気候学習



 夜の妙義山の片隅で大半がのんべんだらりと活動する、走り屋集団妙義ナイトキッズにおいて、昼間少しでも夏の気配が感じられると、半袖姿のメンバーが出現するのは、春の風物詩である。そういう連中が、冷ややかな山の空気に晒されて、首をすくめたり腕を組んだり二の腕をさすったりするのも毎春恒例、懐かしさすら覚える光景だ。一部先走りな連中にとっては、それが春の夜の山の楽しみ方であるとは中里も分かっているのだが、さりげない会話の最中でも薄着でもって寒い寒いと言われると、
「お前らそろそろ、季節ごとの山の気候ってもんを学習したらどうなんだ」
 などと、言葉を返さずにはいられなくなる。結果、
「学習なんて言葉は俺の辞書に存在しない!」
 と威張られたり、
「いやこの一瞬一瞬をですね、新しい感覚で過ごせるのも良いもんですよ。マンネリ化はアレです、熟年離婚の引き金です」
 と真面目に反論されたり、
「むしろ毅さんが俺の気象予報士になってください!」
 と意味不明な発言とともに手を伸ばされたりするのも、また例年通りであって、去年もこんなこと言ってなかったか俺、思いながらも中里は、俯きため息を吐いてから、助言を試みる。
「せめて羽織るもの一枚くらい、車に入れとくとかよ……」
 そうして前にいるメンバーの足元に目をやった時、中里は言葉を止めていた。
「いや、やっぱ車には余計なモン入れたくないじゃないですか」
「男としてこの程度の気温でシャツを着るなんざ、言語道断っていうか」
「でも女の子が脱いでくれてる方が嬉しいっすよねー」
「衣替えはまだか、ブラチラはどこだ!」
 他のメンバーは黙った中里を放置して、好き勝手に話を進める。そのほとんどを、中里は聞いていない。ただ、前にいるメンバーの足を見据えていた。麻の膝上半ズボンから出ている骨と筋が浮き出たその白い足は、黒い毛の見当たらない、つるつるとしたものだった。つるつるした男の足というのを、中里は見たことがない。男の足を鑑賞する趣味もないので、そこに毛が生えていようが生えてなかろうが、気にしたことがなかった。だが、いざつるつるの足を目にすると、あまりのつるつるさに驚いて、見入ってしまうものだった。何でこいつの足は、こんなことになってんだ。生まれつきか。毛がないのか。
「何をガン見してんだよ、お前は」
 と、低めの粘ついた男の声が、耳から頭に直接通じてきて、中里は思考を中断し、顔を上げた。右手を見れば、声の主たる庄司慎吾が、不愉快そうな顔をこちらに向けている。寒いと言い合う連中を無視する冷静さを持ちながら、悪辣な言動を好むこの偏屈者は、人情を捨てられないナイーブな青年でもある。それを中里は、去年深めた交流から知ったので、慎吾に一定の範囲内で敵対的に接せられても、ただちに昂ることはなくなった。
「いや、こいつの足が……」、中里は前のメンバーのつるつる足に目を戻し、何と表現するか落ち着いて考えてから、言った。「綺麗でな」
「綺麗ってな」
 慎吾は凹凸の多い顔の、陰影を深くした。そこまで嫌そうにされると、言葉の選択を誤ったようにも感じられたものの、
「まあ、綺麗だよな。足だけ見たら」
「つるつるですもんね」
「剃りすぎだろってくらいだよな」
 他のメンバーは特に嫌そうでもなく頷いて、しかし中里はぎょっとした。
「剃ってんのか?」
 まさか、すね毛を剃る男がいるとは考えたこともなく、ついつるつる足を見てしまう。言われてみればしかし、確かにこれは、剃っていそうなつるつる具合だ。
「はい!」、目の前に立つ、つるつる足で若干額の生え際が怪しい男が、力強く答えた。「毛ェない方が動いても擦れませんし、蒸れませんし、肌が敏感になるっていうんですかね、気持ちも良いです。おすすめです!」
「へえ……」
 なるほど、皮膚が完全に空気と接触するわけだから、感覚も鋭くなるのかもしれない。感心していると、
「ですから、毅さんも剃りましょう!」
「……は?」
 額も足もつるつるの男に堂々と誘われて、中里の思考は停滞した。剃る?
