欠席裁判
峠の駐車場の一部に漂っている猥雑な雰囲気は、ここ妙義山を独断でホームとしている走り屋チーム妙義ナイトキッズのむくつけき男どもが醸し出しているものである。庄司慎吾はそのチームの一員だが、自分が猥雑だとも猥褻だとも思っていないので、愛車の赤いEG−6は野郎集団から離れた位置に停め、新緑溢れる峠の空気に浸っていた。一服したら、集中的にダウンヒルを走るつもりだった。この地の最速を掴み取るための技術を完成させるには、限りある金と時間を効率的に利用しなければならないのだ。
その予定はしかし、同じチームの比較的親しいメンバー一人が話しかけてきた時点で破綻した。正確に言うなら慎吾がそのメンバーとの会話を拒めなかった時点で破綻した。慎吾の属するナイトキッズには他人の会話に首を突っ込みたがるでしゃばりやらお喋りやらが多数いる。例え一対一の一分以内に終わる些細な雑談であっても、そういう輩に目をつけられたが最後、参加メンバーが雪だるま式に増えて繰り広げられる会話が猥雑で猥褻な方向へとシフトすることは明白だった。普段の慎吾ならばそんな変態賛歌を合唱しそうな変態集団など五感から抹消して存在も認めていないところだが、峠における自分の走りの世界にうっとり入りかけていたその時ばかりは、面倒事を避けるために比較的親しいメンバーとの会話を拒むという冷静さを確保しきれなかった。ゆえに現在、一切望みもしていない変態どもによる変態どものための猥雑で猥褻な会話の只中に入れ込まれているのである。
「でも実際見るとショックなもんっすねえ、キスってのは」
よその峠で起きた事故や見かけたカーセックスの話題が急転換したのは、人の車の前にたかりやがってこいつら全員轢いてやろうか、と慎吾が八割本気で考えながら二度目の一服をしている時だった。
「確かに、もっと普通に舌入れまくりでやってくれると思ってたからショックだったな」
頷いた一人に、いやそれお前意味違うわ、と一人がツッコみ、慎吾は煙草を吸った状態で一時停止した。チームの勝手な噂好き野郎どもがその話を出すと、慎吾も想定していなかったわけではない。しかし『その話』が、実際耳にすると咄嗟に一つも動けなくなるほどの衝撃を自分に与えるものだとは、まったく想定していなかった。
「結局あの二人って付き合ってるってことでいいの?」
「まあキスしてたしな」
「けどこの前毅さん全力否定してただろ」
「あれはどう見ても、高橋涼介片思いって流れだったぜ」
そこまで聞いて衝撃から抜け出した慎吾は、何事もないように沈黙を貫いたまま煙を吐き出した。
『その話』とは、去年の暮れからチーム内に生まれ群馬全域にまで広がった、走り屋同士のラブロマンスである。正確に言うなら野郎の走り屋同士のラブロマンスである。その主体となっているあの二人というのは、かたやこの妙義ナイトキッズ暫定トップR32乗り中里毅、かたや前赤城レッドサンズの孤高王者・現県外遠征特化チーム関東制圧プロジェクトDの統率者たる高橋涼介だ。
『その話』が生まれたのは去年の秋、高橋涼介が白いFCを引っさげて妙義山に現れたことに起因する。ほぼ半分は興味本位、ほぼ半分は写真撮影とそれによる小遣い稼ぎの目的で群がった不届きなメンバー揃いのナイトキッズ全体に、時間が取れるうちに群馬の峠の最終調査をしているのだと、来訪目的を丁重に説明した高橋涼介は、その後中里と十分ほど会話をして去っていったのだが、会話中の高橋涼介ときたら、ほとんど笑顔だった。九割九分笑顔だった。もしも妙義山に女のギャラリーがいたら感激のあまり卒倒していそうなくらいの美青年アイドル風な高橋涼介の笑顔だった。ただしそんじょそこらの掃いて捨てるほどいるアイドルの定型的な笑顔と違い、高橋涼介は金銭欲や名誉欲のためではない、純然たる愉悦に基づくようにしか見えない笑顔を浮かべていた。それを初回に食らった中里は最初は胡散臭そうに鼻白んでいたが、別れ際には照れ臭そうに苦笑していた。その年合計六回を数えたそんな二人の馬鹿馬鹿しく初々しい交流は、ドカンと騒げる話題を求めていたチームの暇人に、あの人ら何かあるんじゃねえの、と勘繰らせた。そして高橋涼介の妙義山来訪二回目あたりから、中里と高橋涼介の関係はどうも怪しい、という風潮がナイトキッズ内に生まれたのである。
