仮想ブランク
顔を見るだけでどんな考えでも読めるのは、その相手が弟で、自分たちが兄弟であるためだと思っていた。長い時間を共に過ごし、性格を把握しているからこそ、どういう状況で何を考えるのか、何を思うのか、例えば朝に牛乳が切れていると不機嫌になるとか、そういう積み重ねから、あらゆる推測が可能になっているのだと思っていた。
弟は純粋だ。そして、単純だ。しかし単純なだけの人間は、暴走する若者の集団を暴走しすぎないように御することはできない。弟は単純だが、駆け引きの才能を有している。既存の枠組みでは対応できない物事でも、それを飛び越えた先から解決法を引き出せる臨機応変な思考回路を有している。まだ若い弟が、未完成の自我にあがき道を迷う様を見守りながら、思っていた。お前はお前のままでいい。どんな結果を招こうともお前は俺の弟だ。だがお前はそんなところで終わる人間じゃない。そこから先を、上を目指すだけの力がある。弟にはおのずとそれに気付いてほしかった。自分の可能性の広さを自分で認めてほしかった。だがその前に多くの可能性を潰す方へと進まれては、止めるために手を出さずにはいられなかった。言葉だけで動く相手ではないと分かっていたから、思いの丈は行動で示した。結果、弟は理解をしてくれた。自分の感情を思考を挟まず余さず発現して、他人の感情も思考を挟まず余さず受容してしまうのが、涼介の弟だった。弟は考えなければ動けない自分とは、大きく違うのだ。違うというのに、いつでも考えは読める。それは自分たちが兄弟であるためだと思っていた。生まれた時から一緒にいて、人格形成の過程もこの目で見届けている。弟に関しては放任主義だった両親の代わりに面倒を見、兄としてだけでなく、年長者として教育に携わった。だから、弟の性格はよく分かっている。感受性が鋭く家族思いな弟が、多感な時期によそよそしい両親とその後ろ盾となる世間に反発したのは当然だし、今、兄である自分の名誉や立場の心配しているのも当然のことだと涼介は受け止めている。
涼介は同性愛者ではない。したがって同性と付き合うことはない。だが現在、群馬全域の走り屋間で、涼介が同性と付き合っているという話が流れている。それは男と交際しているという話だ。妙義山をホームとする走り屋チーム、ナイトキッズのGT−R使い、中里毅と交際しているという話だ。
無論涼介が中里と付き合っているという事実はなく、その話は先日中里自身によってナイトキッズ内で否定され、『【速報】高橋涼介、中里毅を未だ落とせず』というずさんな訂正メールが群馬全土を駆け巡ったらしい。だが最初に衝撃的事実として流れた話は人々の記憶に強く残るもので、紆余曲折を経た末に、結局は元の鞘に収まっていた。自分と中里が仲良くしているという友人関係として忠実な話に、ではなく、自分と中里が付き合っているというてんででたらめの話にだ。
それは中傷にもなりうる度の過ぎた流言であり、弟が自分の名誉や立場を心配するのも頷けた。同性愛者と見なされることで降りかかる不特定多数からの人格攻撃の類によって、自分が傷つくことを、弟は心配しているのだ。だが涼介としては、中里と付き合っている話を流されたところで、痛くも痒くもない。各峠で話題になっているのは、あくまでプロジェクトDの高橋涼介と、ナイトキッズの中里毅だ。個人の高橋涼介と中里毅ではない。走り屋という世界には閉鎖的な面がある。実社会と密接に関係しながら、公には認められていない。そのため走り屋の世界では走り屋は走り屋以上のものにはなれないのだ。なる必要もない。自分は既に引退したが、走り屋の世界からはまだ下りていない。中里は現役の走り屋だ。この世界に互いがいる限り、どんな噂を立てられようが、いかなる人格攻撃を受けようが、涼介自身に傷がつくことはない。見知らぬ走り屋に、中里を落とそうとしていないにも関わらず落とせないなんて高橋涼介も大したものではないと言われていようが、中里とキスもしていないにも関わらず今時中学生だってもっと早くキスくらい済ませていると言われていようが、中里と付き合っていないにも関わらずお似合いなカップルだと言われていようが、傷つくことはない。