「というか、俺が剃ります!」
「てめえかよ!」
「そこかよ!」
「何様だよ!」
 乱れ飛ぶツッコミをものともせず、提案者は笑顔で断言する。「俺、慣れてますから!」
「毛ェ剃るのに慣れてる奴ってのも、どうなんすかね」
「めっちゃプレイしてそうな感じ?」
「超ベテラン?」
「百戦練磨?」
 他のメンバーが首を傾げる間を利用して、中里は話に追いつこうとした。剃る。剃ってどうする。毛を。敏感になるのか。なってどうする。慣れてどうする。というか、プレイって何だ。
「まあ、剃ったら剃ったで高橋涼介も喜ぶでしょ」
 まとめきれない考えが、タンクトップを着たメンバーの話をまとめるような発言にて、更にまとまらなくなった。高橋涼介?
「でもプレイでいったら本人やらなきゃ意味なくね?」
「勝手に何してくれてんだって話ですよね」
「あー、やっこさんなら恨むよなー」
「呪殺?」
「毒殺?」
「抹殺?」
 皆、再び首を傾げ、少々の静けさが訪れる。
「ちょっと待て、お前ら」、それを壊すほどの大きさの声を、中里は発した。「高橋涼介?」
 場はしんとした。周りにいるメンバーは、不思議そうな顔を向けてきた。慎吾だけは白けた顔をよそに向け、我関せずの態度である。何か厄介な事態に入りつつある嫌な予感を覚えつつも、『剃る』と『高橋涼介』と『喜ぶ』という言葉の関係性の不可解さが気になったため、結局中里は凄むように尋ねていた。
「何でそこで、奴が出る」
 返答は、前のつるつる足男から、すぐにあった。
「だってお二人、付き合ってるじゃないですか」
 一瞬にして、共感の輪が周囲の連中に広まった。中里はその中心にいながら、置いてけぼりとなった。付き合ってる。どこにだ。いや、待て、この場合の付き合うというのは、散歩やドライブや買い物に付き合うとかそういう意味ではなく、男女交際的な意味での付き合うではなかろうか。だから、自分の毛を剃ると、高橋涼介が喜ぶわけだ。なるほど納得――できるわけが、
「ねえよ!」
 十秒ほど考えた末、中里は生命力を振り絞り、『だって付き合ってるじゃないですか』発言を、どでかい声で否定した。
「えッ」
 途端、その一言が、峠中、いたるところから同時に上がった。驚愕が山全体に伝わったようで、各所で動揺の声に基づくざわめきが起こる。
「な、何なんだ、その反応は……」
 中里こそが動揺した。つまりこれは、考えたくもないことだが、この場にいる走り屋のほとんどすべてが、自分と高橋涼介が『付き合っている』と信じていたということなのだろう。しかし、なぜそのような荒唐無稽な話が事実としてまかり通っているのか、中里にはさっぱり理解ができず、動揺するばかりで、次に言うべきことも思いつかなかった。
「いやこの反応は妥当ですよ」、早々に動揺から脱したらしきタンクトップ男が、力強く断言する。「あの人来るたびフツーにイチャついてるし、どう見ても二人はカップルです」
「ペアルック並?」
「っていうかしょっちゅううちに来るってのがもうね」
「何か色々いそがしーらしーってのにさー」
「そのビジーさを感じさせないゆとりっぷりだもんな。あれはもう、俺のもの扱いだろ。手ェ出す奴は地獄に落ちろってもんだろ」
「あんな態度取られたら出せる手も出せませんよ、マジで」
「どうぞご自由に、存分にお楽しみくださいってな」
 皆が揃って嘆息し、またしても少々の静けさが訪れて、中里は何とか思考を立て直そうと努力した。高橋涼介は、確かに近頃はよくここ妙義山にも現れる。群馬で生ける伝説とされる超速の走り屋、白いFC使いの高橋涼介は、去年引退したが、今年に入り関東制覇計画を主導して、有望株の走り屋を引き連れ、度々県外遠征に出向いている。しかし高橋涼介のホームとはあくまで群馬であり、様子は常に気になるらしく、休みの折には群馬県内の峠の平穏を確認して回っていると、本人が言っていた。妙義山に現れるのもそのためであり、自分と話をするのも、この地に集う走り屋のまとめ役的立場の相手であるからだろうし、イチャついているなどということは一切ない。というか、付き合っていない。そもそも高橋涼介は男であり、何でそいつと俺が付き合わなきゃならねえんだ。徹底的に誤解されていたらしいことが次第に腹立たしくなってきて、中里は一度怒鳴りつけてやろうと、口を開いた。
「でもまあ毅さんが狙われるのはナイトキッズとしてもこう、嬉しいですよね」
「……はあ?」
 が、タンクトップ男の能天気な言を受け、開いた口から間抜けな声しか出せなくなった。狙われる?