その風潮が決定的な物語を生んだのが、去年の暮れだ。当時わずかな外的要因とほとんど本人の過失によって失恋した中里は、峠で普段以上の侘しさを漂わせていたが、その年最後の来訪となった高橋涼介との会話中は始終笑顔で、言葉がない間ですら微笑を欠かしていなかった。それは実に楽しげで幸せそうな様相だった。そんな中里を見る高橋涼介も実に楽しげで幸せそうな有様だった。その現場を目撃した噂好き野郎どもが、失恋した中里がそうまで浮かれられるということは、その失恋の痛手を高橋涼介が癒しきった、つまり中里と高橋涼介は付き合い始めたのだと、一つの傍迷惑な物語を完成させるのも無理はないほどに、二人の穏やかな幸せに満ちた世界は完成されていたのだ。
とはいえナイトキッズにそういった他人の幸せを影ながら見守るという慎ましやかな精神は存在せず、代わりにでっち上げた物語を疾風迅雷の勢いであたり一帯に広げるという出歯亀精神は存在した。したがって即日チーム内に蔓延した『その話』、中里と高橋涼介の交際話は、翌日には群馬中に正規事項として伝わっていた。それが去年の暮れというわけである。
慎吾は無論『その話』には乗りもしなかった。中里と高橋涼介が付き合ってなどいないことを知っていたし、野郎同士の恋愛沙汰で騒ぐ変態野郎どもと同じ土俵に立つような愚かな人間にもなりたくなかったからだ。
中里は『その話』に乗る乗らない以前の問題で、今年の春にメンバーに正規事項として語られるまで、高橋涼介と恋仲だと見なされていることを知らないという抜け作加減だった。しかしそれも当然、中里は去年の暮れの自滅的失恋を無駄な教訓として、今でも走り屋の本分を人生の中心に据え置くという哀れで孤独な生活を送っている、猪突猛進型の一点豪華主義な男である。峠と車と走りに集中するとともに異性とのラブやらロマンスやらの回避に集中しているそんな男が、同性とのラブやらロマンスやらを意識できる道理もなかった。
一方高橋涼介がそこまでの恋愛吝嗇家だとも抜け作だとも慎吾には思えない。桜を背負ってる国家権力のお世話にならずに公道での暴走行為にプロを関わらせるまで励むなど、あらゆる分野の知識とコネに加え、優れた洞察力や判断力や危機意識が備わっていなければ不可能だ。それだけのリスク管理をしておいて、自分についての醜聞だけを知らないわけもないだろう。そうでなくともナイトキッズには高橋涼介の弟と連絡を取り合っているメンバーが数名いる。揃ってお喋り野郎のそいつらが、弟に『その話』を回していることは確実で、ブラコンで有名な弟が、兄の醜聞を心配して兄に伝えているのは確実だった。すなわち高橋涼介は『その話』を発生時点から知っていたと考えるのが順当だ。知っていて、放置しているのだ。醜聞すべてが対処すべき緊急性をはらんでいるとは限らない。高橋涼介にとってそれは、真実を無視する馬鹿どもと同じ時に同じ土俵に立ってまで処理しなければいけない風評ではないからこそ、リスク管理能力を無駄に費やさずにいるのではないか、と慎吾は推測し、その推測に自信も持っている。
ただしそれはあくまで推測である。慎吾は高橋涼介とろくに話をしたこともないし、その実際の意図がどのようなものかを知りもしない。妙義山において中里との接触にのみ時間を割いて、中里に対して礼儀からではない複雑な感情を反映させた多彩な笑みを向ける高橋涼介の来訪目的が、当初提示された現地調査ではなく他の連中が言うような『中里狙い』であることは目に見えているが、それがどのような感情に基づくものかは判然としない。どのような欲望に基づくものかは分からない。そこにラブやらロマンスやらがあるのか否かは、到底知れなかった。
しかし高橋涼介がどういう思惑を持っていようが、自分が狙われているわけではない慎吾には関係のないことだった。中里によって全否定をされながら『その話』が順調に群馬の走り屋界における規定事実と化していても、当事者ではない慎吾にはやはり関係のないことだった。峠において慎吾に関係あることといえば、大体が中里だった。チームの覇権を握り走り屋としての地位の向上を望むには妙義山の下りで自分よりも速いタイムを残しているナイトキッズの暫定トップ、中里のR32に勝ることが絶対だ。それもただバトルに勝てば良いというものではない。周囲に自分の速さを印象付けてこそ不動の権威は確立されるものだから、雌雄を決する際には中里に全身全霊をかけて挑んできてもらわなければならないのである。それこそが、慎吾に関係のあることだった。
