけでなく、中里が兄にゾッコンでいる必要もあるはずだが、以前に兄がしていた話だと、『そいつらが何を見ているのか知らないが、俺にその気もなければ、あいつにその気もない』らしい。ついでにその時、『この件で変に騒ぐなよ。あいつが気に病んで、俺のことを避けちまうかもしれないからな』と兄に釘を刺されたので、啓介は古い仲間からの『どう見ても毅さんとお前の兄貴付き合ってるわ』などのメールにも、『バーカ』と返すだけにして、関わらないようにしていたのだった。
 そこで兄のクギサシを無視して、その気がないのに兄にゾッコンと確定されている中里の様子を直接探ってみた方が、状況はもっと簡単に解けたかもしれない。ここまで兄の考えと世間の考えが離れてしまうと、合わせようもなくなってくる。兄の考えは兄の考えで、尊重すべきだとは思う。実際兄にとって中里は、大人になってから出会った人間で、唯一気の許せる話相手なのだろう。ちょっとした休憩時間の雑談中、思い出したようにこの前中里と何の話をしたとかと話してくる兄は、とても穏やかで幸せそうな顔をしていて、ぶっちゃけこれノロケじゃねえかと啓介は疑ってしまうほどだった。だが、本人にそんな気はないのだ。そこがどうも、状況がややこしくなっている理由の一つの気がする。
「お前、アニキのことどう思ってんだ」
 そしてもう一つは、そんな兄を相手にしていて、兄と付き合っているという話まで流されておいて、普通に生活してやがる男にある気がしてならなかった。
「言っておくがな、高橋啓介。俺はお前のアニキと付き合ってなんかいねえし、俺があいつをそういう目で見ることもねえ」
 妙義山で相変わらずムサくてモテない空気を発しているクセに、速い走り屋特有の空気もそれなりに持っているそいつは、兄よりも不満げに、くどい顔を歪めた。古い仲間からのそんなの速報にしてどうすんだメールからして、兄と中里が付き合っているというデマは、中里によって直接否定されたと考えるのが妥当だ。中里はきっと、ナイトキッズの連中いる中で、そのデマを知って、慌てて否定したのだろう。群馬中に広まっていることなのだから、もっと早く知っとけよ、という感じだが、中里にそこまでの鋭さを要求する方が酷なのかもしれない。
「あのな、中里。そんなことわざわざお前に言ってもらわなくても俺は分かってるし、俺が聞いてるのは、アニキのことをお前がどう思ってんのか、それだけだ」
 中里にその気がないということは、兄の話で分かっている。兄は一般的でないものの見方もよくするが、中里に関する考察力については抜群だった。『あいつに土産とか持ってかねえの』、遠征帰りに思いついて聞いてみた時、『あいつは身内以外に対しては、貸し借りに敏感だ。物をやれば、やった分だけ負い目を持って、行為で返そうとしてくるだろう。そういう気遣いはさせたくない』、と兄は真剣に答えた。言われてみれば、中里はそういうタイプの人間なんだろうと思えた。中里を見る兄の目は、他の誰よりも確かに違いないのだ。
「どうもこうも……立派な奴、じゃねえか。自分のやるべきこと、責任もってしっかりやった上で、やりてえことをやってんだ。俺は、応援してるぜ。同じ群馬にいる、走り屋としてよ」
 最初は困ったように、最後は堂々と、中里は見てきた。走り屋として、という言葉に、強い力がこめられていた。何か違うんだよな、啓介は顎を掻いた。
「何が違うんだ」
「走り屋としてとか、そういうことじゃなくてさ。こう、人間として、お前がアニキをどう思ってるのか」
「人間として、って、そこまで俺は、あいつのことは知らねえよ。大体、俺は走り屋としてしかここにいねえんだ。あいつはもう俺なんざ眼中にも置いちゃいねえだろうが、俺はそうじゃねえ。いつだって俺は、妙義ナイトキッズの中里毅として、ここにいる」
 また中里のくどい顔は、不満げに歪んだ。中里は、あくまで走り屋として兄と対しているのだろう。だが兄は、そういう意識は強く持っていない。そして、それを中里は分かっている。が、その解釈が、ちょっと、というか大分ずれている。極端だ。多分兄も中里も、互いについて、思い込みが強すぎるのだ。それで会話が成立していて、『付き合っている』とまで見なされるゾッコンっぷりをかもし出していたのは何とも不思議だが、結局は、似た者同士なだけのかもしれない。
「……お前も、鈍いよな」
 啓介は諦めのため息を吐いた。他の走り屋チームもそうだろうが、ナイトキッズは兄が作ったレッドサンズとは違い、チームに入るにも審査はされないので、身分や素行が怪しい走り屋が多い。中里はそういうバカだったりヤバかったり遊び人だったりする連中と、ムサくてモテなくて人気がないようなチームを組めて、そこでトップに立てるような男なのだから、もっと自分がどう見られてるのかも意識してほしいところだが、そこまで感受性が強い奴は、そもそもそんなところでGT−Rなんぞ振り回せないとも思えるし、兄も話相手として選んだりしないだろうしで、啓介は諦めの境地だった。
「人が真面目に答えたってのに、何だその感想は」
 やはり、中里は不満げだ。もしかしたらこいつは、兄よりも頑固なのかもしれない。
「真面目なら良いってもんでもねえだろ。やり方間違えてたら、どういう風にやったって、全部間違いなんだ」
「俺が、間違ってるって言いてえのか?」
 そんな頑固で鈍いクセに、どうでもいいところで、鋭い。兄は、中里との会話を楽しんでいる。中里に会いに行く前には雰囲気がソワソワするし、服装なんかもちょっとばかしキメようとする。兄は中里との会話を、そこに至るまでのすべての過程を、楽しんでいるのだろう。中里の、とんでもないほどの鈍さも、こういう、どうでもいいところでの鋭さも、楽しんでいるのだろう。そして中里は、そういう兄を、何だかんだ言いながらも、拒んではいない。
「間違ってるのは、俺かもな」
 もう一度、啓介は諦めのため息を吐いた。これはある意味、二人の世界だ。
「お前が、何を間違ってんだ」
「分かんねえけど、まあ、お前の気持ちはよく分かったぜ。アニキのこと、よろしく頼む」
「……頼まれたって仕様もねえが、お前らの迷惑にならないよう、努力はするぜ」
 中里は戸惑った風に、厚めの唇を尖らせた。啓介は、似たような表情を作っていた。
「そういうのは要らねえよ、努力とか。要らねえっつーか、余計だな。余計なモン挟まないで、自然にしといてくれ。そういうお前が、アニキは好きなんだから」
「……………………そ、そうか」
 好きなんて言葉を使うなとか、また不満げな顔をするかと思ったが、中里は、戸惑い切った風に目を泳がせて、頬を若干赤らめた。こうして見ると満更でもなさそうで、古い仲間もデマを広めてしまうというものだろう。究極、デマではないとも言えそうだ。んじゃよろしく、啓介はどこかおどおどしたままの中里の肩を軽く叩き、その場にいた古い仲間には挨拶せず、妙義から去った。
 その直後、そいつから『お前も毅さん狙いとは知らなかった』というメールがきた時、啓介は自分にも兄のような他人の意見に左右されない頑固さがあることを悟りながら、とりあえず『毅さん(笑)』と返しておいた。
(終)


トップへ