列車は駅に着く



 白いFCと聞いて、赤城レッドサンズの高橋涼介を思い出さない群馬の走り屋はいないだろう。その車を駆り、峠のカリスマ、ストリートキングと謳われ、若くして伝説と化した走り屋は、今では引退しながらも、自らが結成したプロジェクトDという、赤城の白い彗星以上の伝説となりうるドライバー二人をエースと据えた、ハイレベルな関東制圧特化チームを指揮している。
 陽春、満開の桜も風雨に流され、新緑と化学物質の匂いばかりが満ちる夜の妙義山に、その白いFCと高橋涼介は、たまに現れる。そして、妙義山を本拠とする走り屋チーム、妙義ナイトキッズのリーダー格、黒のR32を操る走り屋、中里毅とほんの十分ほど話をして、帰っていくのだ。
 中里と同じくナイトキッズに属しながら、暴走行為からは離れている西田浩志は、妙義山に高橋涼介が現れた際には、軽く会釈をする。
「お前、高橋涼介と知り合いだっけ?」
 それを見た、西田の高校時代からの友人であり、ナイトキッズに同時期に加入し、同時期に暴走行為から離れた嶋孝太郎に、不思議そうに問われた西田は、まあちょっとな、と意味深長に笑ってみせた。


 ◆◇◆◇◆◇


 落葉樹の緑が失われ、地面に積もった枯葉が靴の下で弾ける音をよく聞くようになった、それは去年の十一月の終わりだった。西田は夜、中里と待ち合わせ、自宅に程近い馴染みの居酒屋で、日頃互いに財布の紐を堅くしているために、三ヶ月ぶりとなった外での飲酒を存分に楽しみ、軽口を叩きながら、共に徒歩で帰路についていた。中里は、そのまま西田の家に顔を出す予定だった。西田には結婚して二年半経つ陽子という伴侶がいるが、頻繁に夜遊びに耽っていた身持ちの悪い男を旦那としたその女性は、小柄な割に太っ腹で、時刻が午後十時を回ろうとも、西田の友人を招くことに否は言わないはずだった。何せ、中里を自宅に招くよう言ってきたのは、陽子なのだ。
「しかしこんな遅くに悪ィな、お前を借りちまってるしよ」
 車通りの少ない、街灯がシャッターの下りた店と照らす道を、並んで歩いていると、中里はばつが悪そうに言って、黒いブルゾンの襟元に首を埋めた。別にいいって、と西田は笑った。
「毅クンを連れてこいって言ったの、俺の奥さんだぜ」
「それなら、もう少し早く上がってくりゃ良かったか」
「これでも結構早いだろ。嶋まで入ったら完徹コースだからな」
 まあな、中里はため息混じりに笑う。
 西田と嶋は中里より一つ年上で、チームに入った時期も早い、いわゆる中里の先輩にあたるが、中里とは友人として付き合っている。約四年半前、妙義山で出会った当初から、西田は中里のたくましさ、懸命さ、初々しさを好ましく思い、そのためつい可愛いと言い表して、一ヶ月間徹底的に無視されるという苦い経験もしたものだが、それを乗り越え、今では中里と、チームと関係なく時間を共有し、美味いものを食べ、酒を飲み、車談義に花を咲かせ、人生の何たるかを語らい、笑い合いもする関係を築いていた。
 商店の途切れた右手側に、木々に囲まれた公園がある。西田と中里は、そこへ入った。一直線に突き進めば、西田の自宅まで最短距離だった。
 たまに素行の良くは見えない若者たちのたまり場にもなっているその公園は、その日がたまにだったようで、西田と中里が足を踏み入れてすぐに、生地が半分以上は余っているようなジャージやパーカー、ジーンズを身につけている男たち、三人が、砂場に近い木製のベンチの前に立っている男に、日本語と判じにくい言葉で、恫喝を加えている光景が見えた。
「どうする」
 公園の入り口で立ち止まり、西田は中里に尋ねた。アルコールをしこたま入れた肉体で、大立ち回りはできない。
「無視は、できねえだろ」
 前方を、ベンチの前に立つ男と、それを取り囲む原色の服を着た男たちを見ながら、気まずそうに中里は答えた。西田の想像通りの答えだった。峠にいる時、走り屋である時は、乱暴な物言いもしょっちゅうだが、日常的に喧嘩を売り歩くことはしない中里は、それでも絡まれている人間を見過ごせない、お世話焼きな面を持っている。そんな性質を、中里自身はあまり好いていないようで、世話を働かずにはいられない状況に遭遇すると、こうして何とも気まずそうな雰囲気を醸し出し、それは西田に中里を、容貌が濃く厳つく、立ち姿も男らしいその男を、心底可愛いと思わせるだけの、いじらしさを引き立てた。
 腹の奥に、中里が傍にいる幸福と、久しぶりに、やんちゃな事件に巻き込まれそうな期待を感じながら、ああ、と笑って西田が頷くと、中里は気まずそうなまま、ぎこちなく頷いて、真っ直ぐ歩き始めた。
「こんばんは」
「あァ?」
 あと数歩で手を伸ばせば届く距離、後ろから声をかけた西田に、三人の男は振り向いてきた。染められた髪の下の顔立ちは揃って幼いが、高校生には届いているように見えた。左の男は肌がつるつるとしており、あとの二人は額から頬から顎まで、全体がにきびに侵食されており、三人ともがスニーカー、耳にはピアス、首には安っぽいネックレスをかけている。田舎のヤンキーって、都会派決めたくなるもんだよな、多分、思いながら、西田は続けた。
「何やってんの、キミら」
「はあ? 関係ねえだろおっさん」
 真ん中の、金髪をふわふわと立たせた少年が、甲高い巻き舌で返してきた。その少年に肩をすくめてみせて、西田は中里を見た。まだ二十代半ばとはいえ、威勢の良い十代の少年におっさんと言われたところで、西田は特に何も感じないが、中里はショックを受けて、共感を求める視線を送ってくるかもしれない、と思ったからだ。
 だが、中里は西田を見ていなかった。真っ直ぐに前を見続けていた。西田は不思議に思い、中里の見ている方を見た。苛立たしげな、どうにもならない自分や世界への怒りをお門違いにぶつけてくるように、睨みつけてくる三人の少年たちの向こう、ベンチの前に、少年たちに絡まれていたはずの男が、そのまま立っている。細めの体の線に合ったグレーのジャケット、上品なオフホワイトのタートルネック、長い足にはブラックジーンズ、年の頃は西田や中里と同じ、しかしその顔は、比較にならないほど端整で、美しく、銀幕のスターのような、儚くも煌やかな雰囲気があった。
「浩志」
 それが誰か気付いた西田に、中里は小声で言った。