だから弟の心配はお門違いというものだ。それでも一時愛情の存在を全否定して非行に走っていた弟が、当然のように愛情を向けてくれるのはありがたいから、涼介は弟の心配を拒絶はしない。ただ、主張はする。中里と付き合っているという話が流れたところで、自分は何も変わりはしない。言いたい奴には言わせておけば良い。曇った眼鏡をかけている人間に真実を見せようとするなら、その眼鏡を外してやらなければならないが、眼鏡が顔と一体化してしまっている場合、処置の仕様もない。放っておいてやるのが人道的というものだ。
「いくら否定しても、あいつら信じようとしねえんだよ。俺とお前がキスなんてするわけねえってのに」
久々に取りつけた約束通り妙義山へ赴くと、待ち構えていた中里はいの一番にその話を口にした。曇った眼鏡越しに世界を見ている連中が、新しく作り出した流言についてだ。妙義ナイトキッズの面々は曖昧を良しとしないようで、彼らを通じた話は何であれ事実とされる。自分と中里が付き合っている件についても、湧いて一夜で確定事項として群馬全域に広がっていた。この情報伝達能力の高さを有意義に使えば株も上がるはずだが、有り余るエネルギーを無意義に発揮せねば気が済まない突飛な走り屋が集うチームこそが妙義ナイトキッズであり、そのリーダーたる中里はそういう方向にはさほど突飛ではないため、会う度に何かしらチーム事情で悩んでいる。自分と中里が付き合っているというてんででたらめな話を中里が知ってからは、一層だ。
「それじゃあ骨が折れるだろう」
その話を流されたところで痛くも痒くもない涼介は、キスをしたという話を流されても痛くも痒くもなかったが、深い深いため息を吐く中里の落胆ぶりは痛ましかったため、同情した。
「どうにも手に負えねえな。お前と付き合ってるって話すらまだ根絶やしにできてねえのに、あんな話が出やがったもんだから、付き合ってるって話も息吹き返しちまって」
『あんな話』の元となる携帯メールを約二週間前、涼介は弟に見せてもらっていた。その添付画像は絶妙に撮られていた。夜の峠ながら光源は確保されており、至近距離で向き合って立つ二人の人間の膝から上が色味正しく詳細に映っている。画像の中央に白いジャケットを着た男の背中、これは自分だ。傍に白のFCがある。その奥に黒い上着の男、これは中里だ。渋く色褪せた革のブルゾンは父親のお下がりだと言っていた。自分に隠れている中里の顔は、それでも左斜め後方から映されているために、横三分の一が辛うじて見える。その三分の一には自分の手がかかっているが、画像を拡大すれば閉じられている中里の目の端にも気付く。この構図ならばキスをしている男二人と捉えることも可能であり、ナイトキッズの発信情報において当事者が中里であることは疑いの余地がなく、FCの傍に立っているなら相手として自分の名が出ることも妥当と言える。『【速報】高橋涼介と中里毅、ようやくキス【ある意味遅報】』というキャプションも説得力を持つだろう。
よくぞここまで不備の見当たらない画像を撮ったものだと感心しながら、これは中里の顔についたまつげを取っていただけだ、と涼介は身内の誤解を正すべく説明し、それを聞いた弟が、何でそんな紛らわしいことするんだよっつーかそろそろわざとやってんのかなけどまあアニキが気にしてないなら俺が気にすることでもねえしもう口出しする気もないしむしろこの話が出て俺に飛んできた火の粉もなくなるならまあいいかって考えは勝手すぎますかね、と言いたそう顔をしたので、俺は気にしていない、だからお前も気にするな、と力強く言っておいた。弟はその携帯メールを見せてくる少し前に、一人妙義山に足を運び、中里と話をしている。兄である自分を心配してのことだ。中里とちょっと話してきたんだけど、と部屋に入るなり言った弟の顔は、家族間につきまとう幼さが削ぎ落とされていた。まああいつもアニキと似たような感じだし、俺としてはこれ以上アニキに口出しはしないことにする。それだけ言って部屋に戻った弟は、その日以来中里を狙っているとナイトキッズの面々に勘違いされたことにより、流言を真面目に、重大事として扱うことの無為さに気付いたようで、新たな話が発生した場合には教えてくれるが、そうでなければ何も言ってはこない。干渉するばかりが愛情ではないのだ。