したがって、実際には付き合っていない二人が、キスをしたという話が出てもキスをしていなかった二人がついこの前、一週間前キスをしてからというもの、中里が峠に来ていない事態も関係のあることになってくるわけで、現在『その話』について自分が傍観者を決め込んでもいられなくなっているのだと、口さがない奴らの放談程度で衝撃を受けてしまったことにより、慎吾は今更ながら気付かされたのだった。
「あー毅さんのファーストキスは一生お預けだと思ってたのになー」
「ファーストか?」
「サードくらいじゃね?」
「フォースアウト!」
「チェンジ!」
「ノーチェンジ!」
妙な動きをし始めた連中は無視をして、慎吾は煙草を吸い続ける。
二人はキスをした。正確に言うなら、高橋涼介が中里にキスをした。誰から見ても分かるように、見せ付けるようにキスをしたのだ。それは能天気揃いのチームのメンバーが咄嗟に写真を撮る以外には騒ぐもどよむもできなくなるほどに、唐突で明らかで短いが濃厚なキスだった。それを仕掛けられた中里はしばらく呆然とすると、ふらふらとした足取りで車に戻り、ふらふらとした運転で山を降りた。
それから一週間、中里は峠に来ていない。連絡もない。雨が降ろうが槍が降ろうがバトルで負けようが失恋しようが休みにはきっちり峠に現れる男にしては珍しいことで、まさかくたばっちゃいねえだろうな、とは慎吾もいささか危ぶみ始めているところだった。野郎にキスされたくらいで精神崩壊を起こすような軟弱な走り屋のことなど気にもしたくはないのだが、踏み台は適当な高さがあってこそ踏み台としての意味を持つのである。その高さに欠ける中里の上に立って妙義山最速の看板を掲げてみても意味はない。他の奴らもさすが庄司慎吾様だと羨望の目で見てくるのではなく、何かのアトラクションでもおっぱじめたのかと好奇の目で見てくるだろう。その上他人を云々できる義理のない連中に、バッカじゃねーのと笑われかねず、そんなピエロになるのはまっぴら御免であるからして、中里が走り屋の地位や実力をある程度高く保っているかどうかは、慎吾にとって気にしたくなくとも、気にせずにはいられないことなのだった。
向こう見ずに突っ走っている時には猛々しくとも、不慮の事態には脆いのが中里だが、今回はそれをもたらした相手がまずもって悪かった。何も高橋涼介が人外的元走り屋で群馬の至宝、生ける伝説、規格外の美男子といったどんな大仰な二つ名で呼ばれようとも遜色のない高ステータスを有している男であることが、悪かったと言うのではない。そんなレッテルは中里の知っている高橋涼介本体を表しはしないはずだからだ。
高橋涼介本体を中里は知っていて、その本体に悪い印象を持っていない。というよりも良い印象を持っている。高橋涼介との会話中に中里はチームのメンバーや慎吾にもそれほど見せない安心感と親密感の漂う開けっぴろげな笑みを度々浮かべていた。それは高橋涼介の比ではないにせよ、他の連中が二人を付き合っているものとして見なすのも妥当と言えるほどの、明確な好意の丸出しさだったが、当の中里本人はそこにラブやらロマンスやらがあるとは考えてもいない様子だった。欠片の意識もしていなかったのだ。しかしキスをされては意識せざるを得なくなるだろう。特に好意を持っている相手については尚のこと、ラブやらロマンスやらについでまで思い浮かべずにはいられなくなるだろう。悪かったというのはつまり、中里にとってのその相手が、資産家の医者の息子という出身も多忙な医学生という地位も鬼神のごときドライバーという名誉も類稀なるイケメンという外見も、そして何より男という性別すらもレッテルにしかならないほどに本体を知っているはずの高橋涼介であることで、中里がそういう相手との関係をどう受け止めて何を理解するべきかという初歩の初歩から懊悩している光景は、慎吾には容易く想像できた。
「いやディープキスして付き合ってねえとか説得力がゼロ以下だろ。入れたけどゴムつけたからヤッてないって言うようなもんだぜ」
「でもアナルセックスはゴムつけねーとやばいっしょ」
「っつかどっちがアナル掘られてんの?」