「車まで送ってやれ。俺はあとからお前の家に、直接行く」
 おそらくもっと早くにそれが誰か気付いた中里へ、西田は数秒考える振りをしてから、オッケー、と言った。頼んだぜ、中里が言い、それで、互いの役目は決まった。
 中里が、一歩前に出て、少年たちの、その年齢特有の、純粋に曲がった視線を受け止める。
「関係なくねえよ。そんなにでけえ声で喚かれたんじゃあ、近所迷惑だ」
「何だてめえ、意味分かんねえし」
「日本語が分からねえか? まあ、人間未満でもおかしくねえツラしてるからな、お前ら」
 中里の言い方には、峠で、チームのメンバー以上の乱暴者と対する時のような、太い棘があった。毒々しい物言いは、同じチームにいる、自称妙義最速のダウンヒラー、ひねくれた性格の庄司慎吾が得意とするが、その庄司に度々口論を吹っかけられ、受けて立っている中里も、なかなかの煽り文句を身につけていた。
「んだァ」
 少年たちは中里を睨みつけ、一歩足を前に出す。後ろにいる、映画スターのような、二枚目の男も、中里を見た。その顔は、意外そうに緩まっていたが、それでもなお美しさは削がれていなかった。
 少年たち、三人の意識がその二枚目の男から離れたのを見計らい、中里は腰を屈め、一番右の男に突っ込んでいった。
「うわッ」
「てめ!」
 タックルだった。足を取り、右の一人を倒れさせる。残りの二人は中里に飛び掛ろうとして、中里は後ろに体を引きそれをかわす。西田はその隙に、中里と三人の横を突っ切ると、ベンチの前で立ち尽くしている二枚目の男の腕を取り、その男の、見開かれた目、驚きの露わになった顔を最後まで見ずに、公園の出口へと駆け出した。

 後ろからの誰かの叫び、足音が聞こえなくなっても、一分ほど走り続け、追いかけてくる人間がいないことを確認し、24時間営業のコンビニの前で、西田は立ち止まった。
「あー、疲れた」
 二枚目の男から離した手を膝につき、一息吐く。あの三人は中里がうまく引きつけ撒いただろうから、もう案ずる必要はないと判断し、酔っ払いが全力疾走するもんじゃねえな、ったく、西田は喘ぎながら呟いて、ゴミ箱の横にしゃがみ込み、重ね履きしたズボンにシャツとセーター、かさばる冬用のコートは、走るのに適した格好ではないと痛感した。
「あの」
 顔に噴出し、風に冷やされる汗を西田が拭うと、横から低い、遠慮がちなようで、芯の通った声がした。目をやれば、そこにはブラックジーンズに包まれた細い足が見えた。足先には黒いローファー。西田は一度落とした視線を、その足に沿って上げた。コンビニの電燈の逆光となっている、茶色がかった黒髪の下、男の顔は、西田と同じ距離を同じペースで走ったにも関わらず、少し歪んでいるだけで、息も、服装もそう乱れていない。
「ごめんごめん」
 西田は片手を軽く上げ、立ち上がった。向き合うと、いえ、と明瞭に言った男のこめかみから顎を、一滴汗が伝った。汗臭さを感じさせないその透明な汗を見て、アラン・ドロンみたいだな、あの映画の、でもあれって貧乏人の役だっけ、そこまで思い、二枚目の男の顔が、疲労ではなく、暗い感情で曇り始めたことに気付き、西田は肩をすくめてから尋ねた。
「それで、FCはどこですか?」
 二枚目の男、レッドサンズの高橋涼介は、驚いたように、長いまつげに囲まれた目を瞬いた。FCですよ、と西田は続けた。
「停めてる場所まで送ってきます、俺飲んでるから歩きだけど、さっきの奴らがまた出るかもしれないし、一緒の方が安全でしょう。ここでタクシー呼んで待つってのも、時間かかるだろうしね」
「中里を、放っておけと?」
 高橋涼介は、不審そうに問い返してきた。西田と一緒にいた、少年たちに突っ込んだ男が、妙義ナイトキッズの中里毅であることは、高橋涼介にも分かったらしい。放っておく、そんな風に中里を気にかける高橋涼介が、今のナイトキッズのメンバーのようで、西田は高橋涼介を見て、笑ってしまった。高橋涼介は、ますます不審そうに眉をひそめ、西田を見る。いやごめんごめん、再び片手を上げ、咳をして、背を伸ばし、西田は高橋涼介を見返した。
「『中里』なら、大丈夫ですよ。撒く役担当するのはいつものことだ、ヘマなんてしません」
「なぜそう言い切れるんです」
 高橋涼介の口調は咎めるようで、目つきにはなかなかの険があった。何でかな、西田は不思議に思った。高橋涼介が、中里を気にかける様は、まるで今のナイトキッズのメンバーのようだった。かつて、千野誠のチームとしか周囲に認識されていなかったナイトキッズで、千野に修行という名の嫌がらせを受ける中里を笑いものにしていたメンバーではなく、今の、妙義ナイトキッズで、中里をリーダーとして慕うメンバーが、中里の無事を案じているような、レッドサンズの高橋涼介の様子だった。医者目指してんだっけ、適当な理由を思い浮かべながら、なぜって、西田は言った。
「俺は付き合い長くてね、チームに入った時から知ってるんだよ、『毅クン』のことは。その頃の毅クンはもうとびっきり可愛くて、いや今も可愛いんだけど、何ていうかこう、峠慣れしてない感じがムンムンしてて、思わず抱き締めたくなるっつーの?」
 当時の中里を思い出し、酔いの渦中にある西田はつい親しいメンバーと、例えば嶋孝太郎と話すような勢いで、中里について語っていた。高橋涼介はといえば、目を見開き、呆然の態となった。それを見て取り、西田は話を戻す合図として、咳払いをした。
「まあだから、俺は毅クンがああいう小便くせえガキの注意をどう引きつけて、追われた時にどう撒くか、よーく分かってるってわけです。君には想像できないだろうけどな」
 経験の差による自信と優越感を含ませた笑いを送ると、高橋涼介は綺麗に生え揃っている眉の周囲に、わずかな戸惑いを表した。その全体像を西田が考える前に、ズボンのポケットに入れていた携帯電話が震動し、誰かからの着信を知らせた。
「悪いね」
 高橋涼介に断りを入れ、液晶の表示を確認すると、中里からだった。ウワサをすれば、と電話に出る。高橋涼介は、嫌な顔はしなかった。
「毅クン?」
『ああ、浩志、高橋涼介はどうした』
 いつもよりも荒い息遣いで、掠れた声で、いの一番に中里は言った。うん、と西田は一つ間を置いてから答えた。