「まったく、一体俺はこれからどれだけあの話を否定して回ればいいってんだ」
中里のため息は深い。この男は妙に世間体を気にするが、その割に、善人ぶったり好青年を気取ることはない。接していて、感情は度々揺らされるが気分は常に穏やかでいられるのは、そのためかもしれない。強がるくせに純朴で、粗野なくせに礼儀正しい男と交わすたわいない会話は、自分が掴み自分に課した他人の命を預かる義務と、才能溢れる若者の未来を護る責任と、いずれかが死ぬまでつきまとう両親の無遠慮な期待と、しがらみになりたがる数多のしがない因縁とを、忘れさせてくれる。体中にはびこる緊張を解き、呼吸を楽にしてくれる。義務と責任と期待と因縁の渦巻く世界で今を破綻させずに戦い抜くための、束の間の休息を与えてくれる。中身がナイトキッズが得意とする流言についてでも変わりはしないその会話を、その貴重な時間を、みすみす逃すつもりは、涼介にはない。
顔を見るだけでどんな考えでも読めるのは、その相手が弟で、兄弟であるためだと思っていた。それ以外の人間の考えを顔から読むこともできるが、それは意識した場合のみだ。考えを読もうともしていないのに読むことなど、他人では不可能だと思っていた。だが、この世に一人で不可能と決められることなど存在しないのだ。今涼介は、中里の影が差している男臭いが愛嬌もある顔をただ見ているだけで、こいつと付き合ってるって話がどっから出たのかが分からねえのが問題なんだがほとんど全員そう思ってやがったから発生源も特定できねえしキスメール送った奴見つけようとしてもどいつもこいつも庇いやがるし俺の味方はどこにいるんだまさかこいつだけとかじゃねえよないやこいつを味方にしちまうのはいくら何でも失礼じゃねえか元はといえばうちの連中が変な話流しちまってるわけだし、ということを考えているのだと手に取るように分かる。
中里と弟には似ている部分がある。強気なところ、純粋なところ、単純なところ、車が好きなところ、走り屋仲間を大切に思っているところ。柄の悪い人間を仲間とすることに躊躇もないところ。だが、弟と中里はまったく違う。弟は中里ほど勘が鈍くはないし、中里は弟ほどエゴイストではいられない。人格の基礎が違うのだ。弟と似ている部分があるとはいえ、中里は弟ではない。
だが中里の考えていることを、弟が考えていることのように、涼介は易々と読める。顔を見るだけで分かる。目を見るだけで伝わってくる。今も、そんなことをお前が気にする必要はない、と先に言ってしまいたくなるほどに、理解できるのだ。
「高橋、お前には申し訳ないと思ってるぜ。こっちもできる限りは対処してるんだが、なかなか終わりが見えねえ」
妙義ナイトキッズの連中は柄が悪いとして有名だが、それは他の走り屋と比べて際立っているというものでもない。峠で突然踊り出したり駐車技術大会を開いたり不可解な流言を事実としてばら撒いたりする統一性のない集団を表すに、最も統一されている要素が柄が悪いというだけだ。だが彼らを表すに最適な言葉は、『性質が悪い』だと涼介は思う。彼らの柄が悪いだけなら、そういう人間との付き合いに慣れているはずの中里は、もう少し楽観的に走り屋生活を営めているだろう。ここ最近頻繁に中里を悩ませているのはナイトキッズの連中の、愉快さを追求するがあまりに現実を歪める性質の悪い能天気な真剣さだ。そして中里はいくら悩み、骨を折って流言を否定して回ろうとも、その流言を作り出している性質の悪い走り屋たちとの関係を、絶つつもりは更々ない。考えてもいない。顔を見れば分かる。考えているのは、こちらとの関係を絶つことだ。中里は言うだろう。お前はもうここに来ない方が良い。来ればまた変な話を出されちまう。俺はお前に迷惑をかけたくはない。だからここにはもう来るな。厳しい顔をしてそう言うだろう。こんなことは言いたくもない、そう思いながら言うのだろう。そう言わせるつもりは、涼介にはない。
「中里、今の状況を迷惑だと思っているなら、俺はここに近づくことすらしていないぜ」
