共同正犯



 夜間の峠は半袖ではまだ幾分寒くとも、上着を身につけずには済むほどの暖かさを抱いている。春から夏へと季節が移り変わりつつある中で、だが妙義山に集まる走り屋連の、陽気さや騒々しさには変化がない。花粉対策のマスクをいまだ外せずにいる者、夏を先取りした服装で凍えている者、先取りするまでもなく色黒の者などが、車の点在する駐車場で輪を作り、様々な主題についての論争を白熱展開させている。
 あるメーカーの新車のコンセプトの良さを表すために、あるグラビアアイドルの尻の形の良さを比喩とする、その本末転倒的比較談義は、周りをはばかることもない力の限りの大声でなされているので、五メートルほど離れた位置に停めた愛車のR32の傍で一人一服している中里の耳にも、当然届いた。だが、脳内にまでは届かない。したがって、平素であればもう少し声を抑えられねえのかと諦め半分の苛立ちを覚えた末に注意にかかり、メンバーたちの雑談と見せかけた猥談に巻き込まれる頃合でも、中里は微動だにせず煙草を吸い続けている。
 一つの予感があった。予感は想像を生み、想像は推測を生む。その推測が中里の頭を支配して、通い慣れた峠で乗り慣れた愛車を走らせる集中力と、聞き慣れた仲間たちの会話に思考を割く余裕を奪っていた。
 その場で吸う、四本目の煙草だった。三本吸っている間、誰も話しかけてはこなかった。今もそうだ。それを中里は、不思議には思わない。不思議に思う余裕がない。ただ、待っている。一つの予感が的中することを、一つの推測が現実となることを、煙草を吸いながら、待つという意識もなく、しかし確実に待っていた。
 やがて、それは訪れる。車のライトにも引き裂かれない夜を貫き、何事にも野次馬根性を発するメンバーたちを、純粋な驚きでざわつかせたのち畏敬の沈黙へ落としながら、中里の眼前に現れたのは、一台の白い車、RX−7FC3Sだった。
 そのFCを駆る、美貌と長躯、怜悧な頭脳と類稀なる運転技術を兼ね備えた、天に何物も与えられた男を、中里は待っていたのだ。
 三週間ぶりだった。週末、その男はイレギュラーな事態がない限り、自らが指揮する関東制圧走り屋チーム、プロジェクトDに参加している。公道での不法暴走行為に熱を上げるのは、走り屋と称し称される人間だけではなく、関東各地に確たるコースレコードを刻み続けるプロジェクトDは、一般人によるストーキングサイトができるほど名が売れており、少し調べれば活動予定は分かるもので、中里が今週末にその県外遠征がないことを確認したのも、それを利用してだった。
 一つの予感は、そこから生まれていた。今まで何度も繰り返されていた行為への予感だった。ただ、その男と会って、話すだけだ。事前に連絡はしなかった。連絡先を交換してもいない。聞かれたことはないし、聞いたこともない。この峠に来ることに、走り以外の意味を付与したくはなかった。
 だが、約束をしなくとも、頭の片隅には常に、その可能性がうごめいていた。時折思考に絡みつくそれを、排除することはできなかった。可能性が現実と化した時には、心臓の音がよく聞こえた。
「よう」
 その男、FCのドライバー、黒い上下に細身を包んだ高橋涼介は、笑みを浮かべながら、中里に右手を上げた。去年の秋、初めてここに一人訪れた時に見せたのと同様の、忌憚なき笑みだった。持論を誇示するためにしては、あまりに胡散臭いと思われた笑みだった。
「よう」
 中里は笑わずに、閉じたままの歯の間から声を返した。それだけで、高橋涼介は形の良い、だが血色は幾分悪い唇の端の角度を、嬉しそうに上げる。
 去年の秋、地元群馬を疎かにしないための状況検分の一環という名目で妙義山に訪れた高橋涼介は、ナイトキッズのリーダー格として対応した中里と、事務的な会話に数分、個人的な会話にそれ以上の時間を使い終わったその帰り際、また来るよ、偵察がてらな、挑発するようにそう言って、ゆったりと、幸せそうに微笑んだ。それを見た瞬間、中里は、耳の後ろに心臓が移ったような感覚を味わった。今も同じだった。