「やっぱ高橋涼介?」
「まあ細いしな」
「まあツラがアレだしな」
「毅さんには掘られてほしくねーよなー」
「でも高橋涼介掘ってる毅さんより、高橋涼介に掘られてる毅さんの方が、何か親しみはわくと思う」
「何の親しみだよ」
人の車の前にたかる似非自殺志願者どもは、周辺状況を気にすることなく猥談すれすれの妄談に熱中している。慎吾は煙草を吸い続けながら、耳で遠く響く音を拾う。この地には馴染みがあるノイズ。そして他の連中に気取られない程度に安堵の息を吐く。軟弱かどうかはさて置いて、くたばってはいなかったらしい。音が近づいてくる。話に没頭している連中は気付かない。暫定トップの久々のご登場にも意識を割かずに馬鹿話に花を咲かせるとは、救いようのない馬鹿の集まりだ。そういう馬鹿を救ってやるつもりも慎吾にはないので、吸い終わった煙草を地面に捨てて、真正面の離れた場所に停まった黒いR32から降りた黒いシャツを着た黒い髪の男の行動を、野郎どもの頭の間からただ眺めていた。
「まああれだろ、恋人同士なら掘り合ってこそだろ。ケツとか」
そんなタイミングで話題をそこに戻す辺りやはり救いようのない馬鹿どもだが、慎吾はやはり救ってやらなかった。救わずともこいつらは勝手に楽しく生きてやがるのだ。
「ケツ以外に何掘るんだよ」
「穴?」
「庭?」
「こう、畑で楽しく野菜作り的な?」
「田舎暮らしだな」
「ザ・スローライフか! 老後か!」
「いや別に老後じゃなくてもいいんじゃね?」
「っつか別に掘らんくてもいいんじゃねえの、ほら、プラスチックな関係ってやつでよ」
「何だその経年劣化で黄ばみそうな関係は」
「燃えるんだか燃えねえんだか微妙な関係だな」
「リサイクルできるかどうかも微妙だよな」
「それを言うならプラトニックだろ。肉体関係度外視だろ、セックスレスだろ」
「でもキスはしてたっしょ、お二人さん」
「ディープキスはエッチだよなー」
「見てるだけで勃ってくるよな」
「え?」
「やっぱ実はヤッてんじゃね?」
その一人の疑問ののち、中里と高橋涼介がヤッてるかヤッてないかについて全員揃って考えたことで訪れた沈黙は、
「楽しそうな話をしてるじゃねえか」
という、ドスの利いた声によって破られた。演技のように全員揃って向いた後方には、慎吾が動きを眺めていた黒いR32のドライバーであり、ヤッてるかヤッてないかについて考えられていた一方の男が、微動だにせず立っている。「うわ毅さん」「あッ、どーも」「やあどうもどうも」「本日はお日柄も良く」、驚いた全員揃って返しかけた挨拶を、『その話』の当事者たるナイトキッズの暫定トップ中里毅は、「確かに!」、と怒声で遮った。
「キスはした! が! 付き合っては、いねえ! 分かったか!」
その突飛なキス認定・非交際宣言を一人も咄嗟に呑み込めなかったらしく、再度沈黙が訪れる。血走った目で全員を見回した中里は、再度怒声でそれを破った。
「返事は!」
「はい!」
厄介事に首を突っ込みたがる奴もがとりあえず従うほどに、中里の様相は鬼気迫っていた。馬鹿どもが全員ぞろぞろ各自の持ち場に去っていき、中里と慎吾だけが残る。慎吾の持ち場はEG−6のあるここだから、他に行くべきところもない。中里の持ち場は離れた場所に停まっているR32のはずだが、慎吾を向いた中里は、若干削げ度が上がった頬を小さくひくつかせてため息を吐くと、傍にのろりと歩いてきて、EG−6のボンネットに腰を下ろして項垂れた。憔悴が色濃い姿だった。それを見るといつものように人の車に余計なウエイトかけてんじゃねえよと即刻退去させる気も起きず、慎吾は中里の隣に軽く腰を下ろし、パーカーのポケットに両手を入れて天を仰いで、しばらくそのまま快晴の夜空に豊富に浮いている星を数えていた。二十あたりでどこまで数えたのか分からなくなり、また一から数え直そうとして、横からの視線を感じる。星勘定は止めて右を見れば、こちらを向いている中里と目が合った。血走った目、削げた頬、荒れた唇。やつれた男のダサイ顔だ。
「気ィ済んだか」
その顔からは姿通りの憔悴しか窺えないが、取っ掛かりに尋ねてみると、中里は目を一旦上方にやり、考える振りをしてから戻してきた。
「少しな」
「そりゃおめでたい」