「一緒にいるよ。何ともない。そっちは?」
『あー、こっからだと戻るのに、十分くらいかかっちまいそうだ。任せていいか』
「おう。まあゆっくり帰っていらっしゃい」
『悪ィな、頼んだぜ』
 安堵の息に、少しの笑いを混じらせながら中里は言い、通話を切った。携帯電話をポケットにしまい、西田は高橋涼介を見た。嫌な顔はしていないが、良い顔をしているとも言えなかった。
「まあそういうわけで、毅クンは無事です。それで、FCは?」
 愛想良く、西田は言った。高橋涼介は、白い顔を、コンビニの外壁に向けた。
「家ですよ」
 高橋涼介の声は、空気の中を、浮き上がっているように聞こえた。
「はい?」
「列車で来たんです。そして、歩いてここまで来た」
 言ってから、高橋涼介は西田を見た。整った、一切の歪みのない、白い顔だった。電燈が浮き立たせたその白さが、感情を裏側に押し込めているようだった。西田は、高橋涼介の全身を見た。インナー、アウター、ジーンズ、ローファー。十一月の終わり、夜、駅から徒歩一時間の距離を歩くのに、適している格好には見えなかった。だからこそ、西田も中里も、高橋涼介がFCでこの近辺まで来たことを、疑いもしなかったのだ。だがどうやら、実際の事情は違うらしい。
「んじゃ、タクシー呼びますか」
「いえ」
 西田の提案に、高橋涼介は短く返した。西田を見たままだった。
「中里を待ちます」
 高橋涼介は、言い切った。金持ちとして有名なこの二枚目な男にとって、タクシー代くらい、屁でもないだろう。それでも高橋涼介は、ここで中里を待つという、絶対に覆されないと思わせられる、堅固な言葉を吐いた。高橋涼介が、そうまで中里を気にかける理由が、西田にはしかとは分からない。群馬の走り屋としての助けられたことへの罪悪感か、医者の卵としての助けることへの義務感か、単なる気まぐれか、だが、高橋涼介の、透明なガラスの後ろに、錆だらけの分厚い鉄板を控えさせているような、強い決意と、強すぎる危うさを含んだ目には、感じるものがあり、じゃあ、と西田は右手の人差し指で、コンビニの入り口側から、左斜め前を示した。
「うちで待とうぜ。どうせ近いからさ、もうすぐそこ、目と鼻の先」
 ね、と、中里に派手と表される顔を、派手に動かし西田が笑いかけると、高橋涼介は、意外そうに眉を上げて、唇で躊躇を表した。
「それは」
「俺は西田」
 高橋涼介の言葉を遮り、西田は一歩コンビニから離れ、振り向き、高橋涼介に笑いかけた。
「西田浩志っての。一応妙義ナイトキッズのメンバーね」
「一応?」
「峠行っても走らねえから。まあそれでも、一応メンバーなんですよ」
 笑いながら、高橋涼介を見たまま後方に二歩進み、止まって言う。
「じゃ、行こうか、高橋涼介サン」
 高橋涼介は、眉を半端に上げたまま西田を見た。まあそりゃ女の子も騒ぐよな、思いながら、西田がもう一度笑いかけると、高橋涼介は観念したような、老成した笑みを浮かべ、ああ、と頷いた。

 二階建てのアパートは、外壁がダークブラウンで、与える印象通り、比較的新しい建築物だった。2LDKで、子供ができてもそのまま住むに無理はないし、駐車場に妻と自分の車二台を置けるところが西田は気に入っていた。
「ただいまー」
「おかえり、ヒロ君」
 二階の左手、鍵を開けドアを開き、玄関に上がりコートをフックに掛け、リビングダイニングに出ると、西田の妻、陽子が出迎えた。ライトグレーのロングワンピース、その下に黒いスウェットは、いつもの部屋着だ。
「お邪魔します」
 西田の後ろから続いて現れた高橋涼介を見て、あら、と陽子はセミロングの髪を揺らし、化粧に覆われていない、小さめの目をぱちぱちさせた。陽子、と西田は高橋涼介を手で示した。
「こちらは高橋サン、追加のお客さんな」
「ああ、へえ」
 陽子はその場に立ったままぼんやり言い、間が抜けた顔で、高橋涼介を見上げる。来る途中、知り合いが一人増えるとは電話しておいたが、正体は知らせていなかったから、陽子はナイトキッズのメンバーのような、どこかが必ずいびつな風貌の男が来ると想定していたのだろう。それが、長身美形の高橋涼介だ。驚くのが当然だった。見惚れてはいないので、西田は少しほっとした。
「夜分遅くに申し訳ありません」
 高橋涼介は、不躾な視線を送っている陽子にも、慇懃に頭を下げる。陽子は我を取り戻したように、再び目をぱちぱちさせ、うわあ、と感心したように頬に手を当てた。
「ヒロ君の夜の知り合いで、こんなに格好良くて礼儀正しくて普通な人、初めて見たー」
「高橋サン、これが俺の素敵な奥さん、陽子ちゃんね」
 まだ多少驚きが尾を引いているらしい陽子の肩を抱きながら、西田は高橋涼介に紹介した。高橋涼介は、完璧な微笑を陽子に向けた。
「高橋涼介です。よろしく」
「西田陽子です、まあどうぞどうぞ、何のお構いもできませんが」
 陽子はにこやかに言って、部屋の奥を示した。高橋涼介の笑みは、自然に揺らいだ。
「あ、お茶漬け食べる? 昨日のマグロ残ってるんだよね」
 台所へ足を陽子が、振り向き言った。頼んます、と返し、高橋サンは、と西田は聞いた。いえ、と高橋涼介は微笑した。
「お構いなく」
「お腹空いてません?」
 続けて聞くと、高橋涼介は微笑を消し、そんなことを考えてもみなかったような顔をして、眉間にくっきり皺を作り、数秒後、感慨深げに言った。
「……空いてますね。少し」
「なら食べてってくださいよ。陽子の料理は絶品ですから。素材がね」
「ヒロ君、調子乗るんじゃないわよー」
 台所から飛ばされる声に、すんません陽子様、と西田は笑って返し、重ね履きしたズボンとセーターを脱ぎながら、高橋涼介にはリビングのソファを勧め、自分はカーペットに座った。家庭的な海外ドラマの字幕版を流しているテレビを横目に、テーブルの上に置いてある煙草を手に取り、一本咥える。そこで、あれ、と気付き、西田は煙草を一旦口から外して、ソファに自然に座った高橋涼介を見た。
「高橋サンて、煙草大丈夫?」
「ええ。弟が吸ってますから」
「あー、そうか」
 二ヶ月ほど前の、高橋涼介の弟が絡んだ峠での出来事を反射的に思い出し、西田は苦く笑っていた。高橋涼介が、わずかに目を細めたが、西田はそれを見なかったことにして、咥え直した煙草にライターで火を点け、いや、と煙を吐き出しながら続けた。