 以後定期的に妙義山を訪れるようになった高橋を、その都度中里が出迎えるという、他愛ない交流をもった結果、ナイトキッズのメンバーは中里と高橋涼介が付き合っていると思い込み、県内全域にその誤解を事実として拡散した。その後も中里の目の端についたまつげを高橋涼介が取っている画像をして、キスをしたと思い込み、当然のごとく画像つきでその誤解を事実として拡散した。名誉の侵害も甚だしい誤解だった。おそらくその誤解の発生を当初から気付いていた高橋涼介とは違い、中里はごく最近まで気付きもしなかったが、気付いた時には驚き怒った。今でもデマを広めたメンバーについては腹立たしく感じるものだ。身内の自分ですらそうなのだから、部外者の高橋涼介が、誤解されている状態を快く感じているはずがないと思えた。ならば、誤解の元を断つことが、互いにとっての最善だろうと思ったのだ。
 ――俺は迷惑には思わない。
 だが三週間前、高橋はそう言って、キスをしてきた。その話が流されようともそれが事実となろうとも、迷惑には思わないことを、そうして示してきた。
 ――だから俺はまたここに来る。お前が来るなと言ってもだ。お前が本気でそう思いながら、ここには来るなと俺に言うまでだ。
 だからといって、他人の、こちらの本気をその男がどうやって見極めるというのか、中里にはただ、疑問だった。
 ――お前、あいつに来てほしくねえのか。
 しかし二週間前、心が優しいと辟易したように自称した庄司慎吾が、その心中を言葉として引き出してきた後と同じ問いをかけてきた時、中里はついに、答えに窮した。
 考えたこともなかったのだ。高橋涼介が、こちらの本気を見極められるのか案じていながら、その自分の本気というものを、見極めようとしたこともなかった。自分が高橋涼介に来てほしくないと思っているのか、高橋涼介が来なくなったらどう思うのか、慎吾に二度目、そう聞かれて、初めてまともに考えたくらいだった。それだけ、自分と向き合うことを、避けていたのだ。
 考え、途端、鼻の奥に染みるものを感じたのは、想像が、あまりに克明にできたからだ。高橋涼介の存在しない現実、その欠落、どうしようもないほどの過去との隔たり、取り戻せない時間。
 ――高橋涼介来なくなるのが辛いんだろ。
 泣いたつもりもないのに、泣くなよと言ってきた挙句、こちらが泣いたと見た理由を何ともつまらなそうに指摘してきた慎吾に、否定の言葉を吐こうとした。吐けなかった。事実だからだ。高橋涼介の不在、その想像は、血を冷やし、肌を麻痺させ、視界をかすませた。その想像を、想像したくないがために、自分の気持ちをまともに考えはこなかったのだと理解できるほどの、辛さが体を貫いた。
 ――多分、そういうつもりもねえんだよ。あちらさんには。
 確かに慎吾は、心の優しい人間だった。高橋涼介がプロジェクトDをやり遂げ、走り屋の身分を完全に捨ててしまえば、この地に偵察目的で現れることもなくなるという理屈を、キスまで交えて立てておきながら、最後、そもそもここに訪れているのは、プロジェクトDの高橋涼介ではないことを匂わせた。中里に、その不在を意識させながら、それが現実にはなりえないことを言外に示してきた。つまり、慎吾はこう言いたかったのだろう。どうしてえかって問題で、どうするべきか考えたって、答えになるわけねえだろ、アホ。まったく、心の優しいひねくれ者だった。
 どうしたいのか。そんなことは、簡単だった。現実にはなりえないことでも、絶対に、現実にはしたくない。忙しい時間を縫って峠に来て、そうまでして話す必要もなさそうな、天気がどうの、社会的事件がどうの、スポーツがどうのという、些細な話を束の間して去り、ただただ嬉しげな笑みとともに再び現れる、その男は既にこの地と、この地に約束もなく当たり前に集う、口さがない仲間たちと同じく、中里にとって、なくてはならないものになっていた。それらを、それを、失いたくはない。絶対に、手放したくはない。
 そう思う、自分の本気から、もう逃げたくはなかった。そして、高橋涼介の本気からも、逃げたくはなかった。
 そのために必要な言葉を、何度も頭の中で繰り返しながら中里は、高橋が目の前まで来るのを待った。喜色に富んだ顔は、相変わらず、美術彫刻か何かのように整っていた。見慣れはしたが、気を抜いている時など、いまだに見入りそうになることがある。