揶揄するように笑ってやっても、再び項垂れた中里から返ってくるのはため息だけだった。こうもくたびれられると食って掛かるという気分にもならない。かといって他の間抜けなメンバーのように馴れ馴れしい親切を働くという気分にもならない。しかし放っておいて延々くたびれられてはバトルも何もあったものではないし、どうにも腰の座りも悪い。結局関わりをお断りしようにも、このダサイ男は妙義山で慎吾のライバル足り得る唯一の走り屋であり、代替の利かない仲間であり、それがしゃんと立っていないことで損をするのは慎吾自身であった。そして慎吾は進んで損をする自虐行為によって心を満たしたいとも思わなかった。元よりそんなことで満たされるほど簡便な心も持ってはいないのだ。
「話したいことがあんなら聞いてやるぜ。十五分三百円で」
右手を出しながら慎吾は言った。肉がわずかに落ちているだけでもかなり強調されている中里の目玉が、不躾に慎吾を捉える。
「時間制かよ」
「俺の心は現生で満たされるもんでな」
中里は礼儀を知らない目つきはそのままに、出した慎吾の手を払い落とすように叩いてきた。音は鳴るが痛みは走らない。慎吾の心が些少な金で満たされるほど安くはないことを中里は分かっている。だから本気を出さず、黙りながら離れようとまではしない。黙った中里に慎吾は何も言わなかった。そこまで突っついてやるのは癪だし、こちらの持ち場に留まっているのならば、中里はそのうち何かは言ってくるはずだった。見上げた空はすっきりと晴れている。雲がないから星までなければ本当に晴れているのか疑いそうになるほどの晴れっぷりだ。だが星は数々瞬いている。夜空の透明さを知らしめるように散らばるそれを慎吾は三十まで数えきって、飽きた。
「どうすりゃいいか、分かんねえんだよ」
そこで出し抜けに中里が言い、慎吾は未練もなく空から中里に目を移した。中里は地面を硬く睨んでいる。そのひび割れた唇は話を続けることを躊躇するように、開きかけては閉じる。
「何が」
だが慎吾が軽くそう促せば、中里は閉じかけた唇を言葉を吐き出すために開かせた。
「あいつは、高橋涼介。高橋は、俺が本気で来るなと言ったらここにはもう来ない、そう言った。けど、俺の本気がどうしてあいつに分かるってんだ?」
地面を睨み続ける中里は、地面に向かって喋っている。だが問いはこちらに向けてのものだろう。車に関する夢想や理想は人の隣で自慢げに独白するくせに、迷いや悩みを人前で漏らそうとはしない奴だ。そんな半端に無神経で極めて頑固な男が、抱えている問題を自ら吐露してくるのは、よほどそれを処理しあぐねて、解決の糸口を探しているからに他ならない。
「そりゃお前は分かりやすいからな」
それだけ悩んでいると分かるほどに、分かりやすいのだ。聡いはずの高橋涼介が長いとは言えない交流の間にでも中里の性質を把握していても、疑問はない。
「だからって、物事には限度があるだろ」
中里が地面に落とした不満の中に、分かりやすいという指摘の否定は存在しない。そこで片意地を張らせないまでに、問題は中里の意識を支配しているということだ。それを分かる自分を慎吾は嘲りたくなったが、虚しくなりそうなのでやめて、当座の懸念を払拭するべく、本腰を入れて相談役を演じることにした。
「なら聞くけどよ」
高橋涼介が中里の本気が分かるかどうか、中里は問題にしている。しかし本来の論点はそこではないだろう。
「お前、高橋涼介に来てほしくねえのかよ」
地面を睨んだままの中里の呼吸が止まり、唇が、切断された芋虫のようにぴくぴくと動く。たっぷり十秒息を止めてから、鼻から音を立てて空気を吸い込んだ中里は、顔を上げて今度は空を睨みつけた。
「いくら何でも、ここまでいくと騒ぎすぎだぜ。いい加減抑えねえと、収拾つかなくなっちまう。そんなの、うちの面子に関わるじゃねえか」
慎吾が聞いたのは高橋涼介についての中里の気持ち一つで、返されたのはチームの体面についての杞憂だった。質問に直接答えたくないのか、あるいは答えられないのか、いずれにせよ中里が何も分かっていないことは分かったので、慎吾はため息を吐かざるを得なかった。これまで慎吾が『その話』を放置してきたのは、真実を蔑ろにしてまで低次元に下りたくなかったためでもあるが、事態がいずれ勝手に安定すると見込んでいたためでもある。付き合う付き合わないは別にして、好き合っている者同士、中里は高橋涼介との関係に適当な融和点を見つけて今後もよろしくやってくださるに違いないと、半ば投げやりに、半ば真面目に慎吾は考えていた。しかし思いのほか高橋涼介は積極的で、中里は頑固だった。このままではどうしようもない。赤城の高橋涼介にはいつか恨み言をくれてやるとして、この場では問題の本質から目を逸らしている奴に、とりあえず現実を直視させてやらなければならないだろう。