それどころかナイトキッズに制裁を加えているだろうが、迷惑だとは思っていないのだから、群馬の走り屋チームを一つ壊滅させることもない。意外そうに目を瞬いた中里は、肩を回すようにすくめながら、だったらいいんだけどよ、とまったく良さそうではない口調で言った。地面に向けられた顔もその通り、疑念に満ちており、いかにも釈然としていない。
中里と弟にはまだ似ている部分がある。言葉だけで動く相手ではないところだ。こちらの意思を真実伝えようとするならば、理解させようとするならば、行動によらねばならない。迷惑だと思っていないことを信じさせるには、それ相応の行動を取らねばならない。言い換えれば、動けば良い。動くだけで良い。思うがままに動くだけで、すべては解決する。
「例えばお前と俺がキスをしたという話を流されたとして、俺は迷惑には思わない」
顎に指をかけて上げさせた顔は、それは分かってんだよ何回言いやがる俺を馬鹿だと思ってんのか、と不平たらたらだ。はじめから、それは分かっていた。去年の夏、秋名山で初めてその顔を見た瞬間に、中里が藤原拓海を求めていると、自分のことのように理解をしていた。経験などが入る余地もない、まっさらな出会いからだ。はじめから、分かっていたのだ。弟の気持ち、考え、行動の理由。時間の経過は成長を促し言葉による説明を可能としたが、本質に変化はない。生まれ出た瞬間から、巡り合った瞬間から成立することがある。それは弟だけだと思っていた。それは唯一無償の愛を注げる肉親であるためだと思っていた。
「要するに、だ」
上向かせたままの中里の不満顔に、涼介は顔を素早く寄せた。動かれる前に押しつけるように唇を重ね、周囲に響く疑似的なシャッター音を聞きながら、遠いフラッシュがわずかな影を及ぼす思考の完全停止した中里の顔を、間近で見取る。接触を緩め、舌を出し、下唇の内側と前歯を舐めると、反射的にか中里は体を揺らし、唇は離れかけた。追いかける勢いで深く口を合わせ、厚い肉をゆっくりと吸い上げてから、逃がしてやる。だが顎には指をかけておき、顔までは逃がさなかった。
「その話に関しては今、事実になったから、お前が否定して回る必要はない」
含めるような笑みを向けると、中里の頭がじわりと回り始めたのが目に見えた。この調子では事態を把握するのは当分先になるだろう。顔を見るだけでどんな考えでも読める唯一の他人と過ごす寸暇を惜しむことはないが、寸暇は寸暇に過ぎず、いつまでもあるものではない。中里の顎を弾いた指を、涼介は軽く宙に泳がせた。それを目で追った中里の意識が定かであることを確認してから、言葉を染み込ませるように、前髪のかかる額に触れる。
「そして俺は、それを迷惑には思わない。お前と付き合っているという話を流されても、お前とキスをしたという話を流されても、お前とキスをしたことが事実となっても、迷惑には思わない。だから俺はまたここに来る。お前が来るなと言ってもだ。お前が本気でそう思いながら、ここには来るなと俺に言うまでだ」
目は合っていた。逸らされはしなかった。それは中里の意思だった。肯定と否定の狭間で空白に陥りかけている思考を越えたところにある、根底の欲求だ。その正体を中里は知らないだろう。自分の目は中里に言葉以上のものを伝えてはいないだろう。だが、言葉通りのものは伝わっている。言葉は行動を裏打ちし、行動は信用を裏打ちする。額から指を離し、そのまま二歩下がる。呆然と立ち尽くす中里の顔は、冗談だろ、と言っていた。俺は本気さ。思いながら一つ笑い、涼介は振り返らずにFCに乗り込んだ。こちらの意思が一部でも伝わったかどうか、それは次に会う時に確かめれば良いし、伝わっていなければ、また行動で理解させれば良いのだ。唯一の他人をみすみす逃すつもりも、涼介にはなかった。
後日、涼介は速報にはなっていない携帯メールを見せてきた弟に事実を述べた際、これだけはどうにもならねえなこのアニキ、と言いたそうな顔をされ、むっとした。
(終)
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