「そうだな」、半袖男が腕組みをしたまま何度も頷く。「トップにはこう、常時誰かに狙われれるような魅力を持っていてほしいってもんだよな」
「狙われすぎても困るけどな」
「えー、俺は狙われてほしくないですよ。やっぱ毅さんの奥深い魅力ってのは、俺らだけで分かっておきたいっていうか」
「よそ者にしたり顔で何だかんだ言われたくねえって感じ?」
「永遠の聖域みたいな?」
「でも狙ってくんのが高橋涼介だぜえ、相手としては不足ねえべよ」
「いや余りすぎだろ色々と」
「まー毅さんの相手は毅さんを輝かせる人じゃねーとダメっすよねー」
「ダメだな」
 皆、疑問もなさそうに同調し合い、一方中里は疑問がありすぎたため、額を手で覆った。狙うだの相手だの、どこから意味の追究に取りかかれば良いやら、見当もつかず、思考の準備をしている間にも、メンバーの話は進んでいる。
「で、高橋涼介ってどーなん?」
「何かビミョー」
「どうしたって余ってんだよなあ」
「まあ本気そうなのはいいんじゃないですか。人生懸けてる感もありますし」
「プロポーズくらいさらっとしそうだしな」
「っていうかもうしちゃってるんですかね?」
「俺はまだ二人の結婚は認められねえな」
 そこまで耳にしたところで、考えをまとめるのは諦めて、中里は大きく手を振り、ようやく怒鳴った。
「認められたって、あいつと結婚なんてしねえよ、ふざけるな!」
 大声を受けたメンバーは、一切臆する様子もなく、『あ、毅さんいたんですか、気付きませんでした、えへっ』、と言わんばかりの顔を、揃って向けてくる。まったくへこたれていない男たちに対する腹立たしさがまた湧いてきて、しかしカリカリするのも大人気ないように思えるので、「いいか」、中里は努めて冷静に言った。
「高橋涼介をだな、そんな風に不真面目に扱うな。いくら何でも失礼だろうが」
「えー」、即座にブーイングをしてくる連中を、そういう時だけ一体感発揮してんじゃねえ、と睨んでから、大体、と続ける。
「あいつはただ、群馬が心配なだけで、俺のことなんて、気にもしちゃいないぜ。話すことだって、天気がどうの飯がどうの、どうでもいいことばっかで、プロジェクトのことは俎上にも載せられねえ。本当に俺があいつを、何だ、狙ってるなら、そこは踏み込んでくるだろう、走り屋として。いや、もう走り屋じゃねえのか。まあともかく、だから、俺はその程度の相手ってことで、そもそもあいつは男で俺も男なんだから、何というか、そういう意味で付き合うわけがねえ。お前らはもう少し、現実を正しく見ろ」
 言いたいことを粗方言い、中里はすっきりした気分で息を吐いたが、場の雰囲気が一変していることに気付き、吐いた息を飲み込んだ。肌寒い空気が更に冷え、冬期通行止めの道路のごとき凍てつき加減である。説教じみていたから興醒めでもされたのか、だがそれにしてはメンバー各々複雑な表情であり、中里は訝った。
「……今度は何だ」
「いやー、高スペックだからって、人生何でもうまくいくもんでもないんだなと」
 一人が吐息とともに言い、そうだなあ、と他の面々も深い息を吐いた。
「自分だけじゃどうにもならねえことってあるんだよなあ」
「まあ救いがないっすねえ」
「そういう意味じゃ庶民的だな」
「ちょっと可哀想なくらいだな」
「俺らに可哀想とか思われたくもないでしょうけどね」
「だなー」
 冷え切った空気の中、皆、しんみりとした。こいつら、何の話をしてやがる。中里がその疑念を問いとして発する前に、「や」、つるつる足の男が首をすくめながら片手を上げた。「何かマジ寒くなってきたんで、俺車戻りますわ」