周りを見ると、こちらを窺っているメンバーが何人かいる。中里に睨まれれば顔を背けるだろうが、慎吾が見たくらいでは動じない。それどころか中里の怒りが萎えたか否かをマルバツのジェスチャーでもって尋ねてきている。慎吾はそいつらにひとまず中指を立ててから、人差し指と中指二本を目つぶしするように突き出した。注意を集めた指は、そのまま自分に向ける。指示通り、奴らはこちらから目を逸らさない。
慎吾は中里を見た。星の一つや二つ消滅させたそうな厳しい視線を空に送っているが、毅、と呼べば、すぐにこちらを向く。やつれた顔は警戒心の欠片もない、無防備なもので、慎吾が短く唇を合わせるだけのキスをしても、そのまましばらく変化はなかった。周りの奴らも同じだった。こちらを見るよう指示をしたから見てきているというだけで、特にカメラを構えるでもなく呑気な様子だ。片手を振って終了の合図を送ってやれば、何事もなかったように個々人の持ち場で趣味に励み出す。
「な……何?」
ようやく声を上げた、目玉が飛び出そうになっている中里に、慎吾は当チーム比で平穏な周りを示した。
「見てみろ、このノーリアクション」
「は?」
「俺とお前がキスしたところで、ネタにならねえんだよ。華もねえしつまらねえ。だからどうしたってレベルの話だ」
自分とだけではない、中里が他のメンバーとキスをしようが、連中にとっては騒ぐまでもない日常の一幕に過ぎないのだ。少しくらい驚けよと思わないでもないこのスルーっぷりが、それを表している。
「けど、これが高橋涼介ってだけで話は違う。華ありまくり、伝説だらけで生身の人間って感じがしねえ、ネタにするしかないお相手。それがお前を選んでるってシチュエーションは、騒ぐのにうってつけだろ」
だから奴らは高橋涼介相手ではスルーをしない。
「別にあいつは、俺は選んでねえだろ」
目玉をまぶたにきちんと収納した中里が、不満げに言う。慎吾は多少違和感の残る唇を舌で湿らせてから言い返した。
「そう見えるんだよ。プロジェクトDの高橋涼介が、チンケな走り屋中里毅を選んでるって構図」
「チンケって、お前な」
「世間からご都合主義のシンデレラストーリーが根絶しねえ理由、分かるか」
「あ?」
視点の違いを考慮せず反射的に非難するような奴が分かるわけもないから、不可解そうに目を瞬いているだけの中里には、すぐに答えをくれてやった。
「簡単だ。需要がある。一定数のな。陳腐な設定に薄っぺらく感情移入してお手軽にカタルシス迎えてえ奴が、この世の中には山ほどいるんだ。だから、チンケな走り屋が偉大な走り屋に見初められました、めでたしめでたしってストーリーにだって一定数の需要はある」
そこまで話すとさすがに中里も話の大枠を想像できるようになったのか、余計な口を挟まなくなった。慎吾は一拍置いてから、続けた。
「で、それは走り屋の中でのストーリーだ。設定的にはプロジェクトDの高橋涼介と、三連敗したナイトキッズの中里毅じゃなけりゃあ、成立しねえ」
走り屋としての二人の存在を知っている人間はいても、個人としての二人を知っている人間は皆無だろう。慎吾は中里と比較的親しいが、高橋涼介の人格についてはほとんど知らない。高橋涼介の人格を知っている人間で、中里の私生活を知っている人間がいるとも思えない。だがそんなことはどうでもいいのだ。走り屋としての二人がいれば、ラブロマンスは成立する。言い換えれば、どちらかが欠ければ、成立はしない。
「なら、成立しなくなるのはどういうケースだ?」
中里を見据えながら、慎吾は聞いた。慎吾を見返す中里の目は、答えを既に掴んでいると訴えかけてくる力強さがあった。それを受け取って、そうだ、と慎吾は頷いた。
「プロジェクトDが終われば、プロジェクトDの高橋涼介は消える。ストーリーは消えて、ネタも消える。騒ぎも消える。収拾ってのはつくんだぜ、毅。お前が何もしなくても、高橋涼介さんが目的果たしちまったらな」