 今は、見入ることはなかった。だが、その顔が不意に曇り、差し出された手が顔にかかり、乾き、冷えた掌を感じた途端、頭が真っ白になった。
「一キロ落ちただろう」
 暗い声を、言葉として認識するまで時間が要った。三秒ほど固まったのち、ああ、まあ、と中里はとりあえず頷いた。
「そう、かもな」
「ちゃんと食べてるのか。32に食わせて自分が倒れたんじゃあ、それこそ本末転倒だぜ」
 穏やかに笑いかけられ、顎の下に脈の速さを感じ、中里は一旦視線を逸らして、食べてるっての、と調子を取り戻すため、ぶっきらぼうに言った。
「このくらい、大したことじゃねえよ。それより」
「それより?」
 促すような問いを発した高橋と、改めて向き合うも、真っ白になった頭からは、用意していた言葉がすべて抜け落ちていた。言いたいこと、言おうとしていたことがあるのに、それが何だったのか、さっぱり思い出せない。だが、とにかく男らしくずばっと何かは言わねばならない、中里は焦り、結局何も考えぬまま、口を開いた。
「俺と、付き合ってくれ」
 高橋の目が見開かれ、その顔が整然さを保ちながら、間の抜けたものに変わる様を、こいつでもこんなに驚くことがあるのか、思いながら見た直後、それほど高橋を驚かせた自分の発言が何であったかに気がつき、違う待て、と中里は慌てて目の前で両手を振った。
「今のはちげえナシだナシ、レッキとした言い間違えだ」
「……くっ」
 高橋は、噴き出した。ひとしきり笑い、気が済んだように真顔になってこちらを向いてきたかと思えば、また噴き出す。中里は、呆れた。
「お前……」
「いや……悪い、それは予想、して、なかったな」
 切れ切れに言う高橋は、まだ笑いを堪えきれずにいる。言い間違いをこうまで大きく笑われるのは、どうにも癪だ。しかしようやく戻ってきた思考は、笑う高橋を睨んでやっている間に、失った言葉の修繕を果たした。中里は一つ深呼吸をし、咳払いをした。笑い終えたらしい高橋が、目の端を拭ってから、こちらを向く。何も泣くまで笑うこたねえだろうが、思うも、先の発言を真面目に受けられるよりは良かったように思え、それはもう構わずに、中里は高橋を真っ直ぐ見据えながら、言った。
「うちの連中はもう、どうにもならねえ」
 見返してくる高橋に、笑いの気配は最早なかった。ただ、こちらの言葉をすべて受け止めようとする、揺るぎない意思は感じられた。それは中里の舌に、滑らかさを与えた。
「どうにかできてたらとっくの昔にそうしてるし、第一どうにかできねえのが嫌ってんなら、俺はチームを離れてる」
 世情だろうが個人の私的な関係だろうが、愉快と判じた事柄は、日常と化すまでいじり倒す。そういう連中だということは、最初から分かっていた。分かっていて、この無神経で、痛快で、気の置けない走り屋たちと、チームを組んだ。
 高橋は、静かに、しかし力強く頷いた。中里も頷き、だから、と続けた。
「それは関係ねえんだ。チームの奴らがどうとか、他の奴らがどうとか、そんなこと抜きにして、俺は」
 肝心なところでまた言い間違いをしやしないか、唐突に不安を覚え、声と唾を飲み、目を閉じて、深く呼吸を取る。そうだ。他の奴らが何を言おうがどうしようが、関係はない。誰にどんな風に見られたところで、ナイトキッズの中里毅であることを変えるつもりは毛頭ないし、それは問題になりえない。問題は、自分がどうしたいか、だ。息を吐き切り、呼吸を元に戻し、目を開いて、変わらず前にいる二枚目の男を再び真っ直ぐ見据え、俺は、と中里は繰り返し、続けた。
「俺はただ、高橋、お前と話がしたい。今みてえに、今ほどじゃなくても、たまに、どうでもいいようなことを、お前と話していたい。お前がここに来る必要がなくなっても、お前がそのFCを、使わなくなる日がきても、ずっと」
 会いたかった。話したかった。会って、どうでもいいことを話す。それが楽しくて、待ち遠しかった。理由など知りはしない。ただ、そう感じる。そう思う。そう思う自分は、紛れもなく自分だった。それをもう、蔑ろにせず、誤魔化さず、そう思わせてくれる男に、伝えきりたかった。
「だから、これからも、その……よろしく、できたら、嬉しい、んだが」
 だが、うまくはまとめられず、そう言って高橋を窺う。高橋は左へ視線をやり、慎重に二度浅く頷いてから、こちらに目を戻し、意味深長に笑った。