「俺も失礼します」、タンクトップ男が几帳面に頭を下げ、くるりと背を向けた。「しっかし今日はやべーな、大寒じゃねーかってくらい」
「これで大寒なら日本めっちゃ熱帯じゃん?」
「熱帯雨林気候?」
「何かそれ昔やった気します、地理あたりで」
「お前は昔ってほど昔じゃねえべよ」
 そして薄着集団は雑談しながらぞろぞろ場を後にしていき、あっという間に取り残された中里は、
「何の話だよ……」
 発する機会を奪われた問いを呟いて、
「高橋涼介だろ」
 その独り言にすぐさま他人の声が返されたため、うお、と驚いた。慌てて右を見れば、煙草を咥えた慎吾が変わらず立っている。傍には慎吾の赤いEG−6があるから、敢えてよそに行くのも面倒だったのだろうが、しばらく会話にも加わらず、よく黙って留まっていられたものだ。怠惰に見えて努力家であり、薄情に見えて辛抱強い男である。それにしても、またもや高橋涼介だった。
「あいつが何だってんだ、まったく」、中里は慎吾がまだ隣にいることに安心し、愚痴を零していた。「勘違いするのも、いい加減にしてほしいぜ。俺だけならまだしも、そんなんで高橋涼介に迷惑かけちまったら、うちのチームの沽券に関わるじゃねえか」
「迷惑じゃないんだろ」、慎吾は煙草を指に移し、繊細さが窺える平静さの表れた、諭すような口調で言った。「お前よりよっぽど鋭いだろうからな、あちらさんは」
 できればその比較は否定したいところであったが、高橋涼介の洞察力が鋭いのは身に染みていたため、まあそうか、中里は不承ながらも頷いた。高橋涼介は、会って一分も経たないうちに人の体重の変化まで見抜く男であった。メンバーたちに自分と『付き合っている』だの『狙っている』だの思われていることも、とっくの昔に承知しているのかもしれない。
「……納得済みってことか?」
 とはいえその相手が野郎の自分では、不愉快にもなりそうなものだが、その辺りは寛容なのだろうか。納得できず、中里は首をひねった。
「かもな」、どこか投げやりなため息を慎吾が吐く。「まあ、お前があいつに同情するなら、足でもどこでも、剃るのもアリなんじゃねえの」
「何?」
「俺は同情しねえし、内輪の話、わざわざ表に出す必要もねえと思うけどよ」
 煙草を地面に捨てた慎吾は、じゃ、と寒いわけでもないだろうに肩をすくめながら、小さい動きで手を上げて、躊躇なく、シビックへと歩いていった。
「……だから、何の話だ」
 呟いてみるが、もう慎吾は隣にはおらず、返答はない。完全に取り残されてしまったようで、多少の心細さが生まれたが、すぐに中里は頭を切り替えた。とりあえず今日は、自分と高橋涼介が『付き合っている』という、いつチームに発生したか知れない間違いを訂正できたことを、良しとしておくしかないだろう。現状のよく分からない面や、まだ残っていそうな誤解については、これから根気強く解いていくしかあるまい。
「時間、かかりそうだな……」
 この厄介な状況を打破するには、第二当事者となってしまっている高橋涼介に協力を求めた方が、容易で手っ取り早いのかもしれない。しかし、慎吾の言う通り、内輪の話は隠すほどでもないが、わざわざ表に出す必要もないものだ。まあ、仕方ねえ。できる限りは自分の力で対処すると決め、他の件については一旦忘れることとして、中里は一人、峠を走るという本懐を遂げるべく、愛車のGT−Rに戻った。その時点で、『【速報】高橋涼介、中里毅を未だ落とせず』というメールが近隣の走り屋中に行き渡っていたが、中里はそれを知らないまま、長い時を過ごすのであった。
(終)


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