周りを焚きつける結果になるのも構わずに中里との接触を深めている高橋涼介の目には、この珍奇な騒ぎの終わりが見えているに違いない。醜聞などは、敢えて処理をしなくとも、自らの集大成プロジェクトを完成させることで抹消されると分かっているから、無駄な労力も割かないのだ。
「それまで、我慢しろってか」
難しそうに眉をひそめた中里が、ひねり出したような問いを吐いた。チームの体面から自分の気持ちに視点が移っていることは、おそらく自覚していないだろう。慎吾はそれは指摘せずに、ただ話に乗っかった。
「それまでったって、あと二ヶ月くらいじゃねえの、多分。まあどうせ終わればあちらさんも来なくなるんだ、少しは我慢しとくんだな」
「来なくなる?」
中里は声を少し高くして、飛び出そうではないが、驚きは見受けられるほどに目を見開いた。
「来る理由がなくなるだろ。群馬の峠に目ェ光らせとく理由がな」
結局『プロジェクトDの高橋涼介』の行動とは、いかに計画を正しく全うするかに終始している。それが終われば群馬の峠を見回ることもない。妙義山に来て中里とくだらない近況を交し合う必要もなくなるわけだ。
「それともあるのか?」
驚きを隠せずにいる中里に、その可能性を否定させるためだけに、慎吾は聞いてやった。
「いや」
それだけ言って、中里は俯いた。その眉間には強張りが窺えて、顔面の皮膚には動揺のさざなみが窺えた。今までその事態について考えてもいなかったと言わんばかりの中里の困惑ぶりだった。この男は高橋涼介を来させないようにしたがっていたというのに、高橋涼介が来なくなることを身近な現実とは捉えていなかったらしい。まったくお間抜けだ。そうして項垂れ言葉を失っているお間抜け野郎を、単純に精神上放っておけなくなっている自分に対し、慎吾はため息を吐いた。そこまでこの関係を深めたつもりはなかったのだ。しかしそんなことは今更だった。本気かどうか、何に対して本気なのか、どこまで本気なのかなど、自分にしか分からないことだ。自分だからこそ、分かることなのだ。中里もそれは分かっているだろう。鈍いといえど己には真正直な男である。高橋涼介も分かっているはずだ。明晰なくせして中里の前であんな風に感情や欲望を剥き出しにしながらも穏やかに笑いやがる男である。そんな風に笑うことなど慎吾にはできない。したくもない。中里とそんな馬鹿馬鹿しく初々しい関係を育むつもりも毛頭ない。互いにくさしつつ違う方法で同じ方向に進み、一つの頂点を奪い合う、そういう関係があれば良いだけで、それを持続するためならば、過程で生ずる多少の自己嫌悪も呑み込む覚悟は去年の秋からできていた。
「毅」
呼べば中里はこちらを向く。その警戒心に欠けるがゆえの従順さを快く感じることを癪に感じながら、慎吾は嘘臭い情け深さを声に混じらせた。
「俺は心の優しい人間だ。てめえで殴り倒したくなるくらいによ」
中里のみすぼらしい顔は、怪訝で覆われる。
「何言ってんだ」
「だから」
そして慎吾は、問題の本質を知らしめるように、口調を真剣なものに切り替えた。
「もう一回聞いてやるぜ。お前、あいつに来てほしくねえのか」
中里は目を見開かなかった。見開けなかったのだろう。眉毛の周囲の筋肉が隆起して、目の下の黒ずんだ薄い皮膚がひくついている。感情の奔流を抑え込むことに苦労しているようだった。その反応の過激さにぎょっとして、いや泣くなよ小学生か、と慎吾は思わず言っていた。中里は目を下に落とし、泣いてねえよ、と即座に言い返してきた。
「誰が泣くか。何で泣くんだ、俺が。泣くわけがねえ。理由がねえ」
「高橋涼介来なくなるのが辛いんだろ」
『理由』を指摘してやると、中里は目を上げてきて、「てめえッ」、と怒鳴りかけたが、何だ、と聞けば、口を開いた状態で、まだ感情の奔流を抑えながら、血走っている上に濡れ始めた目を手で覆い、何でもねえよ、と再び俯いた。あっそ、とその言葉を受け取るだけにして、慎吾は周りを見渡した。こちらに注目している人間は一人もいない。ここの連中はそんなものだ。ネタになるものには飛びつくが、それ以外には見向きもしない。そんな勘定高い野次馬どもの無責任な言動など一から十まで無視してやればいいのだと、チームに入って一年足らずの慎吾ですら分かっているのに、中里はいまだに大概真に受ける。この馬鹿正直さがあるからこそ、大して速くもないのに態度だけは一丁前などうしようもない走り屋どもの頂点に、堂々居座っていられるのだろう。それを慎吾は消し去りたいとも思わないが、好きな野郎と会えなくなる事態を真剣に想像したくらいでこうも鬱々とされては、愚直さも過度である。邪魔臭いし、何よりこの場を制してやるにしても、張り合いがないのだ。
