乾燥地帯



 春がきても、まだ冬の名残は強い。空気は冷えて、乾いている。強く目を閉じると、にじんだ涙が目の周りに溜まった。右の人差し指と親指で、両目をそれぞれ端から拭い、瞬きを幾度かして、視界を保った。
「大丈夫か」
 前にいる、自分と比較する気も起きなくなるほど整いまくった顔をした男も、よく見えた。頭半分背が高いくせに、見下ろすのではなく、見上げるように窺ってくる表情に、不安の影が差しているのも、よく見えた。中里は目を拭った手をぞんざいに横に振って、軽い声を出した。
「風食らって、乾燥しただけだ。もう春だしな」
 夜の山は幾分肌寒いが、季節が進み雪が消えた分、湿度は低い。緩やかな風が目に沁みて、中里はもう一度指で目を擦った。あまりいじると、痒くなってしまう。触るのはこれでやめるつもりだった。
「花粉症の奴らは、毎年大変そうだぜ。それに比べりゃこのくらい」
 大量の箱ティッシュを車に積み込んで山に来る野郎どもを思い出しながら中里が笑って言うと、整いまくった顔をした高橋涼介は、無表情に近いために美形度が強調されているそれを、不意に近づけてきた。
「何」
「動くなよ」
 咄嗟に引いた顔に、手を当てられた。頭を掴まれているわけでも、顎を掴まれているわけでもない。右の頬にそっと触れられているだけだというのに、中里はもう顔を動かせなくなった。一層、高橋涼介の顔が寄る。皮膚に生えている毛の一本一本まで見える距離で、まつげ長ェな、邪魔になんねえのか、ぼんやり思っていると、高橋の指が、ピントが合わないほど間近にきて、中里は反射的に目をつむった。
「じっとしてろ」
 言葉すらも、肌に触れるようだった。左目のほんの少し下、皮膚の薄いところを、高橋の渇いた指先が擦り、こそばゆさに、中里は顔をしかめた。感触はすぐに離れ、頬も解放されたが、動くことは何かためらわれた。
「もういいぜ」
 声に誘導されるように、目を開く。顔をしかめたまま高橋を見ると、右の人差し指を細めた目で興味深そうに眺めていた。
「何だ」
「まつげだ」
 端的に言い、高橋は人差し指を向けてくる。顔を上から近づけて、目を凝らした。指紋の線よりわずかに太く、指の幅よりも半分短い、黒い毛。これは確かにまつげだろう。中里は顔を上げて、頷いた。
「擦った時に抜けたのか。悪いな」
「大したことじゃない。それより、願い事を言え」
 人差し指を向けてきたまま、美形度の高まったままの顔をしながら、高橋が言った。中里は、ほんの少し首を傾げた。
「何?」
「願い事。三回言って吹き飛ばす。本来は自分の指に載せるんだが、元がうさんくさいおまじないだ、こだわることもないだろう」
 もう少し、中里は首を傾げた。本来とかあるのか、うさんくさいのにやるのか、と思うことは色々あったが、それ以前に疑問があった。
「願い事?」
「ないのか」
 一気に素朴な顔になられると、願い事なんて信じてるのか、とはとても聞けず、いや、と中里は頭を掻いた。
「まあ、急に言われるとな。普段、神様に願うことなんてねえし」
「神様に願う必要なんてないだろう。自分に願ったっていい」
「自分」
「何かをしたい、何かをしようと思うのは自分だし、やるのも自分だからな。自分のことなら、自分が神様みたいなもんじゃないか」
 言って、にこりと笑う。うさんくさいおまじないを、うさんくさいからと無下にするのが大人げなく思えるような、無邪気な笑みだ。中里は傾げていた首を戻してから、聞いた。
「三回?」
「三回」
 三回、願い事を言う。自分がしたいこと、やりたいこと、やろうとしていること。高橋の人差し指を見ながら、中里は呟いた。速くなる、速くなる、速くなる。それから、高橋を見上げる。
「吹くって?」
「吹き飛ばすんだ」
 秘密を共有するように、ひっそりと高橋は笑う。そんな風に笑われると、見合っているのがくすぐったくなり、中里はただちに抜けて取られたまつげに目を戻した。それがきちんと飛んでいくように、角度をつけて、高橋の人差し指に息を吹きかける。目を凝らさなければ見えない毛は、あっという間に消え失せた。
「よし」
 なぜかパチンと指を鳴らし、満足げに、高橋は頷いた。作業を終えると、真面目におまじないを行っていたことが妙に恥ずかしくなって、中里は顎を掻きつつ、気分を変えるために声を出した。
「よくそんな、おまじないなんて知ってたな」
 抜けたまつげの利用法など、聞いたこともなかった。ああ、と高橋が手をチノパンのポケットに入れて、肩をすくめる。
「母が好きなんだ。気休め程度の『おまじない』。昔からよくやらされたよ。子供の頃は否定的な考えしか浮かばなかったけどな」
 苦笑して、また肩をすくめる。その仕草がいちいち自然に格好良いことが鼻についたのも、以前の話だ。人間慣れるものである。ただ、そうして自然に格好良く肩をすくめられた後に肩をすくめるには、まだ外見に関して達観できるまでの精神修業が足りないので、中里は腕を組むだけにした。
「今は違うのか」
「大人になった。一緒に楽しむ相手もいる。何かを理由にするのも、悪くないぜ」
 大切な秘密を共有するように、高橋が笑う。またぞろくすぐったくなってきて、中里は結局肩をすくめていた。
 その最中、一人のメンバーが後方から携帯電話で撮影した画像をつけて、『【速報】高橋涼介と中里毅、ようやくキス【ある意味遅報】』というメールをあたり一帯に回していたことを、中里は知らない。
(終)


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