「で、付き合ってくれ、か」
「……間違えたんだよ、言葉を……」
 クソ、と中里は歯噛みした。よりにもよって、あの状況で真っ先に出てくるとは、デマにかなり毒されていたらしい。
「いいぜ」
 洗脳じみたことしやがって、と心の奥でメンバーに恨み言を吐いていた中里は、笑みを取った高橋がそう言った時、何の話か即時には理解できず、そのまま聞いた。
「何が」
「付き合おう」
 中里の意識は、デマを広めた走り屋仲間に大方が向いていた。ゆえにやはり即時には、その高橋の提案を理解できなかった。
「何?」
「お前が言ってくれたことは、俺の望んでいることでもある。それを叶えていくなら、付き合うのが一番だろう?」
 世界の仕組みを解いたかのようなしたり顔で続けた高橋に、中里は少し考えてから、待て、と右手の平を向けた。
「……それは何か、違わねえか?」
 付き合おう、というのは、交際するということだろう。デマ通り、男同士の恋愛に興じようということだろう。少し考えた結果、それは中里も理解をしたが、今後も会話の機会を持ちたいというだけで、その関係に上るのは、踏むべき階段を大いに間違えている気がしてならない。
「まあ俺はお前より欲深い考えを持ってはいるが、俺たちなりの関係を二人一緒に作っていくという意味で、付き合うという表現は間違ってはいないと思うぜ」
 だが、気負いもなく、さらりと言ってのけられると、それを疑う方が間違いのような気もしてくるものだ。
「……そ、そうか?」
 中里は腕を組み、どっちつかずに首を傾げた。そう難しく考えるなよ、と高橋は愉快そうに笑う。
「何も一般的な定義通りに振舞おうってんじゃない、俺はお前との関係を一般化したいとも思わない。むしろ、特別にしたいんだ、だから」
 そして、顔に笑みの余韻を残しながら、右手を差し出してきて、明瞭に言った。
「俺と付き合ってくれ、中里」
 中里は瞠目した。高橋は薄く、気安く笑っているが、その目は真摯な光を帯びていた。言い間違いではないようだった。聞き間違いでもないようだった。これからも、と高橋が続けた言葉は、それを証明していた。
「どうでもいいような、覚えていても仕方がないような、それでいて、決して忘れられない話をしよう。そして、いつか話すことがなくなったとしても、変わらずずっと一緒にいよう」
 同じ思いが、そこにあった。望みが、本気がそこにあった。否定の仕様はなかった。否定するべき要件が、何一つ存在しなかった。あるいは、何かは間違っているのだろう。重大なことを、見過ごしているのだろう。それでも、互いの思いは、寸分も、完璧に誤っていないように感じられた。それでいいと思えた。それだけで良いと思え、中里は、そういうことなら、と組んだ腕を解き、右手を高橋へと差し出した。
「まあ……いいぜ」
「交渉成立だな」
「かもな」
 かといって、諾々とするのも生来の反骨心が許さずに、先に差し出された高橋の手を握り返して、挑発的に笑ってやる。似たように笑った高橋は、握り合った手に力を込めてきた。途端、引き寄せられるように感じ、中里は体を固めていた。
「待て」
「ん?」
 停止を求めるも、高橋は素知らぬ風に小首を傾げる。だが、手は握ったまま、力も込めたままだ。唐突に、心臓が強く鳴った。体と体、顔と顔、口と口とが接触しそうな距離に、神経が過敏に反応した。
「もう、離せ」
「なぜ」
「なぜって、そんな長々と……」
 脈が速くなり、頬が火照り出し、息がしづらくなり、声が途切れる。変調にもほどがあった。二週間前、慎吾にキスをされた時には、若干の不愉快さと不可解さは覚えたものの、特に何も感じなかったし、その後もいつもと変わらず接せられたというのに、この男と接触する可能性を意識しただけで、どうしてこうも肌が熱くなり、心臓が暴走するのか、自分のことながら中里には、一切分からなかった。
「お前、庄司慎吾とキスしたのか?」
 それでも再度何とか握手の中止を要請しようとした時、意外そうな高橋の声が、耳に飛び込んできた。
「なッ、何?」
「今、そう言っただろ」
 高橋は、無表情に似た冷静さをまといながら続けた。どうやら狼狽するあまり、考えていたことを口に出してしまっていたらしい。このままでは要らぬ誤解をされかねない。いや、と中里は潔白を示すように、空いている左手を互いの顔と顔の間に差し入れた。