現実は直視させた。『問題』は中里の眼前に立ちはだかっているはずだ。それをどう処理するかは中里の裁量となる。しかし間違いなく中里は『問題』を構成する要素全体を理解していない。客観視できていない。だから泣きそうになっていて、鬱陶しい。害なすものにはさっさとお引取り願わなければ、賢い生き方もできはしない。
「プロジェクトDの高橋涼介、っつったけどよ」
慎吾はEG−6のボンネットから降りて言い、中里を向いた。中里は少し顔を上げ、充血した目で睥睨してくる。
「多分、そういうつもりはねえんだよ。あちらさんには」
そう続けると、中里は前髪に隠されない額に走った傷心を隠すように、わざとらしく顔をしかめた。
「……まあ、そういう話もしねえからな」
「そうじゃねえって」
「はあ?」
不可解さ満点のしかめツラになった中里を見て、何でこいつはこんなに理解遅えかな、と慎吾はこのまま話を打ち切ってしまいたい衝動に襲われながらも、一旦焼いた世話は最後まで焼き通すことにした。
「Dとして来るなら、自分の車使って回らねえんじゃねえの。FCなんて、ここじゃあどう見ても赤城レッドサンズの高橋涼介だからな。ま、うちの奴らは騒げりゃ何でもいいみてえだけど」
引退しようが別のチームを作ろうが、同時代を過ごした群馬の走り屋にとって白いFCといえば赤城の白い彗星、レッドサンズの高橋涼介である。高橋涼介がこの峠で『プロジェクトDの高橋涼介』を主張してその完結とともに噂は元より中里との関係の抹消を目論んでいるというのならば、果たしてそんな在りし日の象徴を引っさげて妙義山に乗り込んでくるのかということだ。中里と接する高橋涼介の浮つきっぷりを見ていれば、目論んでいるのは抹消ではなく継続だとは知りたくなくとも知れたものだが、客観的な視点というやつを欠いている中里には、そこを補う理屈を与えてやらなければ知れもしないことだろう。
中里は口にリレー用のバトンでも突っ込まれたような意表そうで複雑そうな顔になった。慎吾はそこに先ほど満ちた不可解さが残っていないことを見取ってから、中里のシャツの襟ぐりを掴んで横へと放り、EG−6のボンネットを圧していたでかい尻を、貸し一つだ、と言って足で押しやった。
「取り立て楽しみにしとくんだな」
たたらを踏んだ中里が、噛み付きたそうに振り向いてきて口を開き、だが何も言わないまま閉じて、意表そうで複雑そうな顔に納得を浮かべると、小さく頷き背を向けた。特別な意図を示すように左手を緩く上げながら己の持ち場へ戻るその中里の背を半ばまで見送って、慎吾は本日一番大きなため息を吐いた。同じチームのメンバーだとか走り屋仲間だとか競合相手だとか、どんな小奇麗な理由があろうとも、中里サイドに立って手間をかけるのはいつでも何か決まりが悪い。自分にしかできないことをやっただけのような、自分のやるべきではないことをやってしまったような、面倒な気分だ。結果的に高橋涼介サイドにも立つことになったとしか思えないから余計に気分は面倒である。しかし客観的な視点というやつを使ってみれば、中里と高橋涼介、双方に貸しを作ったということにもなるからして、慎吾は得をしたのだと割り切ると、速やかにEG−6に乗り込んだ。限りある時間は有効活用するためには、これ以上他の奴らに邪魔されるわけにはいかないのだ。
後日慎吾はメンバーの一人から、中里とキスした場面の画像を残していた奴にこれを公開されたくなければ大人しく言うことを聞けと脅しをかけられたが、公開したらお前の性癖も公開するぜ、画像つきで、と逆に脅しをかけて、一連の行為は記録から抹消し、それが中里の口から高橋涼介に伝わるまでの束の間ばかりは、何の懸念もない走り屋生活を送ることができたのだった。
(終)
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