「うちの奥さん、やめろやめろって言うんですけどね。体に悪いってさ、看護婦って知識あるからねえ」
「奥さん、看護士をされてるんですか」
「ええ、まあ皮膚科ですけど」
 西田が笑って言うと、高橋涼介は小さく口角を上げた。天賦の才を有するであろう伝説的な元走り屋は、山から下りれば、人当たりの良い紳士にもなるらしい。そんな男が自分と妻の住む家に客として訪れていることを、高橋涼介なんだもんな、と西田は改めて不思議に思い、その原因、高橋涼介の気を引いたものと、それに関わるものを一つ思い出して、そうだ、と点けたての煙草を灰皿に押しやった。
「折角だから高橋さん、取っておきのもの、見せてあげますよ。あなたはチームの奴じゃねえし」
「取っておき?」
 疑念の声を上げる高橋涼介に、ちょっと待ってて、と言って、西田はリビングに据えている書棚から、厚いファイルを抜き出し、テーブルに戻り、そこに置いた。その黒い表紙に印字されたゴシック体のタイトルに、高橋涼介は目を凝らした。
「……『中里毅コレクション』」
「イエス」
 笑って頷き、西田はいつもと同じように、うきうきとそのアルバムを開いた。

 最初のページには、夜の山で、車を背にし、七人の男が立ち、各々自由にポーズを決めている、引き伸ばされた写真が一枚、黒い台紙の中央に貼られている。光源が適切に確保されているため、全員の顔がはっきりと見える。
「これは結構貴重でね。毅クンが山に来てすぐの頃のだから、四年、半前かな」
「中里が」
「ほら、この真ん中の、ものっすごくガン飛ばしてる奴」
 西田は写真の中央に位置する男を、指で叩いた。白い、くたびれたTシャツと、ストレートのブルージーンズ、スニーカーを身につけた、短い黒髪、顔の輪郭、鼻筋もまだ柔らかく垢抜けていない、少年と青年の間に留まっているような男、それが四年半前の、中里だった。
「この時の毅クンって、走り屋のはの字も知らなくてさ、馬鹿にされないようにって気張ってて、それがまた無理してんの見え見えで、けど毅クンは頑張り続けるんだよ。まあ毅クンは今でも頑張ってるけど、あのくらい峠に馴染んでない毅クンったら、これでしか見れねえな」
 写真の中里は、至極居心地悪そうに、幼さの残る顔をしかめている。ただ、その場にいなければならないことへの戸惑いを、苛立ちを、今の、走り屋として生きている中里はもう、夜の峠で感じはしないだろう。
「中里は、自発的に峠に来たわけではなかった」
 独り言のように、高橋涼介が言った。うん、と西田は頷いた。
「無理矢理引っ張られて来てね、千野さん、この人に」
 写真の、しかめ面の中里の右肩を引き寄せている、背が高く、耳にかかる金髪、蛍光グリーンのタンクトップと、白い折り目のついた半ズボン、サンダル、そこから伸びている手足も首も細い、痩せぎすな、ただ、笑顔は力強く鮮烈な男を、この人、と西田が人差し指でぽんぽんと叩くと、千野誠、と高橋涼介は呟いた。西田は驚き、高橋涼介を見た。
「知ってます?」
「三、四年前、よく名前を聞いたよ。でも、顔をちゃんと見るのは初めてだ。まさかナイトキッズにいたとはな」
 高橋涼介は何かを抑えるように目をすがめながら、アルバムを見ている。西田は苦笑した。
「あの頃うちはナイトキッズってより、千野さんのチームだったからなあ。もう独壇場。良くも悪くもアク強くてさ、この人、他のメンバーが目立たねえの何のって。みんなステッカーも貼らねえし」
 言うと、高橋涼介も苦笑をした。千野誠は秩序を嫌い無法を好んでおり、本人は警察の網に引っかからない程度をわきまえていたが、取り巻きの暴走を抑えることもせず、慕っている人間以外からの評判は、大層ひどいものだった。高橋涼介も、その悪名は知っているのだ。
「あの頃FDに乗っていただろう、この男は」
「そう。毅クンにS13譲った後にね」
「中里に?」
「うん。っていうか押しつけたって感じだけど」
 西田はアルバムをめくり、で、と右のページを指で叩いた。
「これは千野さんのS13押しつけられた時に、千野さんに命令されて撮ったやつと、その後に個人的に撮ったやつ。違い、分かりやすいでしょう」
 右のページの上に貼ってあるのが、千野の指示で嶋が撮った写真だ。左向きに停められた、よく見れば各所が歪んでいる、黒いS13の前に、中里が立っている。今よりも短い髪は自由に跳ねていて、眉間も唇も引き絞られ、眼差しは角立っており、寝起きのように不愉快げで、少し所在なさげだ。何で俺がこんな写真を撮られなくちゃいけねえんだよ、という不満を、全身で訴えかけてきているのが分かる。
 その下は、一人になった時の、中里の写真だった。千野が去ってもカメラを仕舞っていなかった嶋は、千野から解放された中里が、改めてS13に向き合ったところを、つい撮って、それに気付いた中里に、カメラを奪われそうになっていた。中里が恥ずかしがるほどに、その写真には、傷だらけのS13のボディに、慈しむように手を当て、はにかみながら、嬉しそうに、小さく微笑む、無警戒、自然体の中里が捉えられていた。
「素直だな」
 下の写真に目をやりながら、高橋涼介が静かに言う。そ、とカーペットに後ろ手をついて、西田は笑った。
「そこが毅クンのいいところだよ。写真でも、顔見れば何考えてんのか簡単に想像ついちまう。だから俺、これを見るのが好きでさ、この頃の毅クンはどういうこと考えながら生きてたのかって想像すると楽しくって、今でもどっかに毅クンの写真眠ってないか探してて」
 にやけながら語っていた西田は、何となく動かした視界に、俯きがちにアルバムを見たままの高橋涼介の、静かな顔を見つけ、そこで急に、冷静になった。
「ごめんごめん、いつもならこういうの、狭いダチにしか言わねえんだけど、今わたくし、結構酔っておりましてね。キモくて悪いね、高橋サン」
「いや、分かるよ」
「うん」