「あれはキスじゃねえ。いやキスではあるが、キスじゃねえ」
「それはまた、不思議な現象だな」
 高橋は軽く両眉を上げ、小さく肩をすくめた。説明を納得する動きには到底見えず、とにかく、と懸命に弁明を試みる。
「あれは単にこう、やったらどういうことになるかってのを知るためにやっただけというか、つまりそれも話を分かりやすくするための例えってだけで、そりゃ表現としてはそうなるんだけどそういうんじゃねえっつーか、いやそれ自体はあったにせよ意図的じゃなくて、いや十分意図的だったんだがそういう意味での意図的じゃねえわけで……」
 これ以上他人に、それもこの男に面倒な誤解されるのは我慢ならなかった。しかし口を動かせば動かすだけ、真実は遥か遠くへ旅立つようで、中里がいよいよ混乱し始めると、握られていた右手は急に、離された。汗ばんだ掌に、触れる空気の冷たさを感じるより早く、唇を、縦にまたぐように触れた指の、高橋の肌、温さを感じた。
「そんなに必死に弁解するなよ。やましいことでもあったのかと思うだろ」
 責めるような口調だが、眼前の端整な男の顔には、からかうような笑みが浮いていた。実際、からかわれたのかもしれない。鋭い苛立ちが腹に、それを上回る羞恥が胸を走り、ねえよそんなもん、と中里は横を向き、早口に吐き捨てた。
「そうか?」
「俺とあいつであってたまるか、お前が相手ってんならまた別……」
 焦りに支配された口は、思考が吟味していない言葉を通過させていた。慌てて中止を命ずるも、ほとんどが外へと出てしまった状態では後の祭りだ。とはいえ動じていても始末はつかない。中里は乱れる神経をなるべく無視して、平然を装いながら、顔をゆっくり前へと戻した。変わらぬ位置にある高橋の顔は、からかいの笑みが失われ、能面のような美しさに、他者の急所を違わず噛み潰しそうな真剣さが加わっていた。それがわずかに近づいただけで、中里は反射的に目を閉じていた。顔に、緩い風を感じた。それは合成的な甘い匂いと共に右へ流れ、頬の過ぎた空気の上に、肌が重なった。
「もう時間だ。帰るよ」
 耳元の低く柔らかな囁きに、筋肉も皮膚も大きく震え、中里の体はびくりと揺れた。触れ合った頬はすぐに離れ、適切な間合いが取られる。開いた目の先、アスファルトの上の高橋の黒いローファーの爪先は、適切な間合いを表していた。目を、それより上へは動かせなかった。顔を上げられなかった。単なる別れの挨拶で、うろたえにうろたえている自分の顔を、正面から見られたくはなかった。
「そうだ、中里」
 だが、思い出したような声には、意識を引き止められた。躊躇しつつ、中里がじわじわ顔を上げると、半身になった高橋が、来た時と同様に、忌憚なき笑みを浮かべるところだった。
「俺はこのFCを、一生手離すつもりはないんだ。お前と同じようにな」
 言い終えた高橋は、笑みを深めて、じゃあまた、と背を向けた。こちらが32を手離すつもりがないように、という表現にしては、最後の表情はどうにも蠱惑的だった。中里は右手で目を覆ったが、赤面すべてを隠すには、左手も加勢させなければならなかった。それでも顔に上る熱は冷めない。ひとまず隠れることは潔くもないので諦めて、この地を去る高橋のFCを、この地に留まり見送ってから、ため息を吐く。
 少なくともこれで、望みは叶ったはずだった。しかし、変調をきたした肉体にあると、何かとんでもないことになったような、取り返しのつかない状況に、自ら飛び込んでしまったような気も、してこないでもなかった。
「……何か、違うのか?」
 独りごち、中里は首を傾げ傾げ歩きながら、まあでもこれでいいのか、多分、と、本来一番に気にかけるべき、その漠然とした違和感の源について、大したものではないと放っておくことにして、周りのメンバーが通常以上のざわめきを生んでいるのも不思議に思わず、一人愛車に戻った。
 のちに、高橋涼介が中里毅にセクハラしたという噂が群馬を一巡し、付き合ってんのにセクハラとかねえじゃんという感想も一巡したが、誤った定説が真実となった話は、ごくごく一部で交わされただけだった。
(終)


トップへ