 言うだけ言って満足し、考えずに相槌を打った西田は、数秒後、高橋涼介がさらりと発した言葉の意味を理解した。西田が思わずまじまじと見ても、高橋涼介は、アルバムを見たままだった。分かる、と高橋涼介が言ったのは、西田が酔っているということかもしれないし、気持ち悪いということかもしれない。だが、アルバムに据えられている高橋涼介の、真剣さが、強靭さと美麗さを際立たせている顔は、西田がそのアルバムを育てる度に、眺める度に感じる、中里毅という、一滴の汗から汗臭さを感じさせる、可憐な男への、根源的な愛着と、似たような感情、意識に基づいているように、見えた。
「高橋さん、この人の趣味に無理に付き合わなくてもいいですよ」
 トレイを持ってきた陽子が、手際よくテーブルに、茶漬けの入った茶碗を置き、それを高橋涼介に勧めながら、笑って言う。
「私は分かるけど、普通じゃありませんから」
「ひでえな陽子様、無理に付き合わせてなんかいませんって。俺も節度というものはよく分かっているつもりです」
「そんなこと言って、いつも嶋君に変な人扱いされてるの、誰だったっけ?」
「あいつは頭が固いんだよ、毅クンの魅力が何かも分かっちゃいねえし」
 ため息を吐き、醤油漬けのマグロと、海苔、わさびと、煎茶に浸ったご飯を頬張る。さっぱりとした口当たりと、すっきりとした味わいを、さすが俺の奥さん、料理の腕だけは確かだ、と西田が堪能している間、高橋涼介は好感の持てる微笑を浮かべながら、陽子の茶漬けを褒め、陽子は嬉しそうに笑い返すと、アルバムに収められている写真の解説を始めた。
「このお花見の時の毅君、凄かったらしいんですよ」
「凄かったんですか」
「ええ、凄かったんです。ヒロ君の伝聞ですけど」
 笑顔の陽子に視線を送られて、西田は茶碗を持ったまま、そうそう、と、ブルーシートの上に、泥酔した男たち五人と中里が転がっている、桜がどこにも見当たらない花見の写真の解説役を引き継いだ。
「丁度ベテランさんが引退って時だったんだよ。だからみんなもう羽目外しまくってて、毅クンも流れで飲まされまくって完全潰れて、最後にゃ千野さん方に全裸に剥かれちまってね」
 それを聞き、高橋涼介は一瞬目を見開いたのち、鼻白んだように眉をひそめた。西田は笑って肩をすくめ、まあ、と続けた。
「現場写真もバシバシ撮られたんですが、それらは後日、毅クンの手ですべて闇へと葬り去られましたとさ」
「もったいないよねえ、一枚くらい残しといてくれれば良かったのに」
 残念そうにしみじみとため息を吐く陽子を、さすが俺の奥さん、このノリも確かだ、西田が思いながら、額に入れて飾ってやったのにな、と頷くと、顎に手を当て、再びアルバムに目を落とした高橋涼介は、堪えがたそうに、小さく笑った。
「お二人とも、中里が好きなんですね」
 そう言って、高橋涼介が西田と陽子へ向けてきたのは、嘲弄を一切含まない、納得の敷き詰められた、爽やかな笑みだった。その、普遍的な芸術性を有する顔に、西田は同調を感じ、それを笑顔で表した。
「俺たち、毅クンのファンだから」
 な、と西田が陽子を見ると、私はこの人には敵いませんけどね、と陽子は清々しく笑い、高橋涼介は、無理なく微笑んだ。

 ドアチャイムが、慎ましやかに一度鳴った。膝を上げようとした陽子を、俺が出るよ、と西田は制し、腰を上げ、玄関に向かった。
「いらっしゃい」
 玄関のドアを開けた先には、ブルゾンのポケットに手を入れて、真っ直ぐ立っている中里がいた。若干皮脂で光っている顔を、よう、と親しみで緩め、靴を脱ぎ、部屋に上がった中里を、まあどうぞ、と西田は先に通した。
「……高橋ィ?」
 リビングの、ローテーブルの前で立ち止まった中里が、低め損なったような、素っ頓狂な声を上げる。
「やあ、こんばんは」
 それを見た、ソファに座ったままの高橋涼介は、紳士的な挨拶と、気の良い笑みを、中里に向けた。西田が横に並んでも、中里はソファの上の高橋涼介に目を据えたまま、信じがたそうに、顔を歪めている。
「いや、お前、何でここに……」
「久しぶり、毅君。お茶漬け食べる?」
 台所に引っ込んでいた陽子が、顔を出して中里に声をかけ、え、あ、はい、と中里は台所へ振り向くと、陽子に慌てて頭を下げた。
「食べます、いえ、はい、陽子さん。お久しぶりです」
 動揺で言葉の怪しくなった中里の肩を、まあ座りなさいな、と西田は叩いた。中里は少しの間硬直していたが、渋々といった態でカーペットに腰を下ろすと、何なんだよ、と西田を恨めしげに睨んできたので、何って、西田は説明した。
「高橋サンが毅クンのことを心配してたから、うちで待っててもらったんだよ」
「心配って、何が」
 中里は不可解げに顔を歪める。まあこんな感じです、と思いながら西田が高橋涼介へ首を傾けると、高橋涼介はなるほどと言うように、苦笑に似た、それよりは毒気のない笑みを浮かべ、首を小さく横に振った。
「あんな形で別れたら、無事かどうかは気になるだろう。怪我はないか」
 笑みの余韻だけを残した高橋涼介が、中里にそう尋ねる。中里は気まずそうに頬を強張らせると、ねえよ、と荒れた口調で言い切った。
「あのくらい、殴り合いしたわけじゃねえし。それよりお前は大丈夫だったのか」
「金をせびられていただけだ。手出しはされてない」
「そうか」
 早口に言い、落ち着かない様子で床を見ながら頷いた中里が、高橋涼介から逸らした目を、テーブルを素通りし、西田に向け、数秒後、顔ごとテーブルに戻した。そこで、三年前の花見の写真が載っているアルバムを、中里は手早く引っ手繰ると、それを閉じて、テーブルの下に押し込み、勢いそのまま、西田の胸倉をがっちり掴んだ。
「浩志ィ!」
「しーっ、しーっ」
 叫んだ中里へ、西田は指を唇に当て、声を抑えるように言外に言った。もう夜中と言える時間帯だ。中里は大きく開いた口を、ぱくぱくと開け閉めしたのち、西田の胸倉を離しながらも、顔は寄せたまま、お前ッ、と囁き声で叫ぶ。
「誰にも見せるなっつっただろうがッ」
「残念ですが毅クン、キミはチームの誰にも見せるなと言っただけで、それ以外に見せるなとは言っていなかったのですな、はっはっは」
「てめ、この……」
 西田は胸を張って笑い、顔に血を上らせ、歯を噛み締めている中里を、深い動揺と羞恥に襲われ、怒りを適切に表現できなくなっている、自分と一つしか歳の変わらない、自分よりも顔立ちの無骨な男を間近で眺め、やっぱり可愛いよな、と思った。
「中里」
 西田と中里の間に、突然入ってきたその男の声は、何かを知らせているような調子を持っており、西田は同じように気を引かれただろう中里と共に、声の主、長い手足を窮屈そうに折り曲げながら、ソファに座っている高橋涼介を向いた。
「可愛かったぜ、昔のお前もな」
 聖人君子たりそうな、賢く端整な男は、西田と中里の視線を受け止めると、性悪な笑みを浮かべながら、そう言った。ぽかんとした中里の顔が、一瞬にして真っ赤に染まる。それを見た高橋涼介が、満足げに、愉快そうに笑うが、中里は先ほど、あのコレクションを西田が高橋涼介に見せたと気付いた時よりも強く、甚大にうろたえているらしく、呼吸困難になったように大きく口を開け閉めし、一言も発せられないまま、片手で顔を覆ってしまった。
 西田は珍しいものを見た思いだった。西田と陽子の前で、あくまで紳士と振る舞っていた高橋涼介が、中里に対しのみ、魅力的な腹黒さを向け、そのせいで中里が、息継ぎも疎かになるまで狼狽している、それらは西田にとっては初めて見る光景だった。初めて知る、レッドサンズの高橋涼介の、人間的、不純な一面だった。初めて知る、ナイトキッズの中里毅、過去いかなる人間にからかわれ動揺し言葉を失ったとしても、自らの顔を隠すことなどしなかった中里、西田が五年近く仲間として、友人として付き合ってきた男の、愛くるしい、貴重な一面だった。
「はいどうぞー」
 すげえもんだな、白い彗星サンは、西田が感心していると、事態を知らない大らかな陽子が茶漬けを運んできて、中里の前、アルバムの排除されたテーブルの上にそれを置いた。
「はい! いただきます!」
 途端に威勢の良い返事をした中里は、茶碗と箸を手に取って、八つ当たりをするように、茶漬けをかっ食らう。
「ぐっ」
 そして、分かりやすく、むせた。
「え、どうしたの」
「おい、大丈夫か」
「んぐっ、んっ、何でもねえ、ない、げほっ、ない、ないです」
 心配そうに声をかける陽子と高橋涼介に、咳き込みながらもそう健気に言い返す中里の背中を、西田は優しくさすってやりながら、慌てなくても飯は逃げてかないぜ、毅クン、と親切心から教えたが、返されたのは、憤怒のこもった睨みだった。

 腰を上げ、茶碗を片付けようとする高橋涼介を、同じく腰を上げ、俺が後でやるからいいよ、と西田は制した。まだ西田は食べ終わってもいなかった。高橋涼介はすまなそうに、しかししつこくもなく引き下がると、これで失礼します、とジャケットの襟に手をかけ、形を整えた。
「長居してすみません」
「いえいえ、帰りどうする? またてくてく歩くのも大変だろ」
「歩くって、FCじゃねえのか?」
 西田の問いに高橋涼介が答える前に、立ち上がった中里が、横からどこか間の抜けた声を上げた。高橋涼介は、意表を突かれたように左の眉を上げ、中里を見た。中里は不可解そうに顔をしかめ、西田を見たが、西田は中里の疑問を高橋涼介が自ら解くと思っていたので、何も言わず、ただ肩をすくめた。中里は、不審を色濃くして、高橋涼介を見、高橋涼介は中里を見続けたまま、左眉を元の位置まで戻して、少しの間その場に落ちた沈黙を、列車だよ、と、低いながらも軽い声で破った。
「大学の関係で、飲み会があってな。歩いてたんだ。家には帰りたくなかったから」
 道が通行止めだった、とでも言うように、高橋涼介はそれを言った。西田には語らなかった、自宅からほど遠いはずの、駅から徒歩一時間の距離にある公園にいた、意外な、それでいてもっともらしい理由を、高橋涼介は中里に対し、自然に告白していた。
「別に何か嫌なことがあったとか、そういうわけじゃない。ただ、何だか急に……」
 言葉を切り、何かを探すように目を細めた高橋涼介が、この場には、2LDKのアパートの一室には、探しているものは何もないと気付いたように、ため息を吐いて、頭を横に振る。
「関係ねえな、こんな話。悪い。まだ酔いが覚めてないらしい」
「いや」
 中里は高橋涼介の語尾に被せ、明確にそう否定したが、その先に言葉はなかった。それでも何か言いたげに、顔を歪めている中里へ、他人行儀に微笑んだ高橋涼介を見た瞬間、西田は強い違和感を覚えた。
 中里がナイトキッズに入った時から、中里に関わる者と、それに関わる中里を見てきた西田には、毒にも薬にもならない笑顔を作ったその男が、強く危うい目をしながら中里を待つと言い、真剣な顔で過去の中里の写真を見、気楽そうに中里と接していた高橋涼介が、中里をどう思い、その男を中里がどう思っているかということは、感覚的に理解ができる。無視できるほど冷たくもなく、忌まわしくもないはずのその思いを、高橋涼介が今、つまらない建前で潰そうとして、中里がそれを、つまらない建前で許そうとしていることも、西田は感じ取り、そりゃ違うだろ、と思って、毅クン、と言った。
「もう遅いしさ、お宅に高橋サン、泊めてあげれば?」
「……はァ?」
 振り向いた中里が、驚いたように目を見開き、顎を突き出す。笑みを消した高橋涼介も、中里よりは歪んでいないが、似たような質の顔になっていた。
「うちでもいいんだけど、夫婦の家だと気ィ遣うでしょ。その点、毅クンなら一人暮らしだし、言うことないし」
 西田が肩をすくめて続けると、あるぜ、と目を怒らせた中里が詰め寄ってくる。
「お前浩志、何言い出しやがる」
「高橋サンはどう?」
 掴みかかられないように、中里から半歩離れ、西田はそう意見を聞くことで、高橋涼介に決定権を与えた。高橋涼介は、瞬時にそれを理解したらしく、そうだな、と名案を得たように、凛々しく答えた。
「中里が良いのなら、是非」
「は?」
 頓狂な声を発した中里を、高橋涼介は教祖の裁定を待つ信者のようにじっと見詰め、中里はその視線から逃げたそうに西田を見たが、ってことですが、と西田が決断を促すと、幾度も視線を西田と高橋涼介の間でさまよわせた末に、唸りに似たため息を吐いた。
「……泊めるだけだぜ」
 その言葉を聞いた高橋涼介が、かすかな嫌らしさを含んだ笑みを浮かべる。
「助かるよ」
「クソ、分かんねえ奴だな、お前」
「よく言われる」
 笑みに諦めを漂わせ、高橋涼介は中里の肩越しに、西田を見た。
 困っている相手、それも、暖かい感情を抱いている相手を、無視してしまう中里は、中里らしくはないのだ。拒絶されて渋々身を引くか、可とされて世話を焼かざるを得なくなるか、どちらかこそが、西田の知る中里の取るべき行動だった。そのどちらかを決める、その決断を、西田は高橋涼介に委ね、それに気付いた高橋涼介は、中里に世話を焼かれることを選び、諦めの中に、同調を匂わせた笑みを、西田に向けた。
 西田は高橋涼介に、それと似た笑みを短く返し、リモコンでテレビを消し、台所で何やら働いている妻へ声をかけた。
「ってわけで陽子さん」
「はいはい、行きましょうか」
 空気の読める西田の妻は、笑いながらリビングに出て、玄関に近い棚の小物掛けから車の鍵を取る。中里は、再び顔を驚きで歪めた。
「陽子さん?」
「送ってあげるよ、毅君。私今日はまだ飲んでないから」
 からりと笑う陽子の横を、西田はトレイを台所に運び、載せた食器を流しに下げ、うちの奥さん優しいよな、しみじみ言った。
「惚れ直しちゃうよ、何回でも」
「そうでしょうそうでしょう、もういくらでも惚れ直しなさい」
 いつもの会話を交わし、西田は陽子と外出の準備を終えた。中里は戸惑った様子で高橋涼介を見上げ、高橋涼介は不思議そうに中里を見下ろしながら何かを囁いて、中里の顔を赤く塗っていた。
「毅クーン、俺にさようならはー?」
 陽子のライフの後部座席に、中里がいることはよくあるが、その隣に高橋涼介がいるというのは初めてで、見慣れたところで珍しいものは珍しく、西田は助手席からちょくちょく後ろを向いて中里に声をかけてみたが、完璧に無視され、降りる時ですら、中里は陽子には丁重に感謝の言葉を述べ、何度も頭を下げたものの、西田のことは一つ睨んで終わりだった。開けた窓から半分身を出しながら呼んでみても、アパートへ向かう中里は頑なに振り向かない。
「写真の恨みは恐ろしいな。高橋サンもお気をつけて」
 横でまだ立っていた高橋涼介に、西田が教訓を語ると、高橋涼介は少し困ったように、だが納得するように笑い、西田へ手を差し出してきた。
「今日はありがとう。おかげでとても楽しい時間を過ごせた」
「そりゃ良かった。毅クンのこと、よろしくお願いします」
 助手席の中から、高橋涼介の、薄く長い手を握り返し、西田は笑いながら、真剣に言った。高橋涼介は、握った西田の手を、一度強く握り、はい、と言って、離した。
「高橋さんも走り屋なの?」
 二人が中里の住むアパートの部屋に入る姿までは見届けず、ライフに家路を辿らせた陽子が、思い出したように西田に聞く。そう、と西田はオーディオの音量を調節しながら頷いた。
「すげえんだぜ、群馬一、関東一かもな。まあ今は走ってないらしいけど」
「ふーん。格好良い人だよねえ、お話上手だし、頭も良さそうだし」
 聞いてきた割に、陽子の返事は適当だ。車にも走り屋にも興味のない陽子には、高橋涼介が走り屋としてどれほどのものかより、高橋涼介の人間性がどれほどのものかの方が、話しやすいのだろう。陽子は当然、中里と度々会っていても、中里がどれほどの走り屋なのかよく知らないし、西田と結婚していても、西田がどれほどの走り屋だったのかよく知らず、そういう妻の無頓着さを、やっぱ可愛いよなうちの奥さん、毅クンもだけど、西田はどうにも愛おしく思いながら、旦那の前で他の野郎を褒めるとは、やりますな奥さん、と言った。


 皮膚を突き刺す寒風が、時折強烈に吹きつけて、季節の変わり目の終わりを告げていた。秋の寂しい暖かみは、既に冬の寂しい寒さに変じており、それが強まる夜の峠では、反射的に身が縮こまって、その日、妙義山の駐車場で西田は、黒いR32の傍で、煙草を吸っている中里の隣まで、ペンギンのように腕を体に寄せ、短い歩幅で歩いていった。
「どうだったんだ、高橋サンとは」
 一週間ぶりに顔を合わせてすぐ、いつもと違いぎこちなく、よう、と顎で挨拶をしてきた中里が、避けたがっていると見え見えの話題を、西田はぶつけた。中里は直後、いかにも不愉快そうな、ばつの悪さがよく分かる表情を作った。
「別に、どうもねえよ。泊まって帰った」
「一人で?」
 何の気もないように西田が聞くと、中里は数秒口を曲げた。ため息を吐いてそれを元の形に戻し、舌打ちをして、ちげえよ、と脅すように言ってくる。
「俺が送った、次の日、悪いか」
「いえいえ、とんでも。さすが毅クン、優しいよな」
「てめえは、俺を馬鹿にしてやがんのか」
「まっさかー」
 苛立たしげなその態度も、中里の予想通りの行動、反応を嬉しく感じれば、西田は笑って受け流せた。再度ため息を吐いた中里が、指に移した煙草の火種を見下ろす。そして、不意に顔から、余分な力を抜いた。
「県外遠征」
 独り言のようだったが、中里の声は西田の耳に近く届いた。
「ん?」
 西田が首を傾げると、中里はちらと西田を見、わずかに眉間を盛り上げ、の、新チーム、作るんだと、と続けた。
「レッドサンズの少数精鋭に、秋名のハチロクも入れて」
「へえ、高橋サンが?」
「ああ。来年の春から始動だっつってたぜ」
 言って、煙草を吸い、吐き出した煙を、中里は見た。煙越しに、外へと旅立とうとする者たち、自分より先を行こうとする者たちの背中を、見ているのかもしれない。
「うかうかしてらんねえな、そりゃ」
 西田は茶化すような調子で言い、中里の肩を軽く叩いた。中里はびくりとし、西田を睨むように見たが、西田が真っ向から、信頼を込めて笑ってやると、顔から険を取り、にやりと笑った。
「まあな」
 そう言う中里の、挑戦的な、自信と喜びに溢れながら、わずかに陰のある笑みは、高橋涼介も目じゃねえな、と思えるほど、格好良いものに、西田には見えた。
 そう思ったせいではないだろうが、それは、少なからず因果を感じさせるタイミングだった。その日、その時、西田は初めて、妙義山で、単独のその車を見たのだ。
 ひゅう、西田は口笛を吹き、同じ方向、駐車場の入り口、独特のエンジン音を響かせながら入ってくる、白いFCを見つけた途端、硬直した中里に、なあ毅クン、と言った。
「FCのノーズって、ちょっと鮫っぽいと思わねえ?」
「……あれ、高橋涼介か」
 西田の言葉など耳にも入っていない様子で、中里が呟く。目の前で停まったFCから、ドライバーが降りたところで、まあ、と西田は肩をすくめた。
「ご覧の通りだな」
 セーターにスラックス、モノトーンで揃えられた服装を、地味でも野暮でもなく、洒落た風に着こなし、口元に小さく、距離の近い笑みを浮かべ、ニューシネマのワンシーンのように、乾燥した影を背負いながら、颯爽と歩いてくる、長身美形のその男、そのドライバーは、白いFCと、それに貼られたステッカーが表しているように、紛れもなく、レッドサンズの高橋涼介だった。
「この前は世話になったな。助かった」
 会釈で挨拶を終わらせた高橋涼介が、中里に、神妙な調子で言う。
「いや、別に……」
 中里は口ごもり、居心地悪そうにしかめた顔を、高橋涼介から逸らして、煙草を強く吸った。峠で嫌いな人間には喧嘩腰になり、苦手な人間には無表情になる中里が、どちらでもない態度を取っている以上、助け舟も要らないだろうと西田は判断し、口は出さず、西田さんも、と改まって向いてくる高橋涼介には、素早く笑顔を返した。
「いんえ、お気になさらず」
「本当は、お宅にお伺いしようかとも思ったんですが、奥さんにまで気を遣わせると申し訳ないので」
「そりゃわざわざ。大丈夫、うちの奥さん、亭主を差し置いて君のことベタ褒めしてたから、来てくれたら喜ぶぜ」
 ともすれば嫌みとなるような言葉を、冗談と本気で染めるのは、西田の得意技だった。高橋涼介が、嫌みなくざっくばらんに笑い、中里へ目を移す。高橋涼介に見られた中里は一つ肩を揺らし、煙草をまた強く吸って、地面に捨て足を潰すと、ああそうだ、と思い出したように顔を上げた。
「俺はちょっと、慎吾の様子見に行ってくるぜ。上にいるから。じゃあな」
 早口に言いながら、中里は32の運転席に振り向かずに乗り込み、ただちに大人しく発進し、一気にスピードを上げ、上り道へと消えていった。それを西田は、高橋涼介と共に、無言で見送った。
「逃げられたか」
 呟いたのは、高橋涼介だ。逃げられたねえ、西田は肯定し、上着のポケットから携帯灰皿を取り出して、中里の捨てた煙草の吸殻を拾ってそれに入れ、慎吾ってのは、と言った。
「うちの一番の悪ガキです。庄司慎吾」
「ナイトキッズのダウンヒルスペシャリスト」
 高橋涼介がごく自然に後を続け、あら、と西田は驚いた。
「ご存知で?」
「中里がそう言ってたよ。下りは妙義随一だと」
 32の消えた道路を、厳しく見据えながら、高橋涼介は答えた。ナイトキッズの中里側に立つ人間が、庄司について語る時、概して放つ空気と似た冷たさを、そこに西田は感じ取った。それを霧散させるように、高橋涼介は息を深く吐き、西田を向く。
「良ければ、中里に伝えてくれるかな。また来ると」
 高橋涼介のその言葉は、謙虚さを感じさせながらも、その目は明確な意志を宿しており、西田がどう対応しようとも、自分の行動は曲げないという、頑固さを感じさせた。やるもんだよな、ホント、西田は数秒考える振りをしながらそう思い、勿論、と応じ、ああ、と付け足した。
「毅クンなら週末は大体来てるから。平日は水曜日が多いかな」
 あくまでついでとして言ったつもりだったが、高橋涼介は不意を食ったように小さく顎を上げてすぐ、怪訝そうに目を細めた。形の良いその唇が開き、ためらいがちに動くも、言葉を形作らずに、閉じる。その間も、高橋涼介の目は、西田から逸らされない。西田はこの場に、自分に、解明されるべき深刻さなどないことを示すように、別に、と極めて軽々しく笑った。
「俺からすりゃ、毅クンを毅クンらしくさせてくれるものは、何だって良いんだよ。それで言うと、君の弟はいまいち良くねえんだけど、君はそうじゃない」
 冗談めかしきれず、声は沈み、笑いは苦くなった。それらを瞬間で捨て、高橋涼介の前に、西田は真っ直ぐと立った。
「だから、また来なよ、高橋涼介サン。君の前だと毅クンは、今まで俺が見たことないくらい、可愛くなっちまうみたいだしな」
 そういう中里でも、西田は中里らしく思うし、もっと見てみたいと思うのだ。
 その心情を包み隠さず声に乗せると、高橋涼介は、口を開き、眉毛とまぶたを同程度に上げて、二度まつげの動く音が立ちそうなほど、しっかりと瞬きをしてから、顔の各部位を、正常の位置と大きさに戻し、不純な微笑を作った。
「ああ」
 うん、西田は頷いた。高橋涼介は笑みを深め、別れのためにだろう、そこで愛想を装い、奥さんにもどうぞよろしく、と無難な言葉を置いた。ま、と西田は肩をすくめる。
「それは直接言ってやってください。あのコレクション、また見に来た時にでもね」
 そして、愛想は返さずに、挑発的に笑ってみせた。二枚目の男は、呆れたように、格好良く失笑して、去った。


 ◆◇◆◇◆◇


 帰りがけの高橋涼介が、意味深長な微笑とともに、西田に会釈をする。西田が似たような笑みを返しながら、横目で嶋を見ると、嶋は特徴のないことが特徴的な顔に、善良さを飾っていた。
「よりにもよって高橋涼介に、あのコレクション見せるお前の精神、すげえと思うわ。見習いはしねえけど」
 白いFCに乗り込む高橋涼介に、地味な笑顔を向けたまま、嶋が言う。そんな嶋を一瞥し、残念だったな、嶋、と西田は言った。
「これでお前が俺を変人と呼んだら、自動的に高橋涼介を変人呼ばわりしてるってことになるんだぜ。ふっ」
「何を得意げに言ってんだ、ったく」
 笑顔をやめた嶋のため息を合図とするように、白いFCは去り、定番になっていてもなお、群馬の英雄的走り屋の到来で、多少ざわついていた峠は、凪いだようになった。
 中里はその場にしばらく佇み、乱暴に頭を掻くと、どこかこそこそと、周囲の視線から隠れるように32に乗り込んで、道路へと出る。
「毅クンのファンが増えるのは、悪いことじゃねえと思うんだよ、俺は」
 白と黒、二台の車が駐車場から消えてから、西田は言った。嶋は何か面倒そうに、西田を見る。
「それがあの、高橋涼介でもか?」
「あの高橋涼介でも、どの高橋涼介でもな」
 中里らしい中里を大切にする人間が増え、中里が中里らしくいられる相手が増えることは、悪いことでは決してない。堂々と西田は答え、五秒後、たくましいわな、お前も、と嘆息した嶋の肩を、褒めるなよ照れるだろ、とにやにやしながら叩き、アホ、と二倍の強さで叩き返された。
